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 その朝、ワトスンを起こしたのは、下宿のメイドの控え目なノックの音だった。
 枕元の懐中時計を見ると、八時を過ぎていた。
 昨夜は就寝が遅くなったとはいえ、少々寝坊だ。
 朝いちばんの配達で届いた手紙を机において部屋を出て行こうとしているメイドに声をかけ、朝食の支度を頼む。ベッドを出てガウンをはおりながら書き物机に向かい、封筒を手にとった。
 封筒に差出人の名はなかったが、宛名書きの筆跡には見覚えがあった。封を切ると、予想通りの人物の名刺が一枚入っていた。
 ラングデール・パイクという筆名と住所が記されたその名刺の他は、手紙も何もない。
 名刺の裏には、封筒と同じ黒インクで走り書きのメモがあった。

 ジョン・ハリス氏  《エドワーズ》セント・ジェイムズ・ストリート16
 Ars longa, vita brevisアルスロンガ、ウィータブレウィス 

 
 セント・ジェイムズ・ストリートの《エドワーズ》は、紳士クラブのひとつだ。そこでジョン・ハリス氏なる人物と会えということだろう。
 時間の指定はないからしばらく滞在予定なのか、あるいは先方もパイクから連絡を受けて、ワトスンの来訪を待ち構えているのかもしれない。
 ラテン語の短文は、古代ギリシャの医師ヒポクラテスの格言だ。
 技術の習得には長い時を必要とするが、人生は短い――という意味合いである。
 “Ars”は英訳すると”art”で、芸術の他、技術や技能という意味合いもある。
 現在、ワトスンとパイクが共有する事項は、《肖像画家》の王室恐喝事件。これを芸術的な犯罪と言いたいのか、はたまた難解な恐喝事件を解決する技術に当てはめているのか、パイクの言わんとするところは少々不明瞭だ。
 どちらにせよ、時間がないからさっさと解決しろと発破をかけているのだとしたら、そんなことは百も承知だと返したい。

 それよりも――。

 ワトスンは眉を寄せた。
 ジョン・ハリスという名は、パイクが持ち出すのはこれがはじめてだ。
 ただしワトスンは昨日、同じ名を耳にしていた。
 パイクが《肖像画家》の案件でワトスンたちを呼び出す際に隠れ蓑に使った、偽りの磁器盗難事件。世間は偽りであるのを知らず、ロンドン警視庁も捜査を始めている。
 ワトスンはこの事件を調べていると見せかけるために、担当刑事に話を聞きにいった。
 容疑者の本命はグルーナー男爵だったが、他にも数名、例の磁器にご執心の好事家の名があがっていた。
 そのうちのひとつが陶磁器蒐集で名の知られた貿易商、ジョン・ハリス氏だった。
 パイクが磁器盗難事件をでっちあげたのは、もしやハリス氏が《肖像画家》の案件とかかわりがあるからなのか。あるいはカムフラージュの一環として、ハリス氏から話を聞いておけというのか。
 回りくどくもったいぶったメッセージは、パイクらしい。
 そして鬱陶しい。
 ラテン語の格言にしろ、郵便物を奪われた場合のリスクを考えてのことだと理解はできるが、そもそも一昨日、ホームズとともに訪ねたときに話しておいてくれたらよかったのだ――と、考えたところで、ワトスンは封筒の宛名を確かめた。
 名刺裏の走り書きと同じインクと筆跡で、下宿の正確な住所とワトスンの名のみが記されている。
 ワトスンとホームズの探偵事務所を意味する”221b”の表記がなかった。
 これまでパイクが連絡を寄越すとき、宛先には” 221B”と記されていたし、ホームズ宛てである方が多かった。
 ラングデール・パイクは秘密主義の皮肉屋で、手の込んだ嫌がらせを悦楽のひとつに数えるような嫌な男だが、無意味なことはしない。
 不注意なミスはもっとありえなかった。

(ホームズに知らせる気がない――、いや、知られるとまずい何かがあるのか)

 身支度にとりかかりながら、ワトスンは眉間に皺を寄せた。
 ホームズは《肖像画家》の案件に乗り気ではなかった。
 昨日モーティマー医師が帰ったあと、ワトスンは《肖像画家》の調査にとりかかるべく出かける支度を始めたが、ホームズは椅子から動こうとしなかった。まったく悪びれた様子はなく、澄ました顔で言ったものだ。

