職員室での朝のミーティングが終わり、各々が担当するクラスへと向かう途中、コハク先生がこっそりとオレに耳打ちした。早朝にいつものように犬塚さん宅へ向かったら、貼り紙を見た人から、引き取りたいと申し出があったと。
「え、本当ですか?」
「はい。掲示板であの子の写真ば見て、ぜひ飼いたいち」
歩く廊下に人の気配はない。生徒たちは先ほど鳴り響いた予鈴を合図に教室で待機して、直に来るであろう担任が来るまで席についているはずだ。
人は見えなくとも、脇に連なる室内からは時折生徒の声が漏れてきて、存在は伝わってくる。彼らに聞き取れぬようにと、コハク先生は声を潜めて続けた。
「明後日の夕方に引き渡しばする予定なんですけど、ついて来てもらえんですか?」
「オレが、ですか?」
「一緒にあの子ば見送ってほしかとです」
無理強いはしないと付け足したが、端がきゅっとわずかに上がった目は絶対に来てほしいと訴えている。
明後日なら、確か校舎内に清掃業者が入る関係で残業はできない。会議も作業もできないとあれば、十分に時間はある。断るのも理由もなかったので「いいですよ」と了承すると、コハク先生の目はゆるやかな山となり、えくぼを見せた。
引き取り先である家族は、両親と二人の子どもの四人家族。特に子どもたちは仔犬がかわいくて仕方ないといった様子で、付けたばかりの名前を呼び、じゃれつく仔犬の相手を楽しそうにしていた。
父母共に実家で犬を飼っていた時期があること、一軒家で犬ものびのび暮らせる環境にあることなど、引き渡し先の条件としては特に問題もなかったため、犬塚さん立会いの下、仔犬は小さな尻尾をパタパタ振りながら引き取られていった。
それからが大変だった。
相手家族が見えなくなったところで振り返ると、コハク先生は声も上げずに号泣していた。
「コハク先生!?」
「ちょっとあんた、鼻水出てるよ」
「う、うぅう……ずみまぜん……」
驚いてどう対処していいか分からないオレと違って、多少びっくりはしているものの犬塚さんは冷静に指摘し、コハク先生はハンカチを取り出すと顔を覆った。
「大丈夫ですか?」
「は、はい……」
「可愛がっていましたからね。別れはつらいでしょう」
先生は親とはぐれて孤独だった仔犬の世話をして、犬塚さんの家に預けて以降もこまめに顔を出し、よい縁に繋がるよう色々と奮闘した。別れに涙するほど、強い情が湧いていても不思議ではない。
泣くほどではないがオレも寂しい気持ちはあった。引き取り先である家族は仔犬を歓迎して、これからは仔犬にとって幸せな毎日が始まるのだろうと想像できたが、簡単に気持ちは切り替えられないものだ。
「あの子は今日ようやく家族に出会えたんだ。笑顔で門出を祝ってやりなっ」
犬塚さんが喝を入れるべく、コハク先生の背をパンと叩いた。女性とはいえ、犬塚さんの腕力は強い。コハク先生は勢いに圧されつんのめり、たたらを踏んで最後には近くの塀に激突した。
夕陽が沈み、暗い帳が完全に落ちる前の、少しだけ世界が青みがかった頃。犬塚家を出たオレたちは、大通りへと足を向けた。
隣を歩くコハク先生は、ハンカチで押さえた鼻をすんと一つ鳴らす。随分歩いたけれど、睫毛はまだ少し濡れている。
「鼻は大丈夫ですか?」
「痛みはもうなかです」
塀に顔を打ち付けた際、先生は真正面から壁にぶつかったので、顔のパーツの中で一番突き出ている鼻に大きなダメージを負った。幸いにもハンカチで鼻辺りを覆っていたため、擦り傷などできず血も出なかった。
「イルカ先生のおかげで、あの子もよか家に引き取られて……本当、お礼ば何回言っても足りんですよ」
「いえいえ。お礼を言われるような大したことはしてないですよ」
「お礼は引き取り先が見つかったときに、っち言うたやなかですか。やけん言いますよ。ありがとうございました」
オレの方で当ては見つけられなかったし、と暗に役に立てていないと言えば、そういえばそんなことも言っただろうかとオレ自身も曖昧な発言を引き出され、コハク先生はハンカチを下ろすと背を少し曲げて頭を傾げた。
「コハク先生が頑張ったからですよ」
「頑張ったですよ。頑張ったけん、その分また頑張って貼り紙全部剥がさんと……」
