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 バスカヴィル家の問題に時間を割くホームズは放っておいて、朝食を終えたらすぐにでも《肖像画家》の案件にとりかかり、ジョン・ハリスなる人物を調べるべきか。
 あるいは本日十時のモーティマー医師との約束には同席しておこうか。
 悩んだ末に、ワトスンは無難な選択をした。
 モーティマー医師とサー・ヘンリー・バスカヴィルを迎えるホームズをしっかり見張って、バスカヴィル家の問題に深入りさせないように話を誘導しようと。
 サー・ヘンリーが先代準男爵の死と悪魔の猟犬の伝承を結びつけて騒ぎ立てるようならば、超常現象に詳しい人物を紹介するつもりだ。
 人選には心当たりがある。
 ラングデール・パイクの甥である。
 《肖像画家》の案件を円滑に進めるためだと言えば、パイクも協力するだろう。
 心配性の猫背の医師と新たな準男爵を送り出したあとは、ホームズに後任への引き継を任せ、ワトスン自身はセント・ジェイムズ・ストリートのクラブ、《エドワーズ》に向かう――そう決めて、モーニングコートに着替えると、客人らが訪れる前に、ホームズにこの方針を納得させようと――一番の難問だがともかくやってのけようと決めて、二階の居間に降りた。
 ホームズはまだ起きてきておらず、居間には昨夜部屋の視界を遮るほどに充満した安煙草のニオイがかすかに残っていた。
 寝起きが良いとは言えないホームズを起こしてへそを曲げられては説得に手こずることになるから、あと少し待つことにした。
 食卓について朝刊を広げたとき、大家のハドスン夫人が部屋に入ってきた。朝食とコーヒーを運んできたのだ。
 ハドスン夫人がかすかに眉をつりあげ、くんと鼻をうごめかした――ように、ワトスンには見えた。ひやりとして身構える。
 喫煙に文句を言われることはないが、ものには限度がある。
 昨夜、ワトスンが換気を強行しなければ、朝になっても部屋中に煙草のニオイが残っていただろう。大家の許容を大きく超えるくらいに。
 ハドスン夫人はワトスンと目をあわせると、一拍間をおいて、にこりと笑った。 

「おはようございます、ワトスン先生」
「おはようございます、ハドスンさん」

 ワトスンは内心ほっと息をつき、愛想よく挨拶を返した。
 ハドスン夫人は四十代半ばの溌剌とした女性だ。夫を早くに亡くしたあと、二階と三階を下宿人に貸し出していた。
 変わり者の下宿人のふるまい――時に奇行と見なされてもやむない迷惑行為に直面しても、滅多なことでは慌てふためくこともないしっかり者だ。
 部屋の壁に複数の銃弾を撃ちこむという暴挙がばれたときは、さすがに小言では済まなかったが、事が事だけに仕方ない。追い出されなかっただけマシである。
 あの時、ワトスンは平身低頭謝ったが、ホームズは煙に巻いてそれきりだ。おそらく迷惑をかけたとも悪いことをしたとも思っていない。
 だいたいホームズという男は一般常識が一部欠落していて、とんでもないことをやらかしたとしても間違いを犯したと認めない。
 小言に対しても、無頓着で無反省で無礼である。
 ワトスンは半ば諦めている。
 今のところは”半ば”だ。
 友人として、ビジネスパートナーとして、周囲の人間を傷つけるような無頓着、無反省、無礼に対しては、かわりに頭をさげ、尻ぬぐいをし、ホームズ本人に対しても、挫けることなく意見している。
 わかってくれる者のない苦労だが、ハドスン夫人は多少理解してくれているようだ。
 ワトスンのためにコーヒーをカップに注ぐと、ハドスン夫人は居間を出て行った。
 なお下宿人たちの朝が不規則なことはもはや小言の対象外である。食事を提供する時間についての攻防は過去に確かにあったのだが――。

(俺たちはもっと感謝するべきだよな。ヴィーの奴にも言っておこう)

 ヴィー――。
 出会った頃の友の名だ。
 今や口に出して呼ぶことはほとんどなくなったが、心のうちでは馴染深く、大切な響きだった。

(さて今度の件はどう説得するかな)

