薄い衣を被せたみたいに沈黙する部屋は、ほんの少し明るかった。体内時計は正確で、朝方の四時頃だと察する。四時は朝だ。三時は、ちょっと迷う。
「おはよ」
サホが瞬きを続ける以外の動作をしないので、試しに声をかけてみた。
「……おはよ」
喉を軽く鳴らしただけの声は小さい。それでも無視されずに返ってきたことに会心した。
サホは自身を包んでいる掛け布を片手でしっかり握り、隙間から腕を伸ばしてヘッドボードを探る。何にも覆われていない白く細い腕を見て、そういえばこいつは裸なんだと思い出した。
裸かぁ、などとオレが呑気に考えていると、それを察したのかは分からないが、腕は引っ込んで背を向けられた。一つにまとめたままだった髪は、原型は保っているものの乱れている。
寝ている間、二度ほど目が覚めた。腕の中のサホが寝返りを打ったときにふと意識が浮上し、昏々と眠り続けるサホの邪魔はすまいと、起きる度に寝直した。
三度目の今は、さすがにもう眠気はない。十分な睡眠をとったおかげで、徐々に覚醒してきた意識は冴えている。
サホがゆっくりと身を起こし、ベッドの端から足を下ろして座った。体を覆う布で肌は一切見えないが、その動きから着替え始めたのは何となく分かる。
不思議な気分だ。ベッドに腰掛けて服を身に着ける姿なんてまるで事後のようなのに、実際は何もしていない。
しかしまったくしていないわけでもない。花瓶みたいなくびれをなぞったし、丸い膨らみも掴んだ。
思い出すとどうにもその身に触れたくて、後ろ手になったサホの腹に絡めるように腕を回し、背に顔をつけた。
聡い鼻は掛け布越しでもサホの匂いを嗅ぎつける。動いていた手は止まり、その体勢のままぴたりと固まった。
「行くの?」
鼻を押し当て先端を転がす自分は、相棒である忍犬のようだなと思う。犬は飼い主に似るというが、飼い主も犬に似てしまうのかと軽く自嘲した。
「任務、あるし」
そう返されると引き留められない。受けている以上、任務は優先すべきだ。物足りなさが具現したように、打った相槌は小さくて我ながら投げやりだった。
止まっていたサホの手がもぞもぞと動き、腕を前に下ろして服でも掴む気だったのか、体を曲げて手を伸ばす。しかしオレの腕が邪魔をしているようで、伸ばして戻して、伸ばして戻してを数回繰り返したあと、
「あんたも任務があるんじゃないの?」
と窘めるかのような言葉が飛んできた。
今日から復帰で、里の監視に入る。ロ班のことも気にかかるし、室内で体を休め続けるのも飽き飽きしていた。とっとと現場に戻りたいと思っていたが、今はどうしようもなく離れ難くある。
「うん」
サホの体につけていた鼻をそのままに、背骨に沿って上る。
傷痕のわずかな段差を越え、頂上の薄い肩に頭を乗せて落ち着けた。すっぽり収まった体に回した腕を締めれば、サホは簡単に囚われる。
「放して」
拒絶されているのに胸は少しも痛まない。これが昨日の朝であれば別だったろう。
自分より一回り小さい身には、痩せたとはいえまだ柔らかい肉もある。目を閉じて首元を直に嗅げば、女特有の匂いに腰がうずく。反応してしまうのは生理的現象だから仕方ない。
昨日のこともずるずると思い出して、さすがにまずい――とほぼ同時に、サホがオレの手を剥がして放る。届かなかった服に手を伸ばし身につけ、腰を上げ纏っていた掛け布を落とせば、裸のサホは幻のように消えた。
あーあ、もったいない。思いはしたものの、正直自分も危なかったので助かった。欲に任せて流れに持ち込もうとしてしまいそうだった。いくらサホの気持ちが自分に向いているとはいえ、始まりがそれでは、オビトやリンのことでも恨まれているというのに、さらに遺恨が残りそうだ。
