15

 いつも通りの日常を終える。
 荷物をサクッと纏めて帰ろうと立ち上がると、「あー待って待って」と耳郎の声が追いかけて来たので、刹那は振り返って首を傾げた。

「放課後すぐ帰っちゃうけど忙しい感じ?」
「?ううん」
「あマジ?今日時間ある?」
 コクン、と頷く。何か頼み事だろうか。日直は耳郎ではなかったし、検討がつかない。
「じゃ、一緒に自主練しよーよ」
「え」
「体育祭近いし、けっこう残ってる人多いんだよ。今日運動場の使用許可A組がもぎ取ったらしいから、一緒にやって行こうよ」
「え、え」

 刹那は戸惑っておんなじ子音を繰り返した。え。一緒に自主練……?
 少し考えてようやく頭がそれを理解する。
 と、友達に誘われてる……!
 刹那は頬をカーーッと染めた。女の子に遊びに誘われるのは初めてだった。
「どしたの?」
「あ、う、ううん。の、残る……」
 ドキドキしていつも以上にどもりながら答える。耳郎が笑って刹那の手を取った。
「ヤオモモ〜!刹那オッケーだって」
「まあ、良かったですわ。頑張りましょうね」
 プリプリと八百万がちいさくガッツポーズする。

 体操服に着替えて運動場αに向かう。雄英には凝った施設がいくつもあるが、調整や他学年のヒーロー科の使用などもあり毎日は使えなかった。解放されているいくつかを事前申請で使用するのである。
 刹那はほぼ自主的に使ったことは無い。

 山岳地帯がモチーフになった運動場αは、土砂災害と水難事故のレスキューが想定される仕様になっていて、身体を鍛えるにはちょうどよい地形だった。
 まずは身体あっためよっか、軽く走る?そだね、と3人はストレッチして身体を解していると、前の方で男子がなにやら騒いでいる。
「競走しようぜ競走!誰が1番早く走れっか」
「山間マラソンか?いいな」
「ええ……。なんで乗り気?サラッと走って訓練しよーよ」
「いいじゃんか!10キロくれえすぐだし!あ、尾白!おまえもやろーぜ」
「もうウォームアップは終わったんだけど……」

 上鳴の提案に切島は拳を合わせ、瀬呂や巻き込まれた尾白は困り顔をしている。爆豪が「ケッ。んなくだらねえことしてられっか」と吐き捨てる。「おっ。爆豪は不戦勝か!?体力は自信ない感じ?」
 馴れ馴れしく肩を組んだ上鳴の言葉に爆豪は当然のように切れた。
「ああ!?俺がクソカス共に負けるはずねえだろが!」
「爆豪も参戦だな!負けねえ!」
「ぶち殺したるわボケ!」
「お前ら元気ねー」
「俺関係ある……?」


「あいつらバカやってんね」
「私達もアップしてしまいましょうか」
「走るのは辞めて、ストレッチにする……?」
「そうですわね。コースが被ってしまいそうですし」
 軽く柔軟を始めた耳郎たちに上鳴が気付いて「おーい」と手をあげた。
「うわ。こっち来る」
「お前らも自主練?今からマラソン対決するから一緒にやろーぜ」
「いいよウチらは。勝手にやってなよ、アホが移る」
「移んねーよ!じゃなくてアホって言うな!まあ無理強いはしねえけどさ。体力自慢が揃ってるし、女子はきびしーか」
「……は?」
 何気ない言葉に耳郎が声色を変えた。
「ナメてんの?少なくともあんたよりは走れると思うけど」
「ちょちょちょ俺だってこー見えて体力なくはねーよ?走り込み増やしたし」
「こっちも同じ。ごめんヤオモモ、刹那。ウチちょっとこいつ潰してくる」
「お!やる!?泣いちゃってもしんねーよ?」
「とりあえず黙れ」

