最果てまでワルツ | ナノ
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 カカシに押し倒された日から、夢に出てくるリンは何も喋らない。ただ、無言でわたしをじっと見てくる。見つめているだけなのか、睨んでいるのか分からない。目を凝らしても判別がつかない。
 代わりにオビトは、まるでリンの分までと言わんばかりにとてもお喋りになった。

「リンが泣いてる。リンが泣いてるんだ。サホのせいだろ。サホが泣かせたんだ。どうして。どうして。お前、守るって言ってくれたじゃないか。どうして守ってくれないんだ。リンを、リンを、どうして。守るって言ったのに。オレの代わりにって」

 そうやってわたしを責める。でも、責めているのは分かるのに、いまいち実感がない。
 夢の中では全てが曖昧で、そういえばオビトの顔もぼんやりしている。声にも、何か分厚い膜が張っていてうまく聞き取れない。耳で聞かなくても、頭の中で響いているから文字としては伝わる。だけど声としては聞こえない。
 以前よりも起き抜けに吐く回数は減ったけれど、目覚めはいつも悪くて、体はいつまでも怠い。薬の効果もあって、時間だけ見れば以前よりずっと眠れているのに、相変わらずまともに眠った気がしない。


 カカシの姿は見ていない。あの日偶然出くわしたのは、本当に奇跡のようなタイミングだったのだろう。
 今もテンゾウの部屋に入り浸っているか、女性の家に身を寄せているか。わたしには、その中のどれかだということしか分からない。

 あれ以来顔を合わせていないから、カカシは、わたしがオビトの目である左目を独占したいのだと誤解したままだ。
 違う。そうじゃない。わたしはオビトの目を自分だけのものにしたいのではない。オビトの目は彼が望んだ里の平和のために使ってほしいし、オビトの目が想うのは、今となってはリンだけであってほしい。
 だけど、『違う』と否定してしまったら、どうなるだろう? わたしはずっと『オビトを好きな、かすみサホ』として生きてきた。カカシだってそのわたししか知らない。
 それなのに、急に『実はオビトじゃなくてカカシが好きみたい』なんて言い出したら、カカシは絶対に困るに決まってる。自分をあれほど恨んで、憎んでいる女が、いきなり自分を好きだなんて知ったら、どう扱っていいか分からなくなるだろう。
 わたしだって、オビトを好きだったはずなのに、なぜカカシにこんな気持ちを向けるようになってしまったのか分からない。いつからなのか、果たしてこれは本当に恋愛でいう『好き』なのか、それとも友情としては度が過ぎてはいるが、親愛の内に入る『好き』なのかも分からない。

 自分でも整理できないこの感情の名前も分からないのに、これ以上カカシを振り回したくない。
 だから、わたしはオビトを好きなかすみサホでいなくてはいけない。
 オビトを忘れないためにも、リンを守るためにも、カカシを困らせないためにも、わたしはオビトを好きでいなくては。



 今現在、Bランクの任務を三つ掛け持ちしている。掛け持ちとは言うものの、内容自体はさして難しくない。わたし個人に与えられただけあって、封印術や結界忍術に関するものでもあったので、多少時間はかかるけれど予定通りにきっちり終わらせることができるはずだ。
 多くの文書を収めるアカデミーの資料室は勉強する上で欠かせない場所であり、忍になった当初から常連の一人に加わっている。
 長年通えば自然と顔見知りは増え、立ち話をするほど親しくなった人も居れば、何年も会釈する程度の距離を保ったままの人も居る。
 チームメイトだったヨシヒトがアカデミーの講師になって以降は、クシナ班解体後よりも、顔を合わせる機会がずっと増えた。お互い仕事があるので、軽く立ち話をする程度ではあったが、近況を知るのに十分だった。

「サホ。お昼を食べよう」

 資料室の机一つを占領し、いくつもの本を広げて作業に集中していたら、何の気配もなく現れたヨシヒトに声をかけられた。存在に気づかないほど集中していたのか、わざとヨシヒトが気配を消して近づいたのか定かではないけれど、断ることを許さない威圧感に頷くほかなかった。
 本や巻物、筆記具などの道具を一旦片付け、机を空けてからヨシヒトと共に資料室を出る。そのまま外へと向かうつもりのようで、ヨシヒトは廊下をスイスイと進んでいく。

