海が眠る頃 [1/2]
まるで深海のような暗い水がゆらゆらと揺れている。
その闇の中に、どこからともなく優しい月明かりが差し込んでいた。
*海が眠る頃*
薄暗い部屋に広がる水のパノラマは、昼間とは打って変わって静まり返っていた。
その静寂は室内が無人であることを告げており、サンジはため息と共に煙を吐き出した。
「流石に、もう寝たか…」
いつも寝る前に明日の食事の仕込みをしたり、食材のチェックや新しいレシピを考えたりしていたサンジだが、今日はいつもより遅くなってしまった。
日付はとうに変わっており、船番のフランキーを残して全員が寝静まっているようだ。
(もう一服するか)
サンジはもう一本タバコを取り出してから、水槽の前のベンチへと腰かけた。
ここはリルのお気に入りの場所だった。
いつもここで魚達と楽しそうにお喋りをしているのだ。
とは言っても、周りにはパクパクと口を動かしているだけのように見えるのだが。
(静か、だな…)
響くのは優しい水の音だけ。
決して口数の多いリルではないが、それでも居るだけでどこか心躍る気分になるものだ。
――パシャン…
夜行性の魚が泳いでいるのか、水面が波打つ音が聞こえる。
彼女が居ないだけで、いつもは聞こえない水音がこんなにもするものかと、サンジは耳を澄ませた。
――パシャ、パシャ、ザブンっ!
目を閉じて背後の音に聞き入っていると、ひときわ大きな音がした。
(んなデケェ魚、いま入ってたか?)
不思議に思って振り返ると、天から差し込む月明かりを大きな尾ヒレが遮った。
「え?」
「え…?」
その尾ヒレの主が声を発したかと思うと、一瞬時が止まったかのようにして互いに見つめ合った。
「リルちゃんっ!?」
「きゃっ!」
サンジが驚いて立ち上がると、リルは尾ヒレを揺らして水槽の奥へと逃げ込んだ。
しかし、透明な水と小さな魚達の中では隠れる場所などなく、リルはバツの悪そうな顔でサンジを振り返った。
「な、何してんだ?」
「えっと…その、魚たちとお話を…」
声が少し遠くに聞こえる気がするのは、分厚いガラスのせいだけではないようだ。
尻すぼみになった言葉はそのまま水に溶けて、リルは申し訳なさそうに俯いた。
どうやら水槽の中で魚と戯れていたらしい。
別に誰に咎められるわけでもないのだが、まるでイタズラがバレたかのようにシュンと項垂れてしまったリルを、カラフルなカレイが慰めていた。
(やべぇ…こりゃあ、明日の朝メシのメニュー変えなきゃなぁ…)
カレイのムニエルを予定していたサンジは、頭を抱えながら冷蔵庫の中身を思い起こした。
しかしリルは怒られるとでも思ったのか、更に怯えてしまい慌てて顔を上げた。
「おいで」
サンジが手を差し出すと、リルはおずおずと近付いてきた。
目の前までやってきて、サンジが笑顔を見せると、リルもやっとホッとしたように顔を綻ばせた。
「なんか、遠い…な」
「?」
すぐ目の前にいるはずなのに、どこか遠い気がするのは分厚いガラスを隔てているからだろうか。
不思議そうに首を捻ったリルの、ふわふわの髪の毛がゆらゆらと揺れている。
「リルちゃん、ここ」
「?…なぁに?」
サンジがコンコンとガラスを軽く叩いて促すと、リルは首を傾げながらもそこへ手をついた。
そこに反対側から手を添えると、触れているのはただの冷たいガラスのハズなのに、何故か熱を帯びている気がしてサンジは思わず苦笑した。
リルは恥ずかしそうに頬を染めながらも、その小さな手の平をガラスへと押し付けてきた。