語ると恋に落ちる | ナノ
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 『年上だから気を遣って愛想よく接していただけなのに、好意を持っていると勘違いされて付き纏わられて困った』
 そんな話を女友達がしていて、だからかわいい後輩ができても勘違いしないよう注意した方がいいと説かれたのは、数年前の同期会のときだ。
 そのときは『そんなバカな真似はしない』と笑い飛ばしたが、いざ自分がそういう男になるとは。忠告などすっかり忘れて、うっかり勘違いした自分に絶望した。
 今更ああだこうだと嘆いていても仕方がない。始まりは勘違いではあるが、コハク先生を好きだという気持ちに偽りはなく、今日明日で打ち消せる感情ではない。
 だったら受け入れて、先生の害になる奴にだけはならないように努めなければ。

 コハク先生にとってオレは残念ながら同僚で、よくて友人だ。以前はオレだけが気楽に会話できる相手だったが、今はその位置も特別なものではなくなった。
 そもそも知らないだけで、彼女には恋人がいるかもしれない。アカデミーという新しい職場では親しい相手はなかなか作れなかったが、以前に所属していた部隊で出会った男や、自身がアカデミー生だった頃の同期だとか、出会いや相手はいくらでもある。もしそうであれば、オレは何もせずとも失恋確定だ。
――だったら、何もしなければいい。
 そうだ。何もしなければいいんだ。これ以上深入りすることも、親しくなることも抑えてしまえばいい。
 オレは彼女の先輩に当たり、指導担当でもある。上の立場の者からの好意を跳ねつけるのは、男女問わず些か抵抗があるのではないか。今後の関係への影響などを考え、本当はいやなのに当たり障りなく接することを選ぶかもしれない。そんな日々は気疲れしてしまう。
 コハク先生を好きなのであれば、彼女に負担をかけてはいけない。せっかく自分らしくいられるようになったのだから、オレの勝手な気持ちを押し付けてはいけないんだ。



 そうしようと決めてから、オレはコハク先生と意識的に距離を取ることにした。

「イルカ先生。今日のお茶は玄米と緑茶、どっちがよかですか?」

 午前中の授業が終わり職員室へ戻ると、隣の席のコハク先生が、自身の弁当箱を取り出しオレに声をかけた。
 アカデミーに勤め始めた当初の彼女は、昼食の時間になれば自席で一人黙々と食べていたが、今はオレの分のお茶も用意してくれて、二人で仕事に関すること、そうじゃないことも含め、会話をしながら箸を進めていた。

「すみません、ちょっと校長に呼び出されていますので」

 事前に考えていた嘘を吐いて、先ほどの授業で使った教科書や道具を机に置き、暗にお茶はいらないと伝え職員室を出た。
 嘘なのでもちろん校長に呼び出されてなどいない。コハク先生の目に付かないように人気の少ない空き教室で時間を潰したあと、昼休みが終わる少し前に掻き込むように弁当を食べた。


 授業が終わっても教師の仕事は尽きない。イタズラをしていた生徒を注意し反省文を書かせ、喧嘩した生徒たちには双方から話を聞いて仲裁し、ようやく溜めていた作業に手を付けたのは、放課後になってから二時間もあと。
 席に腰かけ一息ついて見た机の両端には、提出しなければならない書類や、その資料が積まれている。
 たしか、他の職員に確認を取らなければならないものがあった。日報をつい後回しにして書くのを忘れた日が続いて主任教師からお小言を貰ったし、今日はきっちり書いておかなければ。
 やることが多いと長い息を吐くと、隣からキイと椅子の軋む音がした。

「お疲れですね。私、手ぇ空いとるけん、お手伝いしますよ」

 心配そうな表情のコハク先生が、こちらを窺うように手伝いを申し出る。地獄に仏とはこのことか、という心地になったが、すぐに自戒した。

「いえ、オレ一人で大丈夫ですから、コハク先生は先に帰ってゆっくりしてください」

 本当は手伝ってもらえるものならばぜひ頼みたかったが、それではコハク先生の帰りが遅くなる。遅くなったら当然送ってやりたくなるし、一緒に居る時間が増えてしまう。

「でも……」

 コハク先生は机の上に視線を向け、一人では大変ではないかとやんわり主張したが、それに気づかぬふりをし、

「お疲れ様でした。明日もよろしくお願いしますね」

と笑って言えば、それ以上食い下がることはなく「お疲れ様でした」と返し、荷物を持って退勤した。


 どの教師にも言えることだが、毎日毎時間、授業を担当しているわけではなく、ポツポツと空き時間がある。
 その時間を利用し業務を進めたり、何かあった際に対処できるように職員室に待機していたり、あるいは一休みしたりする。

