語ると恋に落ちる | ナノ
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 仔犬の引き取り手探しが始まってすぐ、近場の知り合いに声をかけた。
 一番近いのは主な職場でもあるアカデミーだが、事情を話しているうちに『コハク先生が密かに校内で犬の面倒を見ていた』ということが発覚してしまう恐れもあったため、なるべくアカデミーから縁の薄い人に絞った。
 別部隊や別の職場で働いている友人知人、卒業していった生徒やその保護者とも顔を合わせる機会があったら話をしているが、なかなか飼いたいと言ってくれる人はいない。
 ただ、引き取りはできないが、協力してくれるという人は増えた。犬の飼い主探しには人海戦術は効果的だろう。知り合いの知り合いの、その知り合いまで当たれば、何とか見つかるかもしれない。



 あの一件以来、オレとコハク先生関係は少しだけ変わった。
 今でもコハク先生は、業務関すること以外の無駄なお喋りはせず、生徒に対してもかしこまった口調で話すし、誘われる飲み会は丁重に断っている。
 ただ、例えば資料室や準備室などでオレと二人きりになれば、普段は貝のように閉じている先生の口はよく開いた。

「今朝も犬塚さんのお家に行ったとですけど、忍犬て本当にすごかですね。口で命令しとらんとに、犬塚さんの目の動きとか他の犬の動きば見て、自分で判断しよっとですよ。やっぱり忍犬やけん、元から頭がよかっちゃろか? 犬塚さんの教え方もうまいっちゃろうねぇ」

 授業がない昼前。第三倉庫の中で、明日の授業で使う巻き藁の準備や的の張り替えをしつつ、コハク先生は今朝の光景を思い出しているのか、忍犬と忍犬使いの関係にいかに感心したかを語っている。
 訛りがあるとはいえ、イントネーションと話の流れで、なんとなく言いたいことは分かるようになった。もちろん分からない言葉もたまに出てくるが、訊ねればすぐに説明してくれる。
 朗々と回る口と同じくらい手は動いていて、喋りながらあんなにもスムーズに作業を進められるなんて、女性の脳の作りは男のそれと違うというのはこういうことかと、オレは手を動かすことに集中して相槌を打つばかりだ。
 コハク先生は仔犬を預けた犬塚さん宅に、あれから毎日のように通っている。最初は朝晩の仔犬の散歩のために顔を出していて、そのうち犬塚さんたちの手伝いをこなすようになった。
 忍犬は愛玩用の犬と勝手が違う。忍犬使いではないコハク先生がやれるのは、餌の用意やブラッシングくらいなもので、一度犬を洗うのを手伝ったらびしょ濡れになったと明るく笑った。

「この間はキバくんにも会ったとですよ。イルカ先生の名前ば出したら、『ゲッ』っち嫌な顔して、犬塚さんに怒られて」
「まあ……キバはよく叱り飛ばしていましたからね……」

 すぐに火がつく性格のキバは、似たようなナルトと喧嘩を始めることも多かった。授業内容に興味がなければ放棄して居眠りを始めるし、説明を終える前に勝手に動き始めるし、騒がしい問題児の一人だった。
 そんな頭の痛い生徒も犬に関しては誠実で、そこはキバの美点でもある。相棒に対する優しさや愛情は本物で、それがもう少し周りの友人にも向けばいいと、在学中から思っていた。
 今はどうだろうか。上忍師に迷惑をかけてはいないだろうか。アカデミーに戻って来ないところを見ると、チームメイトと共に上手くやっていると思いたい。

「赤丸もあの子と友達ばなってくれとって、あの子も楽しかごたあった。あのまま裏庭で面倒見とっても長く構ってやれんかったし、寂しか思いばさせてしまったやろうし……」

 常にキバと行動を共にしていた犬の赤丸は、歳が近いからか良い遊び相手になってくれているようだ。犬は兄弟でじゃれ合いながら、社会性を学んでいく。人にしろ犬にしろ、幼い頃からの他者との関わりが、その後の自我の形成に影響してくる。
 コハク先生が可愛がっているとはいえ、先生が業務中は一匹でその帰りを待つしかない。仔犬の気持ちは分からないが、もし自分だったらと考えると、構われ遊んでもらった楽しい記憶があるだけに、寂しいという感情は自覚なく湧いてきそうだ。

「あの子の家族になってくれる人、はよ探さんと――」

 改めて意気込もうとした、そのとき。コハク先生はピタリと止めて、自身の上下の唇をぴたりとくっつけた。

「イルカ先生、います?」

 声がかかると同時に、開けていた倉庫の出入り口からひょっこりと男性教師が顔を出した。突然現れた同僚に驚き、呼ばれたオレの手は止まったが、コハク先生は無言で作業を続けている。

