最果てまでワルツ | ナノ
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 あの日以来、カカシが自分の部屋に帰っていないようだと気づいて、二ヶ月が経つ。
 わたしも任務の都合上、毎日の生活スタイルは決まっていないので、夜に帰ってくる日もあれば朝に帰ってくる日もある。だからカカシと会わなくても何ら不思議ではないけれど、何週間も、本当に一度も、カカシとすれ違わなかった。普段から音を立てる方ではなかったけれど、ドアや窓の開閉音も一切聞こえてこない上、気配すらも感じられなかった。
 カカシとはあれきり、顔を合わせていない。わたしが明確にカカシを拒絶したのだから、カカシだって避けるに決まっている。
 ついには引っ越して空き部屋になったのでは、と気になり、テンゾウを捕まえて訊ねてみたのは、それから数週間後。テンゾウ曰く、カカシはいまだあの部屋から出て行ってはいないと言う。

「時々ボクの部屋に来るんですよ。あの部屋に帰るのがいやなら引っ越せばいいのにって言うんですけど……」

 心から面倒くさそうに、大きなため息を一つ吐いた。

「何があったか知らないですけど、仲良くはできなくても、前くらいの距離感に早く戻ってください」

 彼の言い分は正しく、胸に突き刺さった。無関係なのに巻き込んでしまっていて、申し訳なく思う。嘆くばかりでわたしを責める物言いはしないから、余計に罪悪感が強くなる。

「うちはの件もあって……最近は本当に心配なんですよ」

 苦々しい顔で口にしたのは、うちは一族を襲った悲劇の夜のこと。子ども一人を除いたうちは一族の全員が、同じ一族の少年に殺された事件。うちは地区は、あれからずっと立ち入りが禁じられている。
 両親がいなかったとはいえ、オビトにとっては明確な血の繋がりを持った、広い意味では家族だったろう人たちが、一夜にして亡くなってしまった。
 オビトの一族という意味では、うちは一族というのはわたしにとって特別な一族ではあったけれど、実際にオビト以外に親しい知人はいなかった。恐らく、カカシもそうだろう。

「その件とカカシと、何か関係あるの?」
「……一族を殺したのは、ボクの後輩で、先輩の部下でもあった、うちはイタチです」

 カカシはカカシで、うちは一族の者との繋がりがあったらしい。繋がりなんてないと思い込んでいたので、びっくりして息を呑んだ。同時に、わたしはカカシのことを、本当は何も知らないのだと気づいた。カカシが誰と親しいのか、何を抱えているのか、わたしは何一つ知らない。

「先輩は、イタチがあんな事件を起こすまでに、何か気づいてやれたんじゃないかと、悔やんでいるんですよ、きっと」

 視線を落とすテンゾウに、わたしは無言を返す。仲間思いのカカシなら、自分の仲間が凶行を起こす前に、彼が抱えていた闇を払ってやりたかっただろう。それが、身内を屠るという最悪の形で逃げ去ってしまったのなら、やりきれないものが募るのも分かる。
 謝らなければいけない。あのときはあんな態度を取ってごめん、と。わたしが見間違え、過剰に反応してしまっただけで、カカシは何一つ悪くなかった、むしろ心配してくれたのに、本当にごめんなさいと謝らなければ。わたしが突き放したせいで自分の部屋に帰りづらいのなら、それは仲間のことを悔いているカカシの、身や心を落ち着ける場所を奪っていることになる。
 謝らないと。謝らないと。

 でも、もう、手遅れかも。

 謝らなければいけないことはいくつもあって、謝るチャンスは幾度もあって、なのにいつも勇気がなくて機会を逃してきた。その末路が、これだ。お前にはもううんざりだ、もう顔も合わせたくないと、カカシにとうとう見限られていてもおかしくない。
 いつも後悔ばかりしている。諦めている。仕方ないと言い聞かせている。自分のことばかりで、カカシのことを思いやらずに。
 ごめん。カカシ。ごめん。そうやって、わたしは口に出せない謝罪ばかりを繰り返す。



