艶やかな女だった。少女というには麗しく、女性というにはいとけない。そんな年頃の、老若男女全ての視線を奪ってやまない、そんな女がボア・ハンコックだった。
腰よりも長い濡れ羽色の髪は歩くたびに光を放ちながら揺れ、初雪のように誰の手も入らない白肌が赤い衣装によく映えている。耳の黄金のピアスは彼女の気高さを象徴しているようであり、女ながらに見上げるほど背が高く、コツコツとヒールを鳴らして歩く。
しかし、やはり彼女を見てまず目が奪われるのは、その絶世の美貌だ。
黒曜石の目が気品と威圧を持って輝き、吸い込まれそうなほど妖しく濡れ、睫毛はまばたきのたびに宝石のように音を出してはためいた。美しい鼻筋、艶美で吸い付きたくなる唇、けれども決して誰も手を触れてはならないかのような圧倒的な美貌。
ハンコックはその美貌ですべてを許される女だった。
「わらわが来てやったというのに、茶のひとつも出ないのか?」
不機嫌に言い放ち、ハンコックが椅子を蹴り飛ばす。美貌に見惚れていた海兵がその眼光にハッと身を竦ませて、「ただちに!」と奴隷のように走り去っていく。
彼女はスリットからまばゆく光る脚を見せつけながら足を組んだ。
「てめェが新しい七武海の女か……」
頭から爪先まで値踏みするように舐め回す視線に、ハンコックは振り返りざま「無礼者!わらわを誰と心得る!」と怒鳴る。オールバックの顔に縫い跡の走る大柄な男は、面倒そうな顔で鼻を鳴らした。
「とんだじゃじゃ馬がよく世界政府に協力しようと思い立ったもんだ……」
「それはそなたも同じであろうが」
海を渡る上で知らぬ者はいないほど、七武海として有名な砂漠の王、クロコダイル。十数年も前から政府に協力しているらしいが、実際に相対して分かる、その男の底知れなさ。この男が誰かに力を貸すような可愛い玉ではないことが一目で知れた。
「お、お待たせ致しました、ハンコック様」
海兵が美貌によろめきながら茶を差し出してくるのを振り払い、熱い湯を海兵の顔にかけると、男は「ギャッ」と醜い呻き声を上げて倒れ込んだ。
「そなた、誰の許しを得てわらわの名を呼ぶ?汚らしい男なんぞに、気安く名など呼ばれとうないわ!」
「ハハハ……!いいねェ、威勢が良い……その威勢がこの海でいつまで保つかは知らねェが……」
「黙れ。海兵に攻撃しようと…侮辱を吐こうと…政府に協力しなかろうと……みな許してくれる。なぜなら……」
ハンコックはクロコダイルを睨みつけ、腰に手を添えて仁王立ちした。
「そうよ、わらわが美しいから!」
「……何言ってやがんだ、こいつは……」
見下ろしすぎて逆に見上げているハンコックを呆れた目で見つめ、クロコダイルが肩を竦める。しかし、どれも全て茶番だった。
ハンコックは海兵を見下ろした。
「七武海の顔見せと海軍本拠への出向要請は果たしたわ。もうここに用はない」
「え!?」
「上に伝えておくがよい。女ヶ島の契約を絶対に履行せよと」
「え!?あ!?かか、帰るんですか?!」
まだ会議も始まっていないのに!?
海兵を無視し、ハンコックは本当に扉に向かってスタスタと歩き始めた。
「このわらわに命令出来る者がいるとでも?」
「そりゃいるだろ? 九蛇姫。ま、あんたが素直に言うこと聞くなんて思ってねえからな……来ただけ随分友好的だ」
次から次へと汚らしい男共が……!
