つまりは裏で様々な思惑が飛び交い、刃が行き交っているわけだが、忍以外の非戦闘員である一般市民には『平和』は滞りなく続いている。
暗殺戦術特殊部隊も、暗殺任務の数は減った。今は三代目から下される命の他、火影の護衛、うちは一族の監視など手広く行っている。
ロ班に属するイタチにとって同族を見張るのは心苦しいかと、担当を外すなどの配慮を考えたが、任務を選ぶ立場ではないと断られた。オレが思う以上にイタチは毅然としていて、隊長としてしっかりしなくてはなと、気が引き締まる。
うちは地区に多数の監視システムを設置し、一分一秒たりとも警戒を緩めないのは、数年前の九尾事件からだ。
そもそも、九尾を木ノ葉隠れの里が所持していたのは、『忍の神』と謳われた初代火影の千手柱間様と、同等の強さを誇ったうちはマダラが写輪眼で操り、里を襲ったことがきっかけだった。
初代火影がうちはマダラを制し、九尾は妻であるミト様の体に封じられた。
それから数十年、ミト様からクシナ先生へと託されることはあったが、九尾が解き放たれることなどなく、静かな時代が続いた。新しい世代の中には、九尾の存在はお伽噺の一つにでも数える者も居た。
その数十年の沈黙が、地を揺らし空にヒビを入れるような咆哮と共に、一夜にして切り裂かれた。
里に住まう若者や子どもは、かつてないほどの恐怖を植え付けられ、お伽話などという遠い話ではなく、ごく身近な災厄だということを、震えと共に肌に刻みつけた。
だが、年寄りにとってその恐怖は新たなものではない。
彼らは思い出したのだ。あの獰猛且つ凶暴な九尾が里をおびやかしたことを。その九尾を従えたのが、うちは一族の写輪眼だということを。
三代目は、共に里を守り支えてきたうちは一族に対し、信頼を裏切る行為はできぬと最後まで反対していた。しかし相談役ら上層部の言葉に耳を傾けないわけにもいかず、二十四時間の監視を付けることで話がついた。
人柱力が妊娠、出産を迎えると、尾獣の封印が弱まるというのは、上層部は周知しており、秘匿事項の一つだ。それは他里にも言える。
あのときあの場で何が起こったのか、全貌を知る者はいない。人柱力の秘密を知る他里が事を起こした犯人であるという確固たる証拠はなく、うちは一族が決して絡んでいないとは言い切れないのであれば、どんな小さな芽でも見逃すことはできない。
そしてその監視の目は、うちは一族だけでなく、一人の少年にも向けられている。
裾から出る手足は細く、服そのものが体より大きいせいか、余計に小柄さを強調している。
「買い物ですかね」
「ま、そろそろ夕飯時だしね」
いつもは獅子の面を掛けているシンマが、「オレも腹が減りました」と軽く嘆いた。少年の監視のため、今は互いに変化をし、一般市民として里に溶け込んでいる。監視対象である少年、うずまきナルトに付く場合は二人一組が原則で、オレたちの他もう一組が、離れた位置からナルトを注視している。
一人で暮らしているアパートから出て、ナルトが向かうのは商店街。素直に考えれば買い出しだろうと予測できた。
「何を買うんでしょうか。昨日はまたカップのラーメンだったらしいっすよ」
「野菜も食べてほしいところだけど」
「前は食パンばっかりだったし、温かいモン食えるようになっただけマシですかね。塩分過多ですけど」
一人で買い物をし、食料を調達するようになったのはいつ頃からだったか。大事そうに財布を抱え家を出て、買う物と言えばすぐに食べられる物――パンだとか、おにぎりだとか、そういう物ばかりだった。
湯の沸かし方を覚えたのか、最近はもっぱら熱湯を注いで作られる簡易食品が多い。幼い子どもの日々の食事としては、栄養面に偏りがありすぎる。小さな手が持つ袋の中に野菜が入っていたためしがない。
「何にしても、無事に買えるかどうか」
