最果てまでワルツ | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -



「先輩。あの人、先輩の知り合いですよね?」

 詰め所での待機命令が出され、ちょうどいいからと溜まっていた書類を片付けていると、同じく待機命令を下されていたテンゾウが、怪訝な面持ちで声をかけてきた。

「あの人って?」
「全身緑色の服を着た」
「……もしかしてガイのこと?」

 『全身緑色』と聞いて浮かぶのはガイ以外ない。『おかっぱ頭の』と言われてもガイだし、『眉毛が太くて濃い』と言われてもガイだ。

「火影室の警備に当たっている仲間に、カカシ先輩に用があるから取り次いでくれって頼んでるみたいなんです」
「ガイが?」

 正規部隊であるガイは暗部の詰め所を知らない。オレとコンタクトを取るには、マンションの部屋を訪ねるか里の中を移動しているのを捕まえるか、受付所を通して伝言を頼むくらいしか思いつかないだろう。用があるならその内三つのどれかを選べばいいのに、わざわざ任務中の暗部に頼むなんて。

「カカシ先輩に、どうしても今日の夜までに話したいことがあるからって、火影室の前から動かないみたいで」
「何やってんのよあいつは……」
「三代目も『うるさいからカカシを呼んでやれ』と」
「ホント何やってくれてんのよ……」

 里の最高責任者の執務室前で騒ぎを起こし、あまつ里長に呼び出してもらうなんて。あいつがそれなりに里へ貢献している上忍じゃなかったら許されないぞ。
 早いところあいつを火影室の前からどかさないと。書類仕事は一旦止めて、詰め所を出て火影邸へ向かった。

 なるべく急いだつもりだが、火影室の扉の両脇に立つ仲間はオレを見て、「やっと来てくれた」と力の抜けた声が漏れるほど疲弊している。

「おう、カカシ!」

 廊下の窓の、外側の枠に爪先を引っかけ、腹筋を繰り返していたガイがオレに気づき、足を床へとつけ、窓から吹く風に切り揃えた髪を揺らしながら、「待っていたぞ」と大層爽やかな笑みを浮かべた。その清々しさが腹立たしい。

「あのね。お前なに考えてるの? 三代目にも護衛にも迷惑かけて」
「いやぁ無事に会えてよかった。お前に大事な用があったんだ」
「恐れ多くも里一番の上司を、伝書鳩みたいに使うんじゃないよ」
「今夜は時間あるか? いや、なくても作ってくれ! 我が青春のライバルとして!」
「所構わず鍛えるのも止めなさいって。ここ火影室前の廊下よ? 鍛錬場じゃないっての」
「二時間――いや、一時間……半! 一時間半で構わん! 本当は二時間以上欲しいがな!」
「周りの目を気にしすぎるのもよくないけど、お前は周囲を見なさすぎでしょ」
「しっかり腹を空かせて来い。男なら米三合はペロリといきたいものだ!」
「人の話聞いてる?」
「伝書鳩に使ったつもりはないぞ」
「あ、ちゃんと聞いてたのね」
「お前もオレの話を聞いているのか?」
「夜は暇だけど、何なのよ?」

 何を言ったところで聞いてはいても響かない。馬の耳に念仏とはこのことだ。それは置いておいて、今夜は特に予定はない。どこかで食べて帰るか家で作って食べるかも決めていない。『腹を空かせて来い』と言うから食事の誘いなのだろうけど、わざわざこんな騒ぎを起こしてまで果たせなければいけない大事な用とは思えない。

「実は今夜までが期限の食事券があってな。共に焼肉を食おうじゃないか!」

 見せられたのはお食事券。オレも知っている焼肉店の名前が印字され、豪華な装飾文字で綴られている一千両の文字が目立つ。今夜まで期限で一千両分。なるほど、これは確かに使わないでおくのは勿体ない。

「焼肉ねぇ……」
「何だ。不満か?」
「いや、別に」
「来るだろう? さあ来い!!」
「あー、やかましい……。じゃあガイの奢りね」

 一千両分あるなら、予算オーバーしたとしても支払う額は高くない。誘ってきたのはガイだから、その分を支払ってくれるなら行くのは構わない。元々油っぽいものは好きではないが、たまにはガッツリ肉を食べるのもいいだろう。肉だけじゃなく野菜や他のものもバランスよく食べればいい。米を三合食べる気は一切ないが。

