最果てまでワルツ | ナノ
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 鍵をかけ、無人になった自室のドアから手を離すと同時に、角部屋である隣のドアを一瞥する。最近始まったわたしの習慣だ。そのドアが開く気配がことがないのも、いつものことだ。
 マンションの階段を下りてエントランスを抜け、火影邸へ足を向ける。先日から受けている任務のため、火影邸に保管されている文献が必要だ。
 世間の出勤や登校時間から少し過ぎているので、人の通行はさほどなく、昇る陽も高いところにある。
 火影邸へ着く前に、空の胃に何か落とし込まなければ。眠りから覚めると吐くか、吐き気で気分が悪いため、ここしばらくは昼過ぎまで水くらいしか摂らない生活を続けていた。それをナギサが知ると、頭を動かすためのエネルギーとして、何でも構わないから食べろときつく言われてしまった。
 確かにナギサの言う通りで、水だけではなかなか頭が働かない。商店街で食べやすそうな果物でも買おうか。あっさりしたものだったら喉を通りそうだと、進路を少し変えて、まずは店に寄るため大きな通りを目指した。
 どの店も開店したばかりらしく、品物を並べている途中だ。忙しい姿を見ていると、邪魔になりそうで手を出しづらい。そのまま通りから店を眺めつつ歩いていると、「サホさん」と声をかけられた。面を掛けていない、素顔を晒しているテンゾウが、向かいから小走りでこちらへ駆け寄ってくる。

「サホさん、おはようございます」
「……おはよう。今日は任務じゃないんだね」
「はい。任務はさっき終わって、ちょっと、相談に乗っていました」

 少し後ろを振り返るテンゾウの視線の先には、髪の長い女性が一人。相談に乗っていたらしいが、テンゾウより年上に見える。テンゾウを追って彼女もこちらへ足を進めたが、わたしたちからほんの少し距離を置いたところで停止した。話の邪魔にならないようにと気を遣ったのだろう。

「体調はどうですか?」
「まあ……前よりはいいよ」

 薬を貰う前と比べたら、不調は少し改善されている。愛想よく笑んで返すことだってできる。それでも、テンゾウが心配そうな表情を浮かべるくらいには、傍から見れば調子がいいとは信じられないらしい。
 曖昧な返事に、テンゾウは口を閉じ、考える素振りを見せる。その沈黙は言おうか言うまいかと悩んだものらしく、間を置いたあと前者に軍配が上がった。

「カカシ先輩と、お話されましたか?」

 そういうことを訊かれるだろうと分かっていたので、狼狽えることなく首を振った。
 テンゾウは尚も何か言おうとしたけれど、

「ごめんね。これから任務だから」

勝手に話を切り上げてテンゾウの脇を過ぎ、話が終わるのを待っていた女性に会釈すると、彼女は戸惑いの表情を浮かべつつも、こちらの顔を窺いながら軽く頭を下げた。
 このまま火影邸に行ってしまおう。軽い朝食を調達するつもりだったのに、果物一つ買うことができなかった。けれど何も詰めていないのにお腹の辺りが苦しくて、食欲など湧くこともないから、無駄にならずに済んだと思おう。
 テンゾウはわたしに、カカシと何の話をしてほしいのだろう。そういえば前に、『元の距離感に戻ってくれ』と言われたんだっけ。

 戻れるわけないよ。

 自分の気持ちに気づいた以上、『同期』や『隣人』などという当たり障りない距離には立てない。元のわたしは、カカシとどんな顔をして会っていたっけ。
 このままではみんなを困らせる。リンがいなくなってすぐの頃も、こうやってみんなを困らせた。子どもじゃないんだから。言い聞かせるけれど、この感情は無垢な子どもじゃないから厄介なのだと、長い息を吐いた。



