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膿んだ恋で息もできない

「あー……ったま痛い……」
「ロザリーちん、大丈夫?」
「あいがと…」
「つめしぼかけるね」
 ケイミーが持ってきてくれた冷たいおしぼりを首の後ろに乗せると火照った顔と身体を冷やした。冷たい水も喉を滑り落ちていって気持ちよかった。
「すごいね、今日たぶん1位の売上だよ!」
「ワポルさまさまだよ…あはは!ってぇ…」
 思わず笑うとズキンと頭に響いた。
 いやー、しかし笑いが止まらない。いつまで来てくれるか分からないけど、続くうちに金を落とさせておきたい。
 ホールの掃除や片付けはキャストもしなきゃいけないんだけど、わたしは今日のMVPだし、死ぬほどグロッキーになっているので休ませてもらっている。

 ナミはくるくると平気そうに動き回っていた。たぶんいちばんごくごく飲んでたのに。水みたいに。
 彼女を見ていると、視線に気付いたのか寄ってきた。
「ちょっと、その調子で帰れるの?吐いてきたら?」
「もう吐いたぁ…」
「じゃ着替えちゃいなさいよ」
「うん……。ナミ、ほんとありがと〜!アシスト、ナイスすぎ…」
「大したことしてないわ。むしろあれだけでよくあんだけ使ってったわね」
「たまにいるのよ、金銭感覚がバグってるやつが……」

 目を閉じて頭痛をやり過ごしていると、ケイミーとナミが自己紹介し合っているのが聞こえる。ヴェールの向こう側で聞こえる気がする。それで、自分がめちゃくちゃ眠いことに気づいた。

「ロザリー、寝ないでよ!ちょっとこの子大丈夫なの?」
「うーん、でも送り出ると思うから」
「私も出るかしら。終電ないし、タクシーは嫌なのよね」
「ナミちんのおうちはどこなの?」
「××町の方」
「じゃあ出ると思う!たしかアローナさんがそっちだったはず」
「そうなの?寮があるって聞いたけど」
「入ってるけど、最近彼氏のおうちに泊まってるって聞くよ〜」

 やばい、だめだ寝ちゃう。
 ぽやぽやする頭を強制的に叩き起して、わたしはガバッと勢いよく起き上がった。うわっと見つめられ、緩く謝る。
 カウンターに行って水を死ぬほど飲んだ。そのままトイレに行って、便器に向かって顔を近づけてむりやり指を突っ込む。
「ぅ……おぇっ」
 ビチャビチャ音を立てて吐瀉物が汚した。どこにも跳ねてない。自分の吐いたものにまた嘔吐感がせりあがってまた吐く。
 トイレットペーパーで口元を拭って流すと、ようやく気分が楽になった。目も冷めた。
 はー、夜職って稼げるけどきついよねぇ。

「大丈夫?ロザリーちん」
「うん、起きたぁ」
 よろよろ着替えて、置きっぱなしにしている歯磨きセットでシャコシャコ歯を磨く。今日思いっきり酒こぼしまくったからワンピース持って帰ろ…。
 ワポルさまにはお礼の連絡したけどまだ返信は無い。あの人あんまり連絡をくれないし、業務的な返信しかくれないんだよね。
 遊び方分かってるし、プライベートには踏み込んで来ないしで楽だけどガチ恋に引っ張るのは難しいタイプ。

「えっ!?こんなに……!?」
 ナミの驚き声に振り返るとお給料の封筒を覗き込んでいた。そっか、今日体入なんだっけ。
 店長のマダム・シャーリーが顔を出している。シャーリーはママだけど、"店"の太客が来ない限り滅多に自分の私室に引きこもっていて出てこない。
「ロザリー、今日はあんたが大活躍だったんだってね…聞いたよ。やるじゃないか」
「えへへ」
 美人で、ちょっとダークな色気と艶っぽさのある人で、くっきりした目元が片方だけ前髪で隠れ、ピッタリした光沢のある紫色のドレスにいつも身を包んでいる。深いスリットから白いふくらはぎがチラチラ見え隠れしてセクシーだ。
「これからも上手く引っ張りな」
「やー、でもあの人むずいんですよねぇ」
「まぁ評判は良くないけどね…あんたのことは気に入ってるみたいだよ」
「だといいですけどぉ」

 ハチさんがやって来て名前を呼んだ。アローナさんとナミも。
「送り出すぞー」
「はーい」
「じゃ、お疲れ様でしたー。お先します」
「おやすみー」
「お疲れ様」

 マーメイドの唯一の男手はハチさんだけだ。送りは基本ハチさんで、たまにキャッチの人。
 キャッチっていうのは他店とも提携しているけど、オーナーは一緒で、移民街を取り仕切ってる人が運営している。で、ケツ持ちは白ひげ?とかいう人らしい。詳しいことは知らないけど。あー、いや最近揉めてるんだっけ。ビッグマムがどうとか聞く気がする。
「最初はロザリーんちから行くぞ」
「あ、わたしスーパーんとこで」
「でけーとこか?」
「そこです」
「ニュ、分かった」

