語ると恋に落ちる | ナノ
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 仔犬の一件が解決したと同時に、年間行事が立て続く時期に突入し、教職員はそれぞれの対応や準備に追われ始めた。
 日頃の業務に加えて、さらに各々が行事に関する仕事を担うため、否が応でも残業が増える。
 その分の手当は出るが、毎日遅くに帰宅しては朝も隙間を見つけて回ってきた書類に目を通したり、自分がチェックをもらう書類を回したり、とにかく地味な作業が多く、日々積もる疲れはなかなか取れない。
 コハク先生も同じらしく、もうすぐ始まる打ち合わせのための書類をまとめて留める作業の合間に、何度も欠伸を噛み殺して、目の端にはうっすらと涙が滲んでいる。屋上に近いこの会議室は差し込む陽も一際明るく、潤んだ瞳はやたらとキラキラ光って見えた。

「眠そうですね」
「忍体測定の書類提出、今週が締め切りやなかですか。まだあと数人が残っとるけん、はよ終わらせんとと思ってやっとったら、朝方までかかったとですよ……」

 毎年、新年度すぐに生徒の忍体測定を行う。これは通常の身体測定とは違い、現在のチャクラの性質やチャクラ量、コントロール技術、投擲類や忍刀の扱いなど、主に忍者としての能力を測るものだ。毎年行うことで成長の度合いが見えるため、後々の卒業試験や卒業後の班分けの際、これも参考になる。
 いつもはオレが評定をし、一人ずつ一枚の紙に結果を連ねていくが、コハク先生の勉強という意味と、オレが年間行事の作業で手が回らないので頼んでいた。

「すみません、ほとんどお任せしたせいで」
「それはよかとです。私もいつかはこれば全部一人でやらんといかんち考えたら、今のうちに経験ば積めてよかったち思いますけん。ただ、この結果が色んな指針になるとなら、絶対に間違えたらいかんて神経ば使うけんちょっと頭と目の疲れて……イルカ先生はこいば一人でやってきたとでしょ? すごかねぇ」

 校長へ提出する前にオレが内容をチェックするが、計測も記録もほとんどコハク先生に一任している。忍としての第一歩をどう踏み出すかは、この成績も影響する。生徒の今後を左右すると考えたら、神経を使うのはたしかだ。

「まあ経験ですよ。コハク先生なら大丈夫です」

 オレも最初から完璧にできたわけではなく、せいぜいなんとかミスが出ないように仕上げた程度だ。ただ回数を重ねれば前回よりもスムーズなやり方を見つけ、効率的に進められるようになった。こういった作業物は大体そういうものだろう。

「あれ? 椅子が足りませんね」

 長机に対し椅子が数脚足りない。いつもは一辺に対し三脚ずつ収められているのだが、四脚ほど見当たらない。

「あー……そういえば、下の階で会議する前に、椅子が足りんっち、持って行きよらしたような……」

 手を止め、少し眠たげな目を横に流しつつオレの問いに答える間も出てくる欠伸を、コハク先生は口を手のひらで押さえて何とか我慢した。思った以上に睡眠不足らしい。

「じゃあ下から取ってきますね。準備お願いします」

 打ち合わせまではまだ時間があるので、特に急くこともなく一人で下の階へ降りた。
 思い当たる部屋を覗いて足りない分の四脚を見つけ、両手に持って階段を上っていると、今回の打ち合わせに出席する同僚たちがちょうど階段を上がっているところだった。

「イルカ先生、なんで椅子持ってるんですか?」
「上の部屋の椅子が戻されてなかったんで、足りなくて」
「なるほど。半分持ちますよ」

 歳は変わらないが、コハク先生と同じく新任の男性がそう申し出てくれたので、礼を言って二脚を渡した。廊下を歩くくらいなら問題ないが、両脇に椅子を持って階段を上るのはなかなか難しい。
 同僚の列に混じり、最近できた新しい居酒屋の話や、この前釣りにいった成果など、業務に関係ない談笑を各々で続けながら、皆で階段を上りきった。放課後とはいえ校舎内のため、あまり響かないように自然と声は潜められる。
 陽の差し込みが強い通路を歩き、空いている手でコハク先生が待つ会議室の戸を開けた。

