U(姫君の玉の輿)

「良いご身分だね全く……折角気遣って休めと言ってるのに」

 執務の合間の休息に紅茶を仰ぎながら、カインはぽつりと不満を漏らす。エリゼが来る前までも骨休めの話題は彼女に尽きていた感があるが、王宮に迎え入れてからはその傾向が尚の事顕著である。
 ただ、その内容としては惚気のような自慢話が多いどころか、大概は思うようにならない関係と彼女に対する不服。心中怏々として子供のように不貞腐れる様子は、エリゼに関して以外では見られない振る舞いである。

「ならば殿下の権限で、強制的に休ませるなりなされば宜しいのでは?」

 それがあの公爵令嬢に効くかは甚だ疑わしいが。
 ぐっと喉を詰まらせて、カインは渋面した。

「彼女に権力を振り翳す気はないよ。その手は効かない」

 嗚呼、やはり。あっさりとそれに従うよりも、体良く彼をあしらう姿の方が難なく想像出来る。
 ネアやキーユとは違った、この王宮には今までない類の姫君は一国の王子を以てしても手強い存在だ。特にその夫となるカインにとっては。

「どうすれば素直になってくれるかなあ……」

 オレンジの爽やかな香り漂うクッキーを頬張りながらぼやく。その顔は歳相応で、執務中の大人びたそれは影を潜めている。
 18歳ともなれば面立ちや声も成長し立派な成人扱いをされるのが常だが、それでもこうして膨れっ面をする辺り、僅かに少年らしさを残している。

「妹君のネア様は殊の外可愛がっておられると伺いましたが」
「ネアは純朴で良い子だからね。弟のセルも可愛がっていたと聞くし、そういう人なんだよ。――羨ましい」

 使用人達より見聞した事を補佐役である側近が発言すると、嘆息して彼は応えた。最後の、ほんのちょっとした羨望は誰にも聴こえない。
 年下であれば無条件に優しくする訳ではない彼女の態度を、可愛さ余って憎さ百倍と感じ、痘痕も靨と見なさない己の心が狭いのか。
 この複雑な感情が正しいのか誤りなのか。考え込めどもぐるぐる脳を回るだけで結論には至らない。

 今でも鮮明に映る。瞼の裏に焼き付いたあの日。
 初めてその存在を認識し、声を交わした事。心奪われた己の心境。恭しくこちらを見下ろす彼女の双眸。反射する光の眩しさ。

『お初にお目にかかります、カイン・ロードン王子殿下。私はパトリオット・シェスター公爵が娘、エリゼと申します』

 自分と二歳しか違わないのに、既に立派な言葉遣いを身に付けていた彼女。
 淡々と淀みなく発せられた挨拶に、傍にいた父も感心していた。幼さのある声なのに芯がしっかりしており、すんなりと耳がその音を受け入れる。
 暫く見蕩れていると彼女は小首を傾げて『殿下?』と気にかけ。それにはっとして、慌てて名乗った。懐かしい最初の記憶。
 あの日の事を、彼女はどう覚えているのだろう。

*************

 広い広い庭園の一角、真白の円卓と椅子はバラが取り囲むように植えられた場所にあった。王宮に召されてから此処を訪れるのは初めてである。

「まあ、素敵!」

 色とりどりの花にときめくのは、どの家の令嬢も同じ事。例外なくエリゼも屋敷の庭園や周辺の木々に親しんできた。

「義姉上がお好きな花は何ですの?」

 少女のようにはしゃぐエリゼに、ネアが嬉しそうに尋ねる。さほど間をおかずして紅唇が音を紡ぐ。

「私の誕生花――ラナンキュラスで御座います」

 彼女が生まれた祝いにと、父が庭園に植えた花。目の覚めるような黄色の花弁が幾重にも重なり、一際異彩を放っていた。
 花々に埋もれても、遠くからでも判るその色がとても誇らしかった。家庭教師に花言葉を教えられてからは、益々かの花が好きになった。

