最果てまでワルツ | ナノ
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 久々に写輪眼を酷使し、チャクラ切れ寸前まで体を追いこんでしまった。こうなるとオレが取るべき選択はただ一つ、ひたすら体を休めることだ。
 信頼を置いているテンゾウがしばらく隊長代理を務めてくれるので、ロ班のことは特に心配はしていない。
 今までも一日や二日ほど寝床から起き上がれないときはあった。ただ、今回のように一週間近くも休むことは稀だし、何よりマンションの自室に長いこと身を置かねばならないというのが頭の痛い問題だった。

「住人だってことをしっかりアピールしておかないと、鼠だとか変なのが棲みついちゃいますよ」

 しばらく部屋に泊めてくれと申し出ようとしたのを悟ってか、テンゾウは大人しく自宅で寝ていろとやんわり牽制した。
 なら平屋の家にと思ったが、テンゾウはなんと火影直々の通達を持ってきた。『自宅での療養を命じる』と。オレの現在の自宅はマンションの方だ。
 「だからそちらに帰ってください」と『自宅』まで送られては、こっそりと平屋の家に戻ることもできない。久方ぶりのベッドの上で大人しく横になり、失ったチャクラや体力を取り戻すこととなった。

 自室だというのに、こんなにも長くこの部屋に居ることに慣れない。時折外から入ってくるささやかな音に、のんびりと耳を傾ける時間など最近はなかった。
 しかし退屈だ。こういうときは読書に限るが、もう少し目を休めておいてからでないと眼精疲労が強くなるので、ただボーっと天井や壁を見て考え事をするくらいしかない。
 まず一番に浮かぶのは、テンゾウに任せているロ班のこと。直近で重要な会議なども入っていないし、不測の事態が起きてもテンゾウなら十分に対処できる。そろそろテンゾウも一つの隊を持ってもいい頃だと考えていたが、やはりあいつが抜けるとしたら穴は大きいなと改めて思う。
 次に浮かぶのは隣室のこと。この部屋に居れば、どうしても壁一枚隔てた向こうが気になる。
 押し倒して事に及ぼうとしたオレに、サホが幻滅しているのは予想の範囲だ。オレにとって最悪の事態は、サホがオレと離れるべく、隣室から退去していること。
 ろくに帰ることがなくなってしまったが、せめて自宅だけでも傍にありたい。繋がりを維持しておきたい。
 そう願う思いが引き寄せたのか、ベッドに身を預けて数時間後、隣室から物音が響いてきた。
 サホが帰ってきたのだろうと、心臓が走り出して痛い。控えめな籠った音は断続的に続き、そのうち玄関のドアを開ける音がして再び沈黙した。帰ってからまた外出するまで一時間ほどだったろうか。
 隣室には今も誰かが住んでいる。しかし姿も声も判別がつかないため、サホかどうかは分からない。

 それからも二度ほど物音がしたが、どれも短時間で部屋を出て行く。丸一日音が鳴らない日もあった。
 今までのように、吐くために駆けるような騒がしい音がないため、もしや以前と同じくオレがしばらく部屋を空けていた間にサホは退去し、新たに見知らぬ誰かが入居しているのではないかと、不安で胃は鋭く痛んだ。
 鼠が棲みついたのはオレの部屋ではなく、サホの部屋か。はっきりしない現状というのが、これほどまでに辛いことはなかなかない。

 時間が経つごとに体は調子を取り戻し、指定された休暇日数の半ばを過ぎれば、オレはただ読書をして過ごすだけだ。
 一度テンゾウが顔を出して置いていってくれた、温めるだけで調理可能な食事を口にし、本当にただひたすらにベッドの上に転がっていた。
 読書を思う存分満喫するどころか、逆に飽きが芽生えてきた頃。そんな休みもとうとう今日で終わりだ。
 明日からはまた通常通り暗部の任務に就く。病み上がりということもあって里の監視シフトに当たるが、ずっと体を休めていたからこそ、暗殺任務や諜報任務に携わる方がよかった。
 しかし労わるテンゾウの意を蔑ろにもできず、黙って椅子に座って画面を眺めよう。