「あ、イルカ先生。この資料、先月の報告書が付いとらんですけど、よかですか? あとこの写真、輪郭とかほとんど潰れとるけん、明るさとか調整したらよかっちゃなかですか……ね……」

 こちらに背を向けているコハク先生が手元の書類を見ながら、オレが不在の間に気づいたことを報告し、思ったことをほぼ述べたあとようやく振り向いて、それからぴたりと動きを止めた。
 止まったのはコハク先生だけではない。オレも、オレの後ろから続いていた同僚たちも、いっそ時すらも止まったような感覚に、誰も声を発しなかった。
 見開いた双眸が形を崩し、コハク先生の顔色がサッと変わる。赤みを失った唇が小刻みに震え、目は忙しなく泳いで、今にもぶっ倒れてしまいそうだ。

「え……? 今、コハク先生……?」
「なに? もしかして、あれって訛り?」

 硬直が解けた同僚たちが、現状を確認すべく目の前で起きたことを口にすると、コハク先生の肩にぎゅっと力が入った。呼吸が荒くなり、ハクハクと口を動かしてはいるが、まともに息ができているのかも怪しい。

「――そ、そうなんですよ! コハク先生の地元の言葉、かわいいですよね! ね! ね!!」

 振り返り、同僚たちに声をかけ同意を求めた。一番近くに居た先生に詰め寄る形になってしまったためか、上体を後ろに傾け「うお」と驚いた声を上げられたが気にする余裕はなかった。

「へえ……コハク先生ってそうだったんだ」
「知らなかったぁ。あれ? ご出身って木ノ葉じゃなかったんですか?」

 状況を理解した同僚たちのうち、コハク先生と比較的年齢が近い若手の講師が訊ねると、

「あ、はい……」

と戸惑いつつも先生は肯定し、自分の出身地である町の名を告げる。

「そういえばその辺は、地方独特の訛りがありましたね」
「へえ、そうなんですか。なんかいいですね、訛りって。言葉は違うのになんとなく分かるのが面白いです」

 町の名に反応した誰かが言い、それに反応した別の誰かが訛りに対し好意的な意見を述べ、思い思いに話は広がっていく。以前勤めていた先生も訛りがあっただの、訛りというものは味方とそれ以外を見分けるのに便利だから出来上がっただの、話題の中心は少しずつコハク先生からずれていった。

「もしかしてコハク先生、ご自分の訛りを気にされてたんですか?」

 女性教師が先生に訊ねると、ぎこちない動きで頷く。先生方が口々に「なんだそんなこと」と、揶揄したり馬鹿にすることなく、ただ事実を事実として受け止めた。気にすることないですよ、個性の一つですよ、などと声をかけつつ、打ち合わせを始めるために椅子に腰を下ろしていく。
 机の上の資料を手に取り、この件はあれからどうなっているのかと近場の教師と顔を突き合わせ、もはやコハク先生の訛りなど誰一人として話題にはしていない。
 コハク先生は呆然とした表情で、ついさっき自分の秘密を知った人たちへ視線を向け、それがゆっくりこちらへと流れてきて、バチッと目が合った。
 ほらね、大丈夫だったでしょう、と声を立てずに笑ってみせると、コハク先生もようやく強張った表情を緩めて、口元をほころばせた。



 放課後もオレの仕事を手伝ってもらい、二人揃って校舎を出る頃には、昼に満たした腹は再び空になっていた。
 一緒に飯でも食べに行きませんかと誘って、アカデミーから少し遠い定食屋に入った。本当は一楽のラーメンが食べたい気分だったが、コハク先生を連れて行けばまたアヤメさんにからかわれるに決まっている。
 定食屋は仕事帰りの客で溢れていた。一人で来店している客も居れば、オレたちみたいに同僚や友人たちと向かい合って座る客も居る。
 食事を済ませて外に出て、コハク先生の自宅近くまで送りますよと言えば、よろしくお願いしますと頭を下げられた。
 大通りから外れれば、ざわめきは嘘のように消える。時折すれ違う通行人がある程度で、街灯が照らす道に人の気配は少ない。
 オレとコハク先生は沈黙を許すことなくあれこれ喋った。先ほど食べた料理の感想や、道の脇に植えられた木に咲いている花や、道の先を横切った動物は猫だったか鼬だったかなどの取りとめもない話を続けるのは、互いの存在を強く示して暗闇や静けさに取り込まれないようにする防衛本能ためなのかもしれないと、ふと考えた辺りで、

