なんとか身を起こしたものの、コハク先生は立ち上がる気がないのか、地に座ったまま鼻をぐずっと鳴らす。泣かせてしまったのかと肝が冷えたが、オレが泣かせた要素はあるだろうかと振り返って、いや特にないはずだからオレのせいではないと思う。けれど潤んだ瞳でスンスンと鼻を鳴らされると、必要のない罪悪感が湧いてくる。
「えっと……この犬、コハク先生の犬ですか?」
目がチカチカするボールで遊んでいた仔犬は、コハク先生の膝元に頭を摺り寄せ、置かれている手を甘く噛む。
「……いえ。違います。親犬とはぐれて、この辺、棲みついてる、みたいで」
犬の好きなようにさせつつ、コハク先生は仔犬は自身の飼い犬ではなく野良だと、ぽつぽつと説明した。どこか片言の調子なのは、意図的なのだろう。
「そうですか……。しかし、ここは学校ですから。忍犬以外の犬の管理は許可されていませんし、ましてや野良犬に餌付けするのはまずいです」
アカデミーは里の公的機関であり、何事も書面での手続きや許可がいる。
忍犬や忍鳥使いの一族が入学する際も、必ず手続きがいる。ただそれは『申請された』『許可した』という形が必要であって、手続きさえすれば例外がない限り却下されることはない。
また、そういった生徒以外にも、共に任務を遂行する大事なパートナーへの知識を深めるために、動物たちに関する授業も行う。そのためアカデミーでも数頭の忍犬の面倒を見ているが、もちそんそれも手続きを経てアカデミーで飼育されている。
家で飼っている犬を無断で学校に連れて来ているだけでも注意を受けるのに、野良犬であるなら尚悪い。野良なら予防接種もされていないだろう。万が一、生徒を噛む事故などが起きればどうなるか。命の危険だってある。
「そう……ですよね……」
コハク先生は仔犬に両手を添え、軽く持ち上げて自分の腿の上に乗せた。細い指を食む姿は、無邪気そのもの。体は小さいが、すでに耳はピンと立ち牙もしっかり生えている。あと数ヵ月もすれば成犬と変わらぬ体格にまで育つだろう。
「連れて帰りたい、ですが、うち、飼えないので」
手はすっぽり犬の頭を包み、優しく撫でる。仔犬も気持ちよさそうに目を閉じて、時折その手にじゃれつくのも忘れない。
「知り合いはみんな、他の生き物、飼ってたり、生き物自体、飼えなくて。親犬が分からないと、忍犬の素質、あるかも、分からないから、忍犬育成施設にも頼めない、ですし」
慣れない言葉を話すかのように、彼女の口調はなめらかではないが、内容はしっかり伝わった。
自宅で飼えないため知人に声をかけたが断られた。忍犬という特殊な犬を育成する施設も、基本的に血統を重んじる傾向がある。彼女なりに手を尽くしたが仔犬の引き取り先が見つからず、仕方なくこっそり学校で面倒を見続けている、というのが現状のようだ。
暗い顔色は、好き好んでここで面倒を見ているわけではないと弱く訴えている。
「それなら、オレの方で飼ってくれる人がいないか、あたってみましょうか?」
「え……よかと――いいん、ですか?」
目線を合わせるべく屈んで提案すると、コハク先生は驚いて目を見張り、言い直しつつ問い返した。
「ええ。オレもアパート住まいで飼えませんし、コハク先生の方でもう当てがないなら、そうするのが一番でしょう」
コハク先生の知人がだめなら、他をあたればいい。自慢じゃないが、教師という職についていることもあってか顔は広い方だ。在校生だけではなく、卒業生もその保護者も、今でも交流がある人はいる。
もしオレの知人にも断られ続けたなら、その知人らにも協力してもらえばいい。引き取ってもらえずとも、引き取り先を探すくらいなら手伝ってもらえるはずだ。
「どちらにしても、このままここで面倒を見続けるなんてできませんから」
仔犬は舌を出し、荒い息遣いで尻尾を振り続けている。元気いっぱいで愛くるしいが、規則は規則だ。校長や主任辺りに見つかっていたら、きっと彼女はきつく咎められ、何らかの処分もあっただろう。それくらい、アカデミー内で許可なく犬を飼ってはならないし、校内に野良犬が棲みつくこともあってはならない。
