最果てまでワルツ | ナノ
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テーマ「禁断の関係」
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 目の前に差し出されたのは鍵。鈍い銀色で、空けられている穴には金属の細い輪っかが通してある。輪っかには鍵のほか、番号札が一つ。

「――それでだ。お主、隣じゃろう? これを届けてほしい」

 鍵を持つ手は皺が目立ち、日に焼けた肌にはシミがいくつも点在している。その古びた手は、長年木ノ葉の里を守ってきた、里長の偉大なる御手だ。
 三代目自ら直々に呼び出され、火影室へ顔を出した。呼び出された内容は予想できなかったが、ちょうどいい機会だからと、アスマに勧められたよう、しばし里を離れる機会を貰えないか頼んでみようと思っていたのに、入室して即、鍵と巻物二つを手渡され、言葉を失ってしまった。里で最上に位置する上司への敬意が染みついている体は拒否など思いつきもせず、あっさりと受け取ってしまう。

「あの……」
「重要な巻物じゃ。上忍のお主なら安心して預けられる」
「それは、嬉しいお言葉ですが……」

 わたしの視線は、鍵と巻物と三代目を忙しなく移動する。
 三代目曰く、先の任務でチャクラ切れになり、数日前から自宅で療養しているカカシに、この巻物を届けてほしいらしい。
 数日前からカカシが部屋で寝ているなんて、気づきもしなかった。まあ、わたしもここ数日はずっと任務で忙しかった。部屋にはシャワーや着替えに寄った程度だったし、その短時間なら、息を潜めて気配を殺すことなどカカシには簡単だろう。

「取りに来いと言いたくても、あやつはチャクラ切れで起き上がれなんだ」
「しかし、わたしでなくとも……」
「隣人の仲ではないか」

 朗らかな顔で言っているけれど、そこには断ることを許さない威圧感もある。元より、断ることなどできない。里長のヒルゼン様が命じることに、一介の忍であるわたしが逆らうなどできるものか。

「明日には任務に戻る予定だが、しばらく動けなかった身。まともに食事を摂っておらんかもしれん。これで何か買っていってやれ」
「えっ、そ、そんな。お金なんて、結構です」
「よいよい。あやつが里のために尽くしてくれたことを考えれば、足りないくらいじゃ」

 三代目は、懐から五百両札を取り出し、鍵を持つ手に握らせる。断るわたしに対し、「余ったら手間賃として受け取れ」と言って強引に捻じ込んでくるその姿は、まるでお小遣いをくれる親戚のおじいさんのようだった。
 明日任務に復帰できるなら、何も今日中に渡す必要はないのでは。ちらりと三代目の顔を窺っても、好々爺が柔和な笑みを浮かべているだけだ。里を離れたいなどとうてい相談できそうにないと、諦めて退室した。



 五百両全額使おうと思って頑張っても、少し余ってしまった。使い切りたかったけれど、わたしには難しい任務だ。
 それはさておき、両手に提げている袋には、すぐに食べられるレトルト食品や、洗えばそのまま食べられるリンゴなどの果物、胃に優しいもの、滋養強壮などを謳っているもの。とにかく、体に良さそうなものをどんどんとカゴに入れてレジを通った。
 どんなに遅く歩いていても、目指していればいつかは辿り着く。見慣れたマンションの階段を上がり、一歩ずつ噛み締めるように廊下を歩いた。
 自分の部屋のドアを通り過ぎて、角部屋のドアの前に着くのが、違和感があって戸惑う。沈黙したドアの向こうで、誰かが生活している音は聞こえない。死んだように寝ているのかもしれない。ようにじゃなくて、死んでいたらどうしよう。

「……ふぅ」

 思いっきり息を吸って、吐いて。覚悟を決めたわたしは、呼び鈴を鳴らした。聞き慣れた音が、廊下やカカシの部屋で響く。
 反応はない。間を置いてもう一度押したけれど、やはり反応はない。