 火影邸の資料室で巻物をいくつも広げ、今回の任務――小さな集落から依頼された、小箱の封印を解くために、何か情報は得られないかと手がかりを探した。
 小箱は、集落の長が先祖代々保管しているもので、伝え聞くには首飾りが収められており、それは集落の数十年に一度行われる祭事に使用されるものらしい。近々その祭事が行われるが、小箱の封印の解き方が分からず困っているため、木ノ葉隠れの里に依頼されたものだ。
 依頼を装って中には起爆札――という可能性もあるため、事前に感知班によって中身を調べてもらい、問題はないと確認が取れている。
 小箱の古い術式は見慣れないものだった。木ノ葉隠れの里ができるまでは、忍は一族ごとに分かれ生きていた。一族ごとに文化があり、使用する術式が違うことはよくある。
 集落近くで暮らしていた一族は一つ。火影邸で保管されている文献に目を通していけば、該当する術式や、似たような術式が見つかるかもしれない。


 巻物や本を引っ張り出し、文字を追うのも体力を使う。目が痺れるような痛みを覚えたので、一旦休もうと外に足を向けた。
 閉鎖された室内から開放的な外に出て、思いっきり伸びをする。時刻は昼をとっくに過ぎ、そろそろアカデミーの子たちが授業を終える頃だ。
 火影邸の敷地内、花壇の正面に設置されているベンチに座り、目を閉じ首を回す。ゆっくり動かすと、コリコリと小さな音がして、固まっていた血流が流れていくようで気持ちがいい。

「見つからないなぁ……」

 集落近くで暮らしていたのは七節一族。実はこの七節一族は第一次、第二次忍界大戦を経て一族全員が死亡しており、七節に関することは、里に保管されている文献でのみ知ることができる。
 隠れ里などなかった昔は、一族間での戦が頻発し、他族に術式を知られることを嫌って、若輩に術を教える際は口伝が主であった。木ノ葉隠れの里ができたことに加え、争いが終わり紙や墨などの物資不足が回復したことで、書にして改めて残す一族が増えたが、記し漏れてしまい失われた術もあるだろう。もちろん、わざと残さなかった秘術もある。
 もし、今回の小箱に施された封印が、その失われた術であるならば、解術は困難だ。元より封印術は『封じ込める』という特質のため、師から直接手解きを受け習う。わたしもほとんどの封印術を口伝で覚えた。
 今は七節一族だけでなく、あの集落近くの範囲を広げ、他の一族の資料も手を付け始めたが、そもそも里に収められている一族に関する文献は、どれも『公開しても構わない』と判断された、機密性の低いものばかり。重要な書物はそれぞれの一族が今も大事に保管しているはず。
 まずは里で管理している、関係しそうな一族の資料も調べ尽くして。それでも分からなければ、事情を説明し各々が保管している文献の閲覧を頼もう。閲覧が無理なら、一族の方で確認を取ってもらう。もしそれでも分からなければ――ああ考えたくない考えたくない。

「浮かない顔してるな」

 最悪の展開を想像していると、低い声が耳に入った。瞼を上げれば、植え付けを終えたばかりの田んぼのような、うっすらとした無精髭の同僚が立っていて、口元だけで笑んでみせる。

「サボりか?」
「休憩中。そっちは?」
「待機中」

 了解を取ることなく、アスマは隣に腰を下ろした。ベンチがギッと軋むのは、それだけアスマが体格のいい青年になったと訴える声だ。

「休憩ってことは、任務中なのか?」
「うん。調べ物で、さっきまでずっと資料室に籠ってたの」
「お前はほんと、資料室だの勉強だの、好きだな」

 呆れているかバカにしているかはっきりしないけれど、アスマは煙草とライターを取り出し、火を点け白い煙をたなびかせる。煙草は匂いがついたりするから好きではない。幸いにもわたしの方が風上に居るので、直接浴びることはない。