 
 車に揺られ、窓の外のネオンを見る。うちの店は21時から2時まで。ガルバやキャバは朝までやっているところも多いが、ラウンジならこのくらいだ。
「ハチちゃん、吸っていい?」
「いいぞ。灰は外に捨てろよ」
「ありがと」
 車内は沈黙していて、クールな雰囲気なアローナさんがそう会話したきり、また静寂が落ちる。ライターの音と煙を吐く音。
 ハチさんが前の窓を開け、風がスーッと顔にあたって気持ちがいい。アローナさんが灰を窓から落としている。もちろん良くないけど、みんなやってることだ。

「ナミ、本勤務する?」
「うーん、しようかしら。当然だけどスナックより断然時給がいいもの」
「スナックってどれくらいなの?」
「1500ベリーだったわ」
「えっ!?ナミだったらもっと高級店もいけるレベルなのに!」
「まぁ、田舎だし…あいつら最悪だったから」
「ニュ〜…」
 運転するハチさんが身体を強ばらせ、小さく呻いた。バックミラーに映る目が、チラチラと申し訳なさそうにナミを見ている。
 なんかあったのは確定だなぁ。
 踏み込むつもりはない。

「いつまで続けるか分からないけどね。夜の世界にまた戻ってくるとは思ってなかったし。お金は欲しいけど…」
「わたしはずっと夜でもいいなぁ。コスパ良すぎるもん」
「目標額とかあるの?」
「うん。とりあえず3000万ベリー」
「さ…」
 呆気に取られるナミに苦笑する。たしかに大きい金額だよね。
「なんでそんなに?」
「やりたいことがあるんだよねぇ。すぐじゃなくていいの。いつかね」
「…ふぅん。夢ってやつ?」
「夢ね。そうかも」
 なんだか照れくさい。夢か。でも絶対叶える気でいるから、目標でもある。
 夢って何?なんて聞かれたら恥ずかしいなぁと思ってたけど、聞かれる前に目的地についた。
「ありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみ」
「お疲れ〜」
「ニューッ、気をつけて帰れよ。待ってるか?」
「や、大丈夫!すぐそこだから。じゃあおやすみなさい」

 車に手を振って見送って、伸びをする。
 冷蔵庫には凍らせたごはんくらいしか入ってない。あとサーバーの水。あとしなびた野菜。
 一人暮らしを始めた最初のほうは料理をしたりもしていたけど、だんだんめんどうくさくなってたま〜に作り置きをするくらいになってしまった。
 明日もどうせ死ぬほど寝るし、料理なんて作る気が起きないだろう。講義は一限からだけど諦めて友達に代返を頼む連絡をしてあった。


 カゴの中にカップラーメンやインスタントラーメンを大量に突っ込んでいく。あと卵に豆腐、ふりかけやらごはんですよ系のもの。鍋の素や料理の素、食パン、野菜、肉とかをてきとうに。
 何も考えずに選んでいたら袋二つ分くらいの量になりそうだった。
 既に手が痛くて、歩いて帰るのめんどうくさいなぁ……とため息をつく。

「あれ、ロザリーちゃん?」
 安いお肉を選んでたら横から名前を呼ばれた。誰?と顔を上げると金髪の男の子。
 サッ、サササ……「サンジ、くん」叫んだはずの声は呻き声みたいに小さな声として零れた。
 まって。嘘でしょ?
「こんな時間に買い物?」
 やや眉をひそめて言われたその言葉はわたしが全く同じことを返したかった。今は深夜2時半。なんでこんな時間に……。
 内心を読み取ったかのようにサンジくんが答えた。
「おれは夜勤だったんだ。ロザリーちゃんは……飲みの帰り?」
「う、ん、まぁ…そんな感じ」
 たぶんそんなに近づかなくてもわかるくらい、わたしがお酒臭いんだろう。さいあく。最悪だ。吐いた匂いついてないかな?…
 サンジくんは首元がちょっと緩くなった黒いロンTにジーンズ、そしてサンダルというラフなスタイルだった。オフの姿にこんな時でもちょっとドキドキする。
 だって、私服なんてほぼ見たことないから…。

