16
「今日試合出るんだよね」
「おー」
「決勝戦に出るなんてすごいじゃん」
「そうでもないぜよ。関東は前哨戦みたいなもんじゃき」
「ハハ…」

 すごい言い様だな。刹那は呆れた笑いを零した。
 ただそれは舐めているのではなく、覚悟だとも理解している。
 会場に向かう際、近くに仁王がいて少しだけ言葉を交わす。決勝に来るまでで、丸井、桑原、柳生、切原、全員が一試合は出ていて、当然のように勝っていた。
 だから仁王も勝つだろう。

 試合前の選手になんと声掛けすれば良いか、刹那はすこし悩む。頑張って、というのが王道だけど、頑張っては無責任で、他人事めいた感じもする。応援してるね、とか?でも、そんなの当然だから、わざわざかける言葉としては、正解か分からない。
 侑士や絵麻には他人事だったから、簡単に「頑張って」と言えたけど、なんだか最近少しずつ、立海テニス部が他人事でないような心持ちに変わってきた。
 スポーツ選手にかける言葉を知らない。
 特に、立海は勝つのが当然なのだし。…

 仁王がボトルをグイッと飲み、張り詰めた喉仏が上下に動く。練習で流れた汗を首にかけたタオルで拭った。右腕がふと刹那に当たりそうになり、僅かに離れる。
 眉根を怪訝に寄せて見上げる刹那に、仁王が首を傾げた。
「なんじゃ、そんな顔しよってからに」
「…や、…」
「さすがに決勝ともなると不安かの?」
「ううん、それは全然。だって勝つでしょ」
「ククッ、うちのマネージャーさんは怖いのう。試合前にプレッシャーをかけてくるとは」
「プレッシャーだった?」
「まったく」
「だよね」
 彼になにか違和感があったのだが、答えを見つけられず、それよりもこれからの試合に意識が流れた。すこし迷った末、刹那は無難な言葉を仁王の背中にかける。

「いってらっしゃい」
 彼はやや目を丸くして、フッと眼差しを緩めた。
「おー」
「仁王のこと、見てるね」
「……ん。目ぇ逸らさず、まっすぐ見ときんしゃい」


 試合が始まる。

「勝つのは氷帝!」
「負けるの立海!」
「勝つのは氷帝!」
「負けるの立海!」

 凄まじいアウェー感だ。決勝戦の相手は氷帝だった。全方位から押し潰すような氷帝コールが轟いている。見渡す限りに水色と白の氷帝ジャージが見える。
 立海の声援も、決勝からわざわざ茨城まで応援に駆けつけたチア部の声も何もかもが掻き消される。声は重力を持つのだと刹那は初めて知った。
 けれど、コートの真ん中で向かい合う立海レギュラー陣の背中は凛と伸びていて、威圧感が漂っていた。

 猫背で、ユニフォームのポケットに手を突っ込んで氷帝を睨める仁王と、いつもの無表情で野暮ったく、ともすればやる気がなさそうにも見える顔で突っ立っている侑士。
 交わることを想像すらしていなかった、刹那の世界にそれぞれ存在している知り合いが、こうして向き合っているのが無性に噛み合わないような、奇妙に興奮するような感情が渦巻いた。

 仁王はダブルス2に柳と出ることになっていて、侑士はシングルス2に出るらしい。二年生なのにそんなに重要なポジションを任されるほど、侑士はテニスが強かったらしい。氷帝は夥しい数の部員がいるのに。何度か侑士の大会を見たことがあっても、知らなかった。いや、覚えようとしていなかった。

 刹那は、侑士と過ごす時間が好きなだけで、その過ごし方のひとつに、テニスがあるだけだった。

 侑士は無表情だ。
 なんの感情も浮かんでいない。それが意図的に感情を切り離し、平静を作り出し、心を閉ざしているからだと刹那には分かった。前に暇つぶしで応援に行ったジュニアの大会では、侑士はもっとリラックスしていた。
 心を閉ざし、真剣で鋭さを増した侑士は氷のようだったが、むしろ彼の熱を見出したような気分になる。