「仕事終わりは何時だ?」
「んー……19時は過ぎるかもね」

 今から戻って書類を片付けるのにどれだけ時間を取るかにもよるが、遅くても19時には終わるだろう。急ぎのものを片付けさえすれば問題ない。

「そうか。ならオレが迎えに行ってやる!」
「え、いいよ。来ないで」
「遠慮するな!」
「遠慮とかじゃなくて、お前は暗部の詰め所に入れないじゃない」
「じゃあどこへ迎えに行ったらいいんだ?」
「だから迎えに来ないでって言ってんの」

 人の話を聞いてないようで聞いていて、でもやっぱりこいつは聞いていないなと思いつつ、「受付所で待つから来い」と言われたら、これ以上断り続けるのも疲れるのでそこを落としどころにした。

「今夜は焼肉だ! いいな!? 忍たるもの常に万全の備えを! 肉を収める腹の準備をしておけ!」
「はいはい。分かったから、とっととどっか行って」

 太い声を張り上げ念押ししてくるガイに返事をし、用が済んだなら去れと促す。ガイは「男と男の約束だぞ!」と言い残し、先ほどまで腹筋に使っていた窓からそのまま出て行った。

「……騒がせて悪かったね」
「いえ……お疲れ様です」

 護衛の仲間に謝罪を告げると、労りの言葉が返ってきた。ホントに疲れた。期限が今日までだから急ぎというのは理解できるが、焼肉に誘うためだけにどうしてあんなに熱を上げられるんだ。ガイならオレでなくとも誘う相手はいくらでも居るだろうに。



 予想通り、暗部の詰め所を出たのは19時前だった。約束したからにはすっぽかすつもりはない。素直に受付所に向かうと、腰に両手を当てて仁王立ちするガイが目に入った。
 陽が落ちてこれから夜は深まっていくというのに、ギラギラと光る目が眩しい。見えるはずのない熱気のせいか、周囲はガイから距離を取っている。
 受付所の一角で異様な光景を作り出している当人は、オレが目に入ると「カカシ! ここだ!」と声を上げた。わざわざ言わなくても見れば分かる。

「待っていたぞ! 焼肉の腹にしてきたか!?」
「多分ね」
「なんだなんだ。焼肉と聞いて、男が心と腹を躍らせなくてどうする!?」

 そうは言っても、油分過多なものは苦手だと昔から何度も伝えているのだから、同じ心構えを求めないでほしい。生憎とオレは、焼肉に向ける情熱や整える胃袋は持っていない。
 ガイが受付所を出て行くので、オレも黙って後ろについた。まずは何を食べるべきか、タレとの相性もペースを左右するんだと熱弁している。朗々と語る背を見て、早食い対決とか勝手に始めたらすぐ帰ろうと誓った。

 焼肉店は飲食店が連なる通りにある。明るいライトで照らされた看板やネオン、あらゆる店から漂ってくる食事の匂いは混ざり、さすがにオレの胃も反応してきた。
 今から食事をする者、食事を終えて帰る者、次の店に向かう者。ぶつからないように、波から外れぬようすれ違い続け、ようやく目的の店が見えてきた。

「サホ! 待たせたな!」

 ガイが唐突に声を上げる。『サホ』という名と、焼肉店の前に佇む女の姿が目に映り、瞬時に全てを理解した。

 こいつ、オレを嵌めたな。

 今夜でなければいけない理由は食事券の期限が本日までだからだと思っていたが、真の狙いはオレとサホを引き合わせるため。カモフラージュでしかなかった。認めたくはないが、見事ガイの策に嵌められた。
 似たようなやり方で、以前もサホと顔を合わせた。あのときと同じで、サホはオレを認めると顔が強張り、ガイの名を力なく呼ぶが、ガイは予約しているから安心しろなどと見当違いのことを言って先に店へと入ってしまった。
 残されたのはオレたち二人。