「あ、ヨシヒト先生」
「せんせー、オレの弁当、今日はから揚げ入ってた!」
「ヨシヒト先生、ご飯食べないの?」
「今から食べに行くよ」

 あどけない生徒たちがヨシヒトに声をかけ、ヨシヒトは穏やかに言葉を返す。講師になって大分経てば、『ヨシヒト先生』と呼ばれている姿も見慣れた。生徒たちは手にボールを一つ持っている。きっと校庭で遊ぶのだろう。いい腹ごなしになる。
 ヨシヒトは目的地が定まっているのか、その足取りに迷う素振りはなかった。わたしに了解を取ることもなくアカデミーを出て着いたのは、人気のない通りを抜けた先の、こじんまりとしたカフェだ。

「ランチもやってるから、ここで構わないだろう?」

 店のドア近くには、『本日のランチ』が貼り出されている。特に異論はないので、戸を開けて中へ入るヨシヒトに続き、店へ足を踏み入れた。カランと鳴ったドアベルに反応して、店員が声をかける。ヨシヒトがやりとりをして、店の奥の二人掛けの席に腰を下ろした。
 本日のランチを選び注文し、場は一旦落ち着く。

「何なの、その肌」

 開口一番、肌がひりつくような険しい声に、思わず目を瞑った。

「髪も傷んでるし、目は充血してクマがひどい。『やつれている』の権化だよ」

 今ここに鏡があって覗き込んだとしたら、きっとヨシヒトが言うとおりのわたしが居る。かさつく肌、ごわつく髪、真っ赤な目にくっきり残るクマ。しかしこれでも、一時に比べたらマシになった方だ。

「ナギサから少し聞いてる。眠れていないんだって?」

 伏せていた瞼を少し上げて、ヨシヒトの様子を窺う。お冷のグラスに手を付けず、テーブルの上で指を組んでいるその手は、不調が原因らしい凹凸した爪や、ささくれの多い指先を持つわたしと違い、細部にまでしっかりと手入れが行き届いている。大きさや長さは男性だけれど、肌の瑞々しさや整えられた爪の形は今日も変わらず美しい。

「……薬が効いてるから、前よりは寝てるよ」
「それにしてもひどいね」

 何とか答えても、ばっさりと返されてしまい、グッと口を引き結んだ。だって事実だ。自分で見ても本当にひどい顔をしているから、美意識の高いヨシヒトから見れば『ひどい』の一言じゃ済ませられないのも無理はない。だからここ最近、アカデミー内で作業をする際は、ヨシヒトの目に付かないように気を遣った。顔を合わせれば最後、必ずこの不調につっこまれる。
 黙ってしまったわたしに、ヨシヒトはそれ以上は続けなかった。わたしの出方を窺っているのかもしれないし、苛立ってもう喋りたくもないのかもしれない。長年同じ班で組んでいても、班解体から時が経っていると昔ほどヨシヒトの考えは掴めない――昔も掴めていたかは難しいところだけれど。

「ごめん。そんな話をしたかったわけじゃないんだ」

 大きな息をついたあと、ヨシヒトはそう言って、組んでいた手を解いてグラスを取った。一口飲んだあと、小さな音を立ててテーブルに置くと、また手を重ねた。

「何か、悩んでる?」

 さっきとは打って変わって、ヨシヒトの声は落ち着いている。怒りなどは感じ取れず、見えるのは心配そうな表情。

 心配、してくれてるんだ。

 ヨシヒトは、わたしが何か悩んでいて、それで不眠に陥っているのだろうと危惧してくれた。
 そうだと気づくと、今度は申し訳ない感情で、口は貝のように閉じてしまう。班が解体されたあとでも、ヨシヒトがわたしを気に掛けてくれるのは有難いことではあるけれど、やはり言えないものは言えない。たとえ背中を預け合った元チームメイトであっても、打ち明けられるものではない。
 沈黙し続けるテーブルに、注文した料理を店員がそっと運んできた。品名を口にしながら置いたあと、店員は一礼をして静かに下がる。