「今日はありがとうございました」

と急にコハク先生が礼を言うので、特に意味のない思考は断たれた。

「え? なんですか突然」
「皆さんにバレたやなかですか。私の、訛りのこと」

 何の礼だと訊くと、忙しさですっかり忘れていたことを挙げられた。恐らくアカデミーの教職員にとって、今日一番のニュースとなったに違いない。

「あのときフォローばしてもらって、助かりました」

 フォローをしてもらった、と言われ、あの場での自分の言動を振り返ってみたが、果たしてフォローになっていただろうか。とにかく今にも倒れてしまいそうなコハク先生へ止めを刺されないよう、変なことだけは言わないでくれと必死だった。

「大したことはしてませんよ。いつも言ってたでしょ。知られても大丈夫だって。皆さん、訛りを馬鹿になんてしませんよ」
「本当ですね。何回も言われとったけど、でもやっぱり、もっと色々、言われるかもち思っとったけん……」

 コハク先生の中に根を張る恐れ深い。信じる信じらないの話ではなく、そういった恐怖は自分で乗り越えていくしかなく、そして今日、コハク先生は『受け入れられた』という事実をしっかり得られた。

「なんか、嘘みたい。夢ば見とるんかな」
「見てませんよ見てません。だからしっかり歩いてください」

 心ここに非ずといった様子で、進む足は速度を落とし、歩幅も小さくフラフラしている。壁や電柱にぶつかるのも怖いが、何もないところにつっかけて転んでしまいそうな覚束ない足取りに声をかけると、爪先はきちんと真っ直ぐ前を向いた。

「よかった……」

 安堵に満ちた呟きに、思わず笑んでしまう。

「ほんとによかったですね。これで明日から、無理に口を閉じる必要はありませんから、もっと気楽に仕事ができますよ」

 今までは極力会話をしないように、するのであれば考え得る限りの丁寧な言葉を使っていたが、これからはずっと気持ちが軽くなるはずだ。

「それもあるばってん……」

 仕事終わりにいつも肩から下げているトートバッグの紐の位置を調整しながら、コハク先生が続ける。

「訛りば、かわいかぁち言ってくれたん、イルカ先生が初めてやったけん」

 何のことはすぐには分からず、頭の中で繰り返して、ようやく自分の発言を思い出した。
 たしか、コハク先生の訛りがバレたときに、そんなことを言った気がする。
 ただあのときは、コハク先生にさらなるトラウマを植え付けないために必死だっただけで――いや、かわいいかかわいくないかで言えばかわいいと思うから嘘ではないが、『初めて』と言われるとこう、その、何だか妙な気分になるし、首から上が熱くなって、全身の汗腺からぶわりと汗が噴き出ているし、隣をまったく向ける気がしない。
 「よかった」とまたコハク先生が呟く。それに相槌を打つことすらもできなかった。



 訛りが知られた翌日、コハク先生は緊張した面持ちで職員室に顔を出した。辺りを窺いながら自分の席に腰を下ろすと、同期である女性が声をかけてきて、先生はぎこちないながらも会話を重ねた。いつもは訊かれたことに返すだけで、ろくにやりとりは続かなかったのに大した変化だ。
 その同期の女性との会話をきっかけとし、その日から先生が色んな人と会話をする姿を見かけるようになった。
 本人としてはまだ訛りを出したくはないようで、片言な喋り方にはなっているが、『訛っても馬鹿にされない』という状況は彼女の心に大きな余裕を持たせているようで、以前のようにすぐに会話を切り上げることはない。 
 数日後にはうっかり訛りが出るようにもなったが、先生方の態度はやはり変わらず。その頃から、コハク先生が見せる表情が増え、本来の明るさを取り戻してきた。