そうだ。まずは色々と確認しなければ。
「任務、終わるのいつ?」
体を横に戻して訊ねると、サホは床に落としていたベストやポーチを拾っていく手を止め、ちらりとこちらに目をやった。
「……特に問題が起きなければ……夕方前には終わると思うけど」
曖昧な物言いではあったが、忍の任務に限らず、仕事なんて大体そんなものだ。
「オレは少し遅くなると思うから、部屋で待ってて」
言うと、サホは間抜けな声を上げた。今度は目だけではなく顔ごとこちらを向いて、その眉はわずかに寄せられている。
「三代目からオレの部屋の鍵、預かってるんでしょ? それで開けて、中で待ってて」
要望を正確に伝え直すと、しっかり理解したらしいサホは逡巡したあと、鍵は三代目に返すからと遠回しに断った。
「いいんじゃない、別に。一日くらい。サホだし」
あくまでも予想ではあるが、三代目が何か考えがあってオレの下にサホを寄越したのであれば、鍵の返却が遅れても咎めはしないだろう。そうオレは考えるが、頭が固いのか真面目なのか、サホは尚もオレの頼みを拒む姿勢を崩さない。
だらしなく横たわる身を起こして胡坐を掻き、いつもは見下ろす顔を見上げた。
「待ってて」
サホの気持ちがオビトではなく自分に向けられているのなら。だったらこのチャンスは逃したくない。昨日ははっきりと確認できないままサホは眠ってしまった。このまま生殺しなんてごめんだ。
身支度を済ませ監視室へ入ると、たくさんのモニターと共に久しぶりの顔ぶれに迎え入れられた。
「隊長、体は大丈夫ですか?」
「ああ。おかげさまで」
一番近くに居た部下に答え奥へ進むと、中央座席に座っていた面を掛けていないテンゾウと目が合う。手を挙げて軽い挨拶を送れば、わざわざ腰を上げてこちらまで歩み寄ってきた。
「悪いな、色々と任せきりで。何か変わったことは?」
「特には」
隊長代理のテンゾウから、オレが休んでいた間のことをざっくりと報告してもらう限り、問題等は起きていない。細かい内容はあとで報告書に目を通しておこう。
「じゃ、交代ね。テンゾウ、代理ありがと」
礼を言って見送ろうとするオレを、猫のような大きな瞳がじっと見つめる。
「なに?」
「いえ。妙に機嫌が良さそうだなぁと思って」
「そう? 飽きるくらい寝たし、頭もスッキリしてるからね」
嘘ではないがまるきり事実は教えず曖昧に濁し、テンゾウが座っていた椅子に身を収める。他の交代のメンバーが揃うまでと、溜まっている報告書に手を伸ばした。
その大きさに比例するように、目聡くなるのだろうか。しかし大人になれば眼球の大きさは皆変わらないというから、単にテンゾウが鋭いのだろう。忍は観察眼を求められるし、そういうことだ。
物言いたげな視線を無視し続けていれば、そのうち諦めて「お疲れ様でした」と言い残し部屋を出て行った。
監視任務は夕方には終わったが、休んでいた間の分に溜めていた仕事も進めておかなければならない。
急ぎのもので、テンゾウが受け持っても構わない書類は片付いていたが、オレでなければならないものも当然ある。休みがないのもつらいが、休暇明けのことを考えると長く休むのも好きではない。
キリのいいところで終わらせ暗部の詰め所を出る頃には、夜の帳が落ちていた。
薄い雲が伸びる空には、鱗粉を纏っているような丸い月が輝いている。空からの明かりで照らされた道は、外灯など必要ない。
予想より遅くなってしまったからか、家路を辿る足はいつもより速足だ。気を抜くと走ってしまいそうで、それはなんだかカッコ悪い。
急く気持ちを抑えながら着いたマンションを見上げ、自分の部屋を確認するが窓から光は漏れていない。隣室も真っ暗のままだ。
