〔90〕

「フフっ、ローが怒ってるかどうか私に聞くなんてよっぽどね。別に怒ってる訳じゃなくて、なんだか、ホッとしてしまって……」
「……そうか」
ローのほんの少し後ろを、手を引かれたまま走り続けるリイム。ホッとしたのは本音だった。しかも……失言だったと言わんばかりの、今のはナシ発言といい、少し焦ったようなローの反応にはリイムも笑いを堪えることができなかったのだ。
ところが、ホッとした事を告げた後のローの返事は少しトーンが下がったような印象を受けたリイムは、さすがに空気を読めていなかったかと我に返る。
「ええと、今は笑ってる場合では……なかったわね」
ごめんなさい、と小さく添えると、何とも困ったような間の後、ローがそれに答えた。
「いや、ホッとしたくもなるだろう。もし、おれが逆の立場だったら……笑えもしない、かもしれねェ」
「……」

ローの言う通り、笑えない程に呆れて、怒って、泣いて、傷付いて、絶望する結末もあったのかも、しれない……リイムはこのドレスローザでの出来事を、それよりも前からのローの違和感をいくつも思い浮かべる。
それでも、自分は今こうして笑えたのだからと、前を向いたまま走るローの背に話しかける。
「じゃあ、聞いてくれるかな。私って……本当にあなたの人生に関わってこなかったんだなって、思ったの。いくら仲間になって、副船長になったからって、たった数年を過ごしただけだから、そんなの当然といえば当然なんだけど」
「それは、おれもだ。お前の過去を……おれはゾロ屋に比べたら、何も知らねェのと一緒だ……」
「そう、なのよね……お互いに、生い立ちだっていろいろあって、Dだとか、悪魔の実の能力だとか、育ててくれた人だとか、共に育った人だとか、居なくなってしまった人とか、私達を形造るさまざまな要素があって、そういう積み重ねの結果が今で……」
そこまで話した所で、走り続けているせいなのか、感情が抑えきれないのか……リイムの口調がだんだんと強くなっていく。
「知らなかった事はちょっとへこんだし、悔しいし!ローがコラさんの事大好きすぎて、敵わないなァって、思ってるけど……これからは、知っていけるんだって勝手にそう思ってる!だから、こうして私はここにいるし、一緒に港に向かって、走ってる」
そんなリイムの熱に押されたのか、ローも先程のセンゴクとの会話を思い出しながら、そうあっていいのだろうか、と思うセンゴクとコラソンの言葉をリイムに吐き出した。
「……コラさんは、死ぬ前に言ったんだ。おれは自由なんだって、」

……自由。自由とは一体なんだろうか。全てを懸けて討とうとしていたドフラミンゴは麦わら屋が、倒した。あの日コラさんが救おうとしていた、救えなかったドレスローザは麦わら屋が、救った。そうなった今、この先、考えてもいなかった未来は……とめどなく溢れる想いにローが言葉を詰まらせていると、リイムがあのね、と声を発した。
「……私、いっぱい色んな事考えて、考え過ぎて、ああしなきゃ、こうしなくちゃって、意地ばっかり張ってた。それが今の私にとって無駄だったって訳じゃないけど、もっともっと自分の気持ちに素直に生きてもいいのかなって、ちょっと思えるようになったというか……私にとっての自由っていうものは、もしかしたらそういう事なのかもって」
『海賊は自由、なんです』と、つい最近パンクハザードでもサンジにも言われた言葉は、紆余曲折を経てリイムの中でしっかりと、形になろうとしていた。
「……でも、素直にって言っても……母みたいに世界を振り回すような破天荒になるつもりはないし、かと言ってルフィみたいにあんなに真っ直ぐにも……なれないかな」
「麦わら屋みてェになられてもこっちが困るし、お前は多分……母親に似てんだな」
「……それは、私が破天荒だと言いたいの?」
「似たようなもんだろ」
リイムは一瞬首を傾げる。……母親に似ていると言われて、不思議と不満に思わなかった事に。それだけ、徐々にだが母親の存在を自分の中でしっかりと、正面から向き合えるようになったのかもしれない、そう思うとひとり納得する。
「とにかく……ルフィみたいな真ーっすぐな自由があって、私が気が付いた、そうなりたい自由があって、だから!ローがこれから見つける自由も、あるんじゃないかな」