 負けず嫌いな耳郎は爆豪と全く同じ流れで参加を表明。八百万と刹那は顔を見合せた。ま、こうして超距離山間マラソンが開催されると相成ったのである。

*

 運動場内を3周、約10キロメートル。"個性"の使用無し。妨害は禁止。そんなルールで始まった。
 "個性"が使えないので、刹那は仕方なく普通の人間みたいにてってってっと走った。いつも片脚で地面を蹴りながら跳んでいるので、ついい 癖で蹴りそうになってしまう。
 スタートした瞬間爆豪と切島が飛ぶ勢いで駆けていく。
 耳郎と上鳴も小突き合いながら競って走っていく。
「ついてけねーよ」
「こんなことで競って何になるのかしら」
 後ろで瀬呂と八百万がのんびり話している。
 刹那は勝負には興味がなかったので、自分のペースでいつも通り走った。マラソンらしいので、ジョギングよりは一応気合を入れる。
「白凪さん、ペース速いね……?」
「あ。尾白くん」
「なんか大変なことに巻き込まれちゃったね」
「んね。尾白くんてなんかびみょうに運がないよね」
「グッ。今ちょっと刺さったよ……」
 胸を抑えて尾白が呻く。尻尾がふにゅんと垂れ下がる。
 刹那はけっこう飛ばしていた。体力には自信がある方だ。鍛え始めたのは2年前だったから、時間がなくて、人よりもスタートが遅くて、文字通り吐いて気絶するまで毎日馬鹿みたいに特訓していたのだ。学校も行かずに。
 尾白はそんな刹那に軽く着いてきている。
 積年の努力の賜物だろう。

 運動場は災害を想定した構造になっている。壁は山が覆うようにそびえ立っていて、周りには住宅地やら川やら田んぼやら公園やらが続いている。
 埼玉の田舎とか、群馬とか、あるいは東北のような風景が、風の音と一緒に後ろへ流れていく。

 平地を進んでいくと段々道がコンクリートから固い口に変わっていく。山道がゆるやかに体力を奪う。
 ぴょーんと跳べば楽に進めるのに、足をちょこちょこ動かして進まなければならないのがもどかしい。
 土はやがて砂利になり、古い家屋がポツポツと立ち並ぶ寂れた村に変わっていく。川は今は水が流れていないが、訓練時になると大量の飛沫を上げて濁流として襲いかかってくるんだろう。
 先に行った生徒の姿は見えないが足音は4人分を捉えていた。

 稼働していない運動場に入るのは初めてだったが、その無機質さがどうにも落ち着かなかった。川の音も、風の音も、葉の擦れる音も、鳥の鳴き声も。何もしない。
 聞こえるのは人間の僅かな息遣いと、高い天井で回るゴウンとした換気扇の音。

「はっ……けっこうキツ……」
 額から流れ落ちた汗を尾白がグイと拭った。その顔は少し蒸気して、首筋も少し赤かった。刹那の顔はもっと暑いだろう。体温の変化が見た目に出やすい。
 2人は山の中に潜った。
 "山間"マラソンというだけあって、ただ走れば良いという環境ではない。
 踏みしめた山の土は柔らかくて足を取られる。足の裏にごろごろした石が当たって地味に痛いし、山の中に出来た細い道をなぞっていくだけでも疲労は溜まった。
「わ、あっちに滝があるよ。本格的だな……」
「こんなに柔らかい土壌に、山は水気が豊富だし、避難が大変そうだね」
「そうだね。うわ。山の中にも家がある……こんなのどうやって助ければ!?」
「木が倒れたら機動力や足場もなくなるし……空中で移動できる人が必要だね」
 普通にしていても、自然と訓練を想定した会話になってしまう。雄英に入ってから、みんなそうだった。例に漏れず、刹那も。

 細道からはみ出して大股の足跡がついている。
 たまに、木の焦げ跡や、無理やり鋭利な刃物で切り飛ばしたような枝があった。
「これ、爆豪くんたちかな……」
「"個性"禁止って言ってたのに」
 ムキになりすぎて思わず使ってしまったんだろう。まざまざとその光景が思い浮かんで苦笑いすると、尾白もおんなじ顔をしていた。
「、暑いね」
「うん、ほんと、」
 べつに一緒に走る必要はないんだけど、なぜか2人は一緒に走った。荒い息がこだまする。尾白は彼女を横目で見て、珠の汗が流れるのから目を逸らした。

 山を抜けて下り道を走ると、風が気持ちよかった。走ることで産まれる風。刹那が走りながらモゾモゾして、手首からゴム紐を取り出した。艶やかな肩下まである黒髪を無造作に結わえると白いうなじが見えた。
 じっとりと汗が滲んでいた。
 尾白にはそれがあまりにも眩しく見えた。ドキドキするとか、目を離せないとか、下世話な意味じゃなくて、ただなんだか綺麗なものに見えた。