小さな体が一つの商店の前で止まり、中をそっと覗く姿にシンマが呟いた。ナルトの存在に気づいた大人たちは表情を硬くし、商店街の空気が冷えたものになる。
ナルトは辺りの雰囲気の変化を感じ取り、商店を後にして小走りでその場から去っていく。子どもの走りに追いつくのに苦労はなく、むしろ一定の距離まで縮めぬよう気を配った。
次にナルトが向かったのは、商店街のように店は連なっていないが、食品や日用品を販売する店が点々と構える通り。多くの住民が仕事や学業を終え、帰路についてるため歩く者は多い。
しかし小さな体は人混みに埋もれることはない。行き交う人々が遠巻きにするため、自然とナルトの周囲はぽっかり隙間が空いている。
あからさまな周りの反応に、ナルトの顔は明るくない。ナルトが少しでも顔を向けると、大人は体を竦め、自身の子を庇うように隠す。物心ついた頃からナルトは、そうやって守られる子どもではなく、危ぶまれる方だった。
通りに広がる張りつめたものを感じ取ったのか、少ない商店から店員が顔を出し、厳しい顔を作る。店に入られてはたまらない、といった態度を見せられては、ナルトも足を向ける勇気など湧かないだろう。
「あーあ。今日は無理そうっすね」
思った感想をシンマがそのまま口にする。声色に心配する様子はない。
シンマは監視対象者に情を寄せてはならないという基本を忠実に守っている。あくまでもオレたちが行っているのは監視。幼い子どもが害を受けないためでなく、害を成さないために傍に付いている。
自分の仕事が何なのか分かってはいるが、夕陽に当たると輪郭がぼやけ発光する金の頭が俯いていると、シンマとは違い多少あの子に縁があるオレは、割り切れない思いを抱えてしまう。
誰もナルトに近寄ろうともしない中、不意に男が一人、小柄な身にぶつかった。脇道から出てきたらしい男は、折り畳んだ新聞に目を落としていたようで、ナルトに気づかなかったらしい。
男はすぐに転んだ相手に手を貸そうと伸ばしたが、相手が誰だか分かると、すぐにそれは引っ込められた。一方的にぶつかった立場とはいえ、触れたことがよほどおぞましいのか、顔色は真っ青だ。
「このガキめ、とっとと消えろ!」
調子の外れた声や震えは、怒りではなく恐怖の表れだと、皆が理解していた。ナルトは立ち上がることなく、自分を恫喝する男を見上げ、身を竦ませている。
「家に籠ってろ! 表に出てくるな!」
拳を掲げて怒鳴る男に、ナルトは反射のように両腕を顔の前へ持ってきた。殴られた経験が防衛本能に働きかけ、自然と顔や頭を守る癖がついている。
小さな子どもにぶつかっておきながら、謝罪の一つもなく、がなる大人を誰も止めることはない。通りの端に身を寄せ、険しい顔で成り行きを見ているだけ。巻き込まれてはたまらないが、次にナルトがどんな行動を取るのか警戒し、動けないでいる。
異質な空気と、遠巻きの輪を作る大人たちを眺めていると、見知った顔の女が目に入った。眉と目を寄せ、ナルトにではなく、ぶつ真似を続ける大人に憤怒の表情を向けている。
「シンマ、ナルトを頼む」
一言告げ、シンマを置いてその場から瞬身を使い移動し、女の真後ろへと着く。
「止まれ」
足を踏み出す体を止めるため、腕を掴んで制した。女は振り返り、目玉が零れそうなほど大きく見開いた。腕を取ったまま、通りから外れた横道へとオレが進むと、女は抵抗することなくついてくる。
先ほどの通りと違い、こちらは周辺に家がある住人以外、ほぼ使うことのない道。他人の目が気になる話をするのにはちょうどいい。
辺りに人の気配はないと判断し、変化を解く。面を掛けた視界となり、見える範囲は狭くなったが、女が目をずらしたのははっきり分かった。
「お前のナルトへの接触は、固く禁じられてるでしょ」
忠告を兼ねた確認に、ナルトに関わるなと釘を刺されているサホの眉が寄る。不服、不満、反発。そういった胸の内が容易に分かってしまって、ため息が零れそうだ。