「あー、偶然だね。じゃあわたし、お会計するから…」
「おれも」
 絶対ウソ。お肉のコーナーに来たくせに、サンジくんは吟味もせず適当に取って、わたしの横に並んだ。気まずい。
 レジに入ると少しホッとした。数千円を現金で払って、急いで袋に詰めていると、また隣にサンジくんが来る。
 チラッと盗み見ると、カゴの中身を呆れたような……咎めるような目で眺めていてますます死にたくなった。プロのコックにこんな終わった食生活を……。
 羞恥心で顔に血が上って来る気がする。元々お酒のせいで顔が赤くて助かった。いや、もうずっと死にたい。

 サンジくんは当たり前のように「おれが持つよ」と返事も聞かずに袋を持ってくれた。そして当たり前のように並んで歩き出す。
 送ってくれるんだろうなって分かっていたけれど、わたしは今だけは一人で帰りたかった。何も悪くないけど、彼が恨めしくなる。
 気まずさと惨めさとみっともなさに襲われ、開き直ることも出来ず、いつもみたいに軽口を叩けなくなったわたしは、俯いて自分の靴先だけを見つめていた。サンジくんが気遣わしげにたずねた。

「最近忙しいのかい?」
 たぶん、カゴの中身のことを、オブラートに包んで聞いているんだろう。
「そうだね…すこし」
「そっか。ナミさんも忙しそうだし…おれは大学行ってねェからあんま分かんねェけど、大変そうだよな」
「そうかもねぇ」

 打ちのめされているわたしは、返事も上の空で、早く逃げ出したい気持ちと、終わった…という気持ちでいっぱいだったけれど、サンジくんのほうは気まずさを微塵も感じさせず、ぽつぽつと話しかけてくれる。
 街灯がふたり分の影を映し出しているのが、妙に切ない気分にさせた。
 はーあ。せっかくサンジくんとふたりで歩いているのに、酔いが醒めても妙に残っている酒のせいか、頭痛のせいか、ちっとも楽しめない。

「サークルもしてるんだろ?バイトも?」
「…うん、ふたつ…」
 バイト、と言われ少しドキリとした。そのせいで返事が少し歯切れが悪くなる。
「ふたつもしてんのか。じゃあ尚更ちゃんと食べなきゃ。ロザリーちゃん華奢なのに、こんな食生活じゃすぐ倒れちまうよ」
「こんな……」
「あっ、ごめん!いや、責めるつもりとかじゃなくて。ただ、あんまりバランスが…」
「忙しくて……」

 誰か殺して〜ッ。
 いよいよ顔が熱くなってきて、わたしは同じ言葉を繰り返した。言い訳にもなっていない。もう女の子として終わりだよ。
 完全に脈が絶たれた。いや、最初っから希望なんかなかったか。
 そう思ったら、むしろ逆に胸がフッと軽くなったきがした。開き直ったとも言う。

「料理を作り置きする暇もないの。あーあ、料理の上手い誰かさんが近くにいたらなぁ。お金を払って雇いたいくらいなのに」
 冗談めかして言うと、サンジくんは「はいっ!ハイハイハイ!」とこっちが引くほどの熱量で声を上げた。
 思わず目を丸くする。
 言ってみただけだし、てっきりバラティエに食べにおいでよ、おれがサービスするから、くらいだと思ったのに。
 じわ…と嬉しさと喜びが滲んできて、くすくす笑う。
「あはは、ありがと。今度ナミとバラティエ行くから、その時サンジくんの美味しいごはん食べさせてよ」
「えっ、作りに行くよ!?おれ」
「えっ」
「えっ?」
「……」
「味には自信あるし、家庭向けの手頃な料理も得意よ?や、もちろん嫌なら無理にとは言えねェけど…」
「どこまで本気でゆってる?」
「100パー」
「あはははっ」
 真面目な顔で即答するものだから、本当に本気だと分かってしまった。サンジくんのことだから、仕事帰りに疲れてるのにめんどくさいだとか、仕事以外の時に仕事したくないだとか思わないんだろうな。女の子で良かった。コックとしてもこの終わった食生活が見逃せなかったのかもしれない。

「おれから作ろうか?って言いたかったんだけどさ、レディの家に行くってことになるし、さすがにズカズカプライベートに踏み込めねェだろ?だからロザリーちゃんから提案してくれてすげェ嬉しいよ」
「えー、そんなこと言われると本気で甘えちゃうよ?わたし」
「うん、甘えて。倒れちまったらマジで嫌だ」
「そんな酷いかな…」
「ほんとごめん……ひでェ」
 苦渋に満ちた表情ですごく言いづらそうに言われて笑うしかない。
 冷蔵庫の中見られたらサンジくんの方が倒れちゃいそう。
 今ほとんど空っぽだもん。ここ数ヶ月、たいてい外食かスーパーかコンビニですませているし、めんどくさくて食べないこともある。