「先に、食べようか」

 声をかけられ、頷いた。それぞれ食事に手をつけ、黙々と口に運ぶ作業を続けていく。
 一つのプレートに乗せられた、お洒落なご飯。鮮やかで食欲と共に美意識も刺激するような彩りがきれいだ。使われている具材の種類が多いのに、実際にプレートに乗っているのはほんのわずかだったりするので、これを家で作るために材料を一揃えしてしまうと、似たようなプレートを数日ほど量産することになりそうだ。
 もし、今のわたしが万全な状態であったなら、きっと二人でそんな会話でもしていられただろう。ここにナギサを連れてきたら、また居心地が悪いって言うかな、などと話題にもしただろう。
 プレートを空にし、テーブルから下げられると、代わりに食後のお茶が届いた。湯気が立つカップに一度口を付けてから、

「僕の話をしてもいい?」

とヨシヒトが言うので、わたしは頭を一つ縦に振った。
 店内には窓がいくつかあって、そのうちのほとんどは通りに面している。そこからわずかに見える外を眺めたあと、ヨシヒトは語り出した。

「アカデミーで講師として生徒を受け持つようになって、色々考えることが増えてね」

 講師になって、どれくらい経つだろう。『ヨシヒト先生』はちゃんと幻術の授業をしているだろうか。ナギサと二人で気がかりを口にすることはあったけれど、今のところ辞めさせられていないし、生徒たちから慕われているようだから、きっと悪い先生ではないとは思う。

「自分の持っている知識や技を、生徒たちに教えるのはなかなか骨が折れるよ。頑張っても基礎が身に着かない子、元々幻術の素質がない子、すでに初歩知識も術も覚えているからと、授業中に遊びだして周りのペースを乱す子。様々だ。最初はね、授業計画通りになんて進まない日も珍しくなかった。これは君たちに必要な知識なんだと丁寧に説く日もあれば、厳しく指導した日もあって、やる気や興味のない生徒に、自分の授業はどうやったら真面目に受けてもらえるのか、自問自答の日々だ」

 わたしやナギサの心配などいらなかった。ヨシヒトは立派に講師の責を果たそうと努力し、壁にぶつかって悩んでいた。

「そうやって、たくさんのまっさらな子たちに教え続けていく中で、気づいたんだ。サホに対する僕の美の指導の仕方は、間違っていたんだと」
「間違っていた……?」

 ヨシヒトは自信に満ちた男だ。自分の美しさや美に傾ける情熱に、一種の誇りを感じている節もある。それほどに、月下ヨシヒトという男は、外野からすれば呆れるところもありはするが、自分の美学に迷うことはなかった。

「指導内容は問題ないと自負しているよ。現に君は伸び代を残してはいるが、きれいになった。ただね。君を美しくするためにと、飲みこみきれるかどうか確認もしないで自分の知識をひたすら注ぎ、無駄や欠点を酷評というやすりで削り続け、力を入れて磨けばいいというものじゃなかった」

 そこで一度言葉を止めて、ヨシヒトは目を一度閉じた。瞼のうっすらとした丸みが浮き上がる。目を縁取るような睫毛の簾が、そっと上がった。隠されていた瞳の色は、宝石によく似ている。

「僕は君の中の、大事なものまで削ってしまった」

 硬い声が、テーブルの上に転がる。

「“自分”だよ。僕は君に、僕の理想を押し付け、“自分”というものを持つことを許さないように育ててしまったんではないかと……そう思ったんだ」

 心底悔いているのか、いつも堂々と発言するヨシヒトから考えられない弱さが見えた。しかし、思いつめた表情のヨシヒトには悪いが、唐突な内容に驚くばかりで、うまく理解できず話についていけない。

「そ……そんなことないよ? わたし、自分勝手だよ。知ってるでしょ。カカシのこと……」

 わたしは“自分”を持っている。カカシに対して、周りが呆れるほど自分本位に振る舞っている。これのどこが、“自分”がないと言うのだろう。自己中心的かつ、外罰的な至らない人間ではあるけれど、だからこそ“自分”がないなんて、そんなことあるわけがない。