「『裏なんてあるわけない』って言ってたくせに……」

 しばし黙り込んだあと、先に口を開いたのはサホの方だった。やはりサホも、オレが来ることなど聞かされていなかった。もし知っていればオレを避けて来なかっただろう。
 ガイだからとすっかり油断していたのは自分たちのミスだったが、どうも騙された感は否めない。口にすると余計に気が落ちるが、裏の裏を読まなかったのは事実なので、ガイを責める気はない。
 そのガイはもう店に入ってしまった。もしサホが焼肉を食べたいと言うのならオレは遠慮してもいい。焼肉にそれほど思い入れはないし。

「――行こう。ガイが激辛カルビとか頼む前に」

 オレが言う前に、サホが店に入ろうと促した。これはつまり、オレが同席しても構わないということ、だろう。一度そちらに目を向けると、すぐに合った。間違いなくオレに言っている。

「……だね」

 溜めていた息を吐いて、サホに続いて店へ入る。マスクをしていてよかった。拒まれなかったことに安心した自分がどんな顔をしているかなんて、誰にも見せられるわけがない。



 「こちらへどうぞ」と案内された先では、すでにガイが席についてメニュー表に目を通していた。恐らく片側に二人ずつ座る、合計四人席だが、ガイは端に寄ることもなく堂々と片側の真ん中に座っている。奥に詰めるや、手前に寄ろうとする素振りは一切ない。

「座れ座れ! 飯は白米と玄米があるが、二人はどっちが好みだ? 味噌汁は、オレは赤が好きだ。情熱の赤だからな!」

 座れと強いる空いている席は、長椅子型で、一人掛けですらない。そこにオレとサホで座れと。

 一回ぶん殴った方がいいのかな。

 本人は随分と陽気で楽しげだ。こっちは先ほどから気まずい空気がちっとも消えず、息苦しい思いをしているというのに、米の趣味や味噌汁の好みなど主張されても答える気になれない。
 サホも空席を見つめて黙っている。オレの隣に座るなんて抵抗あるよねそりゃ。でもこのまま突っ立っていてもどうにもならない。意を決して、奥側に腰を下ろした。サホの反応が見えないよう、なるべく下を見る。
 一拍置いて、サホはすんなりとオレの隣に座った。ホントに嫌だったなら、無理矢理にでもガイの隣へ逃げることだってできたはずだ。距離はあるとはいえ、オレの隣を受け入れてくれたことに、入店前と似たような安堵が広がる。

「ガイ、今日は奢ってくれるんだっけ?」

 メニュー表をガイから受け取ったサホが、中をパラパラと眺めながらガイに訊ねる。『男に二言はない』と肯定したガイは実に悠然としている。オレは食えと言われたら結構な量を食べはするが、基本的にそこまで大食いではない。サホの胃の大きさも昔と変わりなければ、女子の平均的なサイズ。見るからにモリモリ食べそうなガイを合わせて三人分の金額は、食事券の一千両を確実に越えるだろうけれど、やはり一千両というアドバンテージは大きい。食事券で足りない分の支払いも、上忍のガイの懐は十分に耐えるだろう。
 サホはガイの力強い返事を確認したあと、メニュー表の半ば、やたらと金、銀色の装飾枠や文字が光る頁を開いた。

「じゃあ、この一番高いのを二皿」

 サホの指が捉えたのは、一皿二百両の肉。単品メニューの中で一番高額な品だ。

「むっ!?」

 一番高いのを、しかも二皿という発言に、ガイの太い眉が跳ねる。サホの考えをすぐに察して、広げる高額の品が並ぶメニュー表を横から眺め、次に高い品を探した。

「ならオレは、この二番目に高いのを三皿」
「ぬぉっ!?」

 二番目だから二皿じゃダメージが少ないかもしれないと思い三皿にしてやると、期待に応えてくれたようにガイの口からまた唸るような声が響いた。表情から余裕はすっかり抜け落ち、オレとサホを交互に見ては、動揺を隠せないでいる。

「これなに? こんなに少なくて百二十両もするけど。おいしいの?」
「さあ。食べたら分かるんじゃない?」

 サホがオレに指し示した写真の皿には、肉が三枚しか乗っていない。一枚四十両。一口が四十両と考えると美味しいのだろうが、食べたことがないため、曖昧な返ししかできなかった。サホはオレの意見を取り入れその皿も頼み、オレも次に高いものを探して頼んだ。肉の種類などどうでもよくて、オレとサホの目はひたすら値段だけに絞って、できるだけ高い品を選別していく。