 マンションに辿り着いて足を止める。
「ありがと、送ってくれて。もしごはん本気なら、後で予定送るね」
「上まで送るよ」
「そこまでは…」
「重てェからさ、これ。それに足ふらついてるし、眉もギュッとしてる。頭痛むんだろ?」
「…よくわかったね」
「分かるよ。見てるから」

 胸をグッと押された気分になる。サンジくんは狙って言ってるんだろう。そして、狙い通りにときめいているとは思いもしていないに違いない。
 いつだって彼はストレートで、そしてボールを投げるだけ投げて満足する。ディスコミュニケーションだ。
 わたしは諦めて、薄く息を吐く。
 家の中はきれいだ。男の子に見せても大丈夫…なはず。中に入ってくるかな、サンジくんのことだから玄関だけかな。そわそわしているわたしがバカみたいだ。彼の言動は全部、女性全てに捧げられる"優しさ"なのにね。

「何階?」
 質問に17階のボタンを押すことで答えた。
 エレベーターの中で、ふと沈黙が落ちることにさっきとは違う気まずさが湧いてくる。なんというか、うん、ちょっと恥ずかしい感じ。
 全くそんなことはないのに、ホテルに入って部屋に向かう時の、変な気まずさと緊張感の漂う一瞬を思い出した。

 ……はぁ。惨めだ。
 たぶん、お酒が入っているせい。

「ここ」
 鍵を回してドアを開ける。玄関は片付いていて、靴箱の上に小さいお皿と鏡と花を女の子らしく飾っている。リビングのドアは空きっぱなしで、ミルクホワイトのマットとソファがちらりと見えている。
 大丈夫。ちゃんときれい。
 サンジくんは分かってないから簡単にうなずけるのよね、わたしがこうして隅から隅までサンジくんの反応を気にしてしまうってことを。
 どうせ、サンジくんからの脈はないし、わたしには下心がある。なら、ちょっと欲張ったっていいんじゃないだろうか。
 ただ長いだけの腐りきった片思いなんか、さっさと引導を渡された方がいいんだし。

「ありがと。お茶でも飲んでく?」
「え、いいの?」
「いいよ。ついでにキッチンも見ていったら?でも倒れないでね」
「倒れるって?」
 靴を脱ぎながらわたしは「ほんとに酷いから、冷蔵庫」と自虐したけれど、心臓が突然急いで仕事をし始めて平静を装うのが大変だった。

 サンジくんは少し所在なさげに後をついてきて、それが少し可愛い。
「キッチンはこっち。持たせてごめんね、片付けちゃう」
「手伝うよ。冷蔵庫見ていい?問題の」
「あは、うん。たぶん引かれると思う」
「大丈夫。すでにちょっとわかったから」
 サンジくんはシンクやキッチンを見回して、困ったように眉を下げた。え、そんなひどい?
 散らかってないし、ホコリも溜まってない。調味料だって可愛い入れ物を買って綺麗に並べてあるし、人に見せて大丈夫なようにしてある。
 覚悟を決めるようにサンジくんは大げさに深呼吸した。
「開けるね」
「うん」
「……」

 そして、パタン、と冷蔵庫をしめた。冷凍庫のほうもあける。
「あ、氷もらうね。緑茶でいい?氷いる?」
「あ、うん…ありがとう」
 Francfrancのお気に入りの宝石みたいな八角形グラスに氷を入れて、買ったばかりのペットボトルをあけて緑茶を注ぐ。ビーズのパステルに光が散る薄ピンクと薄黄色のコースターもしまってある入れ物から取り出した。

「どうだった?引いた?」
 無言の答えで分かっていたけれど、あえて聞く。
「……これだけ?」
「うん」
「今までどうやって生きてきたの?」
「あはははっ、何それ?」
「や、だって米しかねェじゃん」
「野菜もあるよ」
「まぁ、ネギがちょっとと、人参がちょっとと、大根がちょっとね。味噌汁くらいしか作れねェよ」
「引いてるじゃん、あはは」
「や、引いてない。これはガチで」
「ほんとのこと言われても気にしないのに。自覚してるもの」
「ほんとだよ。ただ、すげェ心配になった」
 その声音が思いのほか真剣で、わたしは言葉を失う。眉を下げて「大げさだよ」と言おうとした言葉尻を奪うように、さらに重ねる。
「こんな近くにいんのに、知らないうちに栄養失調でひとりで倒れそうだ……心配だよ、ロザリーちゃん」