「そうだね。君は自分勝手だ。自分勝手にカカシを恨んでいる。でも、君のその恨みの根源にあるのは、オビトだ」

 ヨシヒトはわたしの言を肯定しつつも、否定するような強い瞳を向ける。

「サホは自分勝手だよ。だけどそれは自分のためじゃない。リンを守ろうとしたのは、オビトの想いを尊んで代わりを務めようとしたから。カカシを恨むのは、オビトとの約束を違えた罪を咎めるため。里に尽くすのは、戦のない平和な日々を望んだオビトのため。君は自分のために生きているようで、いつもオビトのために生きようとしている。それが悪いことだとは言わない。仲間を思う気持ちはね。ただ……」

 朗々としていた語り口は淀み、止まる。しばらく間を置いて、再び口は開かれた。

「ねえ、サホ。君は、君自身が望んで、今の君があると、本当に言える?」

 わたしの頭にきっちり届くようにと思ってなのか、ヨシヒトは丁寧に区切りながら問う。
 わたしは、わたし自身が望んだわたしかどうか?

「どういう意味?」
「そのままだよ。今の『かすみサホ』は、君が望んだ君かい? 君が着る服のスタイルや、髪の手入れ、使う化粧品や日頃の食事の選び方、仕草、美に関する生活習慣は、全て僕が押し付けたものだろう?」
「そう……だけど……」

 着用している忍服は、下忍の頃に一番似合うとヨシヒトが言った服装と似た物を選んでいる。化粧品も石鹸も、持ち物の種類も素材も、全てヨシヒトの言葉通りに選択した物ばかりで、見直せばわたしはヨシヒトに言われるがまま生活している面が多々ある。

「ちょっと待って。今のわたしは、ヨシヒトの言いなりになって、流されてきたわたしだって言いたいの?」

 自分でも気づかぬ内に大きな声が出ていたようで、他のテーブルにつく客からの視線を集めてしまった。好奇の目から逃れるように慌てて顔を伏せる。カップの中の水面に移る自分は、不確かながらも不安気な色を浮かべていた。

「僕は、君の“自分”――つまり自尊心を削ってきた。君の努力に目を向けることなく、気に入らなければ容姿や服装に文句をつけた。君が弱っていようが美しくあれと強要し、僕の思うとおりにできない君を咎めた。おかしいよね。僕とサホは違う人間だ。僕にはできてサホにはできないことも、逆も、たくさんあるのに、僕はサホを僕の理想に近づけるために、要らないと判断した、君を形成する大事な一部も削れと強いしてきたんだよ」

 淡々と吐き出していく様は、まるで自白だ。

「そのおかしさに、僕は講師になってやっと、本当に思い知ったんだ。前に一度、気づいたはずなのに忘れていた。君と僕は違う人間で、君には君の美しさがあると」

 前に一度。いつの話だろう。ヨシヒトと過ごした時間は多かったので、探るのに少し時間はかかったけれど、思い当たったのはオビトが死んでしまったときだ。家に来て、一日泣いたらすぐに頭を切り替えるべきだと言われた。でも次に会ったときに、自分は間違っていたと、サホにはサホのやり方があるからと、ヨシヒトは訂正した。

「サホ。自分を削ろうとすることに慣れてない? 相手の望む形に添わない、期待に応えない自分に価値はないと恐れてない? 向けられる批難は全て正当性があって、好意であるならどんなものでも受け入れるべきだとか、作られた枠の中で指示された通りに生きることが正しいと」

 妙に働きのいい頭が、先ほどと同様にわたしの過去を勝手に探り始める。
 中忍の男性やうちはの男性に告白されたとき、断って不快な思いをさせてはいけないと怖かった。大罪を犯すかのように思えた。
 変な噂が流れて、周りからの嘲笑めいた視線に『自分は正しくないのだ』と恐ろしくなり、群れから突き放されはぐれたようで心細かった。
 特別上忍ではなく上忍への昇格を告げられた際には、自分にはそんな大層な役は務まらない、きっと期待に応えられないと逃げたくなった。
 センリ上忍が抜けた穴を埋めるには、センリ上忍と全く同じように貢献しなければと考えていたのに、それは違うのではないかと問われると、途端に真っ暗な道に放り出された気分になった。
――わたしはいつも、怯えていた。怒らせること、嫌われること、間違っていると思われること、期待に沿えないこと、道標がなくなること。