「ちょ、ちょっと待て! 食べ放題じゃないんだぞ!」

 そんなこと分かってるに決まってるでしょ。お前の懐を痛めつけておかないと、また性懲りもなくオレたちを嵌めるじゃない。余計な画策をすればしっぺ返しを食らうってこと、よく覚えておきなさいよ。
 ある程度ピックアップが終わったところで、サホが店員を呼んで注文を始める。基本の三名様コースを頼んだあと、高いものから順に挙げていく。

「サホ、なあ、ちょっと待て、ちょっ、ちょっと待て!」
「ガイ。さっき自分で言ったこと忘れちゃったの?」

 何とか注文を止めさせようとガイが身を乗り出してくるので、オレは店員が持ってきたおしぼりで手を拭きながら制した。焦るガイがこちらを向くので、

「男に二言はないんでしょ?」

そう言って思い出させてやると、言葉を詰まらせて青い顔をした。その間も、サホは食べきれる量を踏まえ、できるだけガイの財布の中身を減らすべく注文をし、数分後には滅多に見ることはないだろう高級な肉がテーブルに運ばれてきた。
 ガイは会計のことを考えてか意気消沈していたが、値段に見合うだけの美味い肉を口に入れていけば吹っ切れたのか、オレやサホよりも食べていた。ガイが支払うんだから別にいいんだけど、ショックを引きずらないでサクッと切り替えられるその単純さが羨ましい。
 ガイはともかく、サホと食事を共にするのは久しぶりだ。本人はなるべく気づかれないようにしているのだろうが、先ほどからチラチラとこちらを窺っている。
 実のところ、サホの前でもガイの前でもマスクを下ろしたことは一度もない。まだ親しかった頃に食事に行ったときも、オレはサホの目を盗んで箸を口元に運んでいた。

「サホ、これが食べ頃だ」
「あ、うん」

 鍋奉行ならぬ焼肉奉行のガイに促され、サホの視線は網の上の焼肉に注がれる。そういった隙を突いて高い肉を胃に収めた。
 甘い物が苦手なオレ以外の二人が食後のデザートのアイスクリームを小さなスプーンですくう間、これだけ食べたからには明日はしっかり動かないと、良い肉は胃もたれしないってホントかなと、気づけばサホの隣に座っている緊張などすっかり解けていた。
 デザートも空にしたのは、入店から一時間半ほど経った頃。ちょうどガイに求められた時間だった。
 伝票を掴んだガイを先頭に、店舗出入り口のすぐ傍にある勘定台に向かうと、そこは順番待ちの客で溢れていた。

「これは待つな」

 実際に会計を行うのが何組かは定かではないが、とにかく人が多い。割り勘をしようとしているグループもあるし、オレたちの番が来るまでまだ時間がかかるだろう。サホは待つ時間を使って化粧室に向かった。

「邪魔になるから先に出とくよ」

 オレたちの会計はガイがやってくれる。ならばこの場に留まるより、店の外で待つのが無難だ。
 店の戸を開けると、他店舗から漂う混ざった匂いに出迎えられ、すでに満腹の状態で嗅ぐにはかなり濃い。焼肉店に入る前には美味しそうに感じられたこの香りも、高額な肉をたらふく食べた今となっては少しきつい。
 邪魔にならないようにと外に出たのだから、店の戸の前に立っているのはどうかと思い、焼肉店と隣の店との間にある細い路地に入った。出入り口が見えるここなら、ガイたちが会計を終えて出てきてもすぐに分かる。
 腰に付けたポーチの中から、イチャパラの上巻を取り出す。手持無沙汰になるとイチャパラを読むのが癖になってしまい、常に一冊は携帯している。何度も読み返しているので、話の内容や登場人物の台詞もほぼ覚えてしまっているが、それでもいくら読み返しても面白い。自来也様は忍だけではなく物書きとしても一流だ。
 ページを三枚ほど捲ったところで、サホ一人が店から出てこちらへ歩いてくるのが見えた。