いやな予感がする。足早に階段を上がり、自分が普段持っている鍵で自室のドアを開けてみるが、目当ての人物はいない。
隣の玄関の呼び出しボタンを押してみても、反応は一切ない。音も気配もない。
サホの任務が終わっているのは確認済みだ。念のために受付所へ行き、上忍の立場を利用して教えてもらった。新たな任務に就いている話も聞かなかった。
ま、素直に待つような奴じゃないか。
オレに言われたからと、ホイホイ従うタイプじゃないことは分かっていた。大方、鍵はさっさと三代目へ返し、オレとの話から逃げるためにどこかへ隠れたのだろう。
指を噛んで血を垂らし、印を組んでパックンを呼び出した。
「何か用か、カカシ」
煙と共に現れた、眉間あたりに皺を多く刻んだ気だるげな犬は、顔を合わせて早々に用件を訊ねる。
「サホを捜してほしい」
「サホ? ああ、あの娘か」
パックンは無駄口を叩くことなく、鼻を動かし大気中のわずかな匂いの痕跡を探り始めた。仲違いする前から何度か会わせたことがあるため、サホとパックンは顔見知りだ。匂いも当然覚えている。
「ここに居たようだな」
「部屋がそこだしね」
「いや、そうではない。数時間ほど前だ。ここに立っていた」
サホの部屋の前の、冷たい混凝土の床に鼻をつけ、クンクンと軽い音を立てながらパックンが説明する。一度部屋に帰ってきたのか。そしてまた出て行った。オレと会わないために。
「分かる?」
「ワシを誰だと思っている。当然じゃ」
人の嗅覚の数千万から一億倍もの鋭さを持つ犬の中でも、パックンの鼻は特に聡い。半日も経っていない痕跡を辿るくらいなら朝飯前だろう。
パックンは迷うことなくマンションから飛び出し、人家の屋根を駆け出した。小さな体は時々立ち止まり、鼻を空に掲げては進路を正していく。
向かう先は次第に明かりは少なくなり、街灯も心細い数へと減っていく。ついには人工の光のない森の中へと足を踏み入れ、辺りの景色に既視感を覚えた。
木ノ葉の里には森林は多い。けれどここは、特に思い出深い森だ。
「ねえパックン。この森の中?」
「ああ。もうすぐそこじゃな」
「そう。ここでいいよ。ありがと」
オレが足を止めると、パックンは四本足でブレーキをかけ、「礼は期待しとるぞ」と一言残し、現れたときと同様に煙を残して消えた。
相棒の犬がいなくなった途端に、森の中に住まう小さな気配が鮮明に浮かび上がる。
予想が当たっているなら、サホが居る場所は本当にすぐ近くだ。
走るのを止めて歩くことにしたのは、会ったらまず何と声をかけたらいいか考える時間が欲しかったからで、けれど相応しいものなど思いつかないまま、拓けたそこへと辿り着いてしまった。
懐かしいと感じるよりも、こんな場所だったろうかと、記憶と照らし合わせ確かめ始めてしまう。訪れるのは陽が降り注ぐ時間帯がほとんどだったし、足を運んだのも久しぶりだから、懐古するには自分の思い出との差異を埋めなければならない。
変わったところもあるが、どっしりと構えるような岩は健在で、そこに座る人影が一つを、真上から落ちる月の光が晒していた。膝を抱え背を丸め、いじけた子どもみたいだ。
「部屋で待っててって言ったのに」
何を考えても決まらないから、思ったことをそのまま言ってしまおうと声をかけると、俯きがちだったサホの顔が上げられ、それに合わせて下りていた瞼も開いた。月光に当たった顔は、わずかな明かりでも目の下のクマの存在を教えてくれる。
「待つとは言ってない」
覇気のない声は事実を語った。オレが一方的に頼んだだけでサホは了承していない。そう返されたらぐうの音も出ないが、無責任な奴だと、他人からすれば筋違いな感情が湧く。