 なんと返せば分からなくて、わたしはただただ曖昧に微笑んだ。
「最近は忙しくて、ほんとに。それよりさっさとしまってお茶でも飲も」
 明るく言って、物言いたげな真剣な瞳から逃げるとカップラーメンを棚の下に詰めた。
 忙しさなんてうそだった。
 去年からずっと食生活はこんな感じだ。一人暮らしは自由な反面、自分のことに億劫になる。体型維持に食生活は大事だから、サプリを飲んだり、コンビニでサラダとサラダチキンを買ったり、ジム用にプロテインを飲んだりはしているけれど、まぁ、端的に終わっている。

 買ったものをしまい終えても、冷蔵庫を占めるのは飲み物が多くて、冷食やツマミ、そんなのばっかりだった。
「ありがと、ほんとに作ってくれるの?」
 甘えられる機会があるなら甘えたい。内心はそんな計算をして、けれどささやかに申し訳なさそうにたずねる。サンジくんはもちろん、とうなずいた。
「マジで心配だよ、おれロザリーちゃんはもう少し…なんつーの、ちゃんとしてると思ってた」
「ちゃんと、ね」
 少し苦笑する。ナミにもしっかり者だと思われていたな。なんでだろ?わたしはわたしのことを努力家で諦めが悪いとは思うけれど、きちんとした人間だと思ったことはない。
 きちんと見せなければという強迫観念があっただけだ。
「高校の時からすげェ真面目だったからさ。あ、悪い意味じゃねェよ、全然。忙しいんだなって分かるし…ただ、キッチンも使った形跡が見えねェから、ほんとそのままの意味で心配」

 ソファの端っこにちょこんと据わった彼が、瞳に本当に心配そうな色を乗せているのでわたしは胸がすこし苦しくなった。
 情けなさ、惨めさ、うれしさ。
 ミルクホワイトとパステルの水色で女の子らしく纏めた部屋の中に、金髪の男の子がいるのがどうにも浮いている。サンジくんが来ることになった経緯も、自分の情けなさも、この部屋に調和しないサンジくんの存在も、どうにも自分の中でうまく噛み合わない。熱の時に見る変な夢みたいだ。
 彼の薄い形のいい唇がもにもに動いているのをボーッと眺める。

「色々作り置きしようと思うんだ。忙しいからレンジで軽くあっためて食えるものがいいだろ?何かリクエストはある?」
 サンジくんを見つめていると、彼のなにかが足りない感じがして、トレードマークの煙草がないことに気付く。
 いつから吸っているんだろう。
「サンジくんの料理ならぜんぶ美味しいから、おまかせしたいな」
「ほんと?嬉しいけどロザリーちゃんが帰ってきてホッと出来るものを食わせてやりてェよ。魚がすきなんだよな。照り焼きとかみりん漬けとか…西京焼きも美味いよな…」
「あ、それすき」
「西京焼き?」
「なんかあれだよね、白味噌?のやつ」
「そうそう、よかった、じゃそれも作るよ」
 考えていたサンジくんが顎ひげを撫で、リクエストすると少年のようにうれしそうに歯を見せた。子犬みたいで、かわいい。
 わたしの耳はサンジくんの言葉を聞き流さず、わたしもきちんと返事をしているけれど、わたしの意識はサンジくんを見つめることに忙しくて、なんだか薄布をへだてた気分だった。心ここに在らずっていうか。

 違うことを考えていた。
 高校の頃のサンジくんが煙草を吸っているのを見たことはなかったなァとか、ヒゲがなかったなとか。けれど、顎ひげを整え、煙草を慣れたように吸うサンジくんはびっくりするほど似合っていて、なんだろう、彼が「完成した」と思えるくらいしっくりした。
 ずっと前からそうだったみたい。
 そして、再会したあとの方がサンジくんっぽいと受け入れられたのはなんでだろう、と考えて、たぶん、昔から煙草のにおいはしていたからだなぁ、と気付く。
 昔は親も兄も煙草を吸わないし、煙草を吸う知り合いもいないから知らなかった。
 今思い返すと、そう、たぶん彼から香ってくるのは煙草と香水がまじったにおいだったんだろう。スパイシーで、甘くて、どこかビターな大人っぽいにおい。

「肉も好き?食えねェもんとかアレルギーとか…」
「アレルギーも好き嫌いもないんだぁ。ほんと、サンジくんのごはんならなんでもいいよ。ねぇ」
 思いついたままに、わたしはなにも考えず口に出してしまった。
 お酒のせいもあるかもしれないし、夢見心地のせいもあるかもしれないし、彼に好かれることをすっかり諦めてしまったせいもあるかもしれない。
「ン?」
「煙草、吸いたい?」
「え、ああ…大丈夫だよ。このくらいの間なら」
「缶ならあるよ」
 気を遣っているのは分かりきったことなので、返事は聞かずにキッチンから捨てようとしていた空き缶をひとつ持ってくる。灰の捨て方とかは、あとでググればいいや。

