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ここは、深海にある人魚や魚人が集う里。
魚人島から遠く離れたこの集落は一体いつから在るのか。
名もない町には空気も光もなく、誰にも知られることなく、ただひっそりと時が流れていた。
* winterkill *
「ふたりは幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」
「すてき…」
男が読み終えた本を閉じると、思わずため息がもれた。
しかし、それは決して落胆や気鬱などではなく、感動からくるものだった。
いつも童話を読んでもらったあとは、胸が温かくなって幸せな気分になれる。
そんな、ふわふわと不思議な気持ちで、リルは手渡された絵本を抱きしめた。
「気に入ったか?」
「うん!」
そんなリルの様子に気を良くしたらしい男は、優しく顔を綻ばせた。
「また買ってきてやる」
「ほんと?」
「あぁ、だから次は自分で読めよ」
「え〜?」
リルが甘えるように上目遣いで頬を膨らますと、くしゃりと頭をひと撫でされた。
彼が買ってくる本はいつも、この町で古くから使われているものとは異なる文字で記されているものが多いため、リルにはほとんど読めなかったのだ。
男は何度かリルにその文字の読み書きを覚えさせようとしたが、無駄に終わることが多かった。
「甘やかしすぎたか…」
そんな男の呟きは、絵本に夢中のリルには聞こえていなかった。
ここに人魚や魚人が住み始めて、どれ程たつのだろうか。
誰にも場所を悟られないように、他との交流を避けてきた里には、いつの間にか独自の文化と風習が根付いていた。
そんな閉鎖された空間で育ったリルは、親代わりである祖父と、兄代わりである従兄と、三人で静かに暮らしていた。
生まれて此の方、海の上はおろか、里すら出たことのないリルが、外の世界に憧れをもつのは自然なことで、従兄――シンは深くため息をついた。
「とにかく、もう寝ろ」
「え〜?もう一冊…」
「今日は巡回の日だから無理だ」
シンはそう言って、リルを寝床へ誘導してから部屋を出ようと立ち上がった。
里では毎夜、若い男たちを中心に周辺の見回りをしていた。
それは外敵から身を守るのと同時に、無断で里を出ようとするものを取り締まる目的もあった。
陸へ上がれるのは限られた者のみ、しかも魔女のいる神殿を通らなければならなかった。
直接海面へ上がるのはタブーとされていたのだ。
「シンばっかり、ずるい…」
物資を調達するため、しばしば陸上へ出掛けることのあるシンに、リルは頬を膨らませた。
その恨みがましい視線にシンは苦笑いをするしかなかった。
「早く寝ないと、魔女がくるぞ」
そんな脅しのような言葉を告げながらも、柔らかく笑ってシンは部屋を出ていった。
いつも難しい顔をしているシンが時折見せるその表情は、まるで本物の兄のようだった。
リルには両親がいなかった。
父親はリルが生まれてすぐに亡くなり、その後しばらくして母親も病気で亡くなったと聞かされていた。
しかし、それは嘘だとリルは知っていた。
どんなに隠そうとしても、人の口に戸は立てられないのだ。
――陸へ上がるなんて、罰当たりな…
大人たちの噂話に耐えきれずに祖父を問いただしたこともあったが、悲しそうに微笑むだけで何も教えてくれなかった。
ただ、最期までお前のことを案じていたと、小さな青い石のついたペンダントをくれた。
誤魔化されているのかと憤慨したが、祖父の悲愴な面持ちにリルは何も言えなくなってしまった。
のちに、ペンダントは母の形見の品であると、シンが教えてくれた。
それからは、誰になんと噂されても、この青い石が全てを飲み込んでくれた。
苦しみも、悲しみも、寂しさも、虚しさも、全て。
(お母さんは…どうして陸へ上がったの?)