「咎められるだけじゃ済まない」
危機感を持てと続けると、本人の口から承知していると返ってきた。
サホはうずまきナルトへの一切の接触を禁じられている。生前のミナト先生、クシナ先生と親しく、関係を持つ者のほとんどがその対象で、当然オレもその中の一人に含まれている。
あのときオレが止めなければ、サホはナルトと男の間に割って入っただろう。衆人環視の中でそんなことをしてしまえば、サホがナルトに接触したと一般市民から報告が上がらないはずがない。何より、ナルトを監視している暗部が、つまりオレたちが三代目に事の次第を伝える。
接触禁止はただの命令ではなく、火影からの厳命。破ればどうなるか、サホだって想像できないわけじゃない。
「今日はカカシが監視なの?」
問われたので肯定すると、サホは力のない相槌を打つ。伏せがちな瞳で、サホの意識がここではないところに向けられているのだと察せられた。
ナルトの監視はシンマとあともう一組の仲間が継続しているので、そろそろ暗部の誰かが男に声をかけ、恨みを買う前に逃げた方がいいとでも忠告し、あの場は一旦落ち着いているだろう。直接ナルトを守ることはしないが、事を治めるのも任務の一つに含まれている。
「庇ってやれない悔しさは分かるけど、今は我慢するしかない。時機が来れば――」
「分かってる。分かってるよ」
サホの思いを汲んで言葉をかけるが、そんなことは承知だと突き返された。口元は歪んで、隙間から苦しげな呼吸が漏れる。
責めたつもりではなかったが、堪えるしかない現状に本人も嫌気が差しているのに、尚も説くのはただの追い打ちでしかない。
「カカシは、ミナト先生の代わりにナルトを守ってる。たとえ当番制でも、ただ見ているしかなくても、何かしてあげられる」
サホが言うことは間違っていない。
接触を禁じられているが、任務だからと、ナルトの前に変化した姿を見せることは何度かあった。今日のように、ナルトに怯える住民を宥めるためではあったが、結果的に怯えるナルトを助けているとも捉えられる行動を取ることもある。
「わたしはクシナ先生の代わりに、何もしてあげられない。ナルトを庇うことも、ナルトのお母さんが、産まれてくる前からナルトのことをどれだけ愛していたかも、何も伝えてあげられない」
堰き止めていた思いが放流され、オレはただその濁流を受け止める。
三代目が接触を禁じる理由はいくつかあって、ナルトに対し、自身の出自を教える者を出さないことも含まれている。
産まれたその日に親を亡くした天涯孤独の身。幼さ故に『親を亡くしている』ということを理解できているかも分からない。
自分が何者なのか、どうしてこんなにも大人たちに嫌われているのか、ナルトは何一つ知らない。
九尾の人柱力は、里にとって大きな意味を持っている。境遇を不憫に思ったからと、身の上に何が遭ったのか伝えられるような、そんな軽易な話ではない。
分かっている。オレたちはちゃんと分かっている。
どんなに納得いかないことでも堪えるしかないのだと、二十年近く生きて味わった悲しみや憤りと共に身に染みている。
分かっていても、思ってしまうのは仕方ない。サホにとってクシナ先生は大事な師で、その子どもの誕生をどれだけ楽しみにしていたか、先生の護衛についていてずっと見ていた。
急逝してしまった大事な人の子どもを守ることができないやるせなさは、オレも同じだ。
不健康な食事を続け、くたびれて皺の目立つ服を着て、自身で整えられない髪は乱雑に伸び、誰も居ない部屋の中で一人床に就く。たとえ先生たちの子でなくとも、まだ親の手を借りて生きるべき子どもが、こんな生活を続けているのを見ているしかできないなど、心が痛まないわけがない。
オレたちだからあの子に手を貸してやりたいのに、オレたちだから手を貸してはいけない。
「わたしの分まで、守って」