 柳はシングルスの有力選手だが、ダブルスだ。
 立海のシングルス3は三年生だった。シングルス2は真田、シングルス1は当然幸村である。レギュラーの顔はすべて覚えていると思っていたけれど、赤みを帯びた癖毛の先輩は見覚えがなかった。

「あの人って誰ですか?」
「ん?氷帝?」
「いえ、あの、シングルス3の……癖毛の先輩って……。すみません、立海の選手なのに」

 申し訳なさそうに、隣にいる稲葉にそっと尋ねる。
 マネージャーとして情けないと思われても仕方がない。
 オーダー表に書かれている名前は、たしかにそういえばこんな選手が所属していた気がする、と思った名前ではあったが、練習の時見た覚えも、誰かの話題に上がっているのを聞いた覚えもなかった。
 稲葉は「ああ」と困ったように頬をかく。

「奴は仕方ないよ」
「仕方ない?」
「毛利寿三郎。実力は部内でも指折りだけど、あいつはサボり魔でね。滅多に練習にも出てこないし……それどころか大会までサボる始末なんだ」
「た、大会まで?」
「レギュラーがそれでもいいの?っていう顔だね。ハハ…まぁ良くはないよ。けど、強い。練習をしなくても…そうだな、真田にも五分五分くらいで勝てるんじゃないかな」
 真田にも?
 思わず瞠目する。彼はナンバー2のはず。
 対戦相手にウインクをしている毛利からはそんな強者の覇気のようなものは感じない。立海は厳格で、今もみんなどこかオーラみたいなものを発しているような気がするのに。
「あいつは団体戦なんか欠片も興味がなくてさ。どうせ個人戦に的を絞ってるんだろうから、関東大会に出てきただけマシだよ。嫌味な奴だよな…」
 口調は忌々しそうだったが、稲葉の視線は濁ってはいなくて、けれど好きなようにも見えなくて、妬んでいるようにも見えない。
「……仲がいいんですか?」
「隣の席だけど、仲良くはないかな。授業もほとんど出て来ないし」
 仁王みたいなやつなのだろうか。
「……まぁ、勝てるなら、それでも」
「あははっ!白凪さんもうちに染まってきたね」
 幸村が見逃しているのだったら、支障はないのだろう。でも、仁王とは違うな、と思った。仁王はサボり魔だし、授業も練習もサボっているみたいだけど、なんというか……テニスには彼なりに向き合っている気がする。
 部を大切に思っていなければ、刹那の存在を警戒したり、マネージャーとしての働きを見極めてやろうとは思わないだろう。

 気持ちの良いインパクト音が響き、仁王のスマッシュが決まる。試合は好調どころか絶好調だった。
 4-0カウント、点を決めるのは柳の方が多いが、意外とラリーは続いている。汗だくの仁王と柳をじっと眺めた。二人とも普段は冷静で飄々としていて、汗とは程遠いイメージがあるのに、笑みも浮かべず真剣な眼差しで試合をしているのが、ピタッとするほど似合う。

「この試合は終始リードしていて、ペースを完全に掴んでいるけど、理由が分かるかい?」
「……えと…余裕があることしか」
「よく見て。ほら、二人とも全てフォアで返している」
「…本当だ……!」
 柳も仁王も、返ってきたボールに回り込んでフォアハンドで返球している。それは反射神経だけではなく、試合全てが柳の手の上にあるからだ。
「柳くんのデータが共有されてるんですね…!」
「その通り。さすが緻密なデータマン。怖いテニスをするよね」
 ラリーが長く続いていることにも理由があるのかもしれない。データをさらに集めるためだとか、相手の精神を揺さぶるためだとか、相手の体力を奪うためだとか……。