引き取り先を探すこともそうだが、まずはこの仔犬を一時的にでも預かってもらえる人を探さなければ。
「いいよ。そういうことなら、うちで預かるよ」
狼のように鋭い双眸の女性の、紫の紅で色を付けた唇が弧を描いた。両頬の逆三角形の赤い化粧はさながら牙のようで、彼女たち一族のトレードマークでもある。
「すみません。急なお願いで」
「イルカ先生にはうちの息子が世話になったからね。このまま野良だったらこの子もかわいそうだ」
気にするなと、昨年まで受け持っていた生徒の母親は、コハク先生の腕から仔犬を受け取り、体の部位を細かくチェックし、一通り健康に異常がないかなど確認を始める。
犬塚ツメさんは、ついこの間卒業していった犬塚キバの保護者として数年前から面識があった。犬塚一族は代々続く忍犬使いの家系で、預け先の当てとしてまっさきに浮かんだ。
「詳しく調べなきゃ分からないけど、どうも普通の子だね。忍犬じゃない」
忍犬使いだから分かるのか、ツメさんは仔犬を腕に抱え直すとオレたちに言った。どこで区別しているのか分からないが、その道のプロのツメさんが言うなら間違いないだろう。
犬塚さん宅では、いわゆるペットの犬は飼育していない。忍犬の世話や特訓で忙しいため、愛玩目的の犬を飼う余裕はないと。けれど一時的に預かるくらいなら構わないと言ってくれたのは、相棒の犬を半身のごとく思うほど、犬に対する情が深い一族だからに違いない。
「飼ってくれる人、必ず探します。できるだけ早く。だから犬塚さん、よろしくお願いします」
コハク先生は姿勢を正し、ツメさんに深く頭を下げた。
「こっちでも飼ってくれそうな人を探してみるよ。これだけ可愛いんだ。きっと引き取ってくれる先もある」
急な訪問に加え犬を預かってほしいと唐突に頼んでいるにも関わらず、犬塚さんは嫌な顔一つしない。この家の人になら安心して任せられる。コハク先生は再度礼をして、ツメさんの腕の中の仔犬の頭を撫でた。
「いい子にしとってね」
甘えているのか、一時的な別れを悟っているのか、仔犬はクンクンと鳴く。全体的に黒い毛並みだが、目の周りはうっすらと赤毛で、それが何とも庇護欲を掻きたてる顔立ちに仕上げている。
離れ難いのをぐっと乗り越え、コハク先生は手を引き、オレたちは犬塚家を後にした。
陽は完全に落ち切り、空に星が瞬くほど辺りは暗くなっている。犬塚家の辺りはあまり来たことがないというので、自宅までの道が分かるところまで、コハク先生を送ることにした。
「イルカ先生、本当にありがとうございます」
「いえいえ。もうお礼はいいですから」
仔犬を預けてからずっと、コハク先生はオレにお礼を言いっ放しだ。少し黙ったかと思えば、また「ありがとうございました」や「助かりました」を繰り返している。
言いたくて堪らないからつい言ってしまう、といった様子に悪い気はしないが、何度も礼を言われ続けるのは困る。
オレとしては大したことはしていないのに、神様仏様といった具合でぺこぺこ頭を下げられるのはちょっと違うと思う。すれ違った人の中には、何事かとオレたちを見やる人もいて、それもまた恥ずかしい。
また口を閉じて黙っているのは、お礼を繰り返すための充填時間、といったところだろうか。彼女に悪意がないだけに、無理に止めろと制するのも躊躇われる。どうしたものか。
「どげんかせんとって、思ってはおったとです。いつまでもあそこで面倒ば見るわけにはいかんって。そいばってん、引き取り先が全然見つからんくて……」
口から放たれたのはお礼ではなかった。理解できる単語もあったが、やはり何を言っているのか正確には分からない。抱えていた思いを一気に吐露しているせいか、少し早口でもあったから余計にだ。
「イルカ先生?」
「あ、いえ」
反応のないオレを不審に思ったらしく、隣を歩くコハク先生が不思議そうにこちらを向いた。オレの内心を読んだのか、ハッと何かに気づいた様子を見せると、すぐに表情を曇らせ視線を落とす。
「ご、ごめんなさい。言ってること、分からんですよね……」
「いや、なんとなく分かります。引き取り先が見つからなくて困っていたんですよね?」
間違っていないか一応確かめてみると、コハク先生は頭を縦に振った。