 カカシと顔を合わすことがなくなって、四ヶ月ほど経っただろうか。マンションに限らず、火影邸でもアカデミーでも、カカシと会うことはなかった。これほどまで長い時間、顔は元より姿を見かけないことはなかった。だからきっと、カカシが意思を持ってわたしを避けている。
 わたし自身は、相変わらず夢を見て吐き気と共に目が覚めて寝不足だし、任務中は活力丸を使用している。だけど、任務内容が楽なこともあって、少しずつ服用する回数は減っている。
 加えて、三代目の計らいから医療忍者の診察を受け、副作用の少ない別の丸薬を出してもらったり、よく眠れるようにと睡眠導入剤を処方してもらってもいる。薬の効きはそれほどよくはないけれど、夢を見ない日も少しずつ増えてきた。
 とはいえ、慰霊碑や墓地にはいまだ顔を出せないでいる。リンやオビトの前に立つのが怖い。今はそれに加えて、カカシに会うことも。
 捜そうという意思さえあれば、見つけられないことはないだろう。慰霊碑やリンの墓の前に居るカカシを呼び止めれば、テンゾウに頼んで連れて来てもらえば。だから会えないでいるのは、わたしがカカシから逃げているだけ。

 処方された薬を取りにアカデミー内の薬局へ行った帰りに、ちょうどナギサに会った。もうすっかり、医療忍者特有の白い上着が板についている。医療忍者同士の会議が行われていて、たまたま通りかかったらしい。
 薬の入った袋を認めると「やつれているとは聞いてたがどこが悪いんだ」と問われ、そのまま手渡す形で答えると、ナギサは中身を確認して眉を顰めた。

「不眠症? まあ上忍になると色々あるのかもな」

 開いた袋を閉じて返される。どうしてこんな名前になったのか、わたしにはさっぱり分からない名前の薬だったけれど何の薬なのかすぐに判断できるあたりはさすが特上の医療忍者だ。

「あるよ。色々と。ナギサの方は?」
「こっちも色々だ。医療忍者になれそうな奴を見繕ってもすぐには育たないから、相変わらず人手不足だ」

 高度なチャクラコントロールなどが必要とされる医療忍者は、志したからといって必ずなれるわけではない。現にわたしはチャクラコントロールは得意な方ではあるけれど、それは結界忍術や封印術に置いてであり、医療忍術には向いていない。
 才がなければ医療忍者にはなれない。だからと言って門を狭くしてもいけない。治癒の手は少しでも多くあらねばならない。そういった人材確保のためにも、センリ上忍たちが火の国の町々に向かい、次世代の木ノ葉の忍と成り得る子どもたちを見つけている。種はすぐに花をつけない。栄養豊かな土に植え、光や水を与え、時間をかける必要がある。

「それよりサホ。カカシの噂、知ってるか?」
「噂……?」

 ナギサの口から『カカシ』という名が飛び出すのはよくあることだけれど、周りを気にして声を抑えて言わなければいけないような『噂』などは耳にしていない。

「いい噂じゃないんだけどな。女と付き合ってはすぐに別れて、またすぐに付き合って別れて、ってのを繰り返してるらしい」
「カカシが……?」

 カカシがそんなことを。信じられなかった。『冷血カカシ』だとか言われているけれど、それは里を守るために徹底的に相手を追い詰め、危険因子を排除しようと尽くしたからで、そもそも人との付き合いも、カカシは特定の人間以外とは当たり障りない距離を置くタイプだという認識があった。
 数ヵ月ほど顔を見ない間に、そんな噂が流れているなんて。カカシも、人並みに誰かと付き合うということに興味があるんだ。
 別に、カカシにそういった欲があるわけがない、と言いたいわけではない。でも、なんとなくそういうものを遠ざけている気がしていた。カカシはたくさんのものを失った。親に仲間に師。だから、失うことを想定し他人との間に一つ線を引いて、わざと大事なものを作らないようにしている気がしていたのだ。