 無視してる。

 会うのが怠いだとか、起き上がるのが億劫だとか、そもそもチャクラ切れで養生しているからとか。そういう理由で、ベッドから這い出て、誰かを迎え入れる気がないのだろう。
 ポケットから三代目より預かった鍵を取り出す。この鍵はカカシの部屋の合鍵だ。里内に親類などがない忍が一人暮らしをする際、火影である三代目に合鍵を預けるようになっている。理由は様々あるようだけど、今回のカカシのように、何かあって部屋に入りたい場合、ドアをぶち破らなくても済むように、という意味も含まれている。家族が里外に住んでいるわたしも、もちろん合鍵を預けてある。
 ちょっと抵抗はあるけれど、わたしが普段使っているものと見た目そっくりのその鍵を、ドアへと差し込んだ。ガチャン、と機械的な音が響く。
 鍵を抜いて、ドアノブを取って開けると、部屋の中は暗かった。昼を過ぎた夕方前とはいえ、外の方が明るいくらいだ。
 たたきに足を踏み入れ、ガサガサと音を立て、手に持った買い物袋を床板へと置いた。この前、カカシに押し倒された場所だ。考えたら、何とも言えない苦い気持ちが溢れてくる。
 室内を見やれば、奥に置かれたベッドの上で身を起こし、クナイを持って両目を見開いているカカシが居た。

「なっ……サホ? なんで……」

 構えていたクナイを下ろし、カカシは呆然とした様子で、靴を脱いで買い物袋を持ち直すわたしを見ている。自宅なので額当てはつけていなくても不自然ではないけれど、鼻から下を隠しているいつものマスクは、こんなときでもしっかり役目を果たしている。
 カカシの部屋は、入ってすぐにキッチンとダイニングがある。細かい間取りは違うけれどわたしの部屋と似た作りだ。カカシがベッドを置いているスペースは、寝室ではなく本来はリビングスペースだろうけれど、本人がそれでいいならどこに何を置こうが勝手だ。
 冷蔵庫の前に買い物袋を置いたあと、カカシの傍へと近寄る。カカシはその間ずっと無言で、チラチラとわたしの足元を見はするものの、まともに目を合わせようとはしない。
 腰に付けたポーチから、三代目より預かった巻物を二本取り出す。

「これ。三代目から」

 差し出すと、カカシは巻物に目を落とし、わたしに触れないようにと思ってなのか、巻物の端の方を掴んで受け取った。
 カカシの手に無事に渡ったことを認めて、冷蔵庫の前に戻り、扉を開ける。三代目の予想通り、中はガランとしていた。開封済みの牛乳一本しかない。
 ここまで何もないとは思わなかった。しかし詰め込みやすい。買い物袋の中の、冷蔵保存した方がいいものを選別し、中へと詰めていく。

「……なにしてんの?」

 そういえば勝手に冷蔵庫を開けてしまった。カカシとはいえ、一応他人様だ。

「三代目から命じられたの。チャクラ切れでまともに食べていないかもしれないから、何か買って行けって」

 選別が終わり、それらを冷蔵庫へ移したら、残ったものはどうするべきか。小さなダイニングテーブルがあるので、その上に並べた。
 空になった買い物袋を畳みカカシの様子を窺えば、少し俯いている。表情まではまったく読めない。
 どんな顔しているのか気になって、近づく口実にと、わたしはリンゴを一つ手に取り、蛇口の水で洗った。ハンカチを取り出して水滴と共に汚れを拭い、きれいになったそれを持って、カカシのベッドへと歩み寄る。
 傍へと寄るわたしに、カカシの体が強張る。あのカカシがだ。わたし相手に緊張している。

「……自分の限界くらい、把握しなさいよ」

 小言を口にしながらリンゴを突き出すと、カカシは恐る恐るといった具合で、わたしの手からリンゴを受け取った。そのときもやはり、指は触れなかった。
 受け取りはしたものの、カカシはリンゴを食べようとはしない。まだリンゴを噛むまでには回復していないのだろうか。包丁を使って剥けばよかったかもしれないけど、三代目は明日から復帰すると言っていたから、リンゴくらいかじれる力は戻っているはずだ。

「元々、オレの目じゃないからね」

 体力回復のため、ずっと転がっていたのか、ツンツンと逆立つ髪の毛も、後頭部は少し平らになっている。夜と血の、色違いの目を晒すカカシは、ベッドに座っていても相変わらず猫背だ。

「お前にやれたら、いいのにな」

 言って、リンゴを持っていない手で、カカシは左目に触れた。今すぐここで、えぐり出しても構わないとでも言いたげだ。
 オビトの目を、わたしにやるって?
 この世に残る、たった一つのオビトの欠片を? 意志を?