「ガイは?」
「まだ順番待ち」

 もう一人はどうしたのかと訊ねると、まだ会計が終わっていないと言う。サホが一人で出てきたのは、大方オレと似たような考えからだろう。
 本を閉じてポーチに仕舞うと、「はい」と手が差し出された。その平に乗っているのは白い飴が入った袋。受け取れということだろうと察し、ポケットに入れたままだった右手で摘まむ。

「なに?」
「飴。お店がサービスで渡してるって」

 問うと、答えはすぐに返ってくる。そういえば飲食店でこういうサービスをやっている。飴だとかガムだとか、種類に差はあるが、どれもほとんどが薄荷味だ。
 白く、不透明な小さな飴。サホが今そうしたように、袋を開けて口に入れれば、キンと冴えるような清涼感を味わえるだろう。

「サホ、この飴好き?」

 なんとなく、知りたくて訊いてみた。サホは飴を口内で転がしながら、視線を横にずらし考えてみせたあと、

「好き……かな。甘ったるくなくて、頭がスッキリするし」

と返ってきた。食べているのだからまず苦手ではないだろう。『嫌い』と返ってこなかったことに、どうしてか安心した。

「……カカシは嫌いなの?」

 受け取ったものの食べようとしないオレを不思議に思ったのか、先ほどから問い続けてばかりだったオレに訊ねる。独特の味を持つ薄荷の飴は、好き嫌いが特に分かれる。甘さを求めている者には、あの鼻から抜けるような爽快感は、単に不快なだけだろう。

「いいや。好きだよ」

 甘い物が嫌いなオレにとって、薄荷の飴は唯一と言っていいほど、好きな味だ。けれどオレにとって薄荷の飴というのは、単に好きな食べ物の一つというわけじゃない。
 指を丸めて飴を握り込めば、袋の角が皮膚に当たって痛む。オレにとって薄荷の飴は、いつもわずかな痛みを伴う。オレだけが知っていて、サホはきっと覚えていない。
 随分と昔のことだ。あのとき持っていた飴が何色だったかも、オレの家に来たことも、かけてくれた言葉も、覚えていなくたって仕方ない。あの頃からサホはオビトしか見ていなかったのだから。

「寄るところあるから、先に帰るよ。ガイによろしく言っといて」

 『くれ』と言われた時間はとっくに過ぎている。オレとサホを引き合わせるというガイのもくろみも達成された。それならもういいだろう。律儀にガイを待っていたら次はどこに連れて行かれるか。次の店に行こう、くらいならマシだ。今から手合せしようだとか、マラソンをするとか、筋トレをするだとか、そんなことまで付き合うつもりは一切ない。寄るところがあると言うのも嘘ではない。

「じゃ」

 サホに背を向けて数歩進むと、後ろから「じゃあね」と声がかかった。あのサホから。驚きながら、なんとか右手を挙げて返した。



 行きついた先は、久方ぶりの平屋の家。前にここへ来たのは、もう数ヵ月も前だ。空けた当初はできるだけ掃除や手入れに来ようと思っていたのに、ズルズルと日が開いてしまった。
 玄関を開けると、籠った空気の匂い。埃の匂いだ。電気も水道もまだ通してあるが、照明の類は一切点けずに、迷うことなく左の榑縁[くれえん]を歩いた。閉め切った家の中は全く何も見えないが、慣れているので問題ない。仏間に一番近いところの雨戸を開けば、申し訳程度に光る月や星明りで、本当にわずかだが暗闇は薄らいだ。
 仏壇の観音扉に手をかけ、久方ぶりに見る二つの写真。備え付けのマッチで蝋燭に火を点し、線香の先をつける。香炉に挿すと、白い煙がまっすぐ立ち昇った。
 手を合わせ、帰宅の旨と、近いうちに時間を作って掃除をしにくると胸の内で約束し、蝋燭の火を消す。線香の先の、点のような朱色の光。持っていた薄荷の飴を供え、仏壇近くの壁に背をつけた。
 目が室内の輪郭を改めて捉え始める。新居に持って行ったのは、仕事に必要な道具や本くらいで、物はほとんどこの家に置いている。なのに家全体が軽く感じる。そんなことはないのに、羽でもついて飛んでいきそうなほどに浮いている気がする。