「俺はあいつとの付き合いも減ったから事実は分からねぇけど……実際、どうなんだ?」

 ナギサがわたしに問う。隣に住んでいる、同期でもあったわたしは、関係だけ見れば近しい間柄ではある。だけどわたしは、わたしが思う以上にカカシを知らない。カカシがうちは一族と繋がりがあったことも、聞いたばかりの噂も。

「さあ……でも、ずっと部屋には帰ってないみたいだから……」
「ってことは、その女の家に……」
「一応、テンゾ――後輩の部屋に帰ったりしてるらしいけど……」

 テンゾウの話も、聞いたのは一ヶ月以上も前だ。今はどうなっているのか、またテンゾウに訊かなければ分からない。それにあのとき、テンゾウは『時々来る』と言っていたから、それ以外は別の場所――例えば、女性の家に身を寄せているのかもしれない。

「あいつ、強いけど、精神面は結構危ういからな」

 呟くナギサの言葉は、あの日のカカシを思い出させる。カカシを突き放して、顔も見たくないだろうわたしが心配するなんて、カカシにとっては迷惑でしかないだろうけれど、ナギサの言葉もあって不安になる。
 自分の部下の凶行を止められなかったことに、ずっと責任を感じて苛まれていては、いくら強いカカシでも耐えきれなくなるかもしれない。
 少しでもカカシが楽になるように、やはりあの部屋を引っ越して、わたしなんかカカシの前から消えた方がいいのかも。 
 でもあの部屋を出たら、カカシとは本当にもう二度と、向き合えないような気がして怖い。会うのが怖いのに、もう会えないのも怖い。一体わたしはどうしたらいいのだろう。どうしたいのだろう。



 ナギサから聞いてしばらくあとで、紅から詳しい話を聞かされた。

「今までも何度か告白されてたみたいだけど、全部断ってたのよ。それがちょっと前から、いきなり付き合うようになって……。でも二週間も持たないわね。早いと三日よ。別れて、違う子に言い寄られたらすぐに付き合って、その子ともさっさと別れてまた他の子に……」

 カカシがそう何度も告白されるほどモテているなんて初耳だ。けれど肩書きだけ見れば、若くして上忍になり、精鋭揃いの暗部に所属してもう七年にもなるエリート。写輪眼のおかげで“コピー忍者”なんて大層な二つ名も手にしている。鼻から下は見たことがないけれど、背は高いし手足も長い。昔はもっと生意気だったけど、オビトがいなくなってからは態度も柔らかくなっている。
 冷静に考えたら、カカシはモテる要素を十分に備えていた。独り身と知れば、恋人への成り手はいくらでも居るだろう。

「要するに、誰でもいいわけ。付き合ってるはずなのに、まともに相手もしてないで放ってるみたいだし、褒められたものじゃないわ。『付き合ってるはずなのに顔を見ない』だとか『付き合った途端に会話がなくなった』なんて言われるくらいだもの」

 紅は、赤い目を縁取るやわらかな睫毛の扇をそっと伏せて、刺のある声で言う。誰でもいいというのが手放しで褒められる所業ではないのは同感だし、挙げられる声は付き合っている意味があるのかと疑問を抱くものばかり。もしかしたら『付き合う』の定義が、カカシは人とずれているのかもしれない。
 カカシが誰かと付き合っている、具体的な話を聞くと、関係ない立場のはずなのにカカシに苛立ってくる。二週間も続かないって。フラれているのかフッているのか知らないけれど、ひどい扱い方をしているのではないか。だとしたら、女性を何だと思っているのか――と、女性の身を案じる一方で、単純にカカシに対して怒りが次々と湧いてしまう。

 カカシ、本当に、誰かと付き合ってるんだ。

 ナギサから聞いていたのに、紅の口から改めて詳細を聞くと、妙に生々しく現実味を帯びていて、『カカシは恋人がいる』という事実がひどく引っかかる。
 カカシだって、わたしと同じくもう二十歳は越えている。成人した男が恋人を持ったのなら、体の関係だって持つだろう。周りの話や読んだ本は大抵そうだった。
 じゃあ、カカシは付き合った女性たちと、そういうことをしているのだろうか。
 今はまともに相手をしていないとしても、いつかカカシにとって大事したい人ができて、恋人になったのなら。
 わたしの腕を掴んで痕を残したあの手で、誰かに優しく触れるのだろうか。
 わたしの身を案じてくれたあの声で、知らない名前を呼ぶのだろうか。
 わたしに向けてくれたあの目で、女性を見つめて愛を注ぐのだろうか。