そうであって欲しいという願いを込めて、ずっと斜め後方を走っていたリイムは少しだけペースを上げローの横に並んだ。
ちらりと、ローの顔を一瞬だけ視界に入れると、真っ直ぐと前を見つめていた。そんなローにリイムも視線を目の前へと戻す。少し遅れてローもリイムのフードの下を覗き見る。ちらりと覗く髪が日の光に透けて輝いて、凛とした横顔にローの胸は抉られるような衝撃を受けていた事はリイムは知らない。
「……3日間、考えてたんだ。さっきも言ったが、おれが逆の立場だったらと」
ローは、もし逆の立場だったとしたら、おれだったら耐えられなかったのではないかと、思っていた。いや、リイムだから平気だとか、今も平気そうに見えるとか、そう言うことではなくて、どうしてこんなにも……とローは言葉を搾り出す。
「……なのにお前は笑ったり、怒ったり、泣いたり……放り投げてくれたってよかったんだ、それに、言ってただろう、おれが半端な事をしたらお前はおれを殺すと。なのに全部、返してくるから。今だってもっと……本当はもっと言いてェ事、クソ程あるだろう」
「そうね、何から言おうか迷う程にはあるし、確かにあの日、そんな事も言った。でも……3日間考えてくれたんでしょう?私だってあなたの立場だったら同じ様にしたと思う。それにね、今、走りながらなせいかはわからないけれど……私、思ってたより落ち込んでないみたいだから」
それはこうやって、手を繋いでいるせいかもしれないとリイムは思う。たったこれだけの事なのに、本当に不思議だと、思う。

「それに、私、ローに謝らなきゃいけない」
「何をだ」
「見届けてほしいって約束」
船長としてではなく、ローの個人からの願い。最後まで一緒に見届けて欲しいというローの言葉に、地獄の果てまでついて行くと、そう言い切っていただけに、リイムは謝らずにはいられなかった。
「破っちゃったから。ちゃんと最後まで一緒にいられなくて」
ごめん、と、そう言おうとしたリイムをすぐにローが遮る。
「いや、知ってる。お前は最後まで見てた。隣にはいなかっただけで、ちゃんと」
「……なんだ、バレてたんだ」
ローの言葉に、リイムはもう何度目かわからない、この数日ですっかり緩くなってしまったのではないかと思う涙腺から溢れそうになるそれをどうにか誤魔化し、フードをぎゅっと掴んだ。

「お前がちゃんと見てたのは知ってんだが……問題はその後だ。お前は3日間ゾロ屋みてェに迷子にでもなってたのか」
……迷子。その言葉にリイムは色々と思う事があったが、王宮にいる事はウィッカが伝えてくれているはずで、とローに説明する。
「ゾロのあれは天性のものよ、一緒にしないでね。私、王宮にいたってウィッカから聞いてない?」
「……あの小人か。んな事言ってたか?何かあったら何とかする、とかってのは聞いたが」
あぁ、伝わってなかったのか。これはつまり……ヴィオラの言っていた通りだったのかと、リイムはクスっと笑う。
「フフ、3日間、王宮でヴィオラとお茶したり、情報収集したり色々してたのよ。ちゃーんと」
「……何でひとりでどっか行ったんだって意味でだ」
「それは、ちょっと迷子だったのよね」
「は?王宮に居たって言ったじゃねェか」
「うん」
でも、来てくれたってよかったのにと、リイムはローに聞こえないように小さく小さく呟く。3日間、色々と考えてたなら、センゴクよりも先に、私の所に来てくれたって、よかったのに、と。
「???」
「本当に、ずるいんだから」
「は?」
「こっちのはな、っ」
話、と最後まで言い終える前に、何かにつまずいたのかそれともふらついたのか、ともかくリイムはよろけてバランスを崩してしまう。しかしとっさに凍雨で支え、転ぶのは免れた。その異変にすぐ気付き、引っ張られるようにして止まったローがすぐにリイムの顔を覗き込んだ。
「どうした」
「別に、ちょっと転びそうになっただけだから、大丈夫」
それよりも早く行こうとばかりにもう一度、今度はリイムからローの手を取ったのだが、ローが再び動く気配がない。これはどうしたものかとリイムが視線を手元からローの顔へと上げると、目があったローはリイムに有無を言わさず鬼哭を突きつけ、持たせた。
「……持ってろ」
「え?」
一体どうするんだと顔を傾けたリイムを、ローは片手で担ぎ上げた。突然の出来事にリイムは慌てて落とさないように鬼哭を持ち直す。
「えっ、ちょっと!」
「暴れるな」
「別に、大丈夫だから!」
「おれがそうしたいんだ、黙って担がれてろ」
何がどうなってそうなるのかとリイムは思う。けれどきっと、反論している場合でもないし、もうしょうがないかとこのまま運ばれる事に決めた、のだが。