掲示板のことを思い出して、コハク先生はフーッと長めの息を吐いた。用が済んだ貼り紙は外さなければならない。剥がすときのことを考えてどこに掲示したかはメモしているが、まさに頑張った分また頑張らないといけない数だ。
「また手伝いますよ」
声をかけると、コハク先生は待ってましたとばかりに目を輝かせ、「ありがとうございます」と元気に礼を言う。とても正直な人だ。
掲示板を回る日をいつにするか話しているうちに、目的地に着いた。詰めてもせいぜい六人ほどしか座れない、小さなラーメン屋。店に戸などはなく、はためく白地の短い暖簾や大きな提灯に書かれた『一楽』が目印だ。
「ここですか?」
「はい。美味いんですよ。すいません、二人お願いします」
外から見える丸椅子には先客が二人。暖簾を手で押し上げ声を掛けつつ、空いている端の方に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ。あれ? イルカ先生ってば、もしかしてデートですか?」
カウンターの向こうから顔を見せたのは、店の看板娘のアヤメさん。口元に手を当てオレとコハク先生を交互に見る目は明らかに面白がっている。
「ち、違います。彼女は今年アカデミーに入った講師で、同僚ですよ」
「なぁんだ。ご注文は何にします?」
コハク先生を勘違いに巻き込んではならないときっちり訂正すると、アヤメさんは途端に興味をなくし、すぐに切り替えてにこやかな笑顔で注文を聞いてきた。
「オレは味噌で。コハク先生はどうしますか?」
「えっと……イルカ先生と同じもので」
「はい。味噌二つですね」
アヤメさんが店主のテウチさんへ声をかけ、オレたちにお冷とおしぼりを出したあとはテウチさんの動きに合わせて、親子の息の合った連係で注文された品を作りあげていく。
隣に座っているコハク先生は、顔をあちこちに向けて小さな店内を興味深そうに見回した。店内の壁はうっすら茶けていて、お品書きの紙はどれも年季を感じさせる。それだけこの店が長く続いているという証だ。
「ここが、イルカ先生の行きつけのお店ですか」
「ええ。ちょっと狭いですけど、味は木ノ葉一ですよ」
仔犬の件で何か礼をさせてほしいと言われ、そんなものいらないと遠慮したが食い下がられたため、食事をおごってもらうことで話がつき、オレの好きな店――つまり一楽で夕飯を共にすることになり、こうしてカウンターに並んでいる。
いつも一人か、たまに男の同僚、あるいはナルトを連れて店に入ることがほとんどなので、こうしてコハク先生が隣に腰かけている図はどうにも見慣れず、少し緊張する。
「ラーメンは好きですか?」
「はい。うちの地元もラーメンが有名かとです」
人目があるためか、先生はオレにだけ聞こえるようにと、耳に顔を寄せてくるので距離がグッと近くなり、おしぼりで拭いていた手を止めてしまう。
「そうなんですか」と声が裏返らないように努めて返すオレよりも、初めて来た店の内装が気になるのか壁に貼られているメニューやチラシの類を眺めたあと体を戻し、「楽しみですね」とワクワクしながらおしぼりを手に取った。
先客が一名出て行って、新たに二名の客が来店したあたりで、注文した味噌ラーメンが届いた。長葱に煮玉子、ナルトに海苔にメンマという定番の具が並び、そこから立ち昇る香りが否応なしに食欲をそそる。
「いただきます」
「いただきます」
箸を取りラーメンをすすると、いつもの味が舌を刺激してよりいっそ食が進む。隣のコハク先生も女性とあってペースは遅いものの、オレが見ていることなど気づくことなく夢中で箸を動かしている。どうやら先生も味を気に入ってくれているようで、心なしか横顔は微笑んでいるように見えた。
食べ終わったあとの会計は、コハク先生の厚意に甘えることにした。ここで固辞するより有難く受け入れる方が、お礼する側としても気が楽になる。
「イルカ先生、デートなのに奢らないんですか?」
「だから、そういうんじゃないんですってば!」
デートだとかそんなものではないと分かっているだろうに、アヤメさんはしつこくからかってくる。
コハク先生は戸惑い混じりではあるが、アヤメさんの揶揄を笑って流してくれて、
「色々助けて頂いたお礼なんです」
と説明しながら、自身の財布から青いトレーへ札や小銭を出した。
「お礼にうちのラーメンを選んでくれるなんて、さっすがイルカ先生!」
「はいはい。ごちそうさまでした!」