 そんなのだめ。

 あの目で他の女性を見るなんて、そんなこと、そんなこと、あってはならない。
 やめてよ。そんなことはやめて。お願い、他の人は見ないで。あの目だけは。



 それは恐らく、本当に偶然だったのだろう。長いこと会うことがなかったので、カカシはすっかり油断していたのかもしれない。
 夜中の任務を終えて、朝日が昇り出す頃にマンションの自室へと続く廊下を歩いていると、進行方向の一番奥、角部屋のドアが開いた。
 中から男が一人。扉を閉じて鍵をかけようとしたところで、廊下を歩くわたしの存在に気づき、ピタリと動きを止める。
 その一瞬の隙を逃さず、歩みを速めて距離を詰めた。自分の部屋のドアを通り過ぎ、カカシの一歩手前まで歩く。
 カカシは鍵を手にしたまま、わたしは両手を下ろした状態で、互いに一言も喋らない。

「カカシ……」

 先に口を開いたのはわたし。カカシはわたしが発した声から逃げるように、顔をドアへと向けるので、わたしには右の横顔しか見えない。暁の薄暗い中、右目は硬質なドアを睨んでいて、光もなく沈んでいる。
 何か用があって声をかけたわけではない。捕まえなければと、猫が動くものに飛びかかるように、ほとんど本能のようなものでカカシをこの場に留めておきたかった。
 声をかけてしまったからには、何か話さなければいけない。最後に顔を合わせたとき、わたしはカカシにひどい態度を取った。
 謝るべきだ。謝らないと。これを逃したら好機はもうないかもしれないから。
 謝れ。謝れ。

「女の人と……付き合ったり別れたりしてるって……聞いたけど……」

 考えとは全く違うことが、口から出てしまった。腹の底から湧いてくる憤りのようなものを抑えるのに必死で、上手く回らない舌がボソボソと言葉を紡ぐ。
 カカシはわたしの切り出した話題が相当気に入らないようで――当然と言えば当然ではあるけれど――見える右目を鋭く細め、ドアからわたしへと顔を向き直した。

「だったら何? 説教でもしてやろうかって?」

 冷えた声だ。高い背丈から見下ろすその様子も相まって、威圧感がある。胆の弱い者なら、これだけで恐れを成して逃げ出すだろうが、忍生活で長年鍛えられたわたしは、背筋に悪寒を走らせるだけで済んでいる。
 お前に関係あるのか、と突き放されたことに、さらに苛立ちと寂しさが募る。
 関係あるのか。もちろん――ない。ないだろう。わたしとカカシの関係は、ただの同期だったときよりも、ずっと離れている。

「カカシが、誰と何しようが、わたしには関係ない」

 カカシが誰と付き合おうと、どういう男女関係を望もうと、ただの同期ですらなくなったわたしが、口を出せることではない。立場は弁えているつもりだと、言っている内容に反して、態度は刺々しくなった。
 付き合った男女が何をするか。若い男女なら体を重ねないわけがない。
 想像するだけで、吐き気がしてきた。リンやオビトの夢を見たときに似ているけれど、それとは違うものだ。胃だけじゃなくて、心臓の辺りもズキズキと痛む。
 わたしはカカシを咎める立場にはない。何かを望む位置には立てない。