「あっ!えっと、ちょっと待って、このまま合流するのはちょっと……」
「ちょっと、何だ」
「その……恥ずかしいと言うか、何というか」
「そりゃァ……随分と今更じゃねェのか?」
聞こえるか聞こえないか、そんな声で話すリイムに、ローは呆れたように返事をする。今まで散々恋人のフリだなんだと、人目も気にせずしてきた行為の数々を思い浮かべる。そして、人目につかない所でしてきた事も、ローの脳裏には浮かび上がった。
「一緒に寝るのはもはや当たり前だ」
「……そうね」
「裸も見たな」
「怪我した時もだし、着替えてるのにお構いなしに入ってくるし」
「着替えてる時に勝手に部屋に入ってくんのはお前もだろ……」
お互いに、数年間だけの、それでも数え切れない程の記憶を、ひとつひとつ思い起こす。
「いつだったか、祭りにも行ったな」
「あの日は浴衣で出掛けたのよね、珍しくふたりとも酔っ払ったり……それに、私達って買い物したり、酒場でケンカしたり、人前でキスしたり、色んな出来事が新聞に載ってる」
「そうだな……キスも正直、何度したかわからねェし」
「そう、なんだけど」
「けど、なんだ」
「だから今更なのよ。ちゃんと自覚しちゃうとその、なんていうか……」
「は……何を、自覚したんだよ」

……ローにとっては想定外の返答だった。いつしか、まるで当たり前のように隣にいたリイム。偽りのものであった触れ合いもいつしか自然なものへと変わって、あの時、誰が見ていた訳でもないあの瞬間にキスをした事も今となっては意味が生まれた。その変化は、つまり。そう思った所でローの背中にぼこぼこと振動が伝わる。それは担がれているリイムによるなんとも力のないパンチだった。
「いてェな」
「こんなの、痛い訳ないでしょう?」
「でだ、何を自覚したんだ」
「それは……っ、ひみつ!」

リイムはぐらぐらとゆれるローの肩の上で、こんなのもう告白したのと同義だと、鬼哭をギュッと握り締める。
……伝えたいと思っていた事。ローへの気持ちを、全部終わったら伝えたいと思ってた。全部っていうのはもう、今となってはどこまでかはわからない。ドフラミンゴを倒したら?カイドウを倒したら?どこまで?長い航海の中で、何があるかわからない。
死ぬまで憑いて行く、なんて言ったけれど……もしかしたら譲れない何かの、誰かの為に自分を投げ出す日が来るかもしれない。今回の事で、そう思ってしまった。それはローも、私自身も。だからちゃんと伝えておきたいと思った。
だけど、今はちょっとだけ。もしかしたらまだ伝わってないかもしれないし、悔しいから、まだ、あと少しだけ。

……いつものリイムからは想像出来ないような焦ったような、いや、意地悪な、少し高い声で“秘密”と、聞こえてきた。それはたぶん、自惚れかもしれないが……リイムが自覚した、というそれは、おれがまとめようとしているこの気持ちと同じなのではないか。そんな事を考えながらローはガレキの漂う空を少しだけ見上げる。
いつか、この先、お互いの道が逸れる日が来るかもしれないし、そんな未来なんかありえないのかもしれない。どちらにせよ、どんな形であっても……その最後の瞬間まで、リイムには隣にいて欲しいんだと、ローは思う。
「……リイム、ありがとう」
「な、何よ急に」
「リイム、お前は、リイムだ」
「えっ、あ、うん?」
「まだおれの中で全てが片付いた、落ち着いた訳じゃねェ。でも今ならほんの少しだけ、コラさんが……言ってた意味が、わかる気がするんだ」
「言ってた?意味?」
「……見えたぞ、港だ」

担がれたままのリイムは、ローの言葉と、騒がしくなりつつある気配で港がもう近くだと察する。
そして、やはりこのまま運ばれるのか、と半分諦めて揺れるドレスローザの街並みをぼんやりと眺めながら、ローの言うコラさんの言っていた意味について考えようしたところで、オウム返しのような台詞を耳にした。
「……今はまだ“秘密”なんだが」
分かってはいたけれど、私達は本当に負けず嫌いなんだなと、リイムの口元は僅かに緩んだ。そしてローから顔が見えないのをいい事に、少しだけ口を尖らせながらしょうがないわね、と呟いた。
「じゃぁ、お互いにヒミツって事でいいけど」
「……多分、言葉にするのは簡単なんだ。だが……簡単に口にしていい言葉じゃねェと、思う」

今じゃねェんだ、とローは唇を結ぶ。……今、その言葉を使ったとして、死ぬつもりだった奴が、それこそ今更、何を言ってるんだと罵られても仕方ないと思う。
だが……もしかしなくても、リイムは笑って、いや、泣きながら笑って、リイムらしくなく素直に受け取って、そんな事ないって言うのかもしれない。きっと、そう言うんだろう。



Sea Holly

「それでも、伝えられたらとは思うんだが、伝え方が……アレだ」
「伝え方?」
「……こればっかりは難易度が高ェ」
「ふぅん?」
「今更、だからな」
「……なるほど、今更」
「まァ、努力はしてみるつもりだ」
「フフっ、ローも今更、なのね」
「そうだ、悪いかよ」
「……悪くない」

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