「先生、バリうまかどら焼きば持ってきたけん、一緒にお茶にしましょう」

 離れた席で何人かの職員が各々の机に向き合っている中、紙の小袋を手に持ったコハク先生は、他の教師に悟られぬようにこそこそとオレを誘う。
 一応まだ業務中なので、職員室でおおっぴらにお茶休憩などできないが、そこはお互い様というやつで、職員室隣の会議室にお茶を持ち込んで一息つく職員は多い。
 放課後や夜遅くまで残ったときなんかは、会議室にすら行かずにみんな堂々とお茶やコーヒーを淹れ、煎餅や饅頭を持ち寄り、主任や教頭も加わって業務に関係ない世間話だってする。
 黙認された行為のため、生徒の目につかないよう注意を払うなら咎める者はいない。オレたちも何度も会議室でお茶休憩をし、取りとめもない話に花を咲かせた。

「わざわざすみません。今は腹が空いていないんで、オレの分も食べていいですよ」

 神妙に断ると変な空気になりそうだったので、なるべく明るく、かといって過ぎないようにと遠慮すると、コハク先生の表情がかたくなった。

「どら焼き、お嫌いでしたか?」
「え? いえ、別に……」

 どら焼きは好きでも嫌いでもなく、頂いたら有難く食べる。先生が美味いと言うどら焼きなら美味しいだろうが、距離を置くと決めた今は、二人きりでお茶など言語道断だ。

「なら……どら焼きやなかとね」

 ぽつりと呟いた先生の目は伏して、胸を針で突かれたようにチクンと痛んだ。
 コハク先生が紙袋を開けてどら焼きの包みを一つ取り出し、オレの席に置く。

「なにかあったら、呼んでくださいね」

 微笑んで言い残すと、会議室へと向かった。その両頬にえくぼはなかった。



 今日は受付所での応対任務を命じられていたので、やってくる仲間へ任務を告げ、報告書を受け取るという事務手続きをひたすら続けた。任務内容の伝え間違いなどは決してあってはならないので、一つ一つ正確に行わなければならない。
 受付業務は担任を受け持った元生徒たちとも顔を合わせ、下忍になって以降の成長を垣間見ることができるので、実は好きな任務だ。子どもの成長はあっという間で、少し見ない間に背丈が伸びていると、嬉しくもあり若干の寂しさもある。
 指定された勤務時間を終えたのは、空を彩る水色が、赤や藍を経て黒くなった頃だ。
 本日の受付担当者は、全員顔見知り程度で食事に行こうなどと誘う仲ではないため、陽でなく電気で明るく照らされる里内を一人で歩いている。
 コハク先生と顔を合わせない日は気が楽だ。声をかけて誘ってくれるのを断らずに済む。
 しかし、オレが居ない間、コハク先生はアカデミーで何をしているのだろうかと、つい考えてしまう。
 会っていると遠ざけなければと思うのに、会えないと今彼女に一番近いのは誰なのかなど、見つからない答えに頭を悩ませている自分の女々しさが情けない。
 明日はアカデミーだ。コハク先生も当然出勤している。
 職員室での席は隣だし、指導担当のオレとの会話は必須で、二人一組で行動するのも常という状況の中、彼女と距離を置くのはなかなか骨が折れる。
――トン、と背中に軽い衝撃があり、驚いて振り向くと、雑踏を背に女性が立っていて、目が合うと破顔した。

「やっぱり。イルカ先生やった」

 独特の訛りと、針金の骨でも入っていそうな三つ編み。一度だけだが話をしたことがある。

「シンコさん。こんばんは」
「こんばんは。イルカ先生は髪ば一つにきびっとるけん、後ろからでも分かりやすかぁ」

 コハク先生のお姉さんのシンコさんは、自身の頭の上で立てた人差し指をくるくると回してそう言うが、シンコさんの髪型もなかなか珍しく、シンコさんだと判別しやすくて分かりやすい。