 雰囲気が変わったことを感じ取ったのか、生徒たちも興味を示し始めた。これまで淡々と仕事をこなして楽しくお喋りなどしていなかったのに、廊下や職員室で他の先生方と談笑しているのだから、不思議に思うのも無理はない。

「生徒たちにも打ち明けてみたらどうですか? 子どもの方が順応性は高いですから」

 そう背中を押すと、コハク先生は迷った末に、思い切って訛りがあることを告白すると決めた。
 受け持つクラスで授業を開始する前に時間を少し取り、実は里外出身なので知らない言葉を使うかもしれないと伝えると、

「知らない言葉ってなに?」
「どんなの? 喋ってみて!」

と好奇心旺盛な子どもたちに押され、試しに喋ってみせれば、生徒たちは『呪文みたい!』と嬉々とした声を上げた。他にももっと引き出そうと次々に先生へ話しかけ、結局その時間の授業は半分もできなかった。
 しかしその授業を機に、生徒たちの間でコハク先生は『冷たくて面白くなくて堅苦しい先生』から『朗らかで面白くて親しみやすい先生』になり、先生に話かけられても緊張するどころか、先生を見つけると自分たちから声をかけるほど慕うようになった。

 きっかけは『訛り』という珍しさではあったが、こうまで距離が縮んだのは訛りだけが理由ではない。今まで隠れていたコハク先生の明るくてお喋りで、人懐こい面が惹きつけたのであって、つまり『稲荷コハク』という彼女だからこそ、ここまで短期間で周りに人を集められたわけだ。
 ここ最近のコハク先生の目は、常に生き生きとしている。きゅっと目尻が上がった双眸よく笑むようになり、不安や気疲れで暗い光を落とすこともない。

 とてもいいことだと思う。
 コハク先生が毎日自分らしくあれるのだから、とてもいいことだ。
 だというのに、少しだけ寂しさを感じる。
 自分だけがコハク先生の秘密や事情を知っていて、コハク先生は自分にだけ頼ってくれていた。
 けれど今は、他の先生に頼んだ方がいい仕事はそちらに、ランチに行こうと誘われれば断ることなくついていき、生徒とは昼休みに校庭で遊ぶ。

「コハク先生って、笑うとえくぼができるんですよ。知らなかったなぁ」

 オレと同い年の女性が自分の頬を指して、コハク先生のえくぼのことをオレに教えるが、オレはそんなことはすでに知っていた。
 彼女には姉がいることも、地元はラーメンが有名なことも、彼女のトラウマの原因だって、みんなは知らなくてもオレは知っている。
――でも、それもいつかは、オレだけが知るものではなく、いずれ他のみんなも知る話だ。
 オレはコハク先生が素のままで話せる唯一の同僚であったが、それも他多数と同じになるのだろう。異性よりも同性との方が距離も縮めやすい。同期の女性とは特に親しくなったようだし、他の同期の男性陣ともすっかり打ち解けている。

 カラの巣とは、こういうものだろうか。

 今までオレだけを頼りにしていた雛が、自力で生きるべく巣を出て行く。親鳥としてしばらくは傍に居ても、いつかは完全な独り立ちを見送っていくように、オレもこのままコハク先生がアカデミーに馴染むのを見守るべきだ。
 けれどいきなり自分の隣がぽっかり空いた気がして、筆舌し難い空虚を覚える。
 最近もこんな気分になった。なんだったか――ああ、ナルトがアカデミーを卒業したときだ。無事に最終試験にも合格し下忍となって、アカデミーに戻ってくることはなかった。
 ナルトが火影になるという大きな夢へ一歩踏み出したことに喜びはあった。それと同じくらい心配もあったし、何かとんでもないことをやらかすのではないかという不安もあり、そして寂しくもあった。
 だがオレは教師だ。生徒に忍の基礎を教え、送り出していく側である以上、下忍になったことを誇らしく思うべきであり、引き留めるような行為は許されない。
 コハク先生もナルトたちと同じだ。彼女が望んだのは、訛りを馬鹿にされることなく周囲との距離を縮めることだった。最大の懸念が取り払われた今、先生は自分を縛ることなくありのままでいられて、心健やかにアカデミーの業務に励んでいる。
 そこに水を差すような真似だけはしたくない。オレだって、彼女が彼女らしく過ごせる日々がくればいいのにと願っていたし、協力は惜しまないつもりだった。コハク先生の言葉を馬鹿正直に受け取れば、オレの行動で事態が好転したわけだし。
 そうだ、現状はオレが望んだその通りになった。先生がよく笑って、他の同僚や生徒たちと楽しげにお喋りして、みんながコハク先生の良さを分かっていて――なのに、嬉しいだけでいられない。

