3


 彼は早くに両親を亡くした。
 物心ついた頃、母はすでになく、父親とともにトーキー郊外の小さな家で暮らしていた。
 父はよく故郷の話をした。古いバスカヴィル館のことも話した。先祖の犯した罪と地獄の猟犬の伝説も――。
 地獄の猟犬の伝説を怖れていたわけではないだろうが、父は生涯かの地に戻ろうとはしなかった。
 父は彼が十三の時に世を去った。
 父は弁護士の資格をもっていたが、仕事はほとんどしていなかった。遺産で得た信託の利益で細々と生計をたてていたが、信託の価値はおおいに下がっていて破産寸前だった。
 父には兄と弟がいた。どちらとも会ったことはなかったが、話には聞いていた。
 彼にとっての叔父、ロジャー・バスカヴィルはならず者の厄介者で行方知れずだった。
 伯父、サー・チャールズ・バスカヴィルは一族の当主だ。誠実で信頼のおける人物だから、何かあれば、この伯父を頼るように言われていた。
 父が突然の病に倒れたとき、彼はバスカヴィル館のサー・チャールズ宛てに何度か電報を打った。
 返信はなかった。
 少年の彼は心細さに耐えながらひとり、父を看取った。バスカヴィル家から音沙汰がないまま葬儀を終え、さらに半月が過ぎた頃、館の執事と称するバリモアなる男から手紙が届いた。 
 サー・チャールズ・バスカヴィルは館に不在で、すぐに連絡をとることも難しい。しかしながら確かにバスカヴィル一族のご子息ならば、しばらくは執事が個人の責任で面倒をみようという申し出だった。
 今ならば忠義者の執事の厚意とわかるが、いかんせん彼は若かった。
 反骨精神がむくむくと湧きあがった。
 使用人風情の情けにすがるよりも、自分で道を切り拓いてみせると決意した。
 父の死の一ヵ月ほど前に、同郷の友人から手紙を受けとっていた。
 運試しに地元を飛び出した年長の友は、アメリカ中西部の開拓地にいた。
 一攫千金も夢ではないと手紙にあった。 
 ヘンリーはこの友を頼って大西洋を渡った。
 南北戦争の終結から三年、アメリカは高度成長期の真っ只中にあった。鉱山や農業が栄え、一方で工業生産もおおいに伸びた。鉄道網が拡大し、西部フロンティアの開拓は進んだ。また都市が著しい発展を遂げた。
 資本家たちが莫大な富を築くいっぽうで、労働者の環境は劣悪なままだった。政治は腐敗し、成金たちが幅をきかせ、金メッキ時代などと揶揄された。
 西部の開拓地は荒々しい空気が満ちていた。
 悪党どもの小競り合い、政治家の汚職、戦後の新体制への抗い――しかし騒乱のなかには数々のチャンスが転がっていた。
 一攫千金――とまではいかずとも、まとまった資金をつくると、ヘンリーは友と別れ、新たな成功の道をさぐった。
 やがてオマハ近郊に小さな牧場を買い取った。
 すぐにはうまくいかなかったが、幾つか投資にも手を出し儲けを増やし、規模の大きな牧場を買いとった。
 人生は上り調子だった。
 二年前の破滅までは――。
 彼は上着のポケットをまさぐり、昨日受けとった封筒を取り出した。
 封を開けたあとで、封蝋を破損しないように、フラップを内側に折り込んでいた。指を当て、慎重にそれを広げると、青い封蝋が現れた。
 フードをかぶった修道士を模った紋章だ。
 少し考えたあと、彼は封蝋の部分を破り取った。
 シガレットケースを空にしたなかに、ホテル名を記したカードとともにしまった。

 ――ただ一言、『願う』と。

 青いフードの女の囁きを思いだす。
 女とは二度会った。
 怪しい女だ。
 詐欺師か。
 でなければ昔話の悪魔のようだと思った。
 窮地に陥った人間のもとに現れて、あるものと引き換えに望みを叶えようと提案する小狡い奴――。
 悪魔が求めるものは、はじめはたいしたものではないように見せかけられている。
 愚かな人間は目先の欲にとらわれて、深くは考えずに取引をして、やがて大事なものを喪う羽目に陥るのだ。

(俺はそんな間抜けじゃないがな)

 彼は納得の上で取り引きをした。
 女は悪魔ではない。
 ただの女だ。
 きちんと名乗った。
 ありふれた女の名だ。
 夢のなかではかぶったままだったフードも、現実のやりとりではきちんとはずした。
 酒場を灯す石油ランプの濁った光のなかでも、顔は判別できた。
 薄い色の髪を後ろにひっつめた、小さな白い顔。淡褐色の瞳は静かで、感情の動きを見せなかった。
 それで大人びた顔つきの少女のようにも、幼な顔の中年女にも見えた。
 首から下はすっぽりとマントで覆われていたから、体つきははっきりとはしない。手袋をはめた手の小指に指輪をしていた。
 シグネット・リングだ。
 フードをかぶった修道士は、この指輪に刻まれた刻印だった。

 ――互助会です。ええ、そういう名ですわよ。気取った名など必要ありません。階級や専門分野の垣根を超えて、才ある者たちが集い、互いに手を差し伸べて助け合う。互いの望みを叶えるために。
 
 女は淡々と語った。
 枯れ葉の擦れ合うような声だった。

 ――なんでもかんでも叶うわけではありません。運と力はいつだって必要。それはおわかりでしょう? ですが私たちは、”3”を保証しますわ。

『三を保証?』

 聞き返した彼に、女はうなずきかけた。

 ――三つの約束をお守りください。そうしたら、三つの願いを叶えます。

 まるでおとぎ話だと、彼はこの言葉を聞いて思ったのだ。
 馬鹿らしいと思ったが、女の話を遮りはしなかった。
 女は顔の前に右手をかざして、人差し指をたてた。

 ――ひとつ、あなたはこの先三つの願いをきいてあげてください。誰であれ、互助会のメンバーからの願いですよ。もちろん命や財産すべてをなくすような無茶な願いは除外します。そうでなくても個々の価値観は様々ですから、聞けない願いもありましょう。ですから三つの猶予の機会も付与されます。選択はあなたの御意思でどうぞ。


 ――ふたつ、
 と、人差し指とともに中指をたてて、女はつづけた。


 ――会のことを軽率に他人に話さないこと。才のない者は、願いの妨げになりましょう。
 みっつ――。

 ふいに犬の鳴き声がした。
 彼の意識は記憶のなかの薄暗い酒場から、心地よい優雅なホテルの一室に戻った。
 窓辺に向かい、通りを見おろす。
 モーティマー医師が愛犬とともに馬車を降りたところだった。
 モーティマーは馬車を待たせて、ホテルに入った。
 同じ馬車で、彼を連れてベーカー・ストリートの探偵事務所に向かうつもりなのだろう。
 ヘンリーはテーブルに戻ると、謎の手紙を手にとった。

「探偵はこの手紙の謎を解いてくれるかね」

 顔の前に手紙をかざし、ひらひらとふった。
 かすかに甘い花の匂いが香る。
 彼は眉を寄せた。
 青いフードの女の枯れ葉の囁きが再び脳裏をよぎった。


 ――あなたはとてもツイてるのですよ、ヘンリー・バスカヴィル。願いは叶う。ただし約束を忘れないで。





[ 6/9 ]

[←prev] [next#]
[目次]
[しおりを挟む]



- ナノ -