「今日はコハクと一緒やなかと?」

 オレの近くを見て、自分の妹の姿がないことを不思議そうに問われ、わずかに心臓がびくついた。
 シンコさんとコハク先生は、髪型が大きく異なるので別人だと判別はつくが、姉妹だけあって似ているし否が応でもコハク先生を思い起こさせる。その口から先生のことを訊ねられると、今はなんだか居心地が悪かった。

「今日は、オレは受付所の担当でしたから」
「ああ、そうね。受付所とか懐かしかぁ」

 『懐かしい』という言葉に、たしかシンコさんも昔は忍だったと、コハク先生が言っていたことを思い出した。
 元忍とはいえその期間は短く、コハク先生がアカデミー在籍中に辞めたあとは里の茶店で働き、今は支店の店長を任されているらしい。ハキハキした快活な性格を見るに、忍よりも接客業が彼女に合っていたのだろう。
 そういえばあのとき、『お金ば貯めて、いつか自分の店ば持つとが夢らしいったい』と続け、『そんときは一緒に行きましょうね』と、先生と約束したんだった。

「イルカ先生、最近忙しかと?」
「え? どうしてですか?」

 破る形になってしまったなと物悲しさに耽っていたら、脈絡のない質問をされたので訊き返すと、

「コハクが、『イルカ先生に避けられとう気ぃする』ち言いよったけん」

と言われ、心当たりが大有りのオレはぎくりと全身を強張らせるしかなかった。

「『イルカ先生は新人のあんたと違って仕事ば多かっちゃなかとね』っち言うたばってん、実際どげんと?」

 腕を組み、頭を傾げつつオレの心を窺う目は、目尻がきゅっと上がっている。まるでコハク先生に問い詰められているような錯覚を覚え、本能で逃走を選んだ体が一歩後ずさった。

「まあ、……保護者向けの説明会や、火影様の視察の予定もあって、忙しいと言えば……」

 否定も肯定もしない形でそれらしい理由を挙げた。シンコさんを通してコハク先生に伝わる可能性を考えると、丸っきり嘘をつくのは矛盾が発生する。
 説明会も視察も予定としてきちんとあるし、そのための準備も必要だ。
 ただし、毎年恒例の行事でもあるので、書類の日付や氏名を修正したり、当日に必要な人員は誰をどこに置くか検討したり、目まぐるしく忙しいものではない。
 このことはコハク先生も分かっているから、シンコさんが全てまるっと先生に伝えたとしたら、『そんなに忙しいものではないはずだ』と気づくかもしれない。というか、察するだろう。
 まずいな。体のいい嘘だとバレてしまう。他に何か理由はないか。何か。

「あ、私のアカデミーの同期が、コハクの今の同期なっちゃろ?」
「え?」

 急に話題が変わり、『同期』という二つの言葉の意味を正確に捉えるのに数秒かかった。

「ツミキ、ておるやろ? 男の、調子のよかごた奴」

 『調子のよかごた奴』というものに当てはまるかは分からないが、『ツミキ』という男性はアカデミーにいる。コハク先生の同期の一人だ。

「ツミキ先生、シンコさんの同期だったんですか?」
「そうなんよ。私、引っ越しの関係でアカデミーに入るのが周りより遅かったけん、卒業したとは十三のときやったとよ。この前会ったけん、一応『妹ばよろしくね』ち言ったったい」

 アカデミーの入学時期は、例外はあるが一律同年で揃えている。しかし少し前までは年齢の違う同期というのは珍しくなかった。忍不足で優秀な人材はすぐに下忍として投入していたため、卒業する時期も違った。

「ああ、そうだったんですか。ツミキ先生と……」

 へえ、ツミキ先生と。
 そう思って彼を浮かべると、コハク先生を呼び捨てにしていたときの二人のやりとりも浮かんで、余計な記憶まで引っ張り出してしまったと、苦い物を口にしたときのように口をぎゅっと引いてしまう。

「うちの店、この間からカップルセットば始めたけんね。宣伝も兼ねて彼女と来てもろうて、そんときに」
「……カップルセット?」
「恋人同士で来店したお客さん向けのセットで、菓子五つに、大きなグラスのドリンクで七十両!」