「でも、お願い」

 吐き気も痛みも堪えて、ただ真摯に祈る。カカシのその手が誰の髪を梳いて、誰の肌の上を滑ろうとも、これだけは。

「誰を抱いていても、左目だけは、開けないで」

 カカシの右目はカカシの目で、左目はオビトの目だ。カカシの左目として生きているオビトが、そこに居る。
 オビトがいつも見ていたのは、リンだ。リンたった一人だ。わたしでも、他の女の子でもなく、リンだけだった。
 なら、きっとオビトだって、ずっとリンを見ていたい。いくらカカシが選んだ女性だからといって、リン以外の女の子を見ながら愛するなんて、きっとオビトには堪えられない。
 カカシが誰を抱いてもいい。誰を愛して、誰と肌を交わしても。わたしはそれを止めることはできない。
 だけど、そのオビトの左目だけは、リンをずっと見続けていなければ。
 わたしのお願いに、カカシは鍵を持っていた手を、ゆっくりと下ろした。空いている手で、額当てで隠している左目を押さえる。

「……カカシ?」

 何も答えず、左目を押さえるカカシに声をかけると、殊更長い息を吐いた。体の末端から掻き集めたみたいに、深くて重く、熱がある。

「そんなに独り占めしたいなら、望み通りにしてやるよ」

 左目を押さえていた手が、まだ施錠されていなかったカカシの部屋のドアを勢いよく開ける。その中へ持っていた鍵を投げ、そうして空になった手が伸びてわたしを腕を掴み、鍵と同じく乱暴に体を押し込む。
 たたきと板張りの床との段差で足を取られ、そのまま倒れ込んだ。何とか受け身を取ると、顔のすぐ近くに尖った鍵の先端が鋭く輝いている。肌に当たっていたらと思うと、無意識に頭が後ろへ下がった。

「なに――」

 何をするのかと言いたかったけれど、できなかった。ドアが閉まって、暗くなった室内。わたしの頭の両脇にドンと音を立てて手を突き、覆い被さる形で、カカシの顔が真上に来る。ずしんと腿に伝わる重みに、完全に逃げるタイミングを失った。

「……どいて」

 突然、物のように部屋へと押し込まれ、床に体を打ち付け、起き上がろうにもそれを阻まれ。混乱もしているけれど、何より真っ先に来るのは怒りだった。
 部屋は真っ暗ではなかった。日の出を迎えた外から注ぐわずかばかりの柔い光が、窓のカーテンの端から漏れている。
 薄暗い中で、渾身の力を込めてカカシを睨んでみたが、大したことないと、カカシは平然と受け止める。それどころか、ゾッとするほど冷たい右目でわたしを見下ろし続ける。

「心配するな。こっちでお前は見ない」

 言って、カカシは右目を閉じ、片方の手で額当てを上へとずらした。縦に一線が走る目元。開けば、暗闇でも光を放つ、赤い写輪眼。

「お前はこれだけが欲しいんでしょ」

――あ。瞬間的に、わたしは自分のしくじりを悟った。
 誰かを抱くときに左目を開けないでくれと言ったのは、決して嫉妬なんかではない。リンを好きだったオビトの気持ちを考え、尊重してほしいという、純粋な願いだった。
 その左目に自分を映してほしいわけじゃない。その目が見て愛するのは、オビトがそうだったように、リンだけにしてほしかっただけ。
 だけどカカシは、『オビトの目で見るのはわたしだけにしてほしい』という、独占欲に満ちた言葉と受け取ったらしい。
 ちがう。
 ちがうの。そうじゃない。
 カカシが、わたしの木ノ葉のベストの留め具に手をかける。音を立てて外すと、その隙間から手を差し入れ、仰向けになることで少し平らになったわたしの胸を掴んだ。手はわたしの胸の形を、体の線を確認するように、無遠慮に這う。
 脊髄反射のように、体が大きく震える。そんな場所、異性にまさぐられたことなど一度もない。怖い。やめて。逃げなくちゃ。分かっているのに、見たこともないカカシが恐ろしくて、身動き一つできないでいる。
 手が離れ、一瞬安堵の思いで息を吐いたら、今度は服の裾に突っ込んできた。冷たい指先が腹に触れ、寒気がする。鳥肌が立つ肌を緩慢になぞりながら、再び胸へと上がっていく。
 その間も、カカシはわたしに左目を向け続けた。右目はしっかりと閉じられている。わたしを見る気なんて欠片もないと。