「自分の意など後回しにして仲間の宿願を重んじるのだと、決めつけてない?」

 ドクンと、心臓が一際大きな声を上げる。過ぎるのは、わたしを咎めるオビトの、黒檀の目。

「もしそうだとしたら、僕はとんでもないことをしてしまった。君が自由に生きる意思を潰してしまった」

 テーブルの上に置かれていたヨシヒトの手が、ぎゅうっと握りこまれ拳を作った。込められた力の分だけ指先が赤くなり、白い肌との対比が目につく。

「サホ。サホが、忍という仕事や、それ以外でも、なんでも。何か迷っていたり、諦めたり、手放しそうになっているのであれば、そんなことはしなくてもいいんだよ。僕のためや、誰かのためなんて気にしなくていい。顔色を窺わなくていい。手本に従って、なぞろうとしなくていい。君が選んだ答えは、周りがどう言おうと、君にとって正しいんだ」

 語り口は必死と紙一重で、わたしのために言葉を尽くそうとしているのがいやでも分かった。
 ヨシヒトが問うたことすべては、心当たりのあることばかりだった。自分に自信がなくて、だから他人からの評価を気にして、常に『正解』を選び続けなければいけないのだと、強迫観念めいたものが染みついている。

「……ち、違う。そんな、ヨシヒトのせいじゃないよ。わたしがこうなのは、わたしだけのせいだよ」

 自分の心の持ち方を、人のせいにして何になるだろう。そこまで言うなら責任を取ってくれと言って、解決するような話じゃない。
 今ようやくはっきりと自覚した、わたしの情けない、みっともない人格形成に影響したのは、何もヨシヒトだけじゃない。父や母や兄、友人や同僚や先生たちという、今まで関わった全ての人たちとの交流も関係している。
 何よりこの性根は、産まれ持ったわたし本来のものだろう。わたしがこうなのはヨシヒトのせいでも、誰のせいでもない。『かすみサホ』はわたしが作り上げたのだから、この至らなさの責任は、わたしだけにあるはずだ。

「ヨシヒトは厳しかったから、もしかしたら、人の顔色を窺う癖がついたのかもしれない。でも、わたし、ヨシヒトには感謝してるよ。ヨシヒトのやり方が間違っていたかどうかは、わたしは分からないけど、わたしはヨシヒトに鍛えられてよかったって思ってるから」

 今日までに身に着いたわたしの美意識はヨシヒト譲りで、だけどそれらは全て、結果的にわたしにとって良いことだった。ヨシヒトのおかげでそこそこきれいにもなれた。ヨシヒトが鍛えてくれなければ、今のそこそこきれいなわたしは居なかったというのは変えようのない事実だ。

「サホ……」
「本当に、気にしないで。だって、ね。『きれい』って言われたこと、何度かあるの。もちろんお世辞の類だって分かってるよ。でもね、わたし、すごく嬉しかった。ヨシヒトのおかげだよ。ヨシヒトが色々教えてくれたから、わたし、『きれい』って言ってもらえるくらいになれたんだから。だから、自分のせいで、なんて思わないで」

 固い面持ちが崩れないヨシヒトに、本当に感謝しているのだと、ヨシヒトがしてくれたようにわたしも言葉を尽くそうと口を回した。嘘偽りなど何一つない。もう少し本音を言えば、彼の指導を面倒だと感じたことはもちろんある。けれど億劫に感じたのはヨシヒトのチェックが事細かくて少しの気も抜けなかったからで、それだけわたしへの指導に真剣だったと解釈もできる。