会計が済むと同時に、暖簾を押し上げて外へ出た。ラーメンを食べている間に外はすっかり暗くなっていて、行き交う人の顔は街灯や店先の明かりで照らされてかろうじて判別できるほど。
「コハク先生のお家はあっちの方でしたよね。途中まで送ります」
先生の家は、ここからだと西の方に歩くことになる。仔犬を犬塚さん宅に預けたあとも今くらいの時間帯に帰路を辿ることになり、忍とはいえど女性を夜一人で帰らせるのは不安で、自宅近くの商店まで送ったので、今日もそうした方がいいだろうと声をかけると、コハク先生は両手を左右に振った。
「えっ、よかですよ。イルカ先生も明日早かでしょ」
「ご馳走になりましたし、腹ごなしにはちょっと歩くくらいがいいんで」
「なら……すみません、お願いします」
遠慮する先生に気にするなと言えば、口角が上がって両頬に小さな窪みができる。どちらともなく進路に向けて、更けていく夜の雑踏にまぎれ、二人並んで歩き出した。
「ラーメンは地元の味が一番ち思っとったけど、あそこのラーメンもバリおいしかったです」
「それはよかった。コハク先生の地元のラーメンも食べてみたいですね」
「おいしかですよ。機会があったら連れて行きたかですけど……」
ぷつりと途切れたので少し待ったが、細い通りを二つほど通り過ぎても続きはなかった。
「先生?」
声をかけると「なんもなかです」と濁してきたが、愛想程度にやんわり笑う表情で言われても、何でもないようには見えない。
しかし不躾に訊ねられるような雰囲気でもない。親しくなって以降、笑顔を見せるようになったコハク先生は、笑うと必ずその頬にえくぼができる。けれど先ほどの笑顔ではできなかった。必ずしもできるものではないが、できるはずのものができない笑顔となると、いかにも作ったような笑みに見えてしまう。
距離が近づいてまだ日も浅い。越えられない線というのはまだたくさんあって、だからオレも何も返せず、二人でただ黙って道を歩き続けた。
宵の口が過ぎて大分経つ里は、飲み屋の提灯の明かりがあちこちで灯り、定食屋の引き戸がガラガラと音を立てる。通りには子どもを除いた男女が、年齢に関係なく目的地に向け、あるいはどこと決めずに歩いている。
「――あれ? コハクやん」
ちょうどすれ違おうとした相手が足を止め、コハク先生の名を呼んだ。
「ね、姉ちゃん……!」
コハク先生が驚いて上擦った声を上げ、目の前の女性を『姉ちゃん』と呼び返した。女性の目がこちらを向く。端の方が少し上がった目は、コハク先生にそっくりだ。
先生と同じ色の髪で編まれた二本のおさげが、猫の尻尾のようにくるんと弧を描いている。おさげなんて文字通り下に垂れたものしか見たことがないが、重力に逆らっているあれは、中に針金でも入っているのだろうか。
「なんね、あんたもしかしてデート?」
「ち、ちがっ! そげんとやなか!」
にやついた表情の女性の言葉に、コハク先生は力いっぱい否定した。事実そうなのだが、そこまではっきり否定されると気まずい。
「コハク先生のお姉さんですか? 初めまして。コハク先生の同僚の、うみのイルカです」
先生の身内ならばと挨拶をすると、
「あら! あんたがイルカ先生!?」
と大きな反応を示し、先生のお姉さんは視線を上下させてオレをジロジロと見た。先生に似ている目だったからなのか、背中に冷や汗がぶわっと噴き出た。
なんだ、何かおかしな格好をしているだろうか。目を落として自分の服装などを確認してみるが、ごく一般的な中忍の格好だ。
もしかしてさっき一楽で食べたときにラーメンのスープがどこかに跳ねて染みになっているのか――いや、特に何も変色はしていない。一ヶ所だけポケットの端がほつれていたので、あとで家に帰ったら繕っておこう。
「初めまして。コハクの姉のシンコです。いつも妹がお世話になっちょって」
「あ、いえ。こちらこそ」
お姉さんが『シンコ』と名乗ったあと頭を下げるので、オレも慌てて背を丸めた。『なっちょって』というのは、文脈からして『なりまして』みたいなものなのだろうけれど、どことなくあどけなさのある響きだ。
「コハク。ちょっとお茶ば
「なんで私が」
シンコさんが妹であるコハク先生に、まるで命を告げる上官のように頼むと、先生はムッとした表情で明らかな拒否を返した。腕を組む反抗的な態度は初めて見る。