 シンコさんの口はよく回り、菓子を奇数にしたのは最後の一つを分け合うやりとりを生むためだとか、ありきたりだけど大きなグラスにはストローを二本指しているとか、どういう意図を持ってメニューを決めたのかを朗々と語っていたが、その半分もオレの頭には入って来なかった。

「ツミキ先生、彼女がいるんですか……?」
「おるよ。あん男にはもったいなかくらいよか彼女さんやったばい」

 ツミキ先生たちを接客したらしいシンコさんの態度を見るに、彼女さんとやらはコハク先生ではないようだ。
 じゃあ、コハク先生とは特に何も、ないのか。

「そうですか。ツミキ先生には彼女が……」

 二人はただの同期、もしくは姉の友人や友人の妹でしかない。
 安心する自分のみっともなさに気づいて、慌てて気を引き締め、先ほどまでかたく結んでいたくせに緩んだ口を再度引いた。
 視線を感じて顔を上げれば、シンコさんは猫に似た目元を真っ直ぐオレに向けている。
 光彩の中の瞳孔が一際大きくなったと同時に、短い悪寒が走った。

「イルカ先生」
「……はい?」

 名を呼ばれ、何を言われるかと構えていると、淡い紅を指した唇は弧を描く。

「すいとるげな」

 きゅっと端の上がった目は山形になり、人工の明かりを受けて一筋の光のようにきらめいた。

「『すいとるげな』……?」

 聞き慣れないそれを復唱してみる。記憶を探っても、そんな訛りはコハク先生の口からも聞いたことがない。
 『吸い取る』? 何を吸い取るんだ?
 もしくは、『すいとるげな』で一つの言葉なのか?
 いや、『すいと』と『るげな』で区切るのかもしれないし、『水』、『取る』かもしれない。だとしても『げな』の意味は皆目見当がつかない。
 まったく意味が分からず混乱するオレを尻目に、シンコさんは、

「じゃあね。イルカ先生もうちの店にはよ来てね」

と、営業ともつかない挨拶を残し、理解の追いつかないオレを置いて行ってしまった。
 引き留める隙も与えない、見事な去りっぷりにしばし呆然と立ち尽くしてしまったが、人の往来の邪魔になると気づき、ひとまず歩を進めた。
 結局シンコさんは何を言いたかったのか。彼女とオレは顔見知りというレベルで、そこまで親しい間柄ではない。コハク先生という繋がりがあってできた縁だ。
 だとしたらあれは、コハク先生に関することだと捉えるのが自然だろうか。
 せめて誰がと、何がと添えてあればもうちょっと深く推理できるのだが、いかんせん今の手持ちの情報では正解は掴めない。

「――イルカ先生っ」

 ぎゅっと腕を後ろに引かれ振り返ると、女性が一人。既視感を覚えるより先に、女性がコハク先生だという方に意識が持っていかれ、跳ねるような小さな声を上げてしまう。
 先生はオレの服の、肘辺りを摘まんでいて、走っていたのだろうか少し息が上がっている。

「今、帰りよっと?」
「ええ、はい」
「なら、一緒にご飯食べ行きましょ」

 誘いつつも、彼女の手は逃がさないとばかりにオレの腕をガッツリ掴んでいる。最近のように断る気にはならず、

「いいですよ」

と返すと、両目を丸くした。

「え、っと……。じゃあ、えと、一楽! 一楽に行きましょう!」

 目的地を逡巡し、挙げたのはオレの通い慣れた店。オレの腕を取ったまま、コハク先生は一楽へと足を向け、オレも引かれるがまま後をついて歩いた。
 ズンズンと進む背は、一刻も早く店へ着きたいという気持ちの表れなのか。
 いや、もしかしたら、最近オレが誘いを全て断っているから、逃げられる前になんとか店まで着いてやるという意気込みだという方がしっくりくる。

「あ。そういえばさっき、シンコさんに会ったんですけど」

 ついさっき会った姉の名を口にすると、コハク先生は足を止めて振り向いた。

「姉ちゃんに? 姉ちゃん、また変なかこつ言うとらんでした?」

 『姉に会った』とだけ言ったのに、先生は不安げな表情で訊ねる。先生にとってシンコさんとは、変なことを言いそうな人なのか。
 初めてシンコさんに会ったときも、自分が飲み物を買いに行っている間に変なことを言わなかったかと問うたが、よからぬ前例でもあったのだろうか。

