02

*

 汚泥の中に生きている。

 3人の少女たちは、虚ろな瞳で床をじっと見つめながら、膝を擦って前に進む。首元の鎖がジャリジャリと耳障りな音を立てることも、もう随分と当たり前になってしまった。
 抵抗するたびに痛みと屈辱と絶望を与えられ、希望も心も全てへし折られた。気高き海の戦士はもういなかった。ただの奴隷に成り下がった、天竜人の"所有物"。

「今日のコレクションは噂の『ソレ』かえ?」
「おお、もうそちらまで噂が回ってるのかえ?そちは随分またデカいバケモノを連れてるのう」
「むっほほ、そうだろう?躾けるのに奴隷共が100も死んで随分苦労させられたぞ」
「ほー、アイゼルン聖を手こずらせるとは中々のモノだえ」
「だろう?そちも3匹も連れてるとは相当気に入ってるようだの。見たところ黒いのはまぁまぁの見目だが」
「あぁ、いや、違うんだえ。残りを殺処分しようとするとコイツも壊れかけるんだえ。3つも実を食わせたから全部壊すのも惜しいが……まぁ他にいい奴隷が入ったらまた売ればいい」
「何が欲しいんだ?」
「そろそろ人魚なぞ欲しいえ」
「アレらはレアだからのう……」

 汚らしい笑顔を浮かべ、軽々と交わされる自分たちの売買の話にハンコックは身震いした。マリーゴールドが絶望に涙を滲ませて「姉さま……」と声を絞り出す。
「大丈夫じゃマリー、ソニア。わらわがバラバラにはさせぬ」
 自分の中の恐怖を妹の前では押し殺そうと、空っぽの笑みをなんとか口の端に浮かべ、ハンコックは言い聞かせるように呟いた。

「勝手に喋るなと言ったえ!!」
「ぎぃっ!」
 世界貴族が耳ざとく振り向き、ソニアに鞭を振るった。ソニアは鉄が軋むような悲鳴を上げたが、すぐさま頭を床に擦り付けて跪く。
「も……申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません……」
「全く、これだからガキは生意気で嫌いだえ」

「ソニア……」
 音にならない声でハンコックは囁いて、同じように頭を垂れる。
「申し訳ありません……」
 ソニアは喋っていなかったのに。
 人型で美しいハンコックやマリーと違い、ソニアは大柄な蛇に近い見目をしている。だから、この天竜人にいたぶられるのはいつもソニアだった。
 人間以下の扱いをされるのは三姉妹全員だったが、ソニアはとりわけ「獣」のように扱われているのだ。そして、胸の悪いことに、ハンコックに一番効く「躾」がソニアとマリーをいたぶることだと見抜かれている。だから、彼女たちはゆっくりと確実に、牙を抜かれて、床を舐めるようにして生き抜くことしか出来なかった。

 涙も涸れてもう出ない。
 床を見つめながら、ハンコックは幾度となく思ったことをまた反芻した。
 もう……死んでしまいたい。


 十数人の世界貴族が集まる光景というのは、もう何度も見た光景とはいえ、悪夢のようだ。たった一人でも絶望にあまりあるのに、人を人とも思わぬ外道が固まって、下水のごとき会話を繰り広げている。
 聞こえてくるのは奴隷の自慢、奴隷の愚痴、奴隷の悲鳴、下々民たちへの罵倒、奴隷の絶叫、天竜人たちの嘲笑……。
 今日は定期的にある彼らの会食だった。
 彼らは天上金が奉納されるので働くということをほぼ知らない。時折会議に顔を出したり、パーティーを開いたり、他国に顔を出すだけで、それも仕事というには甘すぎるものだ。何もしなくとも全てを持っている、それが天竜人。
 集まるとロクなことが無い。

 ハンコックたちは四つん這いになり、自分たちの順番を従順に待たされていた。
 円形に並べられたテーブルの真ん中で、それぞれが持ち寄った奴隷たちをいたぶったり、能力を見せ、それを肴に食事をする。
 今は、エドワード聖の新しい船長コレクションの1人が、奴隷の1人を殺しているところだった。断末魔と共に血飛沫が飛び、身体がガクガクと震えて止まらなかった。
 猟奇的なのは常のことだけれども、恐怖はいつまでも慣れてくれない。心を失ってしまえれば楽なのに、なぜ人の心は脆いのに、都合よく壊れてはくれないのか。

「次はわちきの番だえ」
 ハンコック達の主人が声を上げた。3人は立ち上がり、しずしずと重い足取りで中央に出る。床一面が赤黒い液体でぴちゃぴちゃ音を立てた。
 四方から突き刺さる視線に、嘔吐感がせりあがってくる。