突っぱねるコハク先生に、シンコさんは両手を腰に当て、長い息を吐きながら首を左右に振った。
「あんたはお客さんがおるとに、お茶も出さんとね?」
「お茶て、ここは家やないやん!」
「うるさかねぇ。いいけん、はよ行かんね!」
声を荒げる先生に、シンコさんは追い払う仕草で早く行けと急かす。コハク先生は不機嫌な表情を見せつつも、シンコさんの頼み――というか命令に従って、近場の商店を目指して渋々オレの隣から離れていった。
いきなり初対面の女性と二人で残され、指の先が少し強張る。シンコさんがお茶を買ってこいと先生に命じたのは、客がどうとかそういうことではなく、単に妹を追い払いたかっただけだ。そんなこと、忍や大人でなくとも分かる。
「コハクがアカデミーの講師になるち聞いたとき、大丈夫か心配しとったとですよ」
そう切り出したシンコさんの声は、コハク先生と似ている高音で、なんだか妙な違和感を覚えた。顔も似ているし声も似ているけれどコハク先生ではない。それがどうにも不思議で、けれど親しみも感じ、何を話すのかと身構えていた緊張は少しずつ解けていく。
「事情は聞いています。訛りを知られたくないそうで」
「そうなんよ。私も『何言っとるか分からん』てよう馬鹿にされたりしとったけど、うるさかねーちしか思わんかったけん。あの子も私と同じやろっち思いよったけど、違ったっちゃねぇ」
いくら外見が似ている姉妹でも、中身はそうでもないらしい。たしかにシンコさんはコハク先生と違って、さっきから訛りを隠すような素振りは一切見せない。
「どこで働いても結局は喋らんといかんでしょ? アカデミーやったら生徒も先生も、保護者もおるし、話す相手も多いけん。最初ん頃は『潜入任務みたいなもんて思う』ち言いよったけど、すぐに『胃の痛かぁ』て、家ば出るとが毎日つらかごつあってくさ」
そのときのコハク先生を思い出しているのか、シンコさんの視線は地面に落ちた。
先生は毎日胃痛を共にアカデミーで業務をこなしていたのか。ボロを出さないよう神経を使うのはたしかに潜入任務に似ているが、先生はそれをいつまで続ける気だったのだろう。上からの命で再び別の部隊へ転属することもあるが、長く務める人は何十年とアカデミーに身を置き続ける。転属するよりも先に、胃に穴が空きそうだ。
「ばってん、最近はそうでもなかとよ。『隣の先生ばよか先生やったー』っち、毎日その先生の話ばすると」
シンコさんの顔が上がって、にこっと微笑んだ。
『隣の先生』というのは、もしかしてオレのことだろうか。確定ではないのに、考えると顔に熱が集まる。
「本当にありがとうございました」
両手を体の前で合わせ、先ほどよりもずっと深く、シンコさんは頭を下げた。二つのおさげは揺れるが、やはり先端はツンと上を向いている。
「そんな……オレは別に、何も……」
オレは彼女に、特別何かをしたわけじゃない。犬の件に関しては、相手が彼女でなくとも手伝ったろうし、訛りのこともそうだ。コハク先生じゃなくても、きっとオレは同じ振る舞いをした。
何かをしてやったわけじゃない。礼を言われるほどのことなんて、何もしていないのに。
戸惑うオレに対し、シンコさんは頭を上げたあと、喉を鳴らすように笑った。
「何もなかったんが、よかったとよ。訛っとるっち知っとっても、先生が何も変わらんでおってくれたけん、コハクも安心したとです」
そう言われたら、もしかしたらそうなのかもしれないと、途端に思えてしまった。
オレは親をすでに亡くしているため、それを知って善意で気遣ってくれる人に対し、気を遣わせてしまったことを負い目に感じるときがある。
例えば昔、誕生日に何を貰ったや、親が修業に付き合ってくれたと話が盛り上がっているときに、ふとオレに気づいた友人が不自然に話の流れを変えた際は、何とも言えない息苦しさがあった。別にいいのに、そんな風に気遣われると、余計にみじめな気持ちになることも少なくなかった。
コハク先生も似た経験をしてきたのかもしれない。具体的には分からないけれど、なんとなく。オレと同じで、変わらないでいてくれることの安らぎを知っている人なのだろう。
「ご面倒かけますけど、これからも妹ばよろしくお願いします」
向けられた双眸の真っ直ぐさに身が締まる。
「もちろんです」