「……ありがとう。そう言ってもらえると、少し楽になるよ」

 ヨシヒトの強張った表情から、ふっとわずかに力が抜ける。眉が寄せられ、刻まれていた皺もなくなり、口元にもやんわりとした笑みが戻ってくる。
 そうだよ。ヨシヒトは悪くない。わたしをきれいにしてくれたし、そもそも人の『質』というのは、良くも悪くも自身の問題なのだから。
 違う、違うから、ヨシヒトのせいじゃない、大丈夫だからと、わたしは手元に置いているカップに目を落とした。出されたからには飲みきらなければ。けれど喉がちっとも欲しない。
 耳には、店内で響く静かな音が入ってくる。客がソーサーにカップを置く音。フォークやスプーンを扱う音。ドアベルが鳴って、店員が「いらっしゃいませ」と対応していて、決して騒がしくない、穏やかな喫茶店の雰囲気に、高ぶっていた心もゆっくり鎮まっていく。

「ねえ、サホ」

 両手をテーブルの下、自身の腿に置いたヨシヒトは、形のいい目を真っ直ぐにわたしへ向ける。

「カカシのことだけど」

 その名を耳にしただけで、一つ大きな花火が傍で上がったように体が竦んでしまう。

「さっきも言ったけれど、君がカカシを恨むのは、オビトが理由だろう」

 確認を取るヨシヒトに頷く余裕などない。

「なら、君は、君自身は、カカシをどう思う?」

 膝に置いていた手を握りこんで、駆ける鼓動に合わせて呼吸を整えるのに精一杯で、質問から逃げるようにテーブルに視線を落とした。

「サホはまだカカシを恨み続けたいと思う?」

 追ってくる問いは優しくありながらも、逃げることを否とし、見えない腕が回り込んでわたしを捕えている。

「わたしは……」

――わたしは、どうしてカカシを恨んだのだろう。
 今更な話だけれど、わたしがカカシを恨んだ明確な理由は、一体何だっただろうか。
 わたしが一番許せなかったこと。それは――オビトの目でリンを死なせてしまったことだ。好きな人が自分の目で死んでしまうなんて、オビトにとってこれ以上ないくらい悲しくてつらいことに違いないと思った。
 どうしても受け入れられなかった。こんな悲劇は絶対に有ってはならない。こんな不幸は何があっても許されないから。
 だから?
 だから恨んだ?
――そうだ。そうしなければ、わたしは、くじけてしまいそうだった。

 わたし、いつも“わたし”を見失っていた。

 オビトが死んでしまったとき、リンが死んでしまったとき。
 突きつけられた悲しみや焦燥や不安に、混乱し戸惑い、途方もない迷路に突き落とされて立ち止まっていた。自分の指針を突然失って、どうしたらいいか分からなかった。

 ヨシヒトの言うことは、当たっているかもしれない。

 “自分”を持たないようにさせてしまったと言っていたけれど、確かにわたしは“自分”がなかったのかもしれない。
 でもそれは、ヨシヒトのせいではなくて、やはり最初からそうだった。
 わたしはずっと誰かに従って生きていた。最初は親に、アカデミーに通えば教師に。卒業し下忍になったらヨシヒトに、クシナ先生に。この道を進めばいいよと案内してくれる人が居たから、わたしはそれに倣って進んでいけばよかった。
 だけどオビトが死んでしまって、オビトの目でリンを死なせてしまって。従ってばかりだったわたしは、初めて人の言葉を撥ねつけた。どんな言葉をかけられたって心が飲みこんでくれなくて、何が正しくて、何に従えばいいのか分からず、怖くてたまらなかったんだ。

 その度にわたしは、カカシを支えに使って、砕けて崩れて塵になりそうな“わたし”を繋いだ。

 カカシと共にオビトの意志を継ぐと言って、リンが死んでしまったときにはカカシを恨んだ。そうやってわたしは、崩れそうな“わたし”を保った。
 それだけじゃない。先生たちがいなくなったあとはカカシを生かすことで、男性の告白をうまく断る自信がなくて勝手に盾にして、上忍の在り方が見つからないときは一つの道を示してもらった。
 ずっと昔からだ。オビトが死んでしまった頃より、忍になるよりも、ずっとずっと前から。
 オビトと釣り合う自信がなかったわたしに、焦燥と自己不信に立ち向かうきっかけをくれた。オビトがリンを好きだと知ったとき、胸が痛くて仕方なかったわたしの隣に立ってくれた。初めて人を殺したときも、蹲って動けなくなりそうなわたしに歩き方を教えてくれた。
 背中を焼いてくれた。海へ連れて行ってくれた。コイヤブレの種を持っていてくれた。夢見が悪くてやつれていたわたしを心配してくれた。いくらでも思い出せる。