「アスマって、いつから煙草を吸うようになったんだっけ?」
「さあ……いつからだったかなぁ」

 気づいたらアスマは煙草を覚え、顎にはうっすら髭を残すようになり、グンと伸びた長身には筋肉ががっしりとついた。幼い頃は特別体格がいいタイプではなかった覚えがある。ある時期からどんどん背が伸びて、腕や背中に厚みがでてきて、今じゃ隣に座っているだけなのに圧を感じる。

「何だ? 吸ってみるか?」
「ううん。煙草、苦手だから」
「おう。悪い」

 じっと見るわたしの意図を推察し、煙草を軽く動かしてアスマが言うが、生憎とそういった興味は一切ない。アスマは一言謝ると、足下に落として踏んで火を消した。煙草を吸い続けると、肺が真っ黒になるって本当なのかな。

「調子は?」

 ベンチの背もたれに肘を置き、気だるげな目と共に顔をわたしに向ける。調子はどうかというのは、近頃は会う人会う人にまず訊ねられる。今朝もテンゾウに訊かれたし、昨日はライドウやイビキ。

「よくなってるよ」
「その顔で言われてもな」

 テンゾウに送った笑みよりもっと笑ってみせたつもりなのに、アスマから呆れた声が返ってくる。自分が思うより笑えていないのだろうか。それとも、笑って言うから逆効果なのか。

「何があったかなんて聞く気はない。でもな。お前のこと心配してる奴らは居るから、ちゃんと頼れよ」

 体格に合わせ仕立てたような太く低い声が、実に頼り甲斐のある言葉をくれた。わたしを慮って聞き出すこともなく、けれど何かあれば助けになると。アスマだけでなく、紅たち友人みんなも、『何かできるなら言え』と声をかけてくれている。
 優しさは有難いと同時に心苦しい。わたしに合わせ、気遣う周りに、いつまでも甘えてはいけないと切羽詰まる。Bランク以下の任務しか命じられない上忍なんて、わざわざ特上から上忍にと指名したのに、上役たちも見込み違いだったと呆れているかもしれない。
 だから早くどうにかしなくちゃ。焦るばかりで、自分がどうしたいのか決められない。内心を打ち明けることもできない。重たい石をぎゅうぎゅうに抱え込んで、海底まで落ちていっている気分だ。

「それもできないって言うなら、里から離れてみるのはどうだ?」

 思いもよらない提案に、背筋がゾッとした。

「……里を抜けろってこと?」
「そうじゃない。上に頼んで、他所の町や国境の屯所に派遣してもらうのもありだってことだ」

 暗に『木ノ葉から出て行け』と言われているのかと訊ねると、アスマはきっぱり否定して、足らない説明を足した。

「一度外に出て、知らないものや、生まれも育ちも違う奴らと会えば、世の中の見方も変わるもんだぜ」

 背もたれに肘を置いたまま、アスマは頬杖をつく。真正面から見ても、アスマは父親である三代目とあまり似ていない。アスマがあと何十年か歳を取るか、三代目が若い頃と比べたらまた違う印象を覚えるかもしれないが。

「オレの経験談だ」

 アスマの。アスマも里を離れていた――あ、そうだ。アスマは守護忍十二士に選ばれて、数年前からしばらく、里に居なかった。時折帰ってくることはあったけれど、わたしも任務で不在だったりして、顔を合わせることが極端になかった時期がある。
 大名専属の護衛組織として作られた守護忍十二士は、内部のクーデター事件により、今はもう解体されている。アスマが巻いている腰布が、かつて所属していた証であり、今となっては守護忍十二士の存在を残す、少ない痕跡でもある。

「どう変わったの?」

 わたしは里から心を離したことがない。任務で数ヵ月出ることはあっても、心はいつも里にあった。知らない建物を見れば『里にはないな』と、初めて口にした食事には『これが里でも食べられたらいいな』くらいで、見方が変わるというよりは、単に知識がつくだけだ。
 問いに、アスマは頬杖をやめ、新しい煙草に火を点けた。濃い匂いを吐き出して、吸って、また吐き出すのを繰り返したあと、口元から煙草を挟む指を放す。