サホがオレの方を見て言う。オレのことを良く思っていないサホがわざわざオレに頼むのは、それほどナルトが大事な存在だから。
想いの強さを感じ、頷くと、サホはそのまま横道の奥へと進んでいく。オレも仕事に戻るため、先ほどの通りに足を向けた。
変化し、通りに合流すると、すでにナルトや男の姿はなかった。人の流れも滞りなく、騒ぎはすっかり落ち着いたようだ。
鼻を利かせ、気配を読み、見つけたシンマの姿は近くの公園にあった。視線の先にはシーソーの片方に腰を下ろし、俯いているナルト。
「シンマ」
「お。もういいんすか?」
「まあね。あれからどうなった?」
「周りの目も気になったみたいで、男が捨て台詞を吐いて先に消えました。ナルトはここに」
ナルトに気づかれぬよう、建物の陰に潜み、オレが離れている間に起きた事を、シンマは掻い摘んで報告する。
夕暮れの公園には、ナルト以外の子どもは居ない。来た当初から居なかったのか、ナルトが来たことで皆帰ったのか。
一人で遊べるブランコや滑り台と違って、シーソーは相手が居なければ本来の遊び方は楽しめない。
一方に傾いたままのシーソーは、ナルトと遊んでくれる子どもがいないことを如実に表しているようだった。
うちは一族の監視シフトが終わり監視室から出たのは、昼から一刻ほど過ぎた頃。映像を見続けたせいか少し頭が重い。
帰ったら仮眠でも取るかとマンションを目指していると、隣室のベランダに布団が干されているのが見えた。
忍専用のマンションのベランダに洗濯物が干されていることはほとんどない。職業柄、日中に帰宅できる保証がないので、住人の大半が部屋に干す。しかし取り込める時間を確保できる休日は干す者も居るので、サホも今日は休みや非番なのだろう。
マンション内の階段を上がって自分の部屋に入る。当たり前だが物の位置や角度など、部屋を出る前と何一つ変わりはない。換気を行うため窓を開けると、新鮮な空気が一気に室内を巡る。
オレも布団を干さないとな。
隣が干していることを考え、そう思いはしたが、気が向かないのでベッドに転がった。
ずきずきと鈍く痛む目頭を揉む。そんなもので眼精疲労など取れるはずもないが、ついやってしまう。
開けたばかりの窓からは弱い風がそよぎ、透けたカーテンを揺らす。疲れによる気怠さもあってか、すぐにでも眠ってしまいそうなのに、うまいこと意識を手放すことができない。
布団を干したい。隣の部屋みたいに。そこまで考えて、先日の一件を思い出し、ナルトのことや、ミナト先生やクシナ先生のことが頭に浮かぶ。
オレもクシナ先生には恩がある。リンが死んでしまって以降、恨むサホとオレを繋ごうとしてくれた。
クシナ先生との関わりを辿って行くうち、すっかり忘れてしまっていたことに気づいた。
たしか、ここに。
身を起こし、机の引き出しを開ける。隠すように、奥の方に仕舞っていた小さな巾着袋を取り出した。
口を開いて中を確認すると、あの日回収した、真珠に似た種が変わらぬ形で入っている。
クシナ先生がサホにあげると約束していた、花の種。
今だったら、受け取ってくれるかも。
先生たちが他界した当時に比べ、サホとの関係は昔ほど殺伐とはしていない。サホの機嫌を損ねたらそこで終わりだが、会話だって続くようになっている
今だったら。迷うオレの耳に、隣室からの音が滑り込んでくる。玄関のドアを開け、閉めるような音。廊下を歩く音や、ガサガサと細かく騒がしい音。
そのうち、カラカラと窓を開ける音がした。壁越しではなく、オレの部屋の窓から伝ってきたので、音の輪郭がはっきりしている。
種を戻して巾着の口を縛り、荷物置き場になっている部屋へ入って、ほぼ開けることがない窓の鍵を外し、横へとずらした。
ベランダの床は砂埃や枯葉が積もっている。隣室とを遮る薄い壁からそちらを覗けば、ちょうどサホが取り込んだ布団を持って部屋の中を移動しているのが見えた。