「やめて」

 左目に触れていた手を掴んで、目元から引き離した。

「オビトがどんな気持ちでその目をカカシにあげたのか、あんたが一番分かってるでしょ」

 オビトがその目をあげたのは、自分の死を覚悟したからだ。もう助からない、ここで命を落とすのだと、十三の子どもが悟った。その上で、オビトはカカシに、写輪眼と意志を託した。その目でリンや木ノ葉の里を守ってほしいと。
 なのに、わたしにあげられたらいいなんて、軽々しく言わないで。オビトの気持ちを最後まで尊重してほしい。

「でも、オビトを一番想っているのはサホだ」

 掴んだ手が、逆にわたしの腕を掴んでくる。真っ直ぐに射貫くのは、色違いの両目。
 カカシは、わたしが好きなのはオビトだと思っている。お前が好きなのは自分ではなくオビトだろうと、確認され、念押しされているようだ。
 それはそうだろう。だってわたしはずっと、オビトを好きだった。カカシにオビトの目を見せてくれとせがむほどに、恨むほどに。

 わたしは、オビトを好きじゃなきゃだめなんだ。

 どうしようもない。わたしは恋い慕う者を間違えてはいけないらしい。
 わたしはオビトを好きでいなければいけない。リンもみんなも、誰よりもカカシがそれを望んでいる。
 だから、そんな風に望むカカシは、わたしのことなど何とも思っていない。『同期の仲間』か、それ以下でしかない。
 やっぱりだめなんだ。わたしは、決められたわたしに逆らうことが許されない。そんな風に振る舞ってきた故だと十分に自覚しているけれど、オビトを好きなわたし以外は、みんないらない。カカシもいらない。いらないんだ。
――だったら、こんな『わたし』なんか捨てればいい。

「サホ?」

 カカシがわたしの名を呼ぶ。同期の仲間として、同期の仲間を。もう友達ですらない。アカデミーに居た頃の方が、ずっと近かった。『はたけくん』と呼んでいたあの頃の方が。

「そうよ。わたしが好きなのは、オビトよ」

 口の中で転がした呪文は、転がしたからか震えていた。みっともない宣言だ。もっと堂々と言えばいい。オビトを好きで、オビトの意志を継ぐわたしを、わたしは誇らしかったじゃない。『オビトのために』を大義名分に、無心でいられた。余計なことなんて考えなくて済んだ。
 捕らわれている手を引いて逃れ、額当てを取った。ベストの留め具を外して、そのまま床へと落とす。ベスト自体に重みがある上、巻物など忍具も備えているので、鈍く大きな音が響いた。

「サホ?」

 戸惑うカカシを無視して、わたしは身に着けていた装備を外していく。手のグローブも、腰のポーチも、腕に仕込んでいた袖箭も、ホルスターも。ベストと同じように、次々に床へ横たわる。
 大分軽くなった身に残るのはいつもの忍服。躊躇いを振りきり、手をかけ脱いでいく。

「ちょ――」

 脱いで下着になると、カカシは言葉を詰まらせ顔を反らした。今度はボトムスから足を抜いて、そのまま床に放置する。肌を隠すほとんどが失せて、外気に晒されて寒いけれど、震えは必死で押し殺した。