「九尾が里で暴れたとき、お袋が死んだ。四代目も亡くなって、結局親父がまた火影に戻ったが……あの頃はオレもガキだったからな。変に考え過ぎて……要するに、不貞腐れてたわけだ」

 あのときのことを思い出し語るアスマの横顔は、簡単に相槌を打てるような雰囲気ではなかった。九尾事件は、わたしにとっても胸がえぐられるような後悔ばかりを思い起こさせる、悲しい記憶だ。
 アスマの亡くなった母親は、三代目の妻であるビワコ様。どちらかといえば、アスマはビワコ様に似ていたかも。髪を後ろで一本にまとめ上げ、キリッとした鋭い瞳が印象的だった。あの目で見られると否応がなしに背筋が伸びたものだ。三代目が『里の父』であるなら、ビワコ様は立派に『里の母』であられた。

「守護忍十二士に選ばれて、オレはオレのやり方でこの国を守ると、生意気なことぬかして里を飛び出したはいいが……結局のところ、里を離れれば離れるほど、木ノ葉のことを、『火影』という存在の重さを考えるようになった」

 下忍や中忍時代から、アスマと三代目は、あまり仲の良い親子には見えなかった。アスマは自身の父に対しどこか斜に構えていた。三代目には『火影』という大役があったからだろうか、アスマだけではなく、里の子全員を自分の子どものように思ってくれていて、だからこそ『猿飛アスマの父』という印象は薄い。
 九尾事件以降から、アスマの三代目に対する態度は年々険を含んでいき、守護忍十二士として里を出て行くときも、『もう三代目の下へ戻って来る気はないのかもね』と紅が寂しそうに言ったほどだ。
 けれどアスマは帰ってきた。守護忍十二士が解体されたからという理由だけでなく、恐らく自分の意思で、里に戻ろうと決めたのだろう。不貞腐れていたと自身を称するアスマもまた、わたしのように心は里にあったのだと思う。

「里に居たままじゃ見えなかった。気づくこともなかった。あのままここでずっと燻ぶってたら、もしかしたらオレは本当の意味で、この里から離れていたかもしれない」

 続く言葉に秘められた、アスマの中の根深さを悟る。わたしたちが想像するよりずっと、アスマは出口のない葛藤に苦しんでいたのだとしたら、守護忍十二士に選ばれたことは本当に幸運なことだった。有り得たかもしれないアスマの里抜けを止めることができたのだから。

「お前は里に十分尽くしてる。ここであれこれ悩みながら休むより、一度長い休暇を強請ったらいい。知り合いがいない土地に行って、今抱えているものと、一旦離れてみてもいいんじゃないか」

 自ら経験したが故の助言は、心にも頭にもよく響いた。里から距離を置くという選択肢が最初からなかったので、新たな道が開けた気分にもなった。
 里から離れる。母や兄と一緒に忍を辞め、里を出て行く機会はあった。あのとき一緒に里を離れていれば、今の迷路のような毎日はなかった。リンの夢で苦しむことはなく、オビトへの想いは思い出に変わらず、カカシを好きにもならなかった。
 けれど、もう好きだと気づいてしまった。カカシと『ただの同期』には二度となれない。後戻りできない。前にも歩けない。
 だからこそ、横道に逸れてみるのもいいのかもしれない。



 小箱の封印は、一ヶ月かかったが何とか解術できた。封印を施したのは七節一族ではなく、集落からかなり離れた朝霧一族のものだと突き止め、朝霧の忍の手を借りてやっと開封に繋がった。
 集落の長が言っていたように、中に収められていたのは赤い宝石で彩られた首飾りだった。封印術のおかげで、金属に錆や腐食、宝石に曇りなどは見られない。長に解術できた旨の連絡を出したので、あとは彼らが里に来て確認し持ち帰ってくれれば、わたしの任務は完遂となる。