 こういう場では、ここしばらくは悪魔の実の能力を披露することが多かった。三姉妹が能力者というのは中々受けが良かったし、石になった奴隷が砕けて死ぬのも、天竜人には新鮮で面白いらしい。
 初めは同じ「人」を殺すことが恐ろしくてたまらなかったけれど、それにもいつしか慣れてしまった。羨ましいとすら思う。メロメロの実による死は痛みを感じない。恐怖も感じない。ただ、ハンコックの美貌に見とれている間に終わるだけ……。
 罪悪感すらも湧かなくなった。人に死を与える苦痛は夢にすらならなくなった。夢に出てくるのは、海に乗っていた頃の楽しい時間と、背中に焼印を彫られた日のこと、そしてこの地獄の日々だ。寝ても醒めても、夢も現実もハンコック達には地獄だ。

 ここは何をしても地獄だけど、同じ苦痛なら、自分が受ける苦痛より他人を害す苦痛の方がまだ──。

「そろそろこいつらにも飽きてきたえ」

 ハンコックの身体がビクッと固まった。
 滝汗を流し、青ざめて思わず許しもないのに顔を上げてしまう。天竜人はニタニタと下卑た笑みを浮かべ、良案を思いついたというように弾んだ声で言った。
「そうだ、姉に妹を殺させるというのはどうだえ?妹同士を殺し合わせるのも面白そうだろう」

 その死刑宣告に、ハンコックの中で何かが弾けた。

 どこまで人を……わらわ達を踏みつけにすればこの外道たちは満足するのか……!
 なぜ……こんな仕打ちを許さなければならないのか……!

 ハンコックの死んだ瞳に炎が灯り、絶望と憤怒と憎悪が全身から迸った。ここでこいつらを殺しても、ハンコックたちはどうせ生き延びられない。けれど、もう、こんな地獄で生きていたくない。
 それならいっそ、全てを滅茶苦茶にして、この命を終わらせてしまおう──。

 わらわ達は、人だ!
 涙が出そうなほどに、血液が、全身が、魂が叫ぶ。
 誇り高き九蛇海賊団の戦士じゃ!

「そうと決めたらさっそくやるんだえ!お前達、どっちかが死ぬまで殺し合うんだえ〜!」
「──まって!」

 ふと、その場にそぐわない随分幼い声が響いた。
 立ち上がろうとしていたハンコックが声の方を見やると、目を見開いた小さな少女と視線が交差する。

 肩下あたりまで伸びた柔らかなウェーブの金髪と、天竜人らしくない輝いた緑の目が印象的な少女は、椅子から立ち上がってふらふらとハンコックたちの方に近寄ってきた。
 妹たちは身を固くし、ハンコックもいつでも攻撃できるようにひっそりと腕を構えた。しかし、その少女は立っても酷く小さかった。
 ハンコックよりずっと、1番年下のマリーゴールドよりもとてもとても小さい。この少女を人質に──。

「こら、ルミエール!食事中に席を立つなんてはしたないアマス!それもそんな汚い場所に……」
 母親らしき女が掛けた声も無視し、ルミエールと呼ばれた少女は近くでまじまじとハンコックを覗き込んだ。新芽のような明るい瞳を零れ落ちそうにさせ、苦労を知らぬまろい柔肌をピンクに染め、小さな手がハンコックの頬を包み込んだ。
 振り払いそうになるのを、身についてしまった奴隷根性が咄嗟にハンコックの身体を従順に固まらせた。

「きれい……」

 少女は、うっとりした声で囁いた。

「……は?」
 ハンコックはつい、思ってもみない言葉に口を滑らした。許可も得ずに口を開いてしまった。奥歯を噛み締めて痛みにそなえたが、しかし想像していた痛みは飛んで来ない。

「ルミエール!そなた何をしてるの?そんなに汚らわしいモノに触れて……綺麗好きのそなたが……」
「お母上様には分からないの?これ、すごくきれいアマス……。他の奴隷とちがう」
「何言ってるアマス?ダートレン聖、申し訳ありませんわ。この子、好奇心を抑えられない子で……」
「別に気にしてないえ。だが、ルミエール宮は幼いながらに審美眼が優れているという話ではなかったか?こんな薄汚れた玩具に惹かれるとは少々意外だえ」
「そうでアマス、それなのに急にどうしたというのかしら……」
「みんなには見えませんの?これが急に、きらきらし始めたアマス!こんなにきれいな奴隷はわたくしのコレクションにもいないわ!」

 少女は顔を輝かせて、ハァハァ口呼吸して興奮し始めた。
「ダートレン聖、もうこれは飽きましたの?わたくし、これが欲しいアマス!」
「まぁっ!人の奴隷を欲しがるなんて……好きなものは好きなだけ買ってあげてるでしょう」
「だってこれがいいんだもの!欲しい!ダメですの?わたくしこれが欲しいアマス!」

 姉妹をよそに、天竜人たちは何やら売買の計画を立て始めそうになっている。呆然としていたハンコックは、じわじわと怒りが浸透していく感覚が蘇った。
 人から人へ奴隷の所有権が移ったって、結局彼女たちに自由がないのには代わりがない。けれど、先程のように、激情のまま殺し尽くすには決意が鈍ってしまっていた。
 ハンコックは、注意深い瞳で、ルミエールという少女を見つめた。
 このくらいの歳ならまだ、今よりマシになるだろうか。
 しかも女なら、おぞましい男よりかは、まだ……。

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