 なのにわたしは、カカシを傷つけてばかりだ。カカシに傷つけられた数より、傷つけた数の方が多いのに、被害者ぶって、八つ当たりして、利用して、縋って。

「サホ」

 名を呼ばれたけれど、心はひどい後悔に苛まれていて、ろくに反応ができなかった。目の端から涙が流れ、滑り、テーブルへと音もなく落ちていく。ランチタイムはそろそろ終わり、まどろみに似た心地よい空気が漂い始めた店内で、わたしは一人泣いている。周りに気づかれてはいけないと、ハンカチを取り出して、目元を押さえた。

「わたしは……わたしは……」

 口を動かせても、どう言えばいいのか分からなくて言葉は詰まる。この感情はどう説明したらいいのだろう。気持ちがぐちゃぐちゃで、ちっともまとまらない。

「サホ。カカシを恨みたいのなら恨んでもいい。でも、そうじゃないなら、それでいいんだよ。自分が今、一番望むことだけを考えて。怖いかもしれない、不安かもしれない。だけど、自分で決めるんだ」

 ハンカチを下ろして、ヨシヒトを見た。微笑む姿は優雅で、古い館に飾られている一枚の絵の中に収まっていてもおかしくない。見物人を引き込む薄く色づきのよい唇が、ゆっくりと笑んでいく様は性差を超えた美しさがあった。

「美しさは強さで、そして強さもまた美しい。どんなに歪でも、どんなに不格好でもね」

 僕が君に伝えたい、最後の言葉にするよ。ヨシヒトは言い終えると冷めたお茶を飲んでカップを空にし、伝票を持って席を立った。追いかけなければいけないと頭で考えていたけれど、わたしの腰は上がることがなく、会計を済ませ店内を出る前に、こちらに向けて美しく微笑むヨシヒトを見送った。
 カラン、とドアベルが鳴る。一人の客が退店したところで、店は何一つ変わらない。空席が一つ増え、みっともない女が一人残されただけだ。

 強さって、なに?

 ヨシヒトはわたしに『強くあれ』と言いたかったのだろう。
 では強さとは、一体何なのだろう。人体を超越するような体術? 自然を凌駕するような忍術?
 いいや。ヨシヒトが言う『強さ』は、唯々諾々と生きたり他人を気にすることを止めて、自分の意志と足でしっかり立って歩く心の強さのことだ。

 わたしは強くなんてなれない。

 弱いの。とても。今もこうして、自分が強くなれない理由を探して、言い訳しようとするくらいに、一人じゃ立てもしない。


「自分が今、一番望むことだけを考えて」


 一番望むこと。
 浮かぶのは、夜色の瞳。

 もし、望んでいいとしたら、わたしはあの瞳が欲しい。

 オビトの目ではなく、よく呆れられて、それ以上に支えてもらったカカシの目が。
 そんなこと許されていいのか。いいや、よくない。カカシをさんざん傷つけ、リンを死なせたことを何年も責めて、どうしてわたしだけが許されるだろう。
 一番望むものなど、欲することはできない。ならば、ヨシヒトの言うとおり強くなりたい。
 カカシを愛さない強さがほしい。あの目に焦がれる心など殺してしまいたい。でもどうしても、カカシの瞳の先に居たいと願ってしまう。そんなことはありはしないと誰よりも知っているのに。
 諦める強さもなければ、貫き通す強さもない。もう縋ってはいけないのに求める浅ましい自分を、カカシが見るわけもない。

 今夜もまた、オビトはわたしを責めるだろう。リンの好きな人に心を寄せてしまうわたしは、オビトに責められて当然だ。オビトの大切なものを守るとあの日誓ったのだから、リンを傷つけてはいけない。
 だからお願い。早く、この心を焼き尽くして。塵一つ残さず燃やして。わたしを照らしてくれていたあの光で、わたしを終わらせて。



52 永遠の陽射しの檻

20190127


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