「あ……耳郎ちゃん」
 しばらく走ると耳郎と上鳴が見えた。まだ2人で走っている。少しペースが落ちている。
「刹那、わ、早……っ」
「お前ら疲れてねーの!?」
 尾白と顔を見合わせる。
「まだ大丈夫かな」
「ごめん、先行くね……」

 誰もいない小学校、遠くに見えるお寺やお墓、なんの作物も育っていない畑。この場所は作られた町だった。人がいないのに、圧倒的なリアリティがある。
 廃棄された町。そういう趣があった。

 2周目で瀬呂と八百万を追い越し、3周目の後半で爆豪と切島の背中が見えた。スパートで勝負をかけるらしく、今はまだ抑えたペースで走っているらしい。
 刹那の体力はまだほんの少し余裕がある。
「ペース上げよっか……」
「えっ」
 尾白は既に肩で息をしていた。喉が少し乾いた呼吸をしている。刹那も断続的なハッ、ハッ、とした犬のような息をしているのに、爆豪たちと競うつもりらしい。
「い、意外、だね……勝負するの?」
「それはどうでもいいけど……追いつけなくはないかなって」
 途切れ途切れに話す尾白とは違い、刹那は流暢に喋る。
「そ、そっか、はあっ、俺も上げるよ」
「そう?」
 ペースを3割ほど上げる。スパートを考えるとギリギリの体力配分。
 足音に気付いた2人が振り返り目を剥いた。
 気にせず追い越すと、「させっかよ!舐めてんじゃねえぞてめえ!」と爆音が背中を打った。
 爆豪がすぐさま刹那を追い越した。
 3周目の村地帯はほぼ直線が1キロほど続いている。この場所の位置取りが勝負の分かれ目に変わる。
 しかし刹那は顔色も変えず、平然と走っている。爆豪を追い越したペースのまま。

「……アァ?」
 爆豪をチラッと見たっきり、追い越そうともしない彼女に小さく唸る。
 切島が横に並んで、「おっまえ、はっ、体力あんな!」と話しかけてきた。
「尾白は、だいぶっ、きつそうだけどっ」
「はは……っ、体力は自信、あるんだけどね」
 刹那は首の汗を拭いながら頷いた。スパートに余力を残すためあまり喋りたくない。切島たちの方がよっぽど余裕がありそうに見える。
 刹那は前だけ見てひたすら走った。
 胸が軋み、肺が大きく収縮し、酸素を求めて全身で鼓動を刻む。
 14の頃、刹那は体力もクソもないただの人間だった。無力な人間だった。戦えるようになるために、死ぬほど体力をつけたし、戦うようになってから、ますます体力は必要になった。
 捕まりそうになったことは何度もある。ピンチを乗り越えるために逃げ足を磨いた。技術と力をつけた。恐怖を克服した。走ることは刹那を風にしてくれた。

 爆豪の後ろを追い越すか追い越さないくらいの位置で走っていると、彼は何回か振り返り、射殺すような目で睨んだ。それを受け流すと大きな舌打ちをされる。
 残り500メートルに差し掛かる。
 体力の1滴まで振り絞るように刹那は全力で走った。

「まっ……待てやテメエエエッ!」
 一瞬自分の横を風のように通り過ぎた刹那に一瞬呆け、我に返った爆豪は瞬発的に浮かんだ苛立ちのままに全身で怒鳴った。
 ボンッ!爆破音が響く。
「あっ爆豪テメッ、"個性"は……!」
「うるせえ!」
 あの女……!
 爆豪には刹那しか見えていなかった。刹那を追い越した爆豪に続き、切島と尾白もスパートを掛ける。
「俺に勝とうなんざ100年はええ!」
 ハッと笑いながら声を後ろに飛ばした爆豪に、刹那はしかしまたもペースを変えない。
 刹那の全力。刹那はゴールしか見ていなかった。
 勝てるならそれでいいし、勝てないなら勝とうとする気は無い。
 筋繊維を引きちぎるように前だけ見て走った。
 爆豪は目の奥に血が溜まるのを感じた。
「んっ……のクソ……っ!」
 結局、刹那は最後まで爆豪を越さなかった。