「困ったことがあったら何でも相談してください。業務のことじゃなくても、オレでできることがあれば手を貸します」
今までもコハク先生はアカデミーでの仕事に関することで、分からないことや困りごとがあった際にはすぐに報告し、相談を仰いでいた。そのため周りを巻き込むようなミスを起こしたことがない。
けれど今回の仔犬の件は、オレが気づかなければ大問題になり兼ねなかった。指導係のオレの責任がどうとかはこの際どうでもいいが、生徒に害が及ぶことは決してあってはならない。そういう可能性も考えて、できればコハク先生から打ち明けてほしかった。
そもそも困っているなら、一人で抱え込まないで気軽に相談してほしい。冴えた答えは出せないかもしれないけれど、一緒に最善の手を考えることはできる。犬を引き取ることはできないけれど、一時的に預かってくれる人を紹介することができたように、何かしらの手助けはできるものだ。
コハク先生の眉間がぐっと寄って浅い皺ができ、痛ましい顔で小さく「はい」と返した。
「その……相談できなかったのは、もしかして、あんまりアレコレ喋りたくなかったから、でしょうか?」
「……はい」
踏み込んでいいものか迷いつつ、彼女の様子を見ながらゆっくり問うと、さきほどよりももっと小さな返事があった。唇の動きから声を発したのだろうと判断した程度に、ほぼ無音に近い。
「訛りを気にされているんですか?」
思い切って訊ねると、コハク先生は一度ぎゅっと口を結んだあと、
「変、でしょう?」
と、自嘲めいた微笑みを添えて言った。
否定しないということは、やはりあの独特の言葉使いは、オレの知らぬ土地の訛りらしい。
「変というか……珍しくはありますけど。訛りなんてどうってことないですよ。忍の里には珍しい人がたくさんいますから」
木ノ葉隠れの里は忍の里。チャクラを用いて火を噴いたり水を出したり、雷を鳴らして地面を隆起させ風を起こす者がそこら中を駆けている。
里外からやってきて初めて見た忍術に驚く人も多いが、生まれも育ちも木ノ葉だったオレにとっては珍しいものではないし、自身も忍であるから日常風景の一つでしかない。
そんなオレですら、珍しいと感じる人はよく見る。長く伸ばした髭を服装代わりにしている人。昼と夜とでは髪の色が違う人。あらゆる説明書を背中の背嚢にぎっしり詰めている人。歯の高さが一尺ほどもある下駄を履いている人。常に鏡の中の自分と対話している人。珍しいと感じた人のほとんどが忍者で、一族の特性や習わしなどが影響しているらしい。
コハク先生の独特の訛りも、珍しいものではあるけれど変とまでは思わない。珍しいだけで害を与えるでもないのだから、口を噤む必要などない。
「イルカ先生みたいに、よかごて思う人ばっかりじゃなかとですよ」
「『よかごて』……?」
「『好意的に』とか、そういうことです」
初めて聞く言葉だったので当然ながら意味が分からなかったが、すぐにコハク先生が意味を教えてくれた。なるほど。『好意的に思ってくれる人ばかりじゃなかった』ということか。
「下忍の頃、ある任務ば受けたとですよ。依頼人には美人の娘さんがおって、その子から言われたとです。『変な喋り方』ち」
コハク先生は足下に転がっていた白い石を、歩を進めると同時にポンと前の方へ蹴った。街灯や店先の明かりが届きにくい道でも、石は夜の星のように浮き上がって見える。
「そいまでは、色々言うてくる人もおったんですけど、そこまで気にせんかったとです。ばってん、あげん綺麗な人から口ば開くたんびに馬鹿にされよって、自分の喋り方ばおかしかもんなんやっち気づいたら、急に恥ずかしかごてなって……」
手を組んではずらし、また組んではずらしを続け、コハク先生の手は忙しく動く。
聞き慣れない言葉がいくつも出てきて繋がって、なんとか理解しようと思考を疾く巡らせた。任務先の娘さんに、変な喋り方と言われた。色々言ってくる人もいたけど気にしなかった? 『ばってん』? なんだろうか。とにかく、馬鹿に、された? 『恥ずかしかごて』というのは、さっきの『よかごて』の応用でいけば、えーと、恥ずかしい、だった?