「前に、あんた言ったよね。オビトの目で抱いてやるって」

 胸を覆うためだけの、飾り気のない下着を取る。圧迫から解放されたのに、息がうまくできなくて、呼吸は浅いものになる。
 自分の肌を隠す最後の下着まで脱げば、たった数十秒でわたしは裸になった。カカシはこちらを見ないようにと、撫でつけられたような後ろ髪をわたしに向け続けている。
 そのカカシの傍に膝をついた。ベッドが小さく軋み、剥き出しの肌にシーツのひんやりとした質感が直接伝わる。
 両手もベッドにつけ身を乗り出すと、カカシはいよいよ体ごと向きを変えた。白い銀の中に埋もれる耳へ向け、乞う。

「抱いてよ」

 心細げな声はふしだらな状況を味方につけ、艶を含んだ色を少しでも纏えただろうか。羞恥と緊張で、心臓がかつてないほど大きな音を立てている。
 カカシはゆっくりと、本当にゆっくりと、体を戻して、顔も戻して、色違いの両目でわたしを捉えた。
 揺れる、血と夜の色。

「……本気か?」

 わたしが本当にそれを望んでいるのかと、カカシが低い声で問う。

 そんなこと、訊かないで。

 答える代わりに膝立ちになり、幾分見下ろした先にあるカカシの頬に両手を添えた。マスク越しでも、カカシの体温が伝わる。見た目よりずっと熱い。

「おねがい……」

 甘い睦事をねだっているのではない。殺してくれと頼んでいる。
 『オビトを好きなわたし』を望むなら、その手で思い知らせてほしい。希望も期待も全部壊して、『カカシを好きなわたし』をその手で殺してほしい。そうしたらわたしは、みんなが望むように、ちゃんと『オビトを好きなわたし』を演じ続けられるから。
 カカシは夜色の右目を閉じた。自分の頬に触れる手を取って、わたしを引き寄せる。ごとんと、リンゴがベッドの端から落ちて、床の上で転がる音がした。
 抱きしめる腕は力強く、痩せているように見えて、ほとんど筋肉で構築されている体は硬く、厚い。
 カカシの両手はわたしの体を確かめるように、肩や、腕や、腰を這う。そのたびに、ぞっとするような痺れが全身に走る。恐怖ではない。カカシに今、こうして触れられていると考えるだけで、腰の奥がぎゅうっと痛む。
 知らなかった指先が、背中を走る大きな傷痕を優しくなぞっていく。あの日、カカシがわざと作った傷痕は、わたしの純潔を、任務という感情の伴わない温度で踏み荒らさないためのものだった。守ろうとしてくれた。
 その守ろうとしたものを、今から自分の手で汚していくのはどんな気分だろうか。せっかく手をかけたのに無意味だったと、がっかりしてくれるだろうか。
 体を離されると、何の合図もなく唇が塞がれた。いつの間にマスクを下ろしたのか、指とは違うカカシの[くちばし]が、よく似たわたしの膨らみを食む。

「ん――んっ」

 柔らかさを確かめるように何度も啄まれ、互いの呼吸がゼロ距離で交わる。
 キスは初めてではない。以前に、丸薬を飲ますためにと口移しされた。あのときは生死の狭間に面していて、背中も焼かれて、もはや唇が合わさっただとか、初めてだったのになんて、もうどうでもよくなってしまった。とにかく痛くて仕方なかったし、生き延びたかった。
 薄暗いカカシの部屋で、わたしは裸で、ついには湿った舌で口の中まで荒らされている。しかもわたしたちは相変わらず、恋人でも何でもない。変な話だ。わたしたちはこんなことをしていい関係ではないのに、どうしてこんなことをしているのか。
 キスに飽きたのか、カカシは唇から顎を伝い、首、鎖骨、肩と、あらゆる場所に口づけを落としていく。そっと顔を見てみれば、わたしが頼んだ通りに、左の赤い目だけが鈍く光っている。

「オビト……」

 オビトだ。オビトがわたしを、わたしを見ている。

「オビト……オビト……」

 そうだ。わたしはオビトに抱かれるんだ。カカシにじゃない。オビトに抱かれる。間違えちゃいけない。“わたし”は今から死ぬのだ。
 うわ言のようなわたしの呟きに構うことなく、カカシは体をまさぐっていく。