*

「テメエ」

 ゴールしてヘナヘナと膝を着いて、大きく肩を上げ下げする刹那に、爆豪の冷たく爆発しそうな声が降った。
 なんとか顔を上げる。
「はっ、はあっ、なに?」
「何じゃねえんだよこの兎野郎!!」
「ひぅ」
 太陽を背負う爆豪は凄まじい怒りを内包し、瞳にぬらぬらと激情が現れている。
 思わず刹那は喉からか細い悲鳴を上げた。
 あ。怖い……。
 熱かった身体の末端が冷えるような感覚。
 暴力で人を支配する人は嫌いだ。
 爆豪は絞り出すような声で言う。
「てめえ俺と勝負する気無かったよなあ……?ああ!?雑魚のくせに舐めてんのか……?この、俺を……!?」
「あ、え、えと、」
「ボソボソ言ってんじゃねえぞ!デクかテメェは!」
 彼の掌が爆破音を響かせた。巨大な怒鳴り声にビシャンとビンタされ、刹那は肩を揺らす。

 な、なんで怒ってるの?
 刹那は自分の腕を何回も擦りながら俯いた。
 お互いの荒い呼吸音だけが響く。
 切島がやって来て「な!?何してんだおめー!」と爆豪を慌てて引き摺って行った。「離せクソ髪!まだ話は終わってねンだよ」爆豪は激しく暴れている。
 目の前にゴツゴツした手が差し出された。
 心配そうな尾白が中腰になって刹那を見つめていた。
「大丈夫?絡まれてたの?」
「うん……」

 おずおずと彼の手を借りて立ち上がる。
 なんで……あんな風に言われなきゃならないんだろう。
 落ち着いて来たら、刹那の胸の中がモヤモヤモヤモヤして堪らなくなっていった。
 だって、別に、訓練だからわたしに必要なことをしただけなのに。
 全力を出して、爆豪くんはそれに勝ったんだから、それでいいのに、どうしてわたしに自分と同じことを求めるんだろう。
 胸が焦げ付くような気持ち。

 刹那は無意識のうちに、自分の指で首筋を、カリカリ、カリカリと掻き始めていた。爪が僅かに傷を付ける。カリカリ、カリカリ……。
「刹那?」
 耳郎がパシッと手を握った。
「どした?首痒いの?ちょっと赤くなってるから辞めな」
「、えっ?」
 完全に無意識だった。
 たしかに少しピリッとした痛みがある。
 これは……弔くんの癖だ。
 刹那は答えが頭の中に落ちてくるのがわかった。そっか、わたし……苛ついてるんだ。

 遠くなった爆豪の背中を見る。
 もう、彼を怖いとは思わなかった。死柄木の方がよっぽど怖い。今まで戦ってきた敵や、ヒーローに捕まりかけた時の方がよっぽど怖い。
 先生に捨てられる方がずっとずっと怖い。

 刹那はもう、2年前とは違う。
 誰かに感情や理不尽をぶつけられて、諦めて全部受け入れなければならなかった無力な刹那では無い。
 今は選択肢がある。
 そうだ、声を上げていいんだった──。

 刹那は脚に力を入れて、強く地面を蹴った。空を跳ぶ。大きく跳躍する。
 スタアン!
 目の前に降りてきた刹那に、爆豪と切島は目を丸くした。
「ば。爆豪くん」
 刹那の声がちょっと裏返っている。
 言いたいことを言うのにドキドキして、手をグーパー握った。
「わ、たし、舐めてなんかなかっ、たよ」
「ああん!?競う気なかっただろーが」
「自分と同じ熱量で競いたい、のは爆豪くんの勝手な、お、押し付けでしょ。わたしがあなたに合わせる義理なんかない」
「ガッ……て、テメェ……!」
「白凪!?」

 両手を震わせ、目玉が飛び出さんばかりの形相になった。爆豪の背中から激しく粘ついたマグマが吹き出しているようで、刹那は少しビクつく。
 でも彼女は最後まで言い切った。
 眉毛をきゅうと垂れ下げ、耳をペタンと垂らし、まるで今にも泣き出しそうにも見えるのに、爆豪を睨む目には必死さを帯びていた。
「わ、わたし……爆豪くんみたいにすぐ怒鳴る人……きらい!」
 フーっ。
 大きく息を吐いて刹那はプイッと顔を背けた。
 去っていく背中。
 切島は隣から焼け付くような怒りが膨れ上がるのを感じた。ブヂイイッ。何かが千切れるような音が聞こえた気がする。
「ちょっ、爆豪待っ……」
「上等じゃねえかこのっ……っ◎△$×¥●&%#!?」
 怒りのあまり人語を忘れた物体を慌てて羽交い締めにする。
 オイオイ、これ以上揉め事を起こしてくれるなよ……。
 切島は汗を流しながら暴れ馬と小さな背中を見比べてため息をついたのだった。
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