「今も、何ば言いよるか分かりんしゃれんでしょ?」
振動の多い声が、オレの思考を読み取ったかのようにピタリと言い当てた。きっと、このやりとりを何回も重ねてきたのだろう。オレのように、何と言っているのかと考えるせいで黙ってしまう相手が山程いたのかもしれない。
「正直、はっきりとは分かりません。でも、コハク先生がその人の心無い言葉で傷ついたことは分かります」
彼女の心の傷がどれほど深いかは、アカデミーでの言動を思えば分かる。
業務に関係のない私語をしないのも、誘いを全て断っているのも、喋る機会を減らして訛りが出てくる可能性を少しでも減らすため。誰に対しても敬語なのは、訛りを隠すのにちょうどいいから。
そうやって毎日、言葉に注意を払いながら過ごしていたら疲れるだろう。オレもお偉方に対しては言葉を選んで喋っているときは疲れる。それを一日中ずっと。神経を尖らせ続けているなら、笑みの一つも零れないのも当然だ。
何を言っているのかなんて分からなくても、その人が伝えたいことを知る方法はいくらでもある。
ガタガタと軋む戸のような震える声は恐れ。
重ねた両手を何度も握り直すのは不安。
目がきらきら輝いているのは涙――
「えっ!? コハク先生? えっ、あれ? す、すみません。全部分からないわけじゃないんですよ? たまに分からない言葉があって、話の流れは大体掴めていますし。変なんて思ってませんから。ほんとに!」
泣かせてしまったのかと、焦って誤解を解くべくフォローすると、コハク先生は目元に手の甲を当てて頭を大きく横に振った。
「違うと。イルカ先生、バリ優しかけん……」
「バリ?」
「……『すごく』。すごく、優しいから……」
手で拭った目尻から涙の粒はなくなったが、反射する水面のようにきらきら潤んだまま。しかし強張っていた表情はやわらかく解かれている。
「イルカ先生、本当にありがとうございました」
両手を揃え背筋を伸ばしたまま体を曲げ頭を垂れる。今までで一番深い礼だ。
「頭を上げてください。それにお礼を言うのは早いですよ。まだ貰い手は見つかってませんから。お礼はまた、そのときに」
今はただ預け先が見つかっただけで、根本的な問題は解決していない。引き取り先が決まって、仔犬を引き渡す。それでやっとこの件は解決と言える。
コハク先生はゆっくり体を戻し、曲げていた間に溜まってしまったような息を吐く。凍りつくような冬の時分であったなら、白く濃く色づいていたと思わせるほど、質量を感じた。
「はい」
弧を描く口に押されて、彼女の両頬に一つ丸いくぼみができる。自分のおかしさを自嘲する表情は、実年齢よりもずっと幼く見える。
コハク先生は笑うとえくぼができる人だと、オレはこの日初めて知った。
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