「どうかしましたか?」
「今日の放課後の会議を明日に延期したいんですけど、予定とか大丈夫ですか?」

 訊ねられて、明日のスケジュールを頭の中で確認してみても何の予定もない。恋人もいない独身男に、優先したい約束など皆無だ。

「明日は特に何もありませんから、オレは構いませんよ」
「助かりました。じゃ、明日ってことで」

 話は終わったとばかりに、男性職員は去って行く。足音が遠くなり、気配もなくなったところで、コハク先生はまるでずっと呼吸を止めていたかのように、長めの息をついた。

「よく人が来るのが分かりましたね」
「あんとき校舎裏でイルカ先生に見つかってしもうてから、注意しよっとですよ」

 微笑む顔は、さきほどまで表情を失くしていたとは思えないほど明るく華やぐ。

「やけど感知は得意やないけん、いっそみんなに鈴ばつけてほしかぁ。音が鳴ったらすぐ分かるやないですか」

 両頬にえくぼを携えながら、冗談とも本気とも取れそうなことを言う彼女に、「曲がりなりにも忍者ですから鈴はつけませんよ」ととりあえずで返した。



――仔犬を犬塚家に預けた次の日。朝礼前に職員室で顔を合わせた際は、いつもの表情が変わらないコハク先生だった。
 周りには多くの教職員が居たため、訛りを気にしている彼女ならそうだろうと想定はしていたが、それが素ではなく、無理をしていると知ったあとだと、どうも気にかけてしまう。
 だから、授業をいくつか終えて二人だけで作業を始めたとき。彼女はそのときも訛りが出ないように努めていたので、

「誰も居ないんですし、訛りなんて気にしなくていいですよ」

と声をかけると、コハク先生は迷い躊躇ったあと「よかとですか?」とこちらを窺い、オレは構わないと返した。
 それからというもの、コハク先生はオレと二人の場合に限り、訛りを解禁している。気がかりが取り払われたこともあり感情も表に出せるようになったらしく、今までの印象は本当にがらりと変わった。
 寡黙な人だと思っていたが実際はかなりお喋りな人のようで、別人ではないかと驚くほどに、実際の人柄は気さくで明るい。訛りの影響もあるからだろうか、とても親しみやすく、笑顔はどことなく人懐っこさを覚える。
 放課後に二人で授業の振り返りなどすることがあるのだが、以前は長く喋ることを避けるためか言葉数は多くなかった。
 しかし訛りが解禁されて以降は、気づいたことや思ったこと、次に生かせることなど積極的に挙げていき、生徒に対しどういう指導をしていけばいいのかと、彼女なりに熱く語ったりもする。
 この姿を見れば、『真面目』で、『礼儀正しく』、『仕事熱心』という彼女のイメージは、今までのような後ろ向きなものではなく、前向きな良い意味に変わるだろう。
 ただ、この姿を見られるのは今のところオレ一人なので、稲荷コハクという新任講師への印象が一新される予定はない。



 備品の準備が終わる頃、ちょうど昼休みを告げる鐘が鳴った。校舎は一気に騒がしくなり、そこかしこで生徒の元気な声が飛び交っている。
 オレたちも午後の授業に備えて昼食を済ませようと、職員室へ向かう途中で生徒に呼び止められた。

「イルカ先生!」

 廊下の奥からパタパタと走り寄ってきたのは、今年の新入生たち。オレの腰の高さか、それよりも届かないほどの低い背丈が周りを囲み、「先生」と各々の声でオレを呼ぶ。

「こら! 廊下は走るんじゃない」
「先生、大変なの!」
「事件が起きた!」
「大変? 事件? 何かあったのか?」

 まだ幼い生徒たちの慌てた様子と『大変』や『事件』という単語に、否応がなしに胸がざわつく。

「ミイちゃんがね、お弁当のお箸を忘れちゃったの」

 自身より一回り小柄で困った様子の少女の手を引いた、髪を二つに分けて結んでいる女子生徒の説明に、うっかりよろけてしまいそうになった。
 いざ弁当を食べようとして箸がないとなるとまあ大変ではあるが、想定よりずっと可愛い事件だった。何にしても、大したことではなくてホッとする。

「なんだ、そんなことか。先生が予備の割り箸を持ってるから、それを使えばいい」
「ミイちゃんだけじゃなくて、ユウくんと、マイちゃんと、アイも」
「みんな忘れたのか?」

