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「リル、海に帰ろう」
「!」
男の言葉に、リルの肩が跳ねた。
リルは驚いた顔で数秒男を見つめたあと、不安そうに視線をそらした。
おそらく“海を出た理由”を気にしてのことだろう。
しかし、その問題はいま解決の兆しを見せている。
震える肩を包んで男は続けた。
「じいさんが魔女に掛け合ってくれる。“あの男”を生贄に差し出せばきっと許してくださるだろうって」
安心させようとして発した言葉が、まさかリルの恐ろしい記憶を呼び覚ますことになるとは、男は知る由もなかった。
「だから…」
一緒に帰ろう。
何も心配することはない。
もう、これで辛い思いも終わりだ。
きっと全てが元通りになる。
そんな男の一日千秋の思いは、告げられることなく遮られた。
リルの小さな手が必死に男の口を塞いでいるのだ。
「どう、した?」
塞がれた口でなんとか問うが、リルは俯いたまま首を横に振るだけで何も言わない。
そんな様子を不審に思っていると、リルは肩に掛けていたものを手にした。
そこには紙が貼り付けてあって、どこからともなくペンを取り出した。
切羽詰まったように何かを書き綴ると、リルは無言でそれを男に見せた。
“もう、いない”
ただそれだけ書かれていた。
それは幼い頃に男がリルに教えた文字と同じもので、少し丸く、でもどこか乱雑だった。
「いない?どういう…」
意味が分からず疑問符を浮かべていると、追求することを恐れたのかリルは突然立ち上がって走り出した。
意表を突かれて出遅れた男は慌てて追いかけるが、身体能力の差を考えればすぐに追いつくはずだった。
それなのに散漫した思考は男の足を鈍らせた。
(いない?一体なんのことだ?)
そもそも、その言葉は何に係っているのか。
直前の自分の言葉を思い起こし、男は足を止めた。
「まさか…」
「あっ!リル!」
男が呟いた瞬間、誰かが彼女を呼ぶ声がした。
それと同時に腰元に衝撃を受け、驚いて身構えると、そこには鹿のような生き物が蹲っていた。
「いてててっ…」
鹿は起き上がると、人間のように頭を掻いてから男を見上げた。
リルは鹿に気付いてもいないようで、どんどんと遠ざかっていく。
「あれ?え?え?リル?」
鹿はしばらく男と、おぼつかない足取りで逃げる背中とを交互に見比べていたが、リルが角を曲がって姿が見えなくなると、慌てて後を追いかけた。
男の足は鉛が入ったように動かなかった。
(あの鹿は確か件の海賊船のペットだったか…)
リルを探すために集めた情報で、見つけ出した今もう必要ないかと思っていたが、そうもいかないようだ。
リルが消えた曲がり角を、なぞる様に鹿が曲がって、辺りには人っ子ひとりいなくなった。
遠ざかる蹄の音を聞きながら、男は呟いた。
「もう、いない…」
繰り返したその言葉は風に流され、誰の耳にも届くことはなかった。
消えた言葉の行方を追って、男は静かに踵を返した。
ようやく見つけ出した喜びなど束の間で、あとには大きな疑心だけが残った。
2014/10/14