Rachel

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頭の中が混乱して、今にも叫びだしてしまいそうだった。
もちろん、そんなことは叶わないと知っているのに、必死に奥歯を噛み締めている自分がいた。
荒ぶる心を抑える自分がいた。


* over the edge *


「はぁ…っ!はぁ…!」

痛む足を叱咤して走る。
逃げるように駆け出した脚に目的地などなく、ただひたすらに地を蹴った。
噛み締めた歯の奥は何かを求めて喘いでいるが、その願いを聞いてくれるものはない。
いつの間にかノドは焼け付くように渇いて、通り過ぎる息が凶器のようだ。
今にも途切れそうな息と激しくなる鼓動に、徐々に目の前が暗くなるのを感じた。

「っ!!」

その瞬間、何かに躓いてリルは勢いよく地面に突っ伏した。
震える手で体を起こすと、ぼやけた視界の端に赤い液体が滲んでいるのが見えた。

――“あの男”を生贄に差し出せば…

先ほど言われた言葉が頭の中をぐるぐると回った。

きっと彼は何も知らないのだろう。
だから、あんな事を言ったのだろう。
きっと何の悪気もなくて、自分を思っての発言だったのだ。

でもリルにとってそれは、忘れようとしていた現実を突き付けられているようであった。

ふと気付くと、擦りむいた膝にポタポタと落ちる液体があった。
赤色と透明なそれが混ざり合ってズキズキと痛んだ。
でも沁みる傷口よりも胸の奥の方がずっと苦しくて、ぎゅっと目を閉じた。
けれど目尻から零れる雫は止まらず、痛みは消えるどころか増すばかりだった。

「あれ〜?お嬢ちゃんこんなところで何してんのぉ〜?」
「迷子っかな〜?」

突然の第三者の声に驚いて顔を上げると、見知らぬ男たちに囲まれていた。

「おっ!結構かわいいじゃん」
「あれれ?泣いてんの?」

いつの間に近付いてきたのか、至近距離でリルの顔を覗き込む男たちは、頬が赤らんでいて強いアルコールの臭いがした。
慌てて顔を背けたが、反対側にも後ろにも男がいて逃げ場を失った。

「血ぃ出てんじゃん」
「転んだんか?カワイソーに」

慰めるような言葉の割に、男たちはニヤニヤと下卑た笑みを浮かべていた。
とても心配してくれた親切な人には見えず、リルは激しい寒気を感じた。
混乱と恐怖で動けないまま狼狽していると、背後から小さな囁きが聞こえた。

「これなら、そこそこで売れんじゃねぇ?」

多少、小声ではあったものの、隠すつもりもないのだろう。
ハッキリとリルの耳にまで届いた言葉は、以前どこかで聞いたことがあるような気がした。
でも何故かすぐに思い出せなくて、目眩のような揺れを感じた。

――いいんじゃないのか?
――でも、これじゃあ…

断片的に思い出される記憶はまるでノイズがかかったようでハッキリとしない。
ぼんやりとした視界には、薄く白けた空と浅黒い手がリルの腕を掴むのが見えた。

それは今目の前で起こっていることなのか、それとも脳が作り出した幻なのか。
現実と記憶が混ざり合って、どこからか怒りがこみ上げてきた。

「お兄さんたちと、ちょっと遊ぼうぜ〜?」
――さっさと立て

俯いたまま痛む足を抑えていると、腕を強く引かれた。

「とりあえずウォーレンのところに連れてくか」
――まだ……さん、居ますかね

不慣れな脚で、引き摺られるように歩いた。

「早くしろよ、日が出ちまう」
――なんで手枷も足枷もしてないんだ!

ふと顔を上げると、男の驚いた顔があった。

「ほれ、さっさと……え?」
――この間の……が全部捌けたのは、お前のおかげだ

一瞬、時が止まったかのような間のあとに、醜い悲鳴と鉄の臭いが広がった。

「うわあああぁぁ!!」
――やめろ…やめてくれっ、おれが悪かった!だから…!

その顔が恐怖の色に変わってゆくのを、ただ他人事のように眺めていた。


誰か、わたしを止めて。

2014/11/17
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