「オビト、オビ――ん、やっ……」

 胸を掴み揉みしだかれると、オビトの名をまともに呼ぶこともできなくなる。知らない感覚に、全身の肌が一斉にざらつく。勝手に体が丸くなって、わたしの首元に鼻や唇を埋めるカカシの髪が顔をこする。
 チクチクとくすぐったいそれから逃げるように顔を上げると、カカシのベッドの、ヘッドボードに立てられている写真立てが目に入った。嵌めこまれている写真には見覚えがある。ミナト班が結成されたときに撮って、オビトの家にも、リンの家にもミナト先生の家にもあったものと同じ。
 未知の刺激にされるがままのわたしの目に、真っ先に飛び込んだのはオビトではなくカカシだ。幼く、まだ体もできあがっていないカカシが、三白眼でじっとこちらを見ている。
 小さい頃のカカシとの記憶が頭を駆けた。初めて話した日。目の前で泣いた日。
 恋しい相手のことを秘密にしてと頼んだ。家に行って、送ってもらった。『待っている』と言った。
 忍の現実を前に足が竦んだわたしの背中を押してくれた。修業をして、鍛えてもらった。
 額を寄せ合って、涙を流して、誓い合って、恨んで、守ってくれて、惹かれた。
 わたしの人生には、オビトよりもリンよりも、ずっとカカシが傍に居た。
 太陽のようにわたしを照らしたオビトや、憧れを抱いた菫の花のリンよりも、不安や悲しみから守るようにと、くるんでくれた夜があった。

「――カカシ」

 名を呼ばれたカカシはピタリと止まった。荒々しかった手や、肌を伝う唇の動きは静まり、わたしの様子を窺おうと顔を上げる。見られたくなくて、両腕を前に持ってきて壁にした。

「サホ」

 名前を呼ばれても、返事なんて無理だ。必死で堪えている。口を開いたら、きっと涙に濡れた情けない声が出る。
 腕の壁の避けて、カカシの手がわたしの頬に触れる。さっきまでの激しさなど嘘のように、指先は優しい。

「もう、ほとんど思い出せないの」

「どんな声で呼んでくれていたか、思い出せない」

「写真があるから、顔は忘れない」

「でも、オビトはずっと、あのときのままで」

「だけどわたしは、生きていて、大人になって」

「オビトを思い出にしてしまう」

「思い出すの。思い出すのよ」

「いつだってオビトを見ていたのに、聞いていたのに、好きだったのに」

「わたし、オビトを一時でも忘れるのよ」

 涙と共にぽろぽろ零れた言葉は、思いつくままで、感情が散らかったままだ。
 夢で見るオビトは、声が音としてではなく、意識として届く。わたしの耳には何も響かない。不安になって仕舞っていた箱を開ければ、オビトの家から持ち帰った写真で顔は確認できる。でもそれは、子どもの姿で時が止まったままのオビトだ。
 色んな人やものがオビトを置いていく。オビトはずっと岩の下で一人なのに、わたしは知り合いが増えて、大人になって、上忍になって。
 そしてオビトじゃなくて、違う誰かを求めるようになってしまった。あんなに好きだったのに、あんなに忘れられなかったのに。
 泣くわたしを、カカシは掛け布で包む。晒されていた肌が、冷たい空気から庇われる。