身の内に湧き上がる怒りと嫌悪、そして身が固くなるような感覚。それを押し殺し、ハンコックは凛と言い放った。
『だらけきった正義』というモットーと同じように、どこまでもやる気がない、欠伸までしている男は、海軍大将の青キジだ。怠惰な態度だが、その目には理性の輝きがある。
「わらわにまだ何か?そなたの言う通り、既に要件は果たしたはずであろう」
「俺だって来たくて来たわけじゃないさ……。ただ、どうしてもお前に会いたいっておっしゃる方がいるんでね。護衛なんて俺の柄じゃないが、来るってんだから仕方がない」
「何を……」
青キジの大柄な体格とマントの影から、少女がひょっこりと顔を出した。その瞬間、自分の喉のあたりでヒュッと空気が鳴るのをハンコックは感じた。
血が温度を失って指先まで凍えていく感覚が分かる。
青キジの攻撃を喰らってもいないのに、まるで心臓から凍っていくようだった。あるいは、石になっていくかのような……。
ガチガチと奥歯が鳴りそうになるのを唇を噛み締めて耐える。身体が震えそうになるのをギュッと爪を立てて耐える。顔が青ざめるのを顎を上げて耐える。尊大さの殻を必死に掻き集め、それでも脳裏にあの頃の苦痛と恐怖が反響していた。
柔らかな金髪と緑の目をした、記憶が確かならまだ10ほどの歳の頃の少女。か弱く、貧弱で、ハンコックの一蹴りで死んでしまうだろう少女。
けれどたしかにハンコックに……七武海に命令できる存在だった。
彼女は……。
「ルミエール宮……」
零れ落ちた声は、か細く呆然としていたが、震えてはいないことにハンコックは酷く自分に安堵するような気分になった。もう、誰にも支配されとうない。腕に突き立てる爪に力を込め、ハンコックは泰然と天竜人の少女を見下ろした。
*
「まぁっ、わたくしを覚えてましたの?」
天竜人の少女──ルミエール宮は、小さい背丈を揺らしてコロコロと嬉しそうに笑った。憎しみ、そして僅かな怯えを瞳に浮かべるハンコックとは真逆の、ある意味で無邪気で、天真爛漫で、脳天気な笑顔。
忘れられるはずがないだろうに、自分がそんな対象ではないかのような花の飛ぶ笑顔は、心臓の内側を引っ掻かれるような、蟻走感のようなものを湧き立たせる。
彼女はハンコックをうっとりと見つめ、ため息をついた。
「やっぱりお前はとても綺麗ね……」
新芽のような爽やかな瞳に陶酔の色が混じり、ハンコックは怖気が走るのを体を固くして耐えた。少女はいつもこうしてハンコックを観た。ハンコックは鑑賞物だった。
そこに執着が混じることを、いつも恐れていた。飽きられることに怯えた。死にたいと願い、しかし殺されることが心底恐ろしかった。
こんな小さな少女の箱の中に入れられることを、日々呪いながら生きていた。
ルミエール宮がキョロキョロと顔を見渡し、部屋の隅に歩き出した。ふと振り返ったので着いてこいという意味だと、言われなくとも分かった。反射的にそう足が動こうとするのが吐き気がするほど屈辱的だった。
奴隷だと……奴隷だと知られるわけにはいかない。
この世界の……誰にも!