意を決し、隣のベランダへと移る。開いたままの窓。了解もなく入るのはよくはない、いやしかしベランダとは言え足を踏み入れているから今更か、などと思案していると、窓を閉めに戻ってきたサホがオレに気づき、警戒態勢を取った。
「オレだよ」
術を仕掛けられてはたまらないと、素直に正体を明らかにすると、サホは怪訝な面持ちでオレの名を呼んだ。構えの姿勢から力は抜けたが、手は印を結んだ形のままだ。
「昔から思ってたけど、サホっていちいち反応がでかくない?」
表情が分かりやすいサホは、反応も分かりやすい。女子特有のものかと思っていたけれど、動じない者や、動揺していても平静を装うだけの余裕がある者も居たので、単にサホという人間の特徴だ。
呆れた口調になったせいか、サホは少しムッとした様子を見せ、
「人の部屋のベランダに入り込んで、何かご用?」
と、尖った物言いで返してくる。可愛げがない。その一言に尽きるサホに、思わずため息をついた。
「……いやな言い方するようになっちゃったもんだね」
子どもの頃のサホは、こんな風に他人に棘を向ける奴じゃなかった。リンに嫉妬してしまう自分がいやだと、『人に悪意を向けてはいけない』という道徳をしっかり持っていた。
十年以上も時が経てば、人は変わってしまうものだと、感慨深くなる。ま、オレとて変わった部分はあるだろう。
というか、『ベランダに入り込んだは正しい』ので、入り込んだ奴と親しげなやりとりをすることもないわけで。
いや、会話はあれど、親しげなやりとりなんかもここ数年ないし。サホの反応は当然だったわけだ。
考えれば考えるほど、大して関係性は改善されていないと思い知って気落ちしそうになる。これじゃまずいと、ここに来た目的を遂げるため、手の中に収めていた巾着をサホに差し出した。
「これ」
サホは巾着を認めると一拍ほど間を置いて、すんなり受け取った。サホの指がオレの手をかすめる、そのかすかな温度に、手のひらどころか全身の神経が応え、悪寒ではないが背が震えた。
「なに?」
巾着の中身を訊ねられたが、どう説明しようか迷う。
花の種の件は、あくまでもサホと先生、二人のやりとりの中にあった。オレはそれを盗み聞きしたような形だから、どうしてお前が覚えているんだと気持ち悪がられても困る。
けれどそれを説明しないことには、何故オレが持っていたのかと、それはそれで気味が悪くないだろうか。
黙るオレを置いて、サホは自分で確認した方が早いとばかりに、巾着の中身を自身の手の中へと移した。ころころとした白い粒に、「真珠?」と零す。
「昔、クシナ先生が言ってたでしょ。渦の国の珍しい花。咲いて種がついたら、お前にやるって」
真珠ではなく花の種だと教えると、サホは驚いてオレの顔と手の中の種とを交互に見やった。
「ど、どうしてカカシが?」
「先生の自宅から荷物を回収していたときに見つけた。ずっと、お前に渡そうと思ってたけど、タイミングがなかった」
本当だったら、クシナ先生本人から手渡されるはずだった手の中の種を、サホは呆然と見つめている。
こうしてサホの手に渡ることができたのは奇跡だと思う。元々、咲くまでが難しい花らしいし、種をつける前に鉢が壊れていたり、家が崩れた際に瓦礫に押し潰されていれば、種を回収できたかも分からない。同じ暗部同士とはいえ不審な動きなどないように互いを監視し合う中で、誰にも見つからずに持ち帰ることができたのも幸運なことだった。
指の先で、サホは優しく種に触れる。まるっきり真珠にしか見えない、その一粒一粒を検分するように、ころころと動かしながら、そっと口を開いた。
「ありがとう」
聞き間違いかと思った。サホがオレに向かって礼を口にするなんて。
礼を言うということは、感謝の念があり、オレが種を保管していたことを喜んでくれている、という解釈でいい――のだろうか。
