17
 飽きなき勝利への追求心には終わりがない。優勝した後だというのに、ホテルに戻ったあとは、三時間の練習をして、その日はようやく自由時間となった。
 あとはゆっくりと休んで英気を養い、明日の早朝バスで神奈川に戻って、また数時間練習だ。
 呆れるほどだった。

 水道で水を被っている仁王を見つけると、落ち着いたと思った興奮が、またバクン!と蘇った。

「仁王!」
「…ん、白凪か。お疲れさん」
「仁王こそ!試合っ、あの、もう……すごかった!なんていうか……すごかった!ほんとに!」
 脳内を洪水みたいに言葉が巡っていて、逆に声として出なくなる。喉のあたりでつっかえて、グワーッと頬に熱が上った。ぎゅう、と握った拳を胸の前で振り回し、ぴょんぴょん飛び跳ねて「すごすぎ!」「仁王、強いね!強いっていうか、すごい!」と前のめり伝えてくる刹那に、まばたきした彼がクシャッと鼻にシワを寄せて吹き出した。
「ふは、ククッ、落ちつきんしゃい。そんなええ試合じゃった?」
「興奮した……」
「興奮したか…。ハハ、まぁ楽しんだなら良かったぜよ。ちゃんと目逸らさず見てたか?」
「うん!仁王しか見てない!」
「…それならええぜよ」

 そう言って笑うと、タオルで顔を覆って水気を拭う。首筋を水滴が流れている。刹那は深呼吸した。本人を目の前にして、ウワーッてなってしまった。

「柳くんのデータで完璧な試合運びになってたのもすごかったんだけどさ」
 少しだけ冷静さを取り戻した刹那に仁王が「うん」とうなずく。
「仁王くんがさ、右腕で試合してるのに気付いた時、全身に鳥肌が立っちゃった!それで、最近仁王くんたしかに右手使うこと多かったなって思って、でもそれがいつからか分かんなくて、でも利き腕と遜色ないくらいに試合してて、うわぁうわぁってなったの!」
「お、そこに気付くとはやるのう」
「でしょでしょ?いつから右手使ってた?左利きのイメージ強いから、六月はしてなかった?」
「さーて、どうかのう」
「なんで右腕でテニスしてたの?ラリー続けてたのって調整するため?」
「企業秘密ナリ」
「うぬぬぬ…」
「ペテンのタネを明かしちゃつまらんぜよ」
「おのれ〜〜〜!」
「武士?」

 秘密主義の仁王は飄々と質問を交わすばかりで、答えてくれそうにない。ふう、と息を吐く。気になるけど、でもそれを探って答えを見つけるのも楽しそうだ。
 水道のコンクリートの縁に腰掛けて、ぶらぶらと足を揺らす。
「仁王くんのテニスって面白いね!日常に繋がってる秘密が隠れてて、なんかワクワクする」
「光栄ぜよ。だが、そう簡単に答え合わせ出来るとは思わんことじゃな」
「当たってたら教えてよね!」
「正解くらいは教えちゃる」
「やった!」
 ニパッと笑顔が弾け、ガッツポーズする刹那に仁王も目を細めて言う。
「俺も見つけたぜよ」
「??なにを?」
「お前さんの新しいとこ」
「わたしの……??」
「そんな風に笑うとは知らんかった。意外と無邪気なところがあるんじゃのう」
「無邪気……」
「花が咲くみたいに笑っとる」
「花……」

 恥ずかしいことを言うやつだな、こいつ。刹那はポニーテールのしっぽを引っ張って、シュッと顔を隠した。でもそんなに無邪気に見えるほど笑ってしまっていただろうか。むにむにとほっぺたをつまむ。
 ミチカや侑士の前では、リラックスして笑うことが出来る。仁王の前ではいつもどこか気を張ってる部分がある……というか、意図的に気を張っていたから、たしかに、今は興奮で気が緩んでいるかもしれない。