 オレは彼女にとって、たまたま特別になっただけだ。

 裏庭で仔犬の世話をする彼女を見つけたのがオレじゃなかったら、オレはきっとその他大勢と共に、『コハク先生って訛りがあったんですね』などと呑気に言っていた。えくぼができる人なんだなと、ようやく知るほどに遠くにいた。
 たまたま、一番距離が近くなっただけ。それが今は、他のみんなもオレと同じ位置についただけ。
 そうだ。だからこんな気持ちになるのはよそう。オレは教師。基本に沿って導き見守る者。うん。初心に帰ろう。

「イルカ先生!」

 考え事ばかりで書類はほとんど手に付かず、本日中の仕上げを諦めて帰り支度を始めていたところ、職員室に入ってきてオレの隣に立ったコハク先生が声をかけてきた。
 放課後になって、先生は生徒たちから今日の授業での分からないことを復習したいと頼まれ、あれから姿を見なかったが、どうやら今の今まで付き合っていたらしい。オレにではなくコハク先生に頼むあたり、生徒はもうすっかり先生に懐いている。

「あの、もう帰るとですか?」
「ええ。急ぎのものは今はないですし、たまにはさっさと帰ろうかと」

 自分の席の椅子に腰を下ろし、こちらに少しだけ距離を寄せて訊ねてきたので、机の上を片付ける手を止めずに答えると、彼女は自身の顔の両側に手を添えて、壁のようなものを作った。

「これから誰かと会うとか、予定はあるとですか?」
「予定……というか、どこかで食べて帰ろうかなとは思っていましたけど」

 主に金銭的な意味で自炊を心掛けているが、今日は外で食べたい気分だ。
 コハク先生は手の壁を利用して、周囲には聞き取れない、オレだけが分かる声量で、

「じゃあ、一緒にまたラーメンば食べに行ってくれんですか? この前の行ったあのお店」

と誘った。

「一楽ですか?」
「おいしかったけん、また食べたかぁち思っとったけど、一人やと入りづろうて……」

 思い当たる店の名を挙げると、先生は恥ずかしそうに笑った。妙齢の女性が一人でラーメン屋に入るのは抵抗があるらしい。

「オレでいいんですか?」
「え?」
「いや。ほら、一人が無理なら、オレじゃなくても同期の人たちとか……」

 一人で入るのがいやだから誰か誘うなら、オレでなくても構わないはず。最近親しくなった同期の誰かにでも頼めばいいのでは。同じ女性は断るかもしれないが、男性なら。そう考えると、なんだか胸がきゅっと詰まった。

「イルカ先生、友達になってくれるち、言ったやないですか」

 先生の声色は少し強気で、表情から朗らかさは消えてあからさまにムッとし、眉間は寄せられている。

「友達は、一緒にラーメンば食べに行くとに、理由ばいるんね?」

 眉の形は若干変わり、怒りは抜け落ち困った顔で訊ねた。囁くような弱い響きには自信のなさが表れていて、カッと顔に熱が集まる。

「そ、そういうわけじゃないですけど……」
「じゃあよかですよね?」
「……はい」

 頷くほかないと、頭を縦に振るとコハク先生は「やった」と小声で喜んだ。椅子ごと自席へと戻り、机を片付け荷物をまとめていく。オレも無言で片付けを再開し、終われば空いた椅子を机へ収め、職員室に残っていた先生方へ挨拶をし廊下へ出た。