ハンコックは深く、ひっそりと息をつき、緩慢に歩む。顎を上げ、瞳に冷酷さを浮かべ、ゆったりと腕を組む。クロコダイルが横目で流れを伺い、海兵たちがハンコックの挙動を1ミリも逃さないよう見つめている。青キジが、その怠惰な態度の中にいつでも襲いかかれるようキンと糸を張っている。
「して、わらわに何用なのじゃ?わらわの時間は安くないゆえ手短に済ますが良い」
ハンコックの言葉に海兵達がざわめき、青キジでさえ緩く目を見張ったが、当の天竜人は懐かしそうにクスクスと笑みを零した。
天竜人に対してそんな物言い、この世の誰にも出来ないが、彼女からだけは許されることを知っている。
ハンコックは彼女に特別に愛されていた。
ルミエール宮はたしかに、他の天竜人とは違った。今だって、下々民と自分たちを隔てるあの趣味の悪い服を着ていない。表情だって、慈愛とも呼べるような優しげな微笑みを浮かべている。けれど……所詮、彼女も天竜人なのだ。
彼女は、ハンコックの背中に天駆ける竜の蹄を彫った、いくら憎んでも憎み足りない、自尊心と自由と青春の全てを奪った、天竜人のひとりだった。
ルミエール宮は片手を上げ、青キジを下がらせた。会話も届かず、ハンコックが蹴りつけても、すぐには動けない位置。
それは気遣いなのか、そんなことを彼女ができるようになったのか、それともただ単に自分は何者からも害されないとその平和ボケした傲慢な脳みそで信じ切っているのか。
天竜人の挙動全てがハンコックの心臓を青く震わせる。心臓に冷たい杭を打ち込まれているかの感覚に陥る。
「用件はありませんの。ただ、お前の活躍は風の噂でよく聞こえていたアマス」
「海軍を使って調べていたのじゃろう?」
「そうとも言うかもしれませんわね」
「それで……七武海に入ったわらわを今更取り戻そうと?」
なんとか絞り出した声が硬質な岩のようだった。もし頷かれたらハンコックは……。例え世界の全てを敵に回そうと、この少女を……。けれど、そんなことは出来ない。海軍にハンコック一人ではかなわない。そして天竜人に手を出せば地の果てまで海軍に追われることになる。瞬時に絶望的な思考が飛び交った。
結局、この世界の人間はすべて、天竜人たちの言葉に振り回されなければいけない。
「まさか、そんなことしないアマス」
だから固唾を飲んでルミエール宮の言葉を待っていたハンコックは、衝動的に怒鳴りたくなった。嗚咽を漏らしそうになった。この少女を殺したかった。
グツグツと煮えたぎる、自分の中の激情を瞳をギュッと瞑ってやり過ごす。
誰にも支配されたくない。
たったそれだけのことが、七武海になった今でも、天竜人の意思に委ねられている。
ルミエール宮は緑の目を細め、優しく見つめた。未だに自分のものを愛でるような目だった。
「人も、動物も、植物も、歴史も……全ては自然の中でのびのび生きるのがもっとも美しいわ……」
自然の中でのびのび生きる、じゃと!?
その生き方から!自由から!最も遠い所業をしておきながら!!
ハンコックの唇から血が流れた。
憎らしい。全てがおぞましい!
ルミエール宮が緩やかに手を伸ばしてくるのを、ハンコックはパシンと振り払う。しかし、青キジが動こうとするのをルミエール宮は手で制し、払われた手をゆっくり撫ぜた。
「お前も昔より随分自然体になったわね。お人形さんみたいなハンコックも美しかったけれど、今のように、感情を目に浮かべ、感情のままに行動できる生き物というのは、どうしてこうも心惹かれるのかしら……」
彼女はなにか、感じ入ったようにひとりで悦に浸り、ハンコックを見つめた。
「そろそろ戻るアマス。あまり外の世界にいるとお母上様が酷く叱るの。もう子どもじゃないのに……。これからもお前が外で生きるのを見てるアマス。けれど、手を加えることはしないから安心してくださいまし」
ルミエール宮は手を振ると、背を向けてたたっと駆け足で青キジの元に去っていった。走ることが意外だった。あの頃の少女は、一度も自分の足で走るなんてことしたことがなかったはずだ。
2年前から、ルミエール宮が何か変化していることは、ハンコックにも分かった。
昔感じた蕾はいつか花開くのかもしれない。
けれど、ハンコックはそれを見届けたいとは思えなかった。もう、二度とここへ来たくない。あの頃の傷を真正面から受け止めるには、あまりにもあの日々は暗闇に満ちすぎている。天竜人に何かを望むことを、魂が拒むのだ。
ハンコックは顔を歪めて、早足で船に向かいながら、涙を流さないように必死で前を睨んだ。
彼女はまだ18歳の少女だった。
誰にも決して心を預けない。心を開かず、誰にも頼らず、全てを自分で自由に決める。二度と自分を他人に渡さない。