『僕はバスカヴィル家の問題をじっくり考えようと思う。ひとりの方がはかどるからね。あなたは《肖像画家》にとりかかってくれてかまわない。できれば夕方までは帰らないでくれ』

 この時はまだ、ホームズとてバスカヴィル家の問題を本気で引き受けはしないだろうと、ワトスンはたかをくくっていた。
 《肖像画家》の案件こそが優先事項だと説いたところで素直にうなずくわけがないし、言い合いに発展してへそを曲げられた方が厄介だ。夕方までには頭を切り替え、《肖像画家》との"ゲーム"の勝ち方を多少なりとも考えるつもりなのだ――。
 そう思い、ホームズの言葉は聞き流して出かけてしまった。
 ワトスンが出かけている間、ホームズは居間に引きこもっていた。
 わざわざ取り寄せた陸地測量部作成のダートムーア一帯の大縮尺の地図を広げて、当人の言葉を借りるなら”かの地に魂を飛ばしていた”のだ。
 魂云々はもちろん神秘主義的な意味合いではなく、情報をもとにサー・チャールズの死をさまざまな角度から検証し、可能性を吟味していたのである。
 ワトスンは精力的に動きまわり、下宿に戻ったのは夕方どころか午後九時過ぎだった。
 居間の扉を開けるなりにきつい臭いの煙がどっと押し寄せてきて、ワトスンは激しくせきこんだ。
 火事でもおきたのではないかというひどい有様で、煙が目にしみ涙を滲ませながら部屋に入ると、窓を大きくて開けて呼吸をととのえた。
 窓から煙を逃がし、晴れてきた視界のなかで、ワトスンはホームズの様子をうかがった。
 ホームズはガウン姿で肘掛椅子に身を沈め、クレイパイプをふかしていた。
 ワトスンのほうを眺めてはいたが、まったく注意を払っておらず、膝に広げたダートムーアの地図の上で長い指がリズムをとるように小さく動いていた。 
 辺りには煙草の巻き紙が散らかっていて、長椅子の上には古い新聞と備忘録のファイルが積み重なり、そのてっぺんに半分ほど入ったコーヒーカップが危ういバランスでのっているのを見つけ、ワトスンはまずこのカップを手にとりテーブルにおいた。
 ホームズが《肖像画家》の恐喝事件に時間を割いていると期待したのは甘かったと悟った。

(参ったな)

 ホームズは日頃から整理整頓に無頓着だが、資料の重要性は理解している。コーヒーをこぼして台無しにして平気なわけがない。それなのにこういうことをするのは、謎解きに夢中になっているせいだ。恐るべき集中力で問題に取り組むとき、彼は他のことにはまったく注意が向かなくなる。
 ホームズはバスカヴィル家の問題に本気でとりかかっていた。
 はじめは八つ当たりだった――と、ワトスンは思っている。
 モーティマー医師の話を聞こうとしたのは、《肖像画家》の案件をパイクに押しつけられたことへの反発だ。
 子どもっぽい嫌がらせだ。多少の時間を無駄にしたところで、《肖像画家》の問題を解決できる自信もあったのだろうし、ワトスンもその点は信頼していた。
 心霊現象などホームズにとって専門外だし、興味の範疇にもない。バスカヴィル家の古文書を読み聞かせられている間も退屈していた。
 サー・チャールズの死をめぐる記事のあたりで、少しばかり興味をもった様子はあった。
 それから彼らしくない発言があった。
 ワトスンは小さくため息をつく。
 そうだ。
 あの時、ホームズは何か嗅ぎつけていたのだ。
 解くに値する謎という獲物に気づき、有能な猟犬がそうするようにニオイをたどりはじめていたのである。
 ホームズという猟犬が手ごわいのは経験上わかっている。
 ワトスンにとっては、バスカヴィル家の悪魔の犬以上に厄介だ。
 軌道修正させるのはきわめて難しいが、今回ばかりはどうにかしなくはならない。
 《肖像画家》の問題は、ワトスンひとりの手に余る。王室を揺るがしかねない恐喝事件。いつ爆発するかわからない爆弾のようなものである。早急に処理しなくてはならない。
 昨夜、なかなか寝付けなかったのも、ホームズをこの"爆弾"処理に集中させる策をああでもない、こうでもないと考えあぐねたせいだった。
 今日はあと二時間ほどで、モーティマー医師がやって来る。バスカヴィル家の新たな当主、サー・ヘンリー・バスカヴィルとともに。
 それまでに、どうにかホームズの意識をこちらに向けなくてはならない。
 


 



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