 ワトスンはコーヒーカップを片手に、ぐるりと部屋を見渡した。
 ホームズが散らかしたものは昨夜のままだ。
 長椅子の上には新聞やファイルが積み重なっており、その上にはダートムーアの地図が無造作に投げだされていた。
 地図は昨夜、ホームズとともに見て、簡単な意見をかわした。
 湿原の荒れ野――ムーア地帯の地図の中央に位置するのはバスカヴィル館だ。北西方面が森に囲まれ、イチイの散歩道らしき線が館の敷地の東側に弧を描き、その向こう側にはムーアが広がる。
 館を中心とした五マイル圏内に人家はほとんどない。
 例外はモーティマー医師が暮らす小さな村――グリンペン村である。あとはラフター館、メリピット荘という名の家の他に、二つの農場があるだけだ。
 地図上で大きな存在感を示すのは、14マイルほど離れたところにある刑務所だ。
 プリンスタウン監獄――もともとはナポレオン戦争時の捕虜収容所だった。
 バスカヴィル準男爵家とも悪魔の猟犬の伝承ともかかわりはないが、荒涼たるムーアの陰鬱な空気をやわらげるものでもない。 
 バスカヴィル館と館を取り巻く環境が、鬱傾向のある病人にとって良いものではなかったのは確かだ。
 日課だったという夜の散歩の途中で、野犬の遠吠えを聞いたか、イチイの垣根越しに吠えられるかしたせいで、過敏になっていた神経を刺激されたサー・チャールズは恐慌状態に陥ったのだろう。そして逃げ出そうとした。犬から逃れようと懸命に走った。
 そう、サー・チャールズは走ったのだ。
 昨夜、地図を見ながら語り合ったとき、ホームズが指摘した。
 現場に残っていたサー・チャールズの足跡のうち、爪先だって歩いたかのように見えた跡は、彼が走っていたときの足跡だと。

(足跡についてのホームズの推理は当たってるだろう。つまりやみくもに走り出した結果、弱っていた心臓が限界を迎えて悲劇的な最期を迎えることになった――ってのか、真相じゃないか。もちろん悪意ある陰謀である疑いも否定はできない。それに俺たちにとっちゃ管轄外だが、恐るべき悪魔の猟犬の餌食になったのかもしれない)

 それにしても、とワトスンは顔をあげ、コーヒーを一口すすった。
 悪魔の犬の怪異譚がたとえ本当であったとしても、バスカヴィル一族の男たちが悪魔の犬を怖れる根拠はないのではないか。
 例の古文書に準ずるならば、ヒューゴ・バスカヴィルがその身と魂を捧げたことで、悪魔との取引は完了しているのだ。
 バスカヴィル家が子々孫々まで祟られるのは不条理だ。
 悪辣な領主の毒牙にかかった哀れな少女とその家族の怨みが祟るならばともかくとして――。

(そういや、理屈で解決できないのが呪いだと、いつだったか不条理の権化のような男が言っていたな)

 頭の隅をよぎったのは、ワトスンにとっては不条理の権化のような男、レイフ・スタンフォードの顔だ。かつての部下にして、いや、そもそも部下ではなかった。情報収集のために送り込まれたスパイだったのだから。
 ワトスンは小さく首をふった。
 スタンフォードのことは頭から払いのけて、サー・チャールズ・バスカヴィルの問題に立ち返った。
 ホームズがこの問題に興味を示したのは、殺人の可能性を見い出したからだろう。
 サー・チャールズが高齢で身体面の不調を抱えていることは、周辺人物の誰もが知り得ることだった。
 死因が検死通りのものであったとしても、魔犬伝説でサー・チャールズを故意に怯えさせ、死に至る心臓発作を起こすまで追い詰めた者がいた可能性はゼロではない。
 とはいえ目的があってサー・チャールズ排除をもくろむなら、不確実で頼りない手段だ。 
 相手は世間知らずの深層の令嬢ではない。
 教養もあり、若い頃に郷里を飛び出し世間の荒波に揉まれてきた経験豊かな紳士である。投機による成功も、海千山千の修羅場を潜り抜けてつかんだものだ。先祖代々悩まされてきた陰気な伝承を道具にしても、精神的に追いこむのは楽ではない。

(犬の伝承を怖れていたとしても、サー・チャールズは故郷の館に戻って晩年を過ごすことを決めたんだ。死に至るまでの恐怖を抱くほどなら、そもそも館に戻るようなことはしないんじゃないか。それとも領主館のあるじとしての責任感なのか)

 そのあたりは関係者に聞き込みをすれば明らかになるかもしれない。
 さて伝承を隠れ蓑にした殺人計画だが、医学薬学に精通した者なら、目的達成の確度は上がる。
 たとえば薬物を投与し、じわじわと弱らせ、ここぞと言う時に強い毒を投与して一気に仕留める。あとで犬の足跡を残しておき、伝承の悪魔の犬に濡れ衣を着せたら完全犯罪の出来上がりだ。
 検死では薬物の痕跡は指摘されなかったが、遺体からの検出が難しい毒物は少なくない。
 検死も担当したジェイムズ・モーティマー医師が怪しく見えてくるが、彼が殺人を企てならば、わざわざ探偵事務所に相談に来るようなことはあるまい。
 モーティマーの話では使用人にも財産の遺贈があった。
 使用人の立場ならば、毒を盛る機会はいくらでもあったろう。
 彼らには動機と機会があったのだ。
 動機に絞って考えれば、法廷相続人こそがもっとも怪しい。
 子どものなかったサー・チャールズ・バスカヴィルのただひとりの甥。次弟の息子、ヘンリー・バスカヴィル。少年時代に英国を離れ、新天地を目指したという、新たなバスカヴィル準男爵。しかし彼には機会がなかった。

「ヘンリー・バスカヴィルが六月当時、英国にいなかったことはまだ証明されていない」

 ホームズの声がした。






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