 『じゃあね』だって。

 『じゃあね』だってさ。あいつがオレにそんな言葉向けるなんて、一体いつぶりだろう。この前なんて『ありがとう』だった。近頃は会話だって続くし、オレに見せる顔も、険を含んだもの以外も増えてきた。
 隣に住んでからか、あいつが上忍になってからか。正確には分からないが、数年前のオレたちと比べたらかなり距離が縮まり、殺伐とした空気もなくなってきた。
 関係性だけ見れば、単純に良くはなっている。親しくはないが、サホが私怨を振り回す様子もなく、ただの同期や同僚に近づいている。
 けれど、決して変わらないこともある。
 サホの中にはオビトが居る。一番見栄えのいい席に腰を下ろし、他の何より優遇され、常に意識はそこに傾いている。
 オレとサホの距離がどれだけ近づいたとしても、オビトはいつもそこから、オビト以外を見下ろしている。『じゃあね』なんて、『ありがとう』なんて、オビトには当たり前で、むしろそれ以上の気持ちを寄せられて、でも応えることはない。
 オレがどれだけ近づいても、サホが見るのは左目だけ。左目がなければオレに向き合わないのに、左目があるからオレを見てくれない。
 そして左目に縋るサホの心も、完全に満たされることはない。相手は黙して語らぬ目だけになってしまった。幼い日より携えてきた恋心は、美しく絢爛に咲くことも、枯れて散ることも、実をつけ種となることもできない。
 オレたち、バカみたいだね。こんな報われないことを、一体いつまで続けるのだろう。



 閉じていた目を開けたら、いつの間にか室内に薄明かりが注いでいた。雨戸を開けたままの外からの光と風が、オレに早い朝を告げる。
 考えごとをしているうちに眠ってしまった。煙り始めたばかりだった線香は、すでに香炉の中の灰に混じっている。
 供えた白い飴が目に入って、思うままに手を伸ばした。袋を開け、口に入れれば望んでいた刺激と甘さ。
 右に、左にと口内で転がして、再び壁に背を預ける。

 あのときも明け方だった。

 仏壇に供えられた薄荷の飴を食べたときは、任務帰りの早朝。くたびれて、とにかく線香だけでも上げなければと向かい、初めて薄荷の味を知った。
 味合う今も、舌に伝わるものは以前と変わりない。飴なのにツンとして、甘いけれど甘くない。
 あのとき、サホは自分の何なのか考えた。ただの同期や友人なのに、わざわざ父の仏前に来て手を合わせ飴を供えてくれて、オレに居場所をくれて、待っていると言ってくれる彼女は、ホントにただの同期や友人なのかと。
 サホの根っこ部分は、今も変わっていない。弱くて泣いて、迷って落ち込んで。昔と違って笑いかけることはなくなった。


「オビトのために、わたしに恨まれるために、生きなさいよ」

「死んだら許さない」

「あんたが死ぬまで、恨み続けるんだから、あんたより先に、死んでなんかやらない」



 あの頃のような優しさからではないが、今でもオレが生きることを望んでくれている。
 薄荷の飴のように、尖った心持ちではあるが待っていてくれる。
 考えるだけでたまらない嬉しさが込み上げてきたなら、もう気づかずにはいられない。

 そうか。

 サホは、オレの初恋だった。芽生えた時点ですでに実が結ばないのが確定していて、想った瞬間から萎んだ、淡くほのかに苦い恋だ。
 年の割に賢い頭が意図せずして計算し、報われることはないと無意識に握り潰し、切り捨てたはずの恋だった。そのせいで十年以上も自覚がないまま密かに育ててしまった。間抜けな自分がおかしくて口元が緩んでしまう。
 サホが今でもオビトを好きなのは分かっている。あいつがオレに求めるものは、オビトとの逢瀬のための橋渡し。オレ自身に負の感情以外を持たないと分かってる。
 分かっている。自分の立場はいやというほど理解できている。
 だけど。それでも。
 敵わなくても、叶わなくても、サホの傍に居たいと思うのだから、これは紛うことなき恋なのだろう。



23 [][たれ]ぞ恋う

20200123


Prev | Next