「わたし、無邪気とは程遠いほうだと思うよ」
「そうか?」
「うん。でもねー、けっこうテンションは高くて、喜怒哀楽が激しいほう」
「そうは見えんかったな。いつも淡々とニコニコしとって、ペテンが上手いナリ」
「あ、仁王くんからも上手に見えてた?よかったぁ」
「これからも見抜いちゃるから、覚悟しんしゃい」
「怖いなぁ。お手柔らかにお願いします」
「プリッ」
 刹那が自分を隠したがっていることは仁王にはとっくにお見通しだろうと、あえて少しだけ自分を開いてみる。お互いがお互いを隠し、見抜こうとするじゃれ合いに機嫌よくクスクス笑って、「あ」と口を開けた。

「ちゃんと言ってなかったね。優勝おめでとう」
「ありがとさん」
「全国優勝も、見てるね」
「ん」

 言われなくとも、逸らさず見ときんしゃい、と仁王の瞳が語っている気がした。
 ふとそれから口をつぐみ、視線がついと下を向く。追いかけると刹那のぶらぶら機嫌よく揺れる足に向いていた。
 揺れるものを追いかけてる?猫?

「なに?」
「膝」
「ああ」

 違った。彼が見ているのはカサブタになった刹那の傷痕だったらしい。
「まだ痛むか?」
 手が伸びてきて、ついと細い指先がカサブタのふちをそっとなぞった。傷に触れないように繊細な手つきで、擽ったさと嫌悪感にぞわりとする。
「もうぜんぜん」
「痕になりそうじゃの」
 眉を寄せて目を細めているのはどういう感情なんだろう?
 指先の優しい仕草からは嫌なものは感じないけれど、触れられるのは誰であっても、男なら全員嫌だ。それが刹那の中の特別枠の侑士であっても。
 ぴょんっ、と飛び降りると仁王の手が離れた。

「別にヘーキ!気にしないから」
「気にせんの?」
「わたしのドジだしね、あはは。…そろそろ戻ろっか」

 心配、してくれたのかな?その気持ち自体は嬉しくて、胸が暖かくなる。けれど他人に触れられたくない。
 刹那がスキンシップを嫌がることは、まだ仁王は見抜いていないらしい。見抜いて欲しいような、絶対に見抜かれたくないような。彼が気付くのはいつになるだろう。
 その時、その理由まで邪推しないでほしい。彼を誤魔化すのは苦労するだろうから。

*

 最終日だし、とホテルの売店で祖母へのお土産を買った刹那が一軍の集まる部屋の前を通ると、ちょうどドアが空いて、幸村が顔を出した。
「あ、白凪さん。お疲れ様」
「幸村くんこそ」
「お土産買ってたの?もう部屋に戻るところ?」
「うん」
「そっか。ちょうど良かった」
「?」
「実はちょっと頼みたいことがあってね…」
 彼はずいぶんと疲れているみたいだった。関東大会の後だから当然だけれど、それとはまた違うような…うんざりとした疲労感を漂わせている。
「わたしに出来ることならなんでも手伝うよ。何すればいい?」
「本当?とても助かるよ、ありがとう。こんなことを頼むなんて本当に申し訳ないのだけれど……」

 幸村が望む手伝いとは、切原赤也の勉強のことだった。思わず眉根が寄るが、素早くそれを戻す。一度頷いてしまった以上、部長の幸村たっての望みを反故にすることはできない。
 部屋に通されると、柳、真田に睨まれてヒィヒィ言いながらテーブルに向かう切原がいる。すでに勉強会中だったらしい。たまたま成績の良い刹那が通りがかって幸村が思い付いてしまったのだろう。

「助っ人を呼んだよ」
「む、白凪か」
「えーっ、まだ増えるんすかぁ!?」
「お前のせいだろ」
 苛立ちと疲れの滲む声で幸村が一刀両断する。
「大会終わってすぐ勉強だなんてすごいね…」
「大会が終わったからこそだよ。試合前は勉強なんてさせてもストレスが溜まるばかりでテニスの集中力を欠く可能性があったけど、もう関係ないからね」

 今は真田が社会についての宿題をやらせていた。幸村が数学、理科、英語、柳が国語系全般、世界史、真田が社会、地理、日本史、化学を教える、という風に役割を分けているらしい。
 考査問題、追試用の課題、夏休みの宿題。切原にさせるべきことは山積みだ。