――呼び鈴が部屋に響いた。いつの間にか眠っていたらしく両目を開けるが、体を起こす気はない。
 この部屋を訪ねる者で、思い当たるのはテンゾウくらいだ。そのテンゾウも、オレがベッドで横になっていることを知っているから、ベッドに近い窓を叩いて来訪を告げる。
 公的な用なら、里を通してまた改めて訪ねてくるだろう。躊躇いなく居留守を使うが、音はまた響いた。
 二度も押すということは相当大事な用事があるのか、もしくはオレが在宅していることを知っているからか。
 出るべきか。でも面倒だ。眠っていて聞こえなかったフリをしようか。いや、いくら眠っていても忍者が呼び鈴に気づかないなんて有り得ない。事実、さきほども寝ていたのに音で起きたのだから。
 どうするか迷っていると、いきなり硬質な音が響いた。錠が回る音。
 咄嗟に枕の下に手を差し込み、備えているクナイを取る。
 ドアの開く音。生まれた隙間から、少し薄暗い部屋へ刺さる白光の太い筋。起こす気のなかった半身を立て、この数日閉じたままだった写輪眼を開き神経を尖らせた。
 ガサガサとした音と共に顔を出したのは、まったく予想していなかった相手だった。

「なっ……サホ? なんで……」

 サホだ。忍服に、額当てをつけ、髪を一つにまとめたサホが、両手から買い物袋を下げてオレの部屋に上がり、冷蔵庫の前にその荷物を置いた。床についた袋はくたりとその身を崩し、かろうじて中身は転がることはない。
 荷物を手放したサホがこちらを向くので、急いで目を逸らした。歩み寄ってくるその足元しか見えないが、ベッドのすぐ傍まで距離を詰める。いっそ目を閉じてしまいたいくらい、現状に思考が追いつけない。

「――これ。三代目から」

 スッと視界に入るのは巻物が二本。『三代目から』ということは、里長から頼まれて届けにきたということか。
 手を上げて、サホが持っている方とは反対の端を掴み受け取ると、サホはすぐに冷蔵庫の前へと移る。取っ手を引いて中を開け、袋から取り出した物を冷蔵室へ仕舞い、あるいはまた袋へと戻す作業を始めた。

「なにしてんの?」

 訊ねると、こちらを一瞥することも手を止めることもなく、

「三代目から命じられたの。チャクラ切れでまともに食べていないかもしれないから、何か買って行けって」

サホは淡々と答えた。
 なるほどね。三代目がね。
 届けてもらった巻物は別段急を要するものではなく、休み明けに受け取っても構わない。
 急ぎではない物と共に、オレへの食料を届けるために、あえてサホを指名したわけだ。

 まさかこのために?

 テンゾウを使ってまで自宅での療養を命じたのは、オレの元にサホを差し向けるためだったのではないか――と、つい疑ってしまうのは、里長相手に無礼だろうか。
 しかしもしそうだとすれば、療養するのにわざわざ『自宅』と指定した理由に納得がいく。
 事実確認などできぬことへ意識を傾けていると、いつの間にかサホは冷蔵庫から再びこちらへと足を向け傍に寄って来ていた。今度は何だろうかと、全身に緊張が走る。
 黙って出方を窺っていると、カーテンが作った暗い世界に冴える、真っ赤な果実が目に飛び込んできた。

「自分の限界くらい、把握しなさいよ」

 突き放した言葉ではあったが、放り投げることも落とすこともなく、リンゴを持つ手はオレが受け取るのをじっと待っている。
 さきほどと同じく手を伸ばしリンゴを掴むと、その表面はしっとりとした冷たさを帯びていた。そういえば水の音がしたような。わざわざ洗ったのかと、オレ相手にまともに気を遣うサホに対し胸が痛む。
 療養中、サホのことを考えるたび、もう諦めようと誓った。どうせあの一件から完全に嫌われているだろうし、可能性など潰えているのだから、いつまでもしつこく想っていても仕方ないと。
 けれどやはり諦めきれない。久方ぶりに見たサホの姿に、サホの一挙一動に、馬鹿みたいに心が動いてしまう。