「でしたら、確かこちらにも植えてありますわ。お茶の後にでも参りましょう」

 そよぐ風に心地良さを感じながら二人は腰を落ち着ける。クッキーやマドレーヌなどの様々な菓子が卓上に置かれ、王宮で取れたカモミールを使ったという紅茶が芳しい香りを運ぶ。
 メイド達が手際良く用意する様を眺めながら、エリゼは庭園に咲くラナンキュラスの色は何だろうと想像を膨らませた。

「そう言えば――」

 紅茶を一口含み飲み込んだ後。ネアが控えめに新たな話題を持ち出す。可愛い義妹の声に、積極的に耳を傾けるエリゼ。

「義姉上と兄上の馴れ初め、と言うか……お二人が初めてお会いしたのは何時ですの?」

 今度も好きな花のようにすんなりと答えてくれるのだろうと期待していた彼女に、望む応えは返らない。たっぷり十数秒の沈黙の後、カップを包み込んだまま動作の止まったエリゼに慌ててネアが言う。

「あ、あの義姉上、私何かいけない事でも……」

 もしや第一印象最悪の出会い方をしたのだろうか。はらはらする義妹に焦点を合わせず、エリゼはぽつりと呟いた。

「――思い出せません」
「……え?」

 予想の範疇を超えた忘却の言葉に、発した本人より困惑しかねないネア。
 思い出せない? つまりは物心付く前に会ったと言いたいのだろうか。それにしては、様子がおかしい。
 カップをソーサーに置くと、エリゼはすぐさま腕を組み考え始める。無理に思い出さずとも良いと焦るネアの気遣いは届かない。

「いや……あの日が初対面ではないのは確か、な筈ですが……」
「あの日とは、義姉上のお屋敷が襲われた?」

 その日の事はネアも記憶している。姉と同じく蚊帳の外だったので深く関与していないが。
 騒ぎを知らされた頃には、彼女は既に兄の婚約者となっていた。その時でないなら、やはりもっと昔、それこそネアが生まれる前。ううむ、と思案するエリゼの顔は晴れない。

「駄目です……殿下に訊ねてみますわ」
「その方が宜しいですわ。紅茶が冷めてしまいましたもの」

 苦笑するネアが、エリゼの手元を指す。自然と指を取手にかけていたその中からは、熱気はとうに切れていた。それを一気に飲み干して、エリゼは菓子受けの手前にあったマドレーヌを一つ頬張った。
 場を持ち直そうと今度はこちらから言葉を投げかける。

「ところで、ネア様のお好きな花は?」

 微妙な空気を生み出してしまった事に対する反省から、精一杯笑顔で尋ねる。これ以上姫君の機嫌を損なう事はしたくない。

「私はコスモスですわ。義姉上と同じく、誕生花なので」
「まあ……お優しいネア様にぴったり。庭園の、どちらに咲いて?」
「あの東屋の辺りに」

 振り返って彼女が扇で指す。その先にはまだエリゼが訪れていない、円型の休憩所があった。
 沸いた好奇心に任せて立ち上がると、王女の手を引いて小走りで向かう。

「どうなさいましたの? まだ時期では……」

 戸惑うけれどもネアは突然の事が嬉しく、絡む指を離さない。

「どうせなら、こちらでお茶をするのも悪くないと思いましたの」

 乳白色の大理石は陽光にやんわり照らされて暖かく、中に入ると涼しい。少女らしい淡い桃色のドレスも、落ち着いた青緑色のドレスも、同じように風に靡く。

「やはり、王宮の庭園は広いですね。庭師の手入れも行き届いていて、感動致します」
「ふふっ、義姉上に気に入って頂けて、嬉しいですわ」

 解けた手をそのままにエリゼは花々が彩る景色を眺め、そんな彼女を見つめるネアの図式は、数分に渡って保たれた。


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