そう返すと、紅を引いた唇は横に引かれ笑みを作った。コハク先生のようにえくぼはできなかったが、屈託のない笑顔はそっくりだ。
「公私共に、ですよ」
「……は?」
「――イルカ先生、お茶!」
聞き返すより前に、オレとシンコさんの間にずいっと手が現れた。割って入ったコハク先生は軽く息切れしていて、近くの店で買ったらしい蓋つきの容器に入ったお茶をオレに突きつけつつも、顔は姉の方へ向いている。
「姉ちゃん、イルカ先生に変なかこつ言うとらんやろうね?」
「なーんも言っとらんよ。姉ちゃんとして、妹とこれからも仲良くしてやってくださーい、ち言うただけくさ。ね? イルカ先生?」
「ええ、まあ、はい」
「ね」と首を傾げつつ同意を求められ、実際にその通りではあったので肯定するが、コハク先生の目は訝しげにオレとシンコさんを行き来して、あまり納得はしていないようだ。
「なんね、私にはなかと?」
強い視線にたじろぐオレと違い、シンコさんは屁でもないとばかりに気にした様子はなく、自分の分はないのかと不満げに先生に訊ねた。
「姉ちゃんは客じゃなかもん」
「うわぁ、こすかねぇあんた」
「人ばこき使うくせによう言うばい」
『こすかねぇ』の意味は分からなかったが、コハク先生の態度を見るに間違っても褒め言葉はないらしく、さきほどから吊り上げたままの眉はいまだになだらかにはならない。
「ま、よかたい。私は今から友達と飲み会やし。じゃあねぇ」
シンコさんはにっこり笑ってそう言うと、手を振って人混みの中へ進み、そのうちその背や頭も埋もれて見えなくなった。
台風や嵐というほどではないけれど、サッと現れてスッと去っていく突風みたいな人だったなと一人振り返っていると、「イルカ先生」とすぐ横から声をかけられた。
「本当に何も言われんかったですか? なんか……こう、変なかこつ……」
コハク先生は目を泳がせつつこちらの顔色を窺い、さきほど姉に問うたことをオレにも訊ねる。
「変なことなんて言われてませんよ。先生が訛りを気にしてアカデミーで苦労しているのを心配されていて、よろしくと頼まれただけです。いいお姉さんですね」
正直に、コハク先生が不在の間のやりとりを説明すると、先生は「そうですか」とホッと胸を撫で下ろした。
そんなに心配するほど、シンコさんは変なことを言いそうな人なのだろうか。少し話しただけではあるが、妹である先生と似ていてお喋りなタイプなのかもしれないが、まあ女性はみんなそんなものだろうし。
「ああ、でも『公私共に』って言われたんですけど……あれですか? 訛りを気にせず話せる友人に、って感じですかね」
訛りをひた隠しにする先生はとにかく近寄りがたいし、会話も最低限のみ。絶対ではないが、これで友人ができる確率などほぼゼロだ。オレだって、彼女の秘密を知らなければこうして一緒にラーメンを食べに行かなかった。
だとしたら失礼な話だが、コハク先生は友人が少ないのかもしれない。なにせ訛りがバレないように世間話すらしようとしないのだから、親しくなるきっかけを掴もうにも難しい。
姉のシンコさんが妹の交友を心配しているというのも、身内であれば多少はあるだろう。訛りを隠すあまり人を遠ざけている状況で、訛りを打ち明けているオレという存在は、姉から見れば貴重なのかも。
「姉ちゃん、そげんこと言わんでよかとに……!」
コハク先生は頭に両手をやると、その場でしゃがみこんでしまった。往来の中心から外れているとはいえ、ここは人が行き交う道であることには変わりない。「先生」と名を呼んで、立った方がいいと促すと素直に従い、曲げていた膝は伸びたが、背は少し猫背で俯きがちだ。
手は頭から顔へと下りて、鼻や口元を覆う。見えている目元は、また勝気そうな印象からズレている。
ああこの目は、初めて顔を合わせたとき以来だ。そう思って、今はもう気づいている違和感に再び囚われていると、一度深く閉じた瞼が上がり、オレの視線とが結ばれた。
「友達に、なってくれますか?」
精一杯奮われた勇気を前に、断ることなどできようか。彼女の姉へ告げたように「もちろんですよ」と返すと、見慣れた笑顔にオレの頬も緩んだ。見慣れていることが、なんだか嬉しかった。
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