「でも俺、人に教えるの苦手なんだ。特に赤也くらいになると、もう何が分からないのかが全く分からなくて。真田も怒鳴ってばっかりで進まないし」
 柳は上手いんだけどね、と幸村がぼやく。真田はイメージ通りだし、幸村は…意外な感じもあるけれど、しっくりも来る。何事も才能がありそうな天才肌というやつ。

「うん、分かった。わたしもどれか受け持つよ」
「別にこれ以上いらねーっすよ!アンタに教えてもらうことなんてねーし」
「赤也!先輩には敬語を使えと何度……!」
「いいよいいよ真田くん。わたし気にしてないから」
「だがそれでは示しがつかん!」
「他の子はみんな使ってるし、分かってるよ」
 小生意気でふつうにムカつきはするが、切原の勉強を手伝い、幸村たちの役に立つことは、イコールで立海テニス部への貢献になると思うから、刹那はにこやかに手を振って真田を宥める。
 まだ納得のいってなさそうな真田を「それより」と話題転換した。

「わたしはどれを教えればいい?」
「何が得意なの?」
「んー、国語系全般と英語と暗記科目だけど……国語を教えるのはムリかな。文章読めば答えが分かるから、理論的に教えてあげられないと思う」
「ああ、蓮二タイプなんだ?感覚で分かる人っているよね。じゃあ…英語頼んでもいい?」
「すまないな、白凪」
「いいよ〜。切原、わたしに教えられるのは嫌かもしれないけど、追試に合格できるように我慢してね」
「……」
 笑いかけるとなぜか切原は怯んだような表情をし、目を逸らしてブスッと肘をついた。

 持って来させられている英語関連の資料を眺める。うーん、改めて酷い点数だ。どれも酷いけれど、特に英語は最低点だ。勝手に数学が苦手なのかと思い込んでいたが、英語もかなり苦手としているらしい。
 単語は覚えているものがややあるみたいだが、スペルミスがひどいし、覚えた単語はたぶんもう忘れているのだろうし、長文に至っては最初なんとか解き明かそうとした形跡が見えるが早々に解読を放棄して、勘で選んだのだろうな、と丸わかりだった。

 どう手をつけようか。
 今は真田のターンだから、出来ることと言えば、どう教えるか纏めることと……。

「わたし、単語帳作ろうかな。ちょっと部屋に戻るね」
 ついでにお土産の袋も置きに行こうと、幸村たちに断ると、自分のキャリーを漁る。自分で作った英単語帳……というか英単語カードをふたつ持ってきていた。
 自分の筆箱も持って、幸村たちのところへと戻る。

 自分用に纏めていた単語を修正テープで消し、上から切原向けの単語を書き写していく。表はスペルとカタカナで読みを書き、裏に和訳を書く、実に古典ゆかしき王道なつくりだ。
「それ、わざわざ持ってきてたのかい?」
「うん。ヒマなとき眺めてるの。バスの中とか」
「うわぁ、白凪さんってマメだなぁ。俺なんか、こういうの作ったことあるけどさ、作って満足しちゃってあんまり活かせなかったんだ。最初っから辞書引けばいいやって、あはは」
「まぁ、それはそうだね笑 わたしは車内で本を読むと乗り物酔いしちゃうから、このくらい手軽なほうがいいんだ」
 幸村が感心してうんうんと頷いている。腕を組んで「へえ〜っ」とか言ってる彼は、まるでふつうの男の子のようだった。
 部活の時の威圧感のある彼か、何を考えているか分からないアルカイックスマイルか、切原にイライラして疲れている彼しかほとんど見たことがなかったので、ふつうの少年のような反応をされるとすこし戸惑う。

「でも赤也、せっかく作ってくれてもどうせ使わないと思うよ。俺が使わせてみせるけど…」
「だろうね。お気遣いありがとう、でも大丈夫だよ」
 使わせてみせる、というのが、幸村らしくて刹那は苦笑した。彼のことよく知らないけど、そうそう、そんな感じが幸村のイメージだ。
 私生活の彼のことをあまり知らず、部活で知った彼のイメージのほうが強い。