「シイナさん、手伝ってくださってありがとうございました」
「気にすんなって。こういうのはお互い様だろ」

 アカデミーにある連絡所から出て、ちょうど解術に立ち会い、連絡を飛ばすまで付き添ってくれたシイナさんに頭を下げると、昔から変わらない快活な笑顔を見せた。
 今回の解術に関しては、一人では約束の期限にまで間に合いそうになく、特上であるシイナさんたちにも声をかけ手伝ってもらった。みんな、自分の任務の合間に顔を出してくれて、本当に有難かった。持ちつ持たれつ、助けてもらった分、何かあったらわたしも精一杯手を貸そうとしみじみ思う。

「ま、ぜひぜひお礼がしたいって言うんなら、これを火影邸の資料室に戻しといてくれよ」
「言ってませんけど……いいですよ」

 差し出されたのは、古い装丁の本だ。勘みたいなものが働いて、表紙を捲ってみると、『重要文献』の判子が押されていた。

「ちなみに、貸出期限から一週間過ぎてる」
「もう! そんなことだろうと思いました!」
 
 火影邸の資料室に保管されている書物は、ざっくりと分類すると『誰でも持ち出せるもの』、『持ち出しは可能だけれど許可がいるもの』、『持ち出しも閲覧も制限されているもの』とその他細かく分かれている。
 『重要文献』は管理者付きの資料室に並べられており、許可された者のみ、期限付きで持ち出し可能で、遅延に厳しい管理者の老婦は、返却が一日過ぎても烈火のごとく怒る。重要文献なのだから期限を守れないことを咎めるのは当然だけど、怖いものは怖い。シイナさんは渡りに船といった様子で、「お互い様だよな!」とわたしの肩をバンバン叩いた。
 断りたいけど、シイナさんの機転で解術が一気に進んだこともあり、憂鬱だけど本を突き返すことはしなかった。


 約三十分ほどみっちり怒られた。重要文献に対する意識が低いと、ちょっとした怠慢が任務失敗を招くのだと、最近の若い子はと、年齢を感じさせない張りのある声でしこたま絞られた。わたしは返却期限を一度も破ったことがないし、わたしが借りた本ではないのに怒られるのは正直不満だけど、そんな態度を出したら余計に長引くだけなので、ひたすらに「申し訳ありません」「ご尤もです」「気を付けます」と返し続けた。

「あとで本人に来るように伝えておきなさい。他人を身代わりにするその卑怯な根性を、叩いて伸ばして矯正します」

 最後はそう締めくくられ、シイナさんにとっては大失敗な結果に終わった。
 怒られるためだけに入った資料室からやっと出られて、何とか乗り越えたとほっと息をつく。文章と数時間睨めっこしたときよりもずっと疲れた。根性を矯正されるらしいシイナさんはもっとくたびれるだろう。
 小箱の解術の任務が終わっても、わたしにはまだ継続中の任務が残っている。少しだけ休憩を挟んだらそちらに取り掛かろうと火影邸の廊下を歩いていると、一人の女性とすれ違った直後、「すみません」と声がした。

「えっ?」

 振り向くと、女性はすでに体ごとこちらを向いていた。瞳はわたしを確実に捉えている。

「少し、時間をもらえますか?」

 女性は顔色一つ変えることなく――というより、感情が何一つ表に出ていなくて、無表情そのものだったので、これはきっと楽しいお喋りになることはないというのはすぐに察した。

「あの……どちら様ですか?」

 知らない人についていってはいけません。子どもに限らず常識だ。顔も名前も知らない者についていく義理はない。

「暗部に所属しています。以前、先輩と一緒に里を歩いていて、そのときに先輩が貴女に声をかけました」
「以前? 先輩?」
「ひと月ほど前。テンゾウ先輩です」

 キーワードを頼りに思い当たるのは、そういえば任務前に商店街を歩いていたらテンゾウと会ったこと。そのとき女性と一緒だった。相談に乗っていたと言っていて、髪の長い、そういえばこんな顔の人だった気がする。