「いえ。ただ、意味が分からないことを言われて」
「意味が分からんこと? どげなことですか?」

 先生の表情はますます強張り、とうとう体ごとこちらを向けた。

「たしか、『すいとるげな』、と」

 六文字だが、慣れない響きなので聞き違えているかもしれないけれど、シンコさんはそう言ったはずだ。
 掴まれていた腕がふと解放され、その手は今度は自身の口を押さえた。『ヒッ』と短い悲鳴のようなものが上がった気もする。

「コハク先生?」
「いや……あの……」

 続きを待ったが、先生は目を逸らし、両手で顔のほとんどを覆った状態のままで、見えない口を開く様子はない。

「多分、オレに言うってことはコハク先生のことなのかなと思うんですが、『吸い取る』って、何を吸うのかよく分かりませんし、『げな』もちょっと……」

 オレなりの見解を述べると、「はい、はい」と短く小さな相槌は打ち、とうとう顔面全てを手で隠した。
 なぜ隠す必要があるのか、ともうしばらく待ってみると、コハク先生はたっぷりと時間を使い、そっと手を放す。熱を出したみたいに頬が赤い。

「あの……『げな』ち言うのは、『言ってたよ』とか、『言ってるよ』とか……。例えばその、『明日晴れるって言ってたよ』なら、『明日晴れるげな』とか、そんな感じで」
「はあ、なるほど」

 やはり『げな』で一つの意味のある言葉だった。なぜその響きの言葉が生まれたのか分かりかねるが、『げな』という二文字で済ませられるのは便利なのかもしれない。

「で……『すいとる』っちいうのは……あの……」

 頭を傾け、まるで跳躍するための力を込めるかのごとく、ぎゅっと作った拳を鎖骨辺りに押し付けた。

「す、『好いている』ってことで……」
「はあ……」

 さんざん溜めに溜めて出たのは、オレの予想していた『吸い取る』ではなかったため、なんだやはり違うのかと――いや、待てよ。

「は?」

 間抜けな声を上げたオレと、伏せていた顔を上げたコハク先生の視線が重なる。

「イルカ先生のこと、好いとうと……」

 勝気な印象の目はうっすら涙の膜が張り、いくつもの光をたたえいて綺麗だ。

「お、お、オレ、ですか?」

 まさかの告白が信じられず、つっかえつつもなんとか聞き返すと、下がっていた先生の目や眉は一瞬で吊り上がり、キッとオレを睨んだ。

「だって、仕方なかろうもん! 好きになったっちゃけん!」

 大声で怒鳴ったせいで、そばを歩いていた通行人が一斉にこちらを見て、ぎょっとした表情を向ける。

「ちょっ! 先生、声が大きいです!」
「なんよ!? 『訛りとか気にせんで話さんね』ち、『かわいか』ち言うたくせに!」
「そういうことじゃなくて! とにかく、ここは人の目もありますから!」

 止めようにも先生は火がついたように声を荒げ続けるので、仕方なく腕を取って人が少ない場所を目指し、速足で人混みを掻き分け進む。
 なんだなんだと周りの視線が刺さって痛い。とにかく一刻も早く人気のないところへ。
 通りから大分外れて、やっと周囲に誰も居ない場所が見えてきた。その間も、コハク先生はオレの後ろから大声で文句をぶつけている。

「好いとるとに! 好いとるとに! イルカ先生、最近冷たいけん! なーにが呼び出されとるぅですか! ゆっくりしてくださいとか! お腹空いとらんとかさ!」
「コハク先生、落ち着いてくださいって!」
「どら焼き、嫌いやないっちゃもんね! どら焼きやのうて、私が嫌いなんやもんね! 嫌いなら嫌いち、はっきり言えばいいやろ!」
「嫌いなわけないでしょう!」

 踏み出した足に力を入れて止まり、彼女に負けぬ声量で言い放つと、細い体は風で煽られ音を立てる看板のように一度大きく震えた。
 有りっ丈の文句を放っていた口は動きを止め、何を紡ぐでもなくポカンとうすく開いている。