「大丈夫だ」

 目元をこすって、涙を拭うわたしの両手をカカシが取り、顔から下ろす。

「オレが知ってる」

 カカシの顔を見ると、閉じていた右目が開いて、色違いの両目をわたしに向けていた。

「この世の誰よりも、お前が一番オビトを好きだって、オレが知ってる」

 幼い子どもに言い聞かせるような、穏やかな声音だ。わたしを落ち着かせるために、心配ないと言ってくれている。
 けれど、そうではない。わたしはそうじゃない。

「ちがう……」
「違う?」

 涙はまだ止まらない。カカシが余計なことを言うから、次々に溢れてくる。

「ちがう。ちがう」

 首を振って否定を繰り返すわたしに、カカシは訝しげな表情を作る。

「オビトが、好きだった」

 言うと、カカシは、

「ああ、知ってる」

当然だとばかりに肯定した。カカシの中では、わたしがオビトを好きだというのは、たとえ天地がひっくり返っても変わらない事実なのだろう。

「ちがう」
「……何が?」

 尚も否定を続けるわたしに、カカシは頬に手を添えて、小さく問う。

「好きだった……好きだった……好きだったの」

 好きだった。オビトが好きだった。オビトは確かに、わたしの太陽だった。
 だけど――気づけばそれらは全て、過去のものになっていた。今も好きなはずなのに、表すならば『好きだった』になってしまう。オビトは過去の一つに溶けていく。
 時の流れと、止められない成長と、どうしようもない現実が、わたしを変えてしまった。

「サホ」

 呼んだカカシの顔を、今やっとはっきり視認できた。ずっと見たことがなかった鼻や口は、こんな形だったのか。思っていたよりずっと整っている。唇から少しずれた左下には黒子もあった。
 カカシはやはり、夜だ。目にも、口元にも、星を携えている。
 視線を上げれば、色違いの両目。夜と血は見開かれていて、わたしだけを捉えている。赤い目のわずかな発光が、紋様をくっきりと浮かび上がらせる。
 手を伸ばし、左の瞼を、そっと指で下ろして押さえた。

「オビトの目で、わたしを見ないで」

 残されたのは、夜色の右目。カカシの目。
 その目を見る。その目だけを。
 わたしが欲しいのはオビトの目じゃない。
 小さな星が瞬く、夜色の右目だけ。

「どうしてこうなっちゃったの……」

 呟きと同時に、再び頬を涙が滑っていく。
 わたしはオビトを好きだったはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろうか。オビトを忘れて、どうしてカカシを好きになってしまったのだろう。
 開けられているカカシの右目が苦しそうに細くなる。カカシはわたしの後ろに両手を回すと、掛け布ごときつく抱きしめてきた。

「サホ。オレたちは生きてる。生きてる限り、変わらないなんて無理だ」

 ぎゅっと力が込められて、体が軋む。でも抜け出したいなんて思わない。むしろもっと、もっと強く。放さないでほしい。わたしの全部が、カカシの腕の中に収まったままでいたい。

「変わることが怖いのは、オレも同じだ。お前なんか、オビトオビトとうるさいお前なんか、鬱陶しかったのに」

 自分の匂いでもこすりつけるように、カカシは何度も自身の顔を、わたしの肩口に押し付けた。熱い息と共に、温い水が肌に落ちる。

「でも、その鬱陶しさが、オレを生かしてくれた」

 泣いているカカシをわたしは抱き返した。腕の中で吐露するこの男が愛しくてたまらない。背中に手を回して、呼吸と共に大きく動く体を慰めるよう、何度も撫でる。カカシはもっと密着できる形を求めて体を動かし、少しでもわたしと多く触れる場所を探し続ける。

「オレを恨むことでお前が生き続けてくれるなら、オレはどんな形でも生きてやる。お前を死なせない。お前だけは、絶対に」

 カカシの言葉に、オビトや、リンや、クシナ先生やミナト先生の顔が浮かんでくる。カカシやわたしの心に大きな穴を開けた人たちは、やっぱりあのときのまま止まっている。先生たちの子どもは、もうアカデミーに通い始める年頃になったというのに、記憶の中のみんなが何一つ変わらないままなのは、死んでしまっているからだ。

「サホ、生きて。オレの傍で。ずっと。オレと生きて」

 カカシと生きられたら――そんな生き方を選んでもいいのだろうか。
 ずっと、オビトのために生きてきた。そのつもりだった。リンを守れず、先生の子どもを大人たちの嫌忌から庇うこともできないくせに、『オビトのため』と称してわたしは精一杯頑張っているつもりで、変えられない現実から逃げていて、自分の意思で歩くことも恐れてばかりだった。
 そんなわたしが、『カカシと』生きていいのだろうか。許されるだろうか。
 もし、それが叶うのなら――カカシの腕の中で浅ましくも願った。



54 取り残された咎人たち

20190224


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