「吸っていいよ。水入れといたから」
「…そうかい?じゃ、ありがたく。…どこで吸いやァいい?」
「ここでいいよ」
「そりゃダメだ!部屋ん中に匂いがついちまうし、壁が汚れたらハウスクリーニング代もかかるよ」
「そうなんだ…」

 サンジくんの戸惑いと逡巡が手に取るようにわかった。吸いたい気持ちはたぶん半々くらいで、でも用意してくれたのを断るのも…。そんなところ。たぶん。
 夜職を始めたからかな。
 前から人の感情や機微を察するのは得意だったけど、さらにできるようになった気がする。サンジくんが女の子の部屋に少し座りの悪い気持ちになっていることも、本気でわたしのあれこれを心配していることも、わたしとどうこうなる気が1ミリだってないこともわかるよ。

「ベランダにちっちゃいテーブルとチェアがあるよ。サンダルも」
 カーテンを開けると、こっくりと落ちた夜の帷と、目の前いっぱいの蛍みたいな都会の光が広がっている。絶景の夜景というほどには周囲に高い建物が多くて殺風景だけど、わりと手軽に見頃の夜景を楽しめるから、ベランダは気に入っている。
「へェ、いい眺めだな」
「でしょ?」
 同じことを思ってくれた、それだけでほんのりうれしくて、自分の声が機嫌よく弾む。
「サンダルちっちゃいかも。ごめんね」
「ロザリーちゃんの足がちっちぇェから当たり前さ。むしろそれが可愛い」
「意味がわからない理屈だ…」
「おれが分かってりゃいいよ」
 意味は分からないけどうれしい。
 窓を開けると少し肌寒いけれど、風は穏やかだった。サンジくんがサンダルをつっかける。案の定かかとがはみ出していた。ぺたん、ぺたんと少しマヌケな音がして、缶をテーブルに置き、手すりに寄りかかってライターをつける音がする。
 後ろ姿から煙が横に流れていく。
 わたしは見惚れ、ふいに泣きたくなった。
 サンジくんのオフの姿。これを見るのに3年でも足りなかったのに、今目の前にあることになんだか急に胸がいっぱいにもなって、切なくもなった。

 玄関に小走りで向かってコンビニ用のサンダルをひっつかむ。
 そしてわたしもベランダに出て、サンジくんの隣に並んだ。少し眉を上げて驚いたような瞳が見下ろしてきた。
 当たり前だけど高校の頃より背が高い。見上げるほどだった。わたしも小さくはないのに。胸が甘く疼く。
「ロザリーちゃんも来たの?寒くねェ?」
「うん」
 わたしに煙がかからないよう、煙草を持った手を少しあげたのにもすぐ気付いた。ナチュラルにそういうことができる彼の"慣れ"にも、尊重されている気分にさせてくれるところも、やっぱりかっこいいな…としみじみと噛み締める。

 そういえば今日はサンジくんのメロリンを見れてない。
 わたしのせいだけど(わたしの生活が終わっていたから)、すこし寂しくてわざと甘えた口調で言う。

「サンジくんの煙草吸う姿、かっこいいねぇ」
「えっ、ホント!? おれかっこいい!?」
「うん、似合う♥大人っぽくて」
「ッッッシャ……!どうしよう嬉しくて胸のトキメキが止まらねェんだけど、これって恋かな!?恋だよな!?恋だよ!」
「ハハ」
「全く相手にしてくれないッ。でもつれないロザリーちゃんもカワイイ♥」

 うーん、これこれ。
 サンジくんに会ったら、1回はこれを浴びないと。静かなサンジくんも好きなんだけど、かっこよすぎてドキドキして、自分の振る舞い方が気になってしまう。
 簡単に恋だとか言ってしまえることに、胸がわずかにツキンとするのにももう慣れた。むしろ、それがサンジくんっぽくていいなと思う。

 煙草を咥えながら喋る器用な彼の横顔を見る。
 涼しげにも、気だるげにも見える右目が前髪の間からのぞいていて、はらりとした柔らかそうな髪がまるい耳にかかっている。
 女の子と違ってシャープな頬のラインと浮き出た喉仏が男の子らしくてセクシーだった。
 アホなことを言っていても、見とれるほどかっこいいサンジくんにため息を押し殺した。煙の匂いが鼻の奥を擽る。

「1日に何本くらい吸うの?」
「これ?ンー、ひと箱ちょいかな」
「そんなに?ヘビースモーカーってやつじゃない?」
「はは、そうかも。イライラはしねーけど、吸わねェとなーんか落ち着かねーんだよなー」
「煙草って美味しいの?」
「美味ェよ。けどマジィ」
「あはは、どっち?」