「元々、オレの目じゃないからね」

 限界を見極めろと叱咤されたが、反論する気持ちなど微塵も湧かなかった。
 思えばこの目を貰ってから、もう十年近い時が経つ。貰った当初に比べ布団の虫になる機会はかなり減ったが、今でもこうして体調を崩してしまうのは、単純にオレが至らないからだ。
 うちは一族ではないオレが、この目を受け継ぐに相応しくないのは当然だった。無理を押し通し、里を守るために継いだというのに、寝込んで情けない姿を晒すなんて。

「お前にやれたら、いいのにな」

 オレが相応しくないのなら、だったらこの左目はサホにやりたい。
 今となってはうちは一族はただ二人になってしまったが、その二人を差し置いても、オビトを一途に愛するサホこそ、受け取るに値する人間だ。

「やめて」

 無意識に左目に当てていた手を、サホが掴んで力を入れ剥がした。手から腕へ、そしてその顔を見やると目が合う。

「オビトがどんな気持ちでその目をカカシにあげたのか、あんたが一番分かってるでしょ」

 じゃあお前は、自分が今どんな顔をしているか分かってる?
 痛いのを必死に堪えているみたいに、あと少しでも棘が刺されば泣き出しそうな顔をして、どうしてそんなことを言うのか。

「でも、オビトを一番想っているのはサホだ」

 世界中探したって、サホ以上にオビトを想う奴はどこにもいない。
 この目を本当に持つべきなのは、オビトを最も愛している彼女だ。
 守りたい人をいつも守れない、泣かせたくない女を泣かせてしまうクズじゃなくて、亡き想い人のために生きるサホにこそ、この目を。
 掴み返した腕は細い。まだ十分に肉が戻っていない。目の下のクマだって、若干薄くなったようにも見えるが、まだしっかりと残っている。お前の憂いを払うこともオレはできない。
 何か言い返されるだろうと構えていたのに、サホの唇は薄く開いているが、呼吸を繰り返すだけだ。

「……サホ?」

 微動だにしない様子が気になって声をかけるが反応はない。オレに視線を合わせているのに意識は遠くにあるらしく、真顔の人形のような表情から内心は読み取れない。

「そうよ。わたしが好きなのは、オビトよ」

 声は震えていた。オレへの宣言なのだと心が痛むが、サホが自身に言い聞かせているようにも思えた。
 腕を掴むオレの手から抜け出すと、サホは頭の後ろに回して結び目を解き、額当てを外した。
 間を置くことなく、木ノ葉の緑のベストの留め具を上から外していき、額当てと共に床に落とす。階下の住人から苦情が来てもおかしくないほど、ゴンと大きな音が鳴った。
 唐突な行動の意図が読めず、名前を呼んでみたが返事は一つもなく、身につけている物を次々に床へと放っていく。ついには忍服にまで手がかかった。

「ちょ――」

 裾が捲られ腹が見え、咄嗟に顔を背けた。見える物は部屋の壁だけになったが、衣擦れの音はまだ続いている。
 なに。何なのこれ。なんで脱いでるの。何一つ理解できない。

「前に、あんた言ったよね。オビトの目で抱いてやるって」

 サホの言葉を反芻する間もなく、ベッドが少し傾く。サホがその身を乗せているのだと分かり、とにかく逃げることだけを考えた。どんな格好になっているのか分からないが、服を脱いだのなら見るわけにはいかない。
 なのにサホはオレの視界に入りこもうとする。壁しか見ないようにしているのに、視界の端にその身が引っかかる。律儀な目が捉えた情報はわずかだが、肌を覆う物は何一つなかった。

「抱いてよ」

 耳にかかるのは吐息と、小さな声に乞う言葉。
 一瞬で脳が凍り痺れた。『抱いて』が何を指すのか分からぬ子どもではなく、ましてやそれが好きな女から発せられたものであれば、心だとか思考だとかではなく、本能が声を上げる。
 体中の血管がどこにあるか詳細に分かるほどに、体内の血液が疾く巡る。
 いつの間にかオレはサホの方を向いていた。両手をベッドのシーツの上につくサホは、やはり何も身に纏っていない。裸体をはっきり目にすると、音を立てずに喉が鳴った気がした。