「『待ってる』って言ったくせに」
いじけた子どもは自分も同じだ。いや、オレのほうが性質が悪い。サホがそう言ってくれたのは今じゃなかったのに。
「だから、言ってない」
「いいや、言ったね。お前がアカデミー生の頃に、『いつも待ってる』って」
ずっとずっと、もう十年以上も前。サホはオレを待っているからと言ってくれた。
寂しいと口に出したわけじゃない。一人はつらいと泣いたわけじゃない。それでもサホはオレを待つ人になると言ってくれたから、オレはどこへだって駆けることができた。帰る場所の目印があったから。
「なら、ここでもいいでしょ。あのときのわたしは、『ここで』待ってるって言ったんだから」
地に指を向け、『ここ』を強調したサホは、あのときのことを覚えていた。幼いサホたちが、つたない修業を一所懸命に繰り返していた場所を指していたことも。
忘れていて思い出しただけだろうけれど、きちんと記憶の箱に収まっていたのだと安心したのに、記憶に引きずられガキの頃に戻ったオレは、忘れていたこと自体がどうにも不満だった。
「だからオレは、ちゃんと『部屋で』って言ったじゃない」
あのときの話を振られたから、あのときのことを律儀に返したのに、再び今の話をぶつけられたサホは、ふいっと顔を横へと向ける。
「部屋で話してたら、そのまま変なことになりそう」
「変なことをしてほしいって言ったのはそっちだけどね」
開きかかっていた口がグッと閉じて、視線は気まずそうに落ちる。昨日の自分の行動を思い出し恥じる姿を見ると、溜飲みたいなものはさすがに下がった。
「……ああ言えばこう言う」
「お互い様」
やりとりはそこでぷつりと途切れ、木々や草の擦れる音が、風と共に舞い上がる。
どうしてオレたちはこうなるんだ。建設的とは程遠いガキみたいな意地の張り合いは、大人になる前に卒業したはずだろうに。
沈黙を続けるサホは横に向けていた顔を戻し、またオレと目を合わせた。子どもの頃はすぐに察せていたことも、最近はすんなりとは分からなくなった。
分からない。お前が今何を考えて、どんな壁にぶつかっているのか。
ちっとも分からないから、だから訊かなければならない。
「オレのこと好きなの?」
体調はどうだとか、何に悩んでいるんだとか、もちろんそれらも気にはなるが、何を差し置いても今のオレが知りたいのは、サホが今好いているのは一体誰なのかということだ。
サホは狼狽したが、顔を背けることも目を逸らすこともしなかった。
「……直球で訊くのやめてくれない?」
たっぷり間を置いて返ってきたのは、質問への答えではない。
「回り道しすぎてるんだよ、オレたちは」
そうやって本題に対しすぐに答えず、濁して誤魔化して肝心なことから逃げるのは、臆病者だからだ。
拒まれることが怖い、疎まれることが恐ろしい。そして弱い自分を隠すため一方的にぶつけて、儘ならないと悲観する。
それではだめだ。きっとまたオレたちは傷つけ合い、いずれ離れていくだけだ。
どうせ傷つけ合うなら、全部晒せばいい。『オビトの代わりに』という都合のいい建て前で隠すのはもうやめよう。
オレの本音なんて一つだ。どうか、どうかオレを好きでいてほしい。オビトへの想いに蹴りが着いたなら、今度はオレを見て。
「好きよ」
サホは目を逸らさなかった。ただ一言、『好き』と告げた。
好きと言った。言った。望んでいた言葉だったが、存外あっさりと叶って、正直戸惑った。
本当に言ったのか? オレの聞き間違いじゃないか? 本当だとしたら、サホの中でオビトは今どんな存在なんだ? その『好き』ってどういう意味の好きなんだ?