さきほどまで心に広がっていた
「ねえ。これ、ナルトに分けてもいい?」
手の器の中、種を半数ずつに分けながらサホがオレに問う。
「オレはお前に渡せたらそれでよかったから、別にいいけど」
クシナ先生が生前サホにあげると約束していたから、先生への恩返しも兼ねて、いつかサホの手元に届けたかった。それだけだ。サホがその種を育てようとも、形見としてずっと保管しようとも、どちらでも構わない。
「三代目が、ナルトが植物を色々育ててるって、言ってたから。これを渡すくらいなら、許してくれるかなって」
そういえば、ナルトの家にも鉢がいくつもあった。毎朝水やりをして、花が咲いたら喜んで。食用であれば食べてはみるが、野菜嫌いには厳しいようで、最近は食べられないものばかりを育てている。
人に避けられ生きているナルトにとって、言葉は交わせないが、自分の世話を頼りに生きている草花が心の拠り所の一つなのかもしれない。
「お母さん自身のことは伝えられないけれど、クシナ先生の産まれ育った国の花だから」
今はもうない、渦の国。新しい世代は渦の国が存在していたことも、木ノ葉が渦潮隠れの里と同盟を組んでいたことも、学ばなければ知ることはないだろう。
親の顔も名前も知らせてはいけない。産まれる前から愛されていたことも、愛してやりたいと思っている者が居ることも、何一つ知らせてはいけないが、花の種くらいなら、寛大な三代目は咎めたりはしないだろう。
サホなりにクシナ先生とナルトを繋げたいと思い、その助けになるなら。お前が喜ぶのならそれでいい。
任務の報告のため三代目の下へ行き、完了の旨と任務中に気になった点や、ロ班の仲間のことについて求められるがままに答え、今後の暗部の配置換えや評価査定の件など、少々時間をとって話を詰めた。
「――では、そのように」
三代目の指示の最終確認をすると、しっかりとした返事があった。用は済んだ。執務の邪魔にならぬよう早々に退室すべく、屈んでいた姿勢から腰を上げると、
「ああ、カカシよ。ちょっと待て」
と呼び止められ、踵を返そうとした足を止め、その場で直立した状態で三代目に顔を戻した。今後の暗部に関する話を重ねていたので、三代目の表情は引き締められていたが、今はそれが緩んで、穏やかなご老人のような顔に変わっている。
「実は先日、サホが珍しい花の種を持ってきてな」
振られた話題に、一瞬息が止まる。
「
海花――そうだ、ホントはそんな名前だった。『コイヤブレ』は異名みたいなもので、正しい名は海花だった。
名前の通り、海から遠い木ノ葉隠れの里ではまったく見ることがないし、渦の国や渦潮隠れの里と同じで、教えられなければ気づくこともない。
「そういえば生前、クシナが育てておったのう」
クシナ先生の名前が出て、心臓が早鐘を打ち始めた。
三代目は博識であり、様々な分野に精通している。海花はどんな花なのか、その花に縁のある者は誰なのか。衰えることのない脳があっという間に計算してしまう。
もし、瓦礫となった先生の自宅から持ち帰り、勝手に保管していたことがバレたら。ただの命令違反では済まず、里への反逆意思を疑われ投獄――と、最悪の事態が頭を駆け巡った。
三代目の視線がオレを射る。逸らしてはならないと、全神経を目元に集中させ、鋭い眼光から逃げようとする体を意思でねじ伏せた。
「……何にしても、珍しい貴重な
目線を落とす形で、先に折れたのは三代目だった。サホの希望通り、いずれナルトに渡してくれると。
三代目は種の出所がクシナ先生だとすぐに辿り着いたに違いない。そこにオレが絡んでいて、オレ自身は一体いつ手に入れたのかということも把握しているはずだ。
しかしこれ以上追及する様子もないし、オレの違反行為は黙認してくれるということだろう。命拾いしたと、悟られぬように安堵した。
