09




バーボン×組織の幹部。組織に入って最初に人を殺した時と、最後に殺した時の話。



「後悔しているの?」

そう言って女は嗤った。彼女が立てる靴音が、暗闇の中で僕に近付き、そして止まった。

「あなたは今、この手でそこに転がっている男の脳天に風穴を開けた」

女は穏やかな微笑みを崩さないまま、力なく座り込んだ僕の目の前にしゃがみこみ、1発装填数が減った拳銃を僕の手に載せた。

「後悔しているの?この男の命を奪ったことを」
「違う……、違い、ます」
「そう?それなら、あなたはどうしてそんなに震えているのかしら」

彼女に握られたままの僕の手は、彼女の言葉通りみっともなく震えていた。それもそのはず、僕は今日、初めて自衛ではない目的で誰かを撃ったのだ。

守るべきこの国の国民に、この銃口を向けたのだ。

脳漿をぶちまけながら倒れた男は、決して善良な市民とは言えなかった。だがそれでも、こんな風に一方的な暴力で奪われていい命ではなかったはずだ。
そんな甘い考えは、組織に潜入すると決めた時に、とうの昔に心の奥底にしまい込んでいたはずだった。

(それなのに、1人殺しただけでこのザマか)

小刻みに震える手を、僕は彼女の手ごと押さえつけた。こんなにみっともない姿を、他の誰でもないこの女にだけは見られたくなかった。
僕の必死の抵抗を、女は鼻で笑い飛ばした。

「馬鹿ね。誰でも初めての時はそんなものよ。あなたが以前にも、誰かに銃を向けたことがあるというなら話は別だけどね」
「……詮索されるのは、嫌いです」
「そうだったわね、あなたは秘密主義者だもの」

でも、と言って女は空いた片手で僕の頭を抱え込んだ。芳醇なムスクの香りがする胸元に鼻先が埋まる。

「こんな時くらい、教育係の気遣いを素直に受け取りなさい。……もう大丈夫よ、誰かを殺すことに怯えなくてもいいわ」

彼女の声はもう笑ってはいなかった。ただ、初めてこの手で誰かを殺した―――と彼女は思い込んでいる―――新人の工作員の姿が、見ていられなかったのだろう。
それは、こんな組織に居る人間にしては珍しいほどの、労りに満ちた声だった。

ぽんぽん、と頭を撫でられる感覚に慣れなくて、僕は大いに戸惑った。そもそも女性にこんな風に抱き寄せられたことなどない。これまでに女性と交際したことはあったが、彼女たちは僕に守られ、自らが抱き締められることを望んでいた。だから、こうして誰かに抱き締めてもらう温もりを僕はずっと忘れていた。

その温もりを惜しげもなく与えられて、僕は教育係の女に対する敵愾心も、反抗心もどこかへやってしまったかのように、その細い腰に腕を伸ばした。縋り付くような真似はしなかったが、彼女の着ていた服に皺が寄るほど強く握りしめ、彼女の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

女はそれから僕の気が済むまでずっと、僕の頭や背中を撫でてくれていた。





「後悔しているの?」

そう言って女は嗤った。僕が立てる靴音が、暗闇の中で彼女に近付き、そして止まった。

「あなたは今、私を殺す人間としてそこに立っている」
「……あなたは、僕の正体を知っていたはずだ。もうずっと昔から」

僕が本当は日本の公安警察の人間であることも、この組織を潰すために“バーボン”として潜入していたことも、彼女には全てお見通しだったはずだ。なのに彼女は、僕がNOCであることを誰にも言わなかった。組織のボスは勿論、ラムやジンにさえ。
どうして、と問うことは容易かった。だが、それを問い掛けることに最早意味はなかった。

彼女はこの場で殺されるのだ。情報を吐かせる必要のあるジンやベルモットとは違い、生かしておいても禍根にしかならない、という上司の命令により、彼女だけは捕え次第すぐに殺すことになっていた。
彼女は僕の部下に取り押さえられた恰好のまま、それでも穏やかに笑っていた。

「いいえ、私は知らなかったわ。私の知る“バーボン”は、初めて人を殺した時に動揺して得物を取り落すくらい、不器用で繊細な男だった」
「…………」
「成長したわね、バーボン」

この私を殺せるほどに。そう微笑んだ彼女の口元は、吐き出された血で真っ赤に染まっていた。その様が、息を呑むほどに美しい。

「ねえ、後悔しているの?」

私の下についたことを、と彼女はいっそ愉快そうに笑って言った。教育係だったこの女から教わったことは数知れない。女の扱い方、IT機器を駆使して情報を得るためのスキル、優位に話を進めるための交渉術、更には効果的な相手の追い詰め方も、全てこの女から教わったことだ。

そして、こういう時にどうやって自分の気持ちに折り合いを付けたらいいのかも、この女から教わった。

「……いいえ。僕は後悔なんてしてません」

僕は静かに答えて銃を構えた。彼女は自分の眉間に照準を定められても、怯んだ様子を見せなかった。
それは確かに、この組織を長年支え続けてきた女幹部としての威厳と、自分のしてきたことへの報いを受けようとするある種の諦観の混じった表情だった。
だから、僕も笑って言った。

「あなたを愛したことを、後悔なんてしませんよ」

その言葉と同時に、引き鉄に掛けた指に力を籠めた。サプレッサー付の銃口から放たれた弾は、過たず彼女の額に向かって一直線に飛んでいき、やがてその頭蓋骨を砕きながら反対側の壁まで突き抜けて行った。

後悔なんてしない。この組織の一員として生き、バーボンと言う仮面を被って生きていく中で、あなたを愛したことだけが僕を僕たらしめていたのだと、胸を張って言ってやる。

だからどうか、あなたにも。
あなたを殺せるほどに成長した男の事を、どうかあの世で誇って欲しい。

僕の告白が彼女の耳に届いたのかは定かではないが、こと切れた彼女の顔はまるで積年の恋が叶った少女のように、僅かに上気しているように見えた。


[ 12/20 ]

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