「三日くらい前からもう食べとうて食べとうて……今日は絶対イルカ先生と食べに行こうっち思っとったけん、先に帰っとったらどげんしょうかち思っとったとです」

 以前のように廊下の隅などでこそこそと声を潜めることなく、歩きながら周囲を気にせず堂々と話す姿も珍しいものではなくなった。

「そうだったんですか? 朝にでも誘ってくれたらよかったのに」
「だって朝からラーメンの話するとか、ちょっと重とうないですか?」
「オレは朝からラーメンでも全然いけますけど」

 コハク先生の顔から笑みが抜け、呆気に取られたように真顔になった。

「『いける』て……食べられるちことですか?」
「ええ、はい」

 体調が悪いときは別だが、朝からラーメンでも構わない。味噌や豚骨はやはり重たいが、しょうゆや塩ならそこまで胃にずっしりとこない。考えると腹が鳴りそうだ。早く一楽に行かねば。
 ラーメンに思いを馳せるオレに、先生は眉を寄せて、

「イルカ先生、野菜もちゃんと食べんといかんですよ?」

と、イタズラを行った生徒を窘めるように言った。

「た、食べてますよ」
「やったら今日の朝とお昼はなん食べたとですか?」
「え? 朝は……時間がなかったんで、途中で買ったおにぎりですね。梅とおかかの。昼はおにぎりを買った店でからあげ弁当も買ったので、それを」
「野菜は?」
「……からあげの付け合せのレタス……です」

 常連の弁当屋は安く美味く、肉の量は多く野菜は少ない。彩りに乏しく、茶色の弁当はオレ個人としては好きだが、コハク先生からすれば問題ありらしい。朝食のおにぎりもほぼ炭水化物の塊でしかない。
 よくない食生活だというのは分かっているが、仕事が忙しいとどうにもおろそかになってしまう。忙しいのはオレだけではないので、それを言い訳にすべきでないというのはご尤もだが、やはりラーメンなどに食指が動いてしまう。

「お。今帰りか?」

 廊下の角を曲がったところで、向かいから職員が一人。コハク先生より年上だが、同期に当たる男性だ。声や視線は隣のコハク先生に向けられていて、オレに気づくと軽く頭を下げて一礼を取った。

「そうですけど。ツミキ先生はまだ帰らんと?」
「帰りたいけど、今週末までにやらないといけないことがたくさんあって帰れないんだよ」
「大変やねぇ。明日でよかったら手伝いますけど」

 大袈裟に肩を落としてたっぷりとしたため息をつくツミキ先生は、体の動きがいつも大きい。『オレ、肩が凝らないんですよ。子どもと一緒で無駄な動きが多いからって医者に言われました』と誇らしげに言っていたが、あれは多分誇るところではないと思う。

「じゃあ頼むわ。コハクの分の仕事、残しとくから」
「わざと残さんでくださいよ。それで週末までに終わらんかったら、困るんはツミキ先生やけんね」
「分かってるって。じゃコハク、明日よろしく!」

 呆れた様子のコハク先生の肩をポンと叩いて、ツミキ先生はオレたちが出たばかりの職員室へ向かって歩いていく。

「あれ、絶対残す気でおるやろ……」

 その後ろ姿へ、コハク先生はじとっとした視線を送るが、すぐに「仕方なか人やね」と笑って、職員玄関へと進む。ツミキ先生とのやりとりに別段不快を感じていない。
 若干遅れて、その背を追う形で後につきながら、オレは悶々と考え込んでいた。

 『コハク』って、呼んだよな?