 一人だけかと思いきや、一緒にやってきた男子や女子も箸がないらしい。わざとではないにしても、一度に四人も箸を忘れるなんてなかなかない事態だ。これは確かに『事件』ではあるかもしれない。
 まあ、一人でも四人でも、問題ない――

「あの、イルカ先生」

 オレと、オレを囲む子どもたちから少し離れた位置で、成り行きを見守っていたコハク先生が割って入った。

「イルカ先生、この前のお昼のときに、予備の割り箸がなくなったと、仰っていましたよ」
「えっ」

 言われて、そういえば……と振り返る。そうだ。引き出しにいつも入れていた割り箸がなくなったので、念のために補充しておかなければなと口にした覚えがある。そのとき、隣の席にはコハク先生も居た。
 しまったな。昼食は弁当屋で買ってきたから一膳ならあるが、必要なのは四人分だし、その一膳をあげるとオレが食べられなくなる。
 不安げな様子で見上げている生徒たちや、もうとっくに食べ終わって校庭を目指し教室を出て行く生徒が目に入り焦る。早くしないと、この子たちが昼食を済ませられない。

「お忘れになったのは、四人でお間違いないでしょうか?」

 コハク先生が膝を折って、生徒たちに訊ねる。髪を二つに分けた――恐らくクラスの委員長だろう――女子生徒が、「はい」と強張った声で返事をした。

「でしたら、私が事務の先生方にお話しして、四膳頂いて参ります。事務室になら、恐らく割り箸は常備しておりますので。イルカ先生、先に皆さんを教室へお連れになってください」

 ハキハキした口調が、自分が事務室へ取りに向かうことを提案する。そうだ、事務室ならあるはずだ。オレも何度か世話になった。

「分かりました。すみません、よろしくお願いします」

 お願いすると、コハク先生は一度頷いて、事務室の方を目指し心なしか早歩きで進んでいく。彼女の指示に従い、生徒たちを教室へ戻るよう促し、その小さな背を追う形で後ろについて歩いた。
 教室では向かい合って弁当を広げる生徒、弁当を食べ終わって談笑したり黒板に落書きを始める生徒などで活気に溢れている。箸がないと助けを求めた生徒たちも混じるべく入っていく中、委員長らしい女子生徒がふと振り返った。

「ねえ、イルカ先生。コハク先生って、私たちのこと嫌いなのかな?」
「へ?」

 藪から棒な問いにびっくりして、若干間の抜けた声を上げてしまう。

「嫌い? そんなわけないだろう」

 もしコハク先生が生徒たちを嫌いだったなら、わざわざ事務室へ割り箸を取りに行くと申し出るわけがない。
 先ほどの作業中も、印を組むのが不得意の生徒にどうやってアドバイスすればいいか熱心に訊ねていた。生徒たちのことが嫌いでどうでもいいと思っていたら、そんなことはしないだろう。

「でも、いっつもむずかしい言葉使うし、笑ったりもしないもん。ちょっとこわいねって、みんな言ってるよ」

 女子生徒がチラリとクラスメイトを見やる。

「うちのお母さんも『インギンブレーだ』って。先生、『インギンブレー』ってなに?」

 教師として生徒からの質問にはきちんと答えなければならない。学ぶ彼らに教えを説く。それがオレたちの務めだ。
 しかし答えることはできず、

「ちょっと難しい言葉だから、もう少し大きくなってから調べてごらん」

そう返すだけで精一杯だ。
 生徒に対し誤魔化す姿勢はよくないが、やはりどうしても意味を教えることに躊躇いがあった。彼女の母がどういった意図で口にしたのかは分からないが、『慇懃無礼』というのは良い意味では使われない。迷った末に、ここで教えるべきではないと判断した。
 女子生徒は納得していないようだったが、友人に呼ばれてそちらへ歩み寄り、それ以上訊ねられることなく話は終わる。
 しばらく待てば割り箸を四膳持ったコハク先生が教室へ来た。生徒一人一人に箸を手渡すコハク先生の表情に色はなく、熱を持たないのにやたら丁寧な口調で、礼を述べて受け取る生徒たちの顔はかたく、ぎこちなかった。



 予定していた会議がなくなったオレは、コハク先生に頼まれ、彼女の手伝いをすることになった。
 先に校舎を出たオレより少し遅れて、コハク先生も外へ出てきた。手には紙袋を下げている。
 まだ周りに人目があるのでお喋りはせず、アカデミーの構内を出て二人だけになったところで、ようやく彼女は口を開いた。