頭がヒステリックな音を立てそうなくらいに、かつてない速度で思考が巡る。
「ごめん」
唐突な謝罪に焦った。満月が照らす顔は、いつの間にかオレから目を離し足下を見ている。
「どうして謝るの」
『好き』と言ってすぐの『ごめん』は不穏だ。何に対する謝罪なんだ。やっぱり嘘だとか、オレが欲しい『好き』とは違うからか。
不安で背中は冷や汗を掻き、胃がズンと痛んだ。
「今まで散々、憎いだの、恨むだの、言ってたくせに」
ばつの悪さを表すようにぽつりぽつりと続いたのは、これまでの自分の振る舞いに対する自責の念にでも駆られているのか。ともあれ、『好き』に対する撤回ではないことにホッとして、胃の痛みも瞬時に霧散した。
「言ったでしょ。オレを今日まで生かしてくれたのはサホだ」
開いていた距離を一歩寄せることで埋めた。サホがオレを見上げると、その双眸に月光が差す。きらきら光るそれが間違いなく自分へ向けられていることが今でも信じられなくて、夢を見ているみたいだ。
「サホが死ぬなと言ったから、オレは死ねないと思った。それがたとえ恨みでも、死ぬより苦しい現実を突きつけたかったんだとしても、オレはオレが生きる目的を忘れずにいられた。恨んでくれたから、生きていいと思えたんだ」
オレに死んでほしくなかったのはオビトのため。それでもよかったんだ。
オレがちゃんとオビトの意志を継いでいるかを見張るためでもいいし、オビトの大事な人を殺したオレを憎むためでもいい。
サホが生きてくれるならよかった。そこにサホへの恋慕はなかった。少なくとも先生たちが亡くなったあと、慰霊碑の前でお前がオレに死ぬなと言ったときは、サホはオレにとってただ一人の特別な友人だった。きっと、そうだったはず。
サホはしばらく黙って視線を傾けたあと、おもむろに口元を緩めた。
「ばかみたい……」
言葉自体はオレを貶していたが、不快にはならなかった。馬鹿な考えだと自分でも理解していたし、サホの中で笑って済ませられる話であったのならいい。気色悪いとおぞましい物のように疎ましがられるより全然マシだ。
サホに恨まれるために生きることは、アララギさんが言っていたように、オレをじわじわと蝕む『毒』だったろう。長い時間をかけて心にヒビを入れてしまった。
しかしやはり、恨まれている間はサホが自分をずっと見ていてくれると同義だった。オレが生を諦めそうになったときに、責めて咎められる距離に居るということは、オレの傍に居てくれるということ。
オビトもリンもミナト先生もいなくなったオレの傍に、ずっと居てくれる人がいる。
「恨まれるのもいいけどさ」
許されるだろうかと、右手を伸ばしてその頬に触れてみると、サホは逃げることも払うこともなかった。絡む視線も解けなかった。
「愛してるから死ぬなと言ってくれるなら、もっといいなと思うよ」
毒でもいい。オレが心底大嫌いで、絶対に許せなくて、この世の誰よりも憎んでくれていてもいい。
けれどもし叶うなら、そこに一匙でもオレに向ける想いが欲しい。できればそれは、オレがお前に向けるものと同じであればいい。
「だめ」
痛みを堪えるような顔をして、サホは拒絶した。瞳はオレから逃げなかった。
「どうして」
「だって、だってリンは、リンはカカシのこと……」
最後まではっきりとは言わなかったが、リンがオレを好いていた事実を暗に指している。
「リンは死んでしまったのに、わたしだけが、オビトのことを思い出にして、よりによってカカシを……」
それを言えばオレだって同じだ。よりによってオビトを愛していたお前を好いてしまった。
あのときあのままオレが岩に押し潰され死んでいれば、オビトは生きて里へ帰り、サホは想いを告げられていたのに。
勇気を奮う場すら奪って尚、オビトではなくオレを想ってほしいなど戯言をのたまうのだから、オレはよくよく独り善がりな男だ。
サホがリンを思い、躊躇うのは無理もない。幼い頃から本当に仲の良い親友だった。オビトの想い人であることで嫉妬してしまっても、リンを決して嫌いになれないくらいに。
「サホ。リンは、そんなことでお前を嫌う子じゃない」
そのリンだって、お前を嫌いにはなれないと言っていた。仮にオレがサホを好きになっても、サホは自分の大事な親友だと。
「そんなの、分からないじゃない。ただの決めつけよ」
信じられないとサホは首を振る。紛れもない事実だったが、リンが内心を打ち明けたのはオレだけだ。あのあと里に戻ることなく、リンは死んでしまった。