「のう、カカシ。海花の花言葉は知っておるか?」
急に変わった話題についていくため、そんなものあっただろうかと記憶を探ると、やけにはっきり覚えていた。
「はい。一度、クシナ先生がお話しされていたので。たしか、蕾と開花したときと、二つあると」
蕾のときは『恋の終わり』。満開時は『あなたに会えてよかった』。
花の本来の名前は忘れていたのに、この花言葉だけは忘れていなかった。『コイヤブレ』なんていう、失恋の象徴のような花をサホに育てさせようなんて、とクシナ先生に怒りを覚えたからだろう。
けれどすぐに、クシナ先生の本意に気づいてサホを思う先生の気持ちを感じたから、オレもサホにどうしても種を渡したかった。
「そうかそうか。実はな、これは種言葉もあるのだ」
「種言葉……?」
花ではなく種に。花言葉ならオレでもその存在は知っているけれど、種言葉なんて産まれてこの方聞いたことがない。葉言葉だとか根言葉だとかも、もしかしたらあるのだろうか。
「なんだったかのう。ああ、そうだ。うちに海花のことについて書かれた本があったな。あとで見つけて、お前の部屋に送っておこう」
「は……? いや、オレは別に……」
「雑学を持つことも悪くはない。人生にしろ任務にしろ、どんな知識が必要になるか分からぬものよ」
断ろうとするオレに、三代目は穏やかに説いた。仰る事はその通りだが、種言葉が必要になる事態など考えられない。たかが言葉じゃないか。
しかし、里長がこうも言うなら、部下としては素直に応じておくほかない。
あれから四日後の夜。風呂も済ませ体を休めていたオレは、自室のベッドの上で胡坐を掻いてイチャパラを読んでいた。もう何度も読み返しているが、飽きることはない。
静寂の中、ページを捲る音だけが響いていたが、不意にカーテンを引いていた窓から、軽い音が数回鳴った。
何だと警戒しつつ、カーテンを引いて見てみれば、火影専用の忍鳥が羽ばたきし停止飛行している。
「ホントに来た……」
思わず呆れも混じった声を上げてしまった。
閉じていた窓を開け、忍鳥の細い脚から下がる包みを受け取る。身が軽くなった忍鳥は、夜目の利く種類の鳥であったため、空を滑るように飛び、あっという間に去って行った。
窓を閉め、近くの机に包みを置いて結ばれている紐を解く。中には図鑑が一冊。よくある大判ではなく、少し小振りなサイズだが、それなりに重みはある。
忍鳥も大変だったろう、器用だなと感心しながら、届いたのだから目を通しておかなければと、一昔前の装丁が施されている表紙を開いた。
「えーと……海花、だったか」
逆引きした方が早いと、巻末辺りにある一覧表から名前を探し、該当のページを辿る。古い図鑑だから紙が変色し薄いので、破らないように気を遣う。
目的のページには『海花』と題が振ってあり、その特徴と花や蕾の絵が描いてあったが、どちらも色が付いていないので何色の花が咲くのかは分からなかった。
別名が『コイヤブレ』であること、どうしてそのように呼ばれているかなども記されていて、海花について知るには十分な内容だ。
「花言葉は二種類あり……」
説明文の中には花言葉が二つあること、どちらもオレが記憶しているものと変わりないことが綴られている。
『恋の終わり』と『あなたに会えてよかった』という、失恋の意味が込められているとはいえ前向きな印象の言葉。
続く文章には、本当に種言葉についても書かれており、目にした瞬間、頭を金槌で殴られたような衝撃を受けた。
「『僕に気づいて』……」
誰かに呼びかけるような種言葉は、恐らく失恋した女性へ種を贈る男の内心を表したのだろう。
まるでその通りになぞった自分に笑ってしまう。同時に、サホがこの種言葉を知ることがないことを願った。
知られてしまえば、サホは何を思うだろう。そう考えると知ってほしくもなり、まとまりのない心が苦しくて本を閉じた。