「せっかく早く帰られるとに、手伝わせてしまって申し訳なかです」
「いいえ。特に何かしたいこともありませんでしたし」

 突然時間がぽっかりできると、案外何もできないものだ。今のところ補助であるコハク先生が頑張ってくれていることもあり、業務の様々な雑務や書類仕事も溜まっていない。たまには家でのんびり酒でも飲もうか、なんて考えていたくらいだったし、気にすることはない。
 歩きながら、コハク先生は袋に手を突っ込み、中から紙を一枚取り出した。

「私の知っとる人で、引き取ってくれそうな人ば探し尽くしたち言うたら、犬塚さんが、貼り紙も意外と効果があるとよて言いんしゃったけん、作ってみたとです」

 見せられた紙には『引き取り先を探しています』という題字の下に、仔犬の写真が二枚と、特徴が書き連ねてある。写真は犬の顔が一枚と、全身が一枚。コピーしているため白黒だが、どちらも愛くるしく写っている。

「飼いたかぁち思ってもらえるごつ、かわいく写さんといけんのが難しかったとですけど、なかなかよか感じに撮れとりません? 犬塚さんのご厚意で連絡先も貸してもらったとですよ。犬塚さん家は里でも有名な忍犬使いのお家やけん、信頼できるやろ?」

 連絡先は『犬塚ツメ』宛てとなっており、大半の人は犬塚一族の、とすぐ分かるだろう。そして犬塚一族であるならば、犬に関して信頼に足る人物だとも。コハク先生が信頼できないわけではなく、こういうときには広く知れ渡っている氏の方が都合がいい、というわけだ。
 ツメさんの話を聞いて早速貼り紙を作り、里に設置されている掲示板の使用許可を申請し、無事に許可を得たので今日の放課後に貼り付け作業を始めるつもりだったらしい。紙袋の中の貼り紙は、恐らく百枚近い。

「これ全部を一人で貼るなんて大変ですよ。一人でやろうとしないで、言ってくれればよかったのに」
「お願いしようかなち思ったとですけど、イルカ先生は会議て聞いとったし、貼り紙はできるだけ早く貼りたかったけん……」

 里の掲示板は、掲示物を広く周知させるため、あちこちにある。一人で全部を回ろうにも、少なくとも今夜中には終わりそうにはない。
 だったらオレを頼ってくれればと思ったが、先生は今日のオレの予定や、一刻も早く仔犬を貰ってくれる人を見つけたくて待っていられなかったらしい。

「ばってん、その会議がなくなったけん。遠慮なーく、イルカ先生に手伝ってもらうことにしたとですよ」

 ちょっとふざけた調子で笑うコハク先生に、不快な感情は湧かなかった。『したたか』というには可愛らしすぎるし、頼ってくれるのも悪い気はしない。今までは手伝ってもらうなんてとんでもない、申し訳ないといって恐縮しきりだったのに、実はそういうところの加減が上手かったらしい。

「他の先生方とも、そうやってお話されればいいのに」

 掲示板がどこに設置されているのか印がつけられている地図を開いた先生に言うと、両頬のえくぼは平らになった。

「そいは無理ですね。イルカ先生、私が言いよることもまだ分からんでしょ?」
「全部は分かりませんけど、こうやって会話ができてるなら十分じゃないですか」

 オレにだけ訛りを解禁してから数日。分からない言葉は日に日に減っていて、いちいち頭の中でどういう意味なのかと考えることもなくなった。他の先生方だって、最初は分からなくてもすぐに理解して会話は成立するはず。

「イルカ先生はよかっただけで、他の先生方もみんな、変な目で見られんち保証はなかやないすか」

 問題はそこではないと、コハク先生が言う。
 彼女が最も気にしているのは、訛りのある自分を相手がどう思うか、だ。過去の苦い記憶のせいで、バカにされるかもしれないという恐怖が、先生の一歩を邪魔している。

「ですが……その。言いにくいんですが」

 言うべきか迷いはしたが、このまま放っておくのがきっと一番よくないと思い、意を決してコハク先生に向き直った。

「コハク先生が自分たちを嫌っているのではないかと、思う生徒もいるようで」

 今日の出来事を振り返りつつそう言うと、コハク先生は驚いて上擦った声を発した。夕暮れが進んで随分薄暗くなったにも関わらず、顔色ががらりと変わるのがはっきり分かる。

「オレ以外に対するコハク先生は、笑ったりしないじゃないですか。表情がほとんども変わらないし、言葉使いも仰々しくて……だから、壁を作っていると思われているんですよ。オレは貴女が訛りを隠したいからそうなってしまっていると分かってるからいいんですが、生徒たちは知りませんから、嫌われているんじゃないかと……」