 笑いながら彼の口元に手を伸ばす。サンジくんは少しだけ肩を揺らした。煙草を挟んで奪うときに、ふにっとした感覚が指の腹に触れて、でも動揺もしていないフリをして煙草を自分の顔に持ってきてまじまじと見つめる。
「んなっ、ロザリーちゃん…」
「どんな味がするのかなぁって」

 今までお客さんのを何回か吸ったことはあるから、吸い方はわかる。
「ダ、ダメだよ」
「なんで?」
「身体に悪ィ」
 なにそれ、サンジくんも吸ってるじゃん。顔に出ていたのか「おれはいいの」と手を伸ばしてきたので、その手を捕まえてキュッと握った。
 とたんにサンジくんは静かになった。この上なく眉毛が下がっていて、おおいに困っていた。あはは、可愛い。好きな子をいじめたくなる気持ちが分かっちゃう。わたしってたぶん、性格がとっても悪い。

 サンジくんがさっきまで咥えていたフィルターを、ほんの少しだけドキドキしながら咥えた。ちょっと悪いことをしているような後ろめたさ。
 少しだけ湿っていた。そして、煙草の煙を深く吸い込んだ。

「っ!? ゲホッ、ぅ、ゴホッゴホッ…」
 想像よりずっと勢いよく濃い煙が流れ込んできて、驚く暇もないほど咳き込む。喉を焼く煙が変なところでつっかえる感じがして思わず腰を折る。
「ウワーッ、大丈夫かい、ロザリーちゃん!言わんこっちゃねえ…!あ、水…!」
「だ、ごホッ、大丈夫……」
 慌ててサンジくんがわたしを抱きかかえ、背中を無骨な手で急いで擦る。アワアワして焦った様子が伝わってきて、苦しいのに笑いそうになった。
 しつこくケンケン咳をして顔を上げる。ちょっとだけ目に涙が滲んだ。

「びっ…くりしたぁ〜」
「おれの方がびっくりしたよ!大丈夫かい?」
 胸を抑えるサンジくんに少しだけ強く言われ、珍しさに胸がキュンとした。なんかいいかも…強く言われるの。サンジくん限定だけど。
「うん、ごめんびっくりさせて。これ何ミリ?」
「12ミリ。吸ったことなかったのかい?挟む仕草が慣れてるから、てっきり…」
「弱いのしか吸ったことなくて」

 弱いのだと、煙があんまり入ってこないから強く吸っても大丈夫なんだけど、タールが大きいと煙が濃くて噎せてしまう。
 学習したので、もう一度リベンジしようと煙草をまた咥えるとサンジくんがギョッとする。
 スルーして、今度は優しく息を吸う。口の中に苦味が広がって、煙がもわんと形を持っているのが分かった。それを肺の方まで吸い込んでいくと、苦いとかまずいより、喉が焼けて肺が重くなったのを感じた。
 ふー…とサンジくんの方を向いて、煙を吹きかけると目を丸くして、困ったように眉を下げた。
「へへ、今度はちゃんと吸えた」
「あんまりオイタしたダメだぜ…ほら、返すんだ」
「うん」
 伸びてくる手をかわして、直接煙草をサンジくんの唇に押し付けた。唇の感触を感じながら、"オイタ"をしてみる。
「あは、間接キスだね♥」
「……」

 目を見つめて可愛こぶって、そしたらサンジくんはいつもみたいにメロメロでアホなことを言ってくると思ったのに、困ったような顔をしたままわたしの目を逸らさず見下ろしてきた。
 部屋の中の光がかかって、影が顔を妙に隠し、同時に浮き立たせている。
 見つめ合うことにわたしの方が耐えられなくなった。顔が熱い。誤魔化すように笑って髪をひっぱって顔を背けた。
「もぉ、なんか言ってくれないと恥ずかしいじゃん…」
 ふいに、サンジくんが背けたわたしの頬を手のひらで包んだ。せっかく逸らしたのにまっすぐ目を合わせられる。見下ろしているのに、わざわざかがんで、見上げるように平坦な口調で静かに言う。

「じゃ、直接の方も…してみる?」
「……」

 耳の内側で心臓がバクバク鳴っていた。たぶん、今すごく、女の顔をしているだろう。顔の熱さも絶対伝わっているし、頬に添えられたゴツゴツした指に鳥肌が立ちそうなほど神経が巡っている。
 わたしはそっとサンジくんの手に、自分のてのひらを重ねた。
 彼の真剣な、静かな瞳が近付いてくる。

「いっ…デェ!!」

 そして、思いっきり手の甲をつねってやると、彼は野太い声を上げて飛び上がった。全力でちぎったから当然だ。
 ジト目で睨むとサンジくんが涙目で「ゴメンナサイ…ロザリーちゃんが可愛くて、下心を抑えられませんでした……」と、そんなことを言う。