「本気か?」

 本当に、オレに抱けと言っているのか。オビトの目で抱いてほしいと願っているのか。
 いや、そうだろう。そうでなければ裸になどなる理由はない。
 唇に、鎖骨に、膨らみに、否応がなしに目がいく。
――だめだ。そんなことしてはいけない。誰かの代わりに抱くなど、抱かれる相手も誰かをも侮辱した行為だ。
 この禁忌だけは犯してはならない。絶対に。絶対に。

「おねがい」

 いつか聞いた言葉だ。圧し掛かったオレを拒んだ言葉が、今度は抱いてくれとせがんでいる。
 頬を包む両手の温かさも知っている。共にオビトの意志を継ぐと、あのとき誓い合った。
 オレの涙をすくってくれた手が、また泣きそうな顔をしている。

 オレに、望むのか。

 何もしてやれない、生きることしかできなかったオレに、サホがやっと望んでくれた。
 オビトの目を持つオレにしかできないと言うのなら、拒否する権利などない。
 普段閉じることの少ない右目は、今はいらない。瞼を下ろし、赤いリンゴも捨てて、サホの手を取った。
 引けば、細い体は簡単にオレに凭れ腕の中に収まる。サホの匂いが鼻から脳に伝わって眩む。
 サホの体だ。別の女の肌を辿りながらサホの線を想像したことは一度や二度ではない。滑らかな表面が粟立っている。怖いのか、それとも。
 手をくびれた腹や腰、そして背へと進めれば、指先に当たるのは均一を破る浅く細い山脈。オレがつけた痕だ。誰かにこの体が扱われることがないようにと、わざわざ残してやった。
 これはサホの背だ。ようやく伸ばすことができたこの傷痕のおかげで、サホの体は誰にも踏み込まれたことはないはず。
 それをオレが今から台無しにしていく――全身を駆け回る高揚感で口元が緩んだ。役目を終えた痕を労わるように優しく触れる。
 これから暴く。この体を全て、オレの手が。
 全部ほしい。ほしくてたまらなくて、急いた手はマスクを下ろし、サホの唇に自分のものを当てた。
 柔らかく薄い肉を噛み切らぬよう、ぶつけたい欲を少しずつ散らしていきたいのに、腹の奥や下から沸騰して止まらない。息を飲みこんで貪っても、ちっとも満足できない。
 途切れながら漏れるサホの声がかわいくて、そんなきれいな感情ですら、すぐにみだらな思考に塗りつぶされる。
 すべて食べてしまいたい。細胞の一つも残さず腹の中に入れて、丁寧に消化して、オレの身と混じればいいのに。
 ここも、ここも。求めるままに、唇がサホの体を這っていく。

「オビト……」

 サホが縋るように愛しい者の名を呼ぶ。
 オビト。オビト。オビト。
 どこにもいないあいつを必死に探している。
 オビトを求める声は止まらない。名前を呼んでオビトを思い浮かべるなんて、いじらしいとでも思えばいいのだろうか。
 オレなど身代わりの道具でしかないのだと分かっている。欲しくてたまらなかった女の肌を、探るように舌で伝う獣にとっては、もはや識別などどうでもいい。
 いっそ、写輪眼で幻術でもかけてやるのが一番いいのかもしれない。本当にオビトに抱かれているかのような幻覚でも見せてやったら、そうすればサホは喜ぶだろう。苦しげに名を呼ばずに、幸せな嬌声を上げられる。
 しかし、それだけは決してする気はない。こればっかりは頼まれても応じるつもりはない。
 サホがオビトの目に抱かれていると錯覚したいのならすればいい。
 けれど、サホを抱いているのは間違いなくオレだ。体に触れる手も、溶け合う息も、お前が何遍も名を呼んで思い込もうとも、お前は今オレに抱かれている。
 そこだけは譲りたくない。識別などどうでもいいと思ったくせに、結局オレは道具になりきれない。
 丸い膨らみに手をかけると、サホの体は大きく跳ねた。柔らかい肉に爪を立てぬよう指を沈めれば、小刻みに震え、オビトの名もうまく紡げない。
 そうやって噤んでいてくれ。お前がオレをオビトの代わりにするなら、オレにもいい思いをさせてよ。
 首の根に顔を埋めて深い呼吸をすれば、汗ばんだ女の匂い。腰の奥が疼く。早く満たされたい。