「…ぁ」

 見抜くようにジッと観察していた刹那は、ふと、丸っこい声を上げた。その声はあまりに小さくて歓声に掻き消される。
 刹那の視線はまっすぐ仁王に向いていた。
 違和感が分かった。
 彼はラケットを右手で持っている。

 ジワッ…と頭皮に鳥肌が立った。興奮に似た何かが駆け巡る。数々の心当たりが頭の中に蘇った。
 試合前の違和感。それは右腕が当たりそうになったことだ。彼はサウスポーだから、刹那はいつも仁王の右側に立つようにしていて、あまり右腕がぶつかることは起こらない。
 それだけではない。
 練習中、右手でボトルを飲んでいたし、そういえば夏休みに入る前、一緒に食事を取る月曜日と金曜日。向かい合わせに座ることが多いから、基本、お互いが使う手は対象になる。けれど思い返してみれば、鏡のように反対側になっていたことがたびたびあった気がする。
 バイバイするときに手を上げるのも右手だったし、彼の癖っぽい、少し伸びた襟足をちょいちょいと弄る時の手も右手だった。最近の記憶では右手と左手が入り交じっている。
「ぅわ……」
 パッ、と口を手のひらで抑える。ゾワゾワした熱が血の中を巡る。
 一体いつから?
 思い出せない。あまりにもナチュラルに、仁王の右手の所作が日常の中に馴染んでいた。
 関わり始めた六月はどうだっただろう?
 でも、彼が左利きだと気をつけて振る舞おうとしてきたから、出会った頃はたぶん、ふつうに左を多く使っていた気がする。…
 練習中はどうだった?
 なぜ、彼は右腕で?
 疑問がとめどなく溢れ、渦巻く。彼は生粋のサウスポーのはずなのに、ここまで自然に、利き腕と同様に反対の手でテニスが出来るなんて。
 そのための練習を気取られないように日常の中で繰り返していたなんて。

「すごい……」
 ぼうっと感嘆の呟きが洩れた。呟いたことも気付いていなかった。尊敬と、興奮と、畏怖。刹那は熱の籠った瞳で、目を逸らさずに仁王を追いかけ続けた。彼に言われた通りに。

*

 規定事項のように立海は優勝した。分かっていても周囲の歓声に押されて、刹那の中に喜びが弾ける。興奮もあいまって、なんだかとても走り出したくてうずうずする。
 毛利は強かった。シングルス3で試合がストレートで決まり、侑士の戦う姿を見ることが出来なかったことだけが残念だ。
 氷帝の敗北が決まった侑士はやっぱり無表情で、その心の中は固く隠されていた。長い髪に隠れた横顔が僅かに俯いたようにも見えて、優勝の喜びの中に、胸が痛む気持ちが走る。
 同情?罪悪感?いや…いたたまれなさ?
 見てはいけないものを見たような。

 ふと、歓声を上げる観客席を侑士が見上げた。ビクリと肩を揺らす。遠くて表情は明確に見えなかったけれども、視線が交差した気がする。
 すぐにふいと顔を戻してしまったから、驚いていたのか、気付いたのかどうか分からない。
 騙しても、嘘をついてもいないのだけれど、侑士をまっすぐに見れない。なのに後悔はしていないのだから、タチが悪い、と自嘲が浮かぶ。

 閉会式が終わりホテルに戻る。
 長かった三日間が終わった。
 この関東大会で、自分の中の意識が明確に変わった自覚がある。マネージャーになってたった一ヶ月しか経っていないのに。
 こんなにテニスと、テニス部に心が震えるようになるなんて思わなかった。これは当事者意識なのだろうか。それともスポーツ漫画を読むように、彼らの物語に感情移入しているのだろうか。
 立海テニス部は利用するために過ぎない存在であって、その心意気はなにも変わっていない。けれど、心の中の何かが変わったのは分かる。

 わたしにとって、ここは何なんだろう……?

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