「嫌いだったら、オレだってこんなに悩みませんよ!」

 嫌いなわけがあるか。
 そうだったなら、コハク先生が誰かと親しげな姿を見たくないなんて思うことはない。
 恋人の有無を知るのが怖いと考えることも、同僚兼友達でしかないオレの気持ちを知って、気色悪がられたらと恐れることもない。

「じゃあ、なんね? 嫌いやなかったら、なんなん!?」

 腹の底から押し上げられたような、薄いガラスなら簡単に割りかねない怒号とも取れる問いは、大粒の涙を伴ってオレの心を深く刺した。

「……好きです。オレも、コハク先生が」

 まどろっこしいことは止めよう。彼女に恋人がいるか考えて足踏みしたり、彼女にそんな気はないのだからと諦めたところで、この感情は捨てられない。
 だったら正直に伝えるべきだった。オレは当たって砕けるのが怖いだけで、『コハク先生の害にならないように』と体のいい理由をつけ、自分の保身に走っただけだ。
 だめかもしれない、フラれるくらいなら。そんなことを怖がって止まるのは、万が一の可能性を放棄するのと同じなんだ。

「遅かぁ……」

 涙に濡れた顔が、オレの胸に飛び込んでくる。しゃくり上げる背に遠慮がちに触れ腕を回しきると、コハク先生の手がオレの服を掴み、より体を押し付けてきて、後ろに倒れないように踏ん張った。

「呼び出されたとか、嘘やったっちゃろ?」
「……はい」
「本当は手伝ってほしかち、思っとったやろ?」
「……そうですね」
「お腹やって空いとったし」
「はい」
「どら焼き、美味しかったやろ?」
「はい」
「私んこと、好いとるんやろ?」
「は――え、ええ……はい」
「なんでどもると」
「いやまあ、はい……」

 上を向き、威圧感のある低い声で指摘されたが、素直に『はい』と返事ができるほど心臓に毛は生えていない。
 コハク先生は恨めしそうに至近距離でオレを見上げる。睨む目の鋭さはさっきより緩んで、眉は八の字を作った。

「姉ちゃんのお店、カップルセットができたと」
「そう、らしいですね。さっき聞きました」
「一楽のラーメンも、また食べたいけん」
「はい」
「他にも美味しかお店、同期の人に教えてもろたし」
「……はい」

 再び先生の額当てがオレのベストに触れる。俯いた頭の天辺にはつむじがあって、右回りだった。

「一緒に、行きたいとよ。先生と」

 同期でもなく、恋人でもなく、オレと。
 先生はいつだって、誰かではなくオレを選んでくれていた。

「一緒に行きましょう」

 回した腕に力を込めたら、先生がオレの服を掴む手にも力が入った。きゅっと伝わるわずかな振動がこんなにも愛しくなって、頭の作りがまるごと新しくなった気分だ。
 コハク先生が顔を上げ、ぷは、と息を吐いた。目が合うとはにかんで、今度はリンゴのように赤い頬をベストにくっつける。先生の腕はオレの背へと回った。

「行きたいところ、本当はもう一つあるっちゃん」

 夜の静けさに溶けていくような小さな声で、コハク先生は続ける。

「私が住んどったところもラーメンが有名て、前に言いよったでしょ? やけん先生ば連れて行きたっち思うとったけど、先生に彼女さんがおったら、そういうのっていかんやん? 彼女さん、おるとかなぁて、色々考えたと」

 記憶を遡ってみて、思い当たる会話は確かにあった。初めて一楽に行った夜の帰りだ。いきなり黙って変だなとは思いはしたたが、あれこれ訊ねるのもと思い控えた。

「彼女はいませんよ」
「うん。でも今は、おるやろ?」

 三度[みたび]顔を上げ、自分を指差す先生の目は楽しげで、澄ましたつもりの口元はにやつきを抑えられないのか、妙な弧を描いている。
 自信に満ちた問いかけに呆気に取られたあと、可笑しくて吹き出し「そうですね」と返すと、コハク先生は声を立て笑った。両頬のえくぼはしばらく消えることはなかった。



5

縁は異なもの繋ぐもの

20200210


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