「――カカシ」

 どうして。
 どうしてオレの名を。
 手を止め首筋から顔を離し、表情を見ようにも、サホは顔の前に腕を持ってきて隠すので分からない。

「サホ」

 呼んでみるが、サホから答えはない。腕で覆い隠せなかった唇は固く結ばれ、言葉を吐くことを必死で拒んでいる。
 やはり嫌だったのだろうか。たとえオビトの目を持っていても、本人ではないオレに抱かれることがつらくなったのかもしれない。
 唇と同じく腕の壁に隠れられなかった頬に指をやり、そっと撫でた。柔らかい肌は熱く、血が十分に通っている。

「もう、ほとんど思い出せないの」

 切り出した声は、涙に濡れていた。

「どんな声で呼んでくれていたか、思い出せない。写真があるから、顔は忘れない。でも、オビトはずっと、あのときのままで。だけどわたしは、生きていて、大人になって。オビトを思い出にしてしまう……」

 木枯らしに煽られ、今にも枝から離れてしまいそうな葉のように、不安が震えとなって、サホの体を揺らす。喉が引きつっているのか、言葉はどれもかすれていたが、聞き逃すまいと耳を澄ませた。

「思い出すの。思い出すのよ。いつだってオビトを見ていたのに、聞いていたのに、好きだったのに。わたし、オビトを一時でも忘れるのよ」

 グズグズと鼻を鳴らし始めたサホに、オレは何と声をかけてやればいいのか分からなかった。
 人は死んだらそこで終わるが、生きている限り変わってしまう。
 生きているオレたちはオビトを置き去りにし、もうすっかり子どもではなくなった。
 部下を持つようになり、酒を飲むようになり、こうやって肌を求めるような歳にもなった。オレはサホを愛するようになり、そんな自分もやっと受け入れることができた。
 成長していくに従って、オレたちはたくさんの記憶を詰め込んでいく。
 古い記憶は、新しい記憶を保管する場所を空けるため、小さく折り畳まれ、削られ、そしてうまく見えなくなる。
 声など一番に忘れるという。手元に残した記録媒体が写真ばかりで、まともな手がかりが残っていないのなら、オビトの声をもう一度聞いて確かめることなど絶望的だろう。
 忘れることはもはや摂理のようなものだ。しかしそれがサホへの慰めの言葉になるわけがない。サホはオビトのことだけは忘れたくない。思い出にしたくないのに思い出さなければならないことが、たまらなくつらい。
 嗚咽と共に小さく弾む肩が痛々しいが、オレに抱きしめる資格はなかった。
 サホが抱きしめてほしいのはオビトだ。放っていた掛け布を取り、端と端を合わせて包んでやって、涙に濡れた目元に当てているその手を掴んだ。ゆっくり下ろせば、抵抗することなく手は顔から離れた。

「大丈夫だ。オレが知ってる」

 こすったせいで目は赤くなり、その周りは汗を掻いたように湿っている。こうして目を合わせている今もまた新たな涙が生まれ、珠となって頬の壁を伝い流れていく。

「この世の誰よりも、お前が一番オビトを好きだって、オレが知ってる」

 その弱々しさに、否応がなしに庇護欲が湧く。どんな手を使ってでもその涙を止めたい。胸を貫く事実を口にすることだって容易い。それでサホの心が安定するのなら、何度でも言い聞かせてやる。

「ちがう……」

 予想に反して、サホの口から出たのは否定だった。

「違う?」
「ちがう。ちがう」

 うわ言のように返す様は、明らかに平時と違う。ゆるく首を振るのに放たれる否定は力強く、生まれる食い違いの理由が分からぬオレは、次の言葉を待つしかない。

「オビトが、好きだった」

 届かぬ告白が、もうどこにも行く宛てがないことも、欲しくてたまらないのに得られないことも、何もかもが悲しい。
 お前はいつだって好きな相手を間違えない。オレのように手近な存在で埋めようとすることも、似ている誰かに重ねることもなく、何年も一途に、脇目も振らずに恋い慕う。

「ああ、知ってる」

 もうこの世にはいないあいつの耳に届かぬなら、唯一残った左の赤い目で受け取ってやらなければ。
 サホの想いを支え守ろう。それが何もしてやれないオレの、数少ない役目だから。
 だと言うのに、サホはまたも『ちがう』と繰り返す。