 さきほどツミキ先生は『コハク』と呼び捨てにした。それも慣れた呼び方で、対するコハク先生も呼び捨てされることに抵抗はないようだった。
――オレは以前、同期は大切にすべきだと説いた。年功序列を無視した実力が物を言う忍社会において、年下の上司や年上の部下というものは珍しくない。さまざまな上下がある中で、同じスタート地点に立っていた同期の存在は特別だ。
 相談や愚痴を聞き合い、ときには目標や励みになるし、自身と比較して心折れることもある。よくも悪くも互いに影響を与え刺激し合える立場の相手は少ないから、長い縁になるように関係を築いておいた方がいい。
 だからオレも、まずは同期と打ち解けてみたらどうだと勧めた。コハク先生はそれを強く突っぱねていたが、今となっては彼女と親しいのは同じ新任の同期たちだ。

 だからって、いきなり呼び捨てなんて。

 仲良くなったのはいいことだ。しかし、距離が縮まりすぎていないか? 先生方がグッと距離を詰めたのは、ほんの少し前だ。
 胃の辺りがムカムカしてくる。朝からラーメンを食べても平気だし、これから一楽へ行くというのに、何も食べたくない。
 ツミキ先生の方がコハク先生より年上なので、呼び捨てにすることはおかしいことじゃない。ツミキ先生は同期に対して呼び捨てするタイプだから、堅牢な心の壁が崩れたなら、他の先生方と同じように接するだろう。
 何も不自然なことではないと分かっているのに、呼び捨てするツミキ先生にも呼び捨てされたコハク先生にも、面白くないと感じている。
 だってオレたちは今でも『先生』と敬称をつけて呼び合っている。オレはコハク先生の先輩に当たるし、コハク先生は女性だから呼び捨てするのも抵抗はあった。それにトラブルを引き寄せないためにも、異性との距離感はほどよくとっておくべきだと教えられたこともある。
 コハク先生ももっと注意すべきだ。男はすぐに自分に好意があると勘違いする。自分にだけ笑顔を見せてくれるとか、自分にだけ心を開いてくれているとか、自分だけが彼女のことを知っているとか。

――ちょっと待て。もしかして、今のオレがそうなのか?

 勘違いしてしまう男というのは、ツミキ先生ではなく、オレ自身ではないか?
 全身の血が一気に冷えて、サーッと体温が低下していく感覚に思わず足を止めた。しっかり踏ん張っていないと座り込んでしまいそうなくらい、立っているのがやっとだ。
 そんなつもりはなかった。コハク先生は頼る当てがないからオレを頼っただけだで、それも偶然そうなっただけで、変な意識は持っていないはずだった。ちゃんと戒めるように、勘違いしそうになったら言い聞かせていた。コハク先生にそんなつもりはないと。
 なのに、彼女が他の男に呼び捨てされていることを気にかけるのは、ただの先輩後輩でも同僚でもなく、男と女になっているのでは。

 だめだ。

 今気づいてよかった。勘違いして暴走してしまう前で。大丈夫だったよな? オレ、ツミキ先生につっかかってもいないし、コハク先生にも変なこと言ってないし。振り返ってみても、オレは話に入ってもいなかったし。
 今だったらまだ間に合う。コハク先生に懸想を抱く前に、同僚としての距離感を改めて取れば。
 ならば一楽には行かない方がいい。二人で行ったらアヤメさんにまた揶揄されるだろうし、きっとオレは意識してしまう。仕切り直した意味がなくなっては困る。
 断ろう。断るんだ。意を決して口を開く前に、先を歩いていたコハク先生が振り返った。

「イルカ先生、はよ行きましょ!」

 手招きをしながら笑う彼女の、楽しみで仕方ないといった様子に、遠ざけようとした言葉は飲みこんだ。
 あの声も、あの手も、あの笑顔も、全部が自分に向けられている。
 それを認めてしまって、突き放すことができる男なんているだろうか。追いつくために足を進め彼女の隣につくと、オレたちは歩調を揃えて一楽を目指した。

 暴走どころの話ではない。もうすっかり好きになってしまっている。なんてことだ。気づいたときには、心は引き返せないでいる。
 しかし、どうしたらいいんだ。オレとコハク先生はつい先日友人になったばかりで、今も友達の一人としてラーメンを食べに行くだけだ。先日は味噌を頼んだから今日は別の物を頼もうか、チャーシューも美味しそうだったと、店に着く前から何を注文しようか話をするだけの、ただそれだけの。
 屈託なく向けられる表情で、こんなにも簡単に心臓が駆けるなんて、先生は何一つ気づいていないのに。



4

此の心、君知らず

20200205


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