「あのときの……?」
「そうです。時間、いいですか?」
「あ、はい……」

 言葉は了解を取っているが、態度は求めていない。そんな感じの雰囲気に圧倒され頷くと、彼女は背を向け、廊下を歩き出した。承知した以上、逃げるのも失礼かと、黙って後を追う。
 いくつかの扉を過ぎ、階段を下り、火影邸の裏手へと着いた。陽の照りが届かないため、他より気温が低い。火影邸への出入り口はあれど、利用する者はほぼない。そんなところだからもちろん人気がないので、何か楽しくないお喋りをするにはうってつけだろう。
 女性が歩を止めるので、わたしも倣ってその場で止まった。振り返ると、彼女の長い髪が揺れる。こちらを見つめる顔は、心なしか既視感がある。ひと月前に会ったのだから当然か。

「……それで、何でしょうか?」

 出方を窺って黙っていたけれど、こちらを見るばかりで口を開かない彼女に促す意味で、用件を問う。女性の目が若干細くなって、結んだ唇もグッと横に引かれた。

「カカシ隊長を縛るのは、もう止めていただけませんか?」

 いきなりカカシの名を出され驚いた。彼女はテンゾウと一緒に居たという認識しかないので、てっきり話題はテンゾウのことかと思ったのに、まさかカカシの絡みだった。しかも、『縛る』と。

「縛る……」

 わたしがカカシを縛っている? 思いもよらない言葉を復唱してみても、彼女が伝えたいことの半分も理解できていない。それでも、真剣なその顔を見れば、他人からすると――少なくとも女性からすると、わたしはカカシを縛っていると。

「カカシ隊長と貴女との間に、何があったか、私には全部は分かりません。だけど、カカシ隊長は素晴らしい忍です。誰よりも的確に場を読み、飛ばす指示は正確で、とても仲間を思ってくれています。確かに、敵対する相手に対して冷徹な一面もありますけど、それは木ノ葉の里を守りたいという、強い意思があるからです」

 彼女の語るカカシに違和感はなかった。たくさんの想いを糧に、あの腕は敵を屠り、あの足は火の国を駆ける。里を守る固い意志と強い責任が、里に仇なす者を徹底的に排除し、殲滅することに繋がっている。

「カカシ隊長は仲間に誠実な人です。窮地には真っ先に駆けつけて、全員無事に帰るんだと、いつも私たちを……」

 続けようとした言葉を、彼女はグッと噛んで堪えた。火影邸の端から届く、おこぼれのような日光のわずかな光を受け、瞳はきらきらと瞬き始める。

「だけど、最近は……変わってしまった。貴女が原因ですよね?」

 問われ、頷くことも首を横に振ることもできず、頭はただ体の上に乗っているだけのように微動だにしない。変わってしまった――のだろうか。そしてわたしが原因であるなら、思い当たることはあった。カカシが自分の部屋に帰らなくなったのはわたしが原因だろう。

「優れた忍を、貴女一人のせいでおかしくされたら、暗部も、里も、迷惑……なんです……」

 とうとう女性は涙を零した。瞼の縁から押し出されるように、透明の雫は頬に筋を作り、次々に生まれる涙は、規律を順守するかのようにその轍を辿っていく。
 手の甲が何度も目元を拭う。顔は赤みを帯びて、唇は苦しげな呼吸を繰り返す。
 カカシを思う心の深さを、溢れる涙が教えてくれた。隊長というのは、仲間から信頼を寄せられる者でなければならない。だというのに、カカシがおかしくなってしまったなら、部下である彼女たちは不安だろう。この人についていっていいのかと疑問を抱き、それが反発となって隊を乱すことに繋がりかねない。気がかりもそうだが、憤りだってあっても不思議じゃない。