 いやだ。

 向けられた左目の熱よりも、閉じられた右目ばかりを見てしまう。
 血のような赤ではなく、星が瞬いてた夜の目に縋りたくなる。
 肌に触れていない方の手が、カカシのマスクを下ろす。初めてまともに見えたカカシの顔なのにうまく見えない。焦点が定まらなくて、何もかもがぶれている。
 カカシの高く、筋の通った鼻が、わたしの首元へ埋められていく。熱い息がかかって、指先の冷たさとは違う感覚に肌が粟立った。

「やめて……」

 紡ぐと同時に、ぶれていた世界が少しだけまともに見えるようになった。目の端を温い熱が通って、耳の方にまで伝う。
 わたしに鼻先を埋めていたカカシは、わたしの顔を見ると目を大きく開いた。閉じていた夜の目も開かれ、詰まっていたような息がようやく喉から逃げていく。
 カカシの指が、わたしのこめかみ辺りをなぞる。泣いてる。わたし、泣いてる。

「おねがい……」

 やめて。やめて。
 力なく懇願するわたしに、カカシは興醒めしたのか、身を起こしてわたしの上を離れ、近くの壁へと背中をつける。
 やっと解放されたわたしは、腕を使って体を立てて、カカシの方を見ることもなく玄関のドアを開け外へ出た。
 すぐに隣の自室の鍵を開け、部屋へと入る。なんとかサンダルだけは脱いだけれど、足がもつれて、ダイニングテーブルの近くで両手を突いた。

「うっ……っく……」

 喉が焼けるように痛くて、声が漏れる。力を振り絞って立ち、寝室のベッドにしがみつくように身を預けた。

「……ど、して……して……」


「お前はこれだけが欲しいんでしょ」


 オビトの目だけが目当てなのだろうとカカシは言った。
 ちがう。そうじゃない。そうだったけど、でもちがう。
 わたしが『左目で他の女性を見ないで』と言ったのは、自分だけ見ていてほしいからじゃない。
 リンだけを見てほしかった。オビトの目にはリンだけを。幼い頃から見ていたときと、夢で見たときと同じように、わたしではなくリンを。
――そうだ。わたしは、わたしすらも、オビトの目が愛するのはリンだけだと。

 だって、オビトはリンが好きだったから。

 たったそれだけ。たったそれだけが、あの日からオビトを置いていくわたしに残った、わずかなオビトの欠片だ。
 オビトの目で、リン以外を愛おしそうに見てほしくない。オビトの目が愛するのはリンだけだ。熱を帯びた恋焦がれる瞳には、リン以外を映してほしくない。わたしの中の、『うちはオビト』という存在を守りたい。
 昔あれだけ、わたしも映してほしい、わたしにもその目を向けてほしいと願っていたはずだった。数えられないくらいリンに嫉妬した。
 だけど、あの左目はリンを見てほしい。わたしを見てほしいのは左目じゃなくて――

 そんなはずない。わたしが好きなのは、今でもオビト。

 呪文のように唱え続ける。
 わたしが好きなのはオビト。
 わたしが好きなのはオビト。
 わたしが好きなのはオビト。


「サホはカカシを好きになったり、しないよね」


 わたしが好きなのはオビト。


「リンを守ってくれるって言ったのに、なんで守ってくれないんだ」


 わたしはオビトの代わりに、リンを守ると約束した。
 だからわたしは、オビトが好きなんだよ。
 カカシを好きになんて、なれるわけがない。

 なのに。なのに。
 右目を。左目ではなく、右の、夜色の目でわたしを見てほしい。
 小さな星が瞬いて、呆れたり、そっけなかったりする目。情けないわたしを叱って、弱いわたしを引っ張ってくれて、いつも真っ直ぐに向けられた、ずっと見守ってくれた目。
 どうしよう。どうして。
 自分の中で巡る感情を到底信じたくなくて、涙が止められない。
 どうして。オビトが好きだったはずなのに。どうして。どうして。



51 縺れる

20190112


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