 コハク先生から割り箸を受け取る生徒たちの表情は余所余所しく、もしかしたら怯えている子もいたかもしれない。生徒から軽んじられる教師はよくないが、畏怖の対象になってしまうこともよくない。
 今はオレの補助だが、そのうち完全に一人で授業やクラスを受け持つ時期が来る。このままでは生徒との良好な関係を築くこともできず、いい授業ができるかも分からない。最悪、学級崩壊も考えられる。
 貼り紙を持ったまま動きを止めた先生は、明らかに落ち込んでいる。言葉をかけてやりたい気持ちはあるが、まずは先生がしっかり受け止め、考えなければならない問題だ。

「話し方はすぐには変えられんけど……なるべく子どもたちには、威圧的に見えんごつします」

 それが彼女の精一杯の答えなのだろう。
 過去に負った心の傷を、大人になった今も引きずっているのだから、一朝一夕で克服できるものではない。見えない傷だからこそ、その深さや痛みは他者には分からない。無理に求めることはやめておこう。

「私、どげんしたらよかとですかね。訛りが出らんように、失礼がないようにち思うと緊張して、そいばっか考えて、笑う余裕、全然なかですよ」

 重たいため息を吐いて、コハク先生はがっくりと肩を落とした。

「そうですねぇ……同期の先生方ならとっかかりやすいんじゃないですか? ほら、生徒や先輩相手だと神経を尖らせたり気を遣いますけど、同期なら立場も同じでまだ気安いし、一度飲みに行ってみたら――」
「そいこそ無理ですけん! お酒が入って気ぃ緩んで、うっかり訛ったらたまらんやなかですか!」
「いやでも、訛りがあることを打ち明けるのが一番早いし」
「無理無理! 絶対無理やって!」

 首をぶんぶんと横に振って強い拒否を示すその顔は、不快というより恐怖に満ちていた。訛りを知られることはどうあっても避けたいらしい。

「同期の先生たちとは今でも十分やれとるし、飲みに行く必要はなかですよ。まあ、仲良いかっち言われたら、多分そうじゃなかですけど……」

 職員室でコハク先生に声をかける人はあまりいない。彼女の態度から、用事があるときだけ話しかけた方がいいと判断されて以降、世間話を振る人すらもいなくなった。

「同期って貴重ですよ。先輩や後輩はいくらでも居ますけど、一緒にスタートして切磋琢磨していって、愚痴を言い合ったりできる相手は、ほんの一握りですから」

 言って、少し胸が痛んだ気がする。少し前まで、いい同僚だと思っていた彼のことを思い出した。飲みに行って互いことを語り合った時間は少なくはなかったのに、オレは彼のことをまったく理解できていなかった。
 どんなに時間を重ねても完全に分かりあうことはできないが、共に過ごしたその時間の全部が無駄だったとは思わない。つらいことも頭にくることも、起きてしまったことなら経験として残し、誰かの――今であればコハク先生へ差し出す答えに生かしたい。
 それにこれは個人的な希望で、余計なお節介だと重々承知だが、オレは彼女の人となりをみんなに知ってもらいたい。
 本当の彼女は、ほぼ無表情だった顔はくるくると色を変え、一切の隙を与えないような言葉使いは崩れて訛り、一体どれだけ話のネタを持っているのかと驚くほどお喋りな、溌剌とした女性だ。
 その姿を知れば、教職員や生徒たちが彼女へ抱くイメージは間違いなく変わる。そうすれば彼女は悩んだり、毎日余計な緊張をしないでありのままで居られて、気持ちも楽になる。何かに縛られることもなく、自分らしく居られる環境を作ってやりたいと思う。

「先生の言いたかこと、分かります。その通り、ちことも。同期のみんなと話したかことも、たくさんあるとです」

 転がり出た本音に思わず『やっぱり』と言ってしまいそうで、グッと飲みこんだ。

「ばってん今は、イルカ先生が話してくれるだけで、満足やけん」

 ボソッと滑り落ちた呟きに、不覚にもドキッとした。オレも男なので、女性に『自分だけがいればいい』と言われると、やはり意識するところはあるが、この場合はそういった意味はまったく含まれていないとすぐに気づく。
 コハク先生が言いたいのは、揶揄され傷つく可能性を減らしたいだけであって、別にオレが居ればいいとか、そういう類の話ではない。彼女の秘密を知ったのがオレじゃなくて他の同僚であれば、コハク先生はその人に同じことを言っただろう。
――それが少し残念な気がするのはどうしてなのか。よく分からないものを抱えながら、その夜は遅くまでコハク先生の後をついて掲示板を回った。



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案ずるより戸惑いますし

20200128


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