「カカシのことが大切なんですね」

 頭に浮かんだことが、そのままぽろりと口から漏れてしまった。呟きが聞こえた女性は、目元に当てていた手を下ろし、強い目でわたしを見た。睨んだ、というのが正しいのかもしれないけれど、どちらにしても濡れた双眸の奥に秘めた激しい感情が、わたしの肌を遠慮なく突き刺していく。

「わたしも、同じです。恨んで、憎んで、何があっても生きろと強いて苦しめて、たくさん傷つけたのに……ずっと、大切だった」

 彼女に刺激された心がぶるぶると震え、決して気づいてはいけないと、何とか引っかけて留めていた思いが、ぽろぽろと落ちていく。
 わたしもカカシが大切だよ。そんなこと言っても、きっと誰も信じないだろう。あんな態度を取っていたわたしが? 絶望ばかりの日々でも生きろと強要したわたしが? 自分でも、そんな都合のいいこと、と思う。
 だけど本当に、本当は、ずっと、大切だったんだ。
 カカシが大切で、けれど大切だというあいつを、わたしは痛めつけて責め苛んだ。卑怯なわたしはそれを認めたくなくて、ずっとずっと見ないふりをして、ようやく今、思い知った。
 わたしは馬鹿だ。大馬鹿者で、逃げ回ってばかりだった。だからこうやって、何もかも手遅れになるんだ。もっと早く自分の心と向かい合って、弱さに甘えず乗り越えていたら。

「やっぱり、だめだね」

 短い息と共に、諦めの呟きを吐いた。
 人としても、忍としても、カカシは多くの人たちの大事な存在だ。木ノ葉の誉れ。里でも名の知れたエリート。部下を多く従える優秀な忍。
 わたしが振り回していい相手じゃない。はたけカカシとわたしは、いくら頑張っても釣り合いなんて取れないし、仮にどちらかを犠牲にしなければ里を守れないとしたら、里にとって残すべき利はカカシだ。

「迷惑かけてごめんなさい」

 謝罪を告げると、女性は虚を衝かれたような顔をした。反論の一つでもされるかと想定していたのかもしれない。そんなことするつもりは欠片もない。ここ最近だけじゃなく、大切な人たちを失ってしまったあの日からずっとカカシを振り回したのは事実で、そのせいで周りに迷惑をかけたとするなら、謝るほかないだろう。
 言うことはまだあった。『もう二度とカカシに近づきません』や、『カカシと接触しないように引っ越します』などと言って、彼女の心配を取り除いてやるべきだった。
 けれど口は思うように動かなくて、ああわたしは本当に、誰かのための強がりもできぬ弱虫だと、見苦しさに自嘲の笑みが浮かんでしまう。
 踵を返し、陽の差さぬ場から差す方へと歩く。後ろの彼女からは引き留めるような動きはなく、とうとう陽光がわたしを捉える。
 『お天道様が見ているよ』と、幼い子どもに説く大人の決まり文句は、まさしくその通りだ。オビトは語る声を失っても、いつも暖かくわたしを焼いて、見張っている。わたしが正しく生きているかを。
 瞼を下ろし、注ぐ熱を感じる。火炙りには程遠いが、わたしの希望を焦がし、塵にするには十分だ。


「自分が今、一番望むことだけを考えて」


 一番望むことは、一番望んではいけないことだ。ならば離れたら楽になれるだろうか。すぐ傍に存在を感じるから、こんなにもつらいのかもしれない。
 里から一度も心を離したことがないわたしが、カカシから距離を置いて、カカシを忘れられるのか。いいや、アスマは里から離れたからこそ、火影である父親のことを考えられたと言う。
 だから忘れられなどしない。想う気持ちはきっと止まらない。
 それでも、カカシから遠ざかれば、アスマがそうだったように、何か変われるかもしれない。わたしが里を出れば、今までずっと苦しめ縛っていたカカシを解放できる。
 わたしが一番望むことは望んではいけない。それなら、カカシのことを望もう。カカシがわたしのことなど忘れ、自由に生きることを。



53 勿忘草を枯らして

20190210


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