「切原」
「あい?」
 真田に睨まれてうんうん唸っている彼に声を掛ける。
「テストの問題用紙と宿題のプリント集、マーカー引いていい?単語カード作るのに使いたいの」
「はぁ、別にいーけど、単語カード?」
「ほら、これ。わたしのお下がりで、上から修正テープ引いてるからちょっと見た目は悪いけど。このカードに書かれてる単語を、マーカーで引いておくから」
「はぁ」
 まったくピンと来ていない。使い方はあとで教えてあげればいいだろう。宿題に取り掛かる前に単語を覚えてしまえば、宿題なんてあっという間に終わる。
「赤也のためにそれを作っているのか。重ね重ね手間をかけるな」
「別にいいよ、ヒマだし」
「空いている時間を使わせているのが申し訳ないんだ」
 柳まで重ねてきて、刹那は眉を下げた。下心があってしていることだし、本当に気にしなくていいのに。
「あーあ、てかなんで俺たち、赤也の追試どころか宿題の面倒まで見てあげてるんだろ。俺だってまだ終わってないのに」
 真田は切原に教え、柳がそれをサポートしていて、幸村は何やら机に向かっていると思っていたが、自分の宿題をしていたらしい。
「柳は終わったんだろ?俺も全国までには終わらせておかなきゃ。白凪さんはコツコツ計画的にやってそうだよね」
「わたしは終わったよ」
「えっ!?宿題終わったんすか!?」
 ギョッとしたのは切原だった。
「うん、終わったよ。最初に片付けるタイプだから」
「意味わかんねー、柳先輩といい……。俺いっつも最終日に慌ててやんのに」
 あ、バカだな。そんなこと言ったら……。案の定真田が青筋を立て、「赤也!貴様には計画性というものが……」とガミガミ怒鳴り始めた。
 真田は声が大きいし、急に怒鳴るからビックリする。それに、少し怖い。自分に向けられたものじゃなくても肩が揺れそうになるから、刹那は真田が苦手だった。

「まぁまぁ真田くん。今年の切原はみんながついてるし、ちゃんとやるよ。それにいちいち大きな声で怒鳴らなくてもいいんじゃない?」
 ムッ、と鋭い眼光が標的に刹那を捉え、身を竦める。切原はもうずっと機嫌が悪い。真田も機嫌が悪い。柳はたまに宥めているが我関せずと柳の木のように受け流して口を挟まず、幸村はピリピリした空気などまったく意にも返さない。

 この三人には飴役が足りなすぎる……。
 まさかわたしが飴にならなきゃいけないの?

「お前は途中から入ったから分からんのだろうが、赤也は何を言っても馬の耳に念仏でまったく聞き耳を持たないのだ。繰り返し根気強く叱咤し、自覚を促してやらねばならない」
「うん、真田くんの意見も分かるよ。あんまりやる気がなく見えるのもね。でも、切原くんも今まで避けてきた勉強をいきなり詰め込まれて、ただでさえ分からなくてイライラしちゃうのに、怒られたらもっとイライラしちゃうよ。今日ももう二時間くらい勉強してるんでしょ?切原にしたらすごく頑張ってるんじゃないかな」
「だが、そもそも今の状態を引き起こしたのは日頃の赤也自身の怠慢が……」
「うん、うん、そうだよね。切原もそれは自覚してるはず。でも、それをずっと怒られたら、嫌になっちゃうだろうから、とりあえず、怒鳴らないでやってみよ?切原も、あともうちょっと頑張ろうね。ムスーッてしてると教えてる真田くんに不満があるように見えちゃうよ。自分が悪いって分かってるから、今こうして頑張ってるのに、もったいないよ」
「フン。分かったようなクチ聞くなよ」
「赤也!」
「ハイハイハイハイ」
「いいっていいって真田くん」

 言った先からこれかよ。
 切原にも真田にも幼稚園児にするような懇切優しい言い方をしたのに。…
 まぁ同世代にあやされてむかつくのも分かるけどさ。
 この二人もしかして、精神年齢と血の気の多さと瞬間的沸騰においては、ほとんど変わらないんじゃないか?刹那は小さくため息をついた。

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