 はぁ、もう、バカみたい。
 嬉しくてドキドキしたけど、虚しくて悲しさもある。惚れた方が負けだとは言うけど、ほんとにいつだって余裕なのはサンジくん、リードがあるのもサンジくん、振り回すのはサンジくん。
 キスして、たぶんそのあとはセックスして、でもきっとそこにある気持ちはぜんぜん対等なんかじゃない。それなのに、どうしようもなくその甘い一夜を焦がれてしまいたいわたしもいるのだ。

「キスは有料になりま〜す♥」
 そう言ったのは、だからたぶん捨て鉢だった。ムカついたのもある。
 早く諦めたい気持ちと、受け入れて欲しい気持ち。矛盾した感情をイタズラっぽい笑顔に包んで、そんなふうに軽く言う。
「有料って?」
「ほんとなら、わたしと一緒にお酒を飲むだけでも1セット8000円もするんだから。サンジくんはお友達だからいいけど」
「それって…」
「うん。ラウンジで働いてるんだぁ。サンジくんも遊びに来る?初回は奢ってあげるよ」

 自分から言ったくせに、なんて言われるのか突き付けられるのはいやで、わたしは笑って部屋の中に逃げるように戻った。
 サンダルを玄関に戻しながら、「はぁ……」と大きなため息をつく。
 あーあ、言っちゃったよ。

 諦めたくないし、頑張ろうと思ってるのは嘘じゃないのに、早く終わらせたいとも思って、結局こうして自分から嫌われにいってしまう。
 相手の反応が気になって、うかがっているのに、なんとも思ってませんなんて強がって。

 でもね、ラウンジは辞めるつもりはないから、結局彼が夜職の女の子を受け入れられないなら、やっぱりそこに未来はない。
 早めに明かさないと、騙していることになってしまうし。
 サンジくんのことは大好きだけど、彼のためにラウンジを辞める選択肢もなかった。
 だって夢のためにはお金が欲しい。
 サンジくんへの恋心と、夢だったら、わたしは夢を取る。
 彼氏のために可愛げのある態度を取れない、不誠実で、ワガママで、頑固なのがわたしだから。
 だから恋が叶わないんだろうなと諦めもつく。

 ソファに座って待っていると、サンジくんはまだベランダにいた。きっと2本目を吸っているんだろう。
 携帯をぼーっと触る。
 もう深夜3時だった。サンジくんの時間。明日仕事大丈夫なのかな。付き合わせてしまって申し訳ない。
 そんなことをつらつら考えて、固くなる心をできるだけ平坦に均し、平静を作り出す。

 カタン、と音がしてわたしは首筋に力が入るのを感じた。おくびにも出さないようにして、ニコッとかわゆく笑ってみせる。
「これありがと。缶持って帰るよ」
「え、いいよぉ」
「や、おれが吸ったからさ。捨て方も分かんねェだろうし」
「うーん、うん。じゃ、お願い。ごはんしあさってでいい?」
「いいよ。美味いモンいっぱい作るから楽しみにしててな」
「楽しみ!ありがとう!」
 サンジくんは、普通を装っているわたしとは違って、ごく自然に普通だった。なんとも思われてない。分かってる、最初っから。あーあ。

 お礼を言って、荷物を持ったサンジくんをニコニコ見送る。
 泣いちゃいそう。
 なんて全くのウソ。
 泣けるほど傷つくこともできず、ただ虚しさと自己嫌悪がジクジク皮膚の内側を鈍く焼くだけ。

「明後日、たぶんナミと飲みに行くから」
「ホント?楽しみにしてるな!席もとっておくよ」
「ありがと」
「おれも今度ロザリーちゃんのお店行ってみてェな。可愛くて話すのも楽しいからきっとすげェ人気なんだろうな。おれでも入れる?」
「……うん、たぶん」
「良かった。じゃ、時間取れそうな日連絡するよ。席に着いてくれてる間、おれがロザリーちゃんを独り占め出来るんだろ?楽しみだァ〜〜♥」
「…あはっ、なにそれ。じゃまた今度ね。おやすみ」
「おやすみ、良い夢を」

 キザなことを言って、ガタンとしまったドアを見つめ、わたしは今度こそ泣きそうになった。
 フォローのつもり?
 なんなの?
 理不尽な苛立ちと、それ以上に締め付けられるような安堵とうれしさ、そして混じる言いようのない気持ち。
 なんかもう、ぐちゃぐちゃだ。

 涙は出なかったけど、心臓が痛くて唇が震えた。
 やっぱり好きだよ……サンジくん。
 早くこの恋を捨ててしまいたい。

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