「何が?」

 駄々を捏ねる子どもみたいだ。サホは何が気に食わないというのだろう。床に転がしたリンゴと相違ないほどに赤く熟れている頬に手を添えれば、平を焼きかねない高い熱に触れた。

「好きだった」

「好きだった」

「好きだったの」

 さきほどと同じ、『好きだった』と訴えるサホの瞳から、またぽろぽろと雫が落ちていく。
 一体何だというのか。オビトを好きだったことなんて幼い頃から知っている。
 本当に好きだったのだろう。親友とはいえ恋敵だったリンを守ろうと誓うほど、そのリンを死なせてしまったオレを恨むほど。好きだった。好きだった。好き、だった――?

「――サホ」

 緊張からか張り付いた喉のせいで、随分と儘ならない発音になったが、サホは応えるようにオレと目を合わせる。そうして少し経ったのち、サホの細い指が、オレの左目に幕を落とした。

「オビトの目で、わたしを見ないで」

 赤いオビトの目が閉ざされた今、サホを捉えるのはオレ自身の右目のみ。
 オレの目とサホの目が合う。真っ直ぐに、最短距離で、オレだけを見つめ返すサホの瞳の熱は、いつも左目に向けられていたものと同じだ。

「どうしてこうなっちゃったの……」

 悔やんでいるのか混乱しているのか、サホは現状を憂い嘆いている。
 その間も傾けられる熱の意味は、オレがずっと欲しかったものだ。恋い、慕う、熱だ。
 まさか。そんな。信じられないが、オビトの目越しにずっと向けられていたオレが、この熱の意味を取り誤ることはない。
 サホが、オレを。オビトではなく、オレを。
 考えたときには、もう腕はサホの体を抱き寄せていた。

「サホ。オレたちは生きてる。生きてる限り、変わらないなんて無理だ。変わることが怖いのは、オレも同じだ。お前なんか、オビトオビトとうるさいお前なんか、鬱陶しかったのに」

 いつからだったか。
 はじめは、振り向く見込みがないのに諦めないなんて不毛だと思った。
 オビトを喪ったあとは変わらないお前が誇らしくて、オレはお前がオビトを想うことが嬉しかった。
 なのにいつからだろう。お前の唇がオビトの名ばかりを発し、左目しか見ないことに苛立つようになったのは。

「でも、その鬱陶しさが、オレを生かしてくれた」

 鬱陶しくて、傷つけたくなって、でも守りたい。自分でもまとめきれない感情が、目元をくすぐって涙を呼び寄せる。
 するりと白い肌に落ちたのが癪で、一滴も零さぬように隙間なくぴたりと肌を合わせた。
 サホの両腕がオレの背中に伸び、ゆるゆると撫でる。そんなことされたら、もっと泣きたくなってしまう。

「オレを恨むことでお前が生き続けてくれるなら、オレはどんな形でも生きてやる。お前を死なせない。お前だけは、絶対に」

 オビトの目を受け継いだオレが、オビトとの誓いをこれ以上破らぬように見張るために生きてくれるなら、実ることのない想いに蓋をして生きるしかなかった。

「サホ、生きて。オレの傍で。ずっと。オレと生きて」

 けれどもし願ってもいいのなら、オビトの目じゃなくてオレと生きてほしい。
 恨んでもいい。詰ってもいい。傷つけてくれたっていい。だけど、オレを見て。
 縋るように抱きしめていたサホの呼吸が穏やかになり、背を撫でてくれていた手も落ちてしまった。少し離して顔を窺えば、まだ濡れたままの瞳は閉じられている。泣き疲れて寝てしまったのだろう。
 眠るサホを抱えベッドに転がってみるが、起きる気配は微塵もない。まだ取れていない目の下のクマを見たら、寝られるうちは思う存分寝かせてやりたいと思う。
 指の背を目の際に滑らせ涙を拭うが、すっかり寝入っているのか瞼は震えることもない。
 空いた隙間をまた埋めるべく身を寄せると、サホの匂いに満ち足りた気がして、長い息を吐いた。さきほどのような情欲の類は塵一つ込み上げず、安らぐ心地に目を閉じた。



29 幾望を抱いて

20200524


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