「ああ、そうだな。どれだけきれいに言い繕ってみせても、リンの本音なんて、もう二度と確かめることはできない」
都合のいい話だと一蹴されたらそこまでだ。サホを信用させる証拠なんて何もない。
だからサホはずっと抱えていくんだ。オレを好きになることはリンを裏切ることだと、後ろめたさや罪悪感を覚える。
「なら、全部オレにちょうだいよ。お前の後悔も、気がかりも、罪だと恐れることも、オレが全部背負うから。だからオレの傍に居て」
だけどオレはクズだから。お前が自責の念に苛まれるとしても、リンがお前を大好きだったことを信じさせてやれなくても。サホがオレを好きだという気持ちがあろうがなかろうが、お前を手放す気は一切ない。
腕を回して顔を寄せれば、すっかり覚えた匂いに愛しさが込み上げた。
「誰も守れなかった。オビトも、リンも、ミナト先生も、クシナ先生も、みんな。オレは守れなかった。だからせめてお前だけは、最後まで守らせてよ」
なんでもほしい。サホのだったらなんでも。恨みでも、憎しみでも。オビトじゃなくて、オレに全部ちょうだい。
望むのなら夜毎言おう。リンは決してお前を責めることはないと。リンはお前が大好きだったと。
サホは身動ぎすることなく、オレの腕の中にじっと収まっている。
黙って首筋をくっつけあえば、その下を流れる血の音が伝わる。
一定のリズムで続くのは、お互いが生きている音。サホが生きている事実を、文字通り肌を通して実感すると、言葉にできない充足感に頭がとろけそうだ。
「少し、考えさせて」
細い声は猶予を求めた。すんなりと受け入れられることではないのは承知の上だった。
「分かった」
無理強いをするつもりはない。サホが自分の意思でオレの傍に居ることを選んでくれなければ、恐らくサホの『毒』になる。
帰ろうと促すと、サホは一人にしてほしいと頼んだ。上忍でも、女を夜中の森に置き去りにするのは抵抗がある。けれどサホは下手な笑顔を貼り付けてまで平気だと言うから、サホのためにも折れるべきだろうと、引いていた手を放した。
サホを一人置いて森を後にして、足はそのままマンションへは向かず、通い慣れた道を歩いて静かな墓地へ。
見慣れた墓石の前で止まり、黙して出迎えたのは、少しくたりと頭を垂れる両脇の花。
「リン。すごいね。リンの言うとおりになったよ」
石に刻まれた名を呼んでも返事はいつもない。
「サホが、苦しんでる。オレのせいで、ずっと、今も」
リンは、サホが『縛られている』と言った。オビトの代わりにリンを守ると誓ったことは、確かに彼女を縛る鎖であったろう。
ただそれはオビトを喪い気落ちしていたサホが前を向くために必要で、実際サホにとって心のよすがとなりサホは笑顔を取り戻した。
計算外だったとすれば、サホにとってリンがただの親友以上の存在になったこと。
リンを守ることが生き甲斐になり、もう物言わぬ死者であっても、彼女を傷つけることなど決してあってはならない。
いや、リンを守れなかったからこそ、リンを傷つけることがひどく恐ろしい。
サホの人生を変えたのはオレだ。オレさえ上手くやれていれば、余計な悲しみも後悔も背負うことなくしがらみなく生きていられた。
「ねえリン。こんなことお前に頼むなんて、オレは最低だと思う」
右目を閉じると、死に際のリンの顔が浮かぶ。
「でも、お願いだ。サホに言ってやってよ。あのとき、オレに言ってくれたみたいに。あいつに言ってやって」
胸に深く楔を打ったくせに、オレにはあいつの錘を外してやることはできない。それができるのはリン、君だけだ。
こんなオレを好いてくれた君へ頼むなんて、つくづくろくでもない男であると自覚せざるを得ない。
でも君のあのときの言葉が違わないならば。親友として、サホを解放してやってほしい。
拓けた場所から見上げる夜空は、さきほどの『いつものところ』と変わらず、数多の星が輝いている。
目立つ一等星を四つほど見つけ、線を引く。歪な四角形は、オレたちの不格好な関係にそっくりだ。
暗い世界を特に大きく照らす、丸い夜の陽。サホは目も耳も唇も、全てオレに注いで向き合った。三日月のような横顔ではなく、あの満ちた月のように、欠け一つもなく。
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