T(姫君の玉の輿)
助けてくれて有難う、カイン――
事件の興奮冷めやらぬ翌日。宣言通りカインはエリゼの傍に居続け、そのまま彼女の寝室で一夜を明かした。
驚く事に規律に厳しいエリゼがそれを邪険にするどころか気にする様子すらなく、メイドや使用人達は皆大いに珍しがっていた。きっと疲れて弱っているのだろうと、彼女に直接尋ねる勇気は誰も持てなかったが。
それ以上に二人の世界が完成されており、様子を確認する野次馬が普段の二人からは想像出来ないと嘆く程。
嗚呼、これでやっと打ち解けて仲も進展するかといった彼等の淡い願望は――悲しい哉、現実とはならない。
「もうお守りは良いわ。さっさと仕事に行きなさい」
「調子に乗っちゃだめだよ。今日も休んでて」
「あのね。本人が大丈夫だって言ってるのよ。鬱陶しいから早く溜まった仕事を片付けなさい」
「じゃあ此処でする」
「巫山戯ないで。無意味に側近の仕事を増やすつもり? 呆れた」
仲睦まじい雰囲気は何処へやら、すっかり以前の痴話喧嘩が復活している。朝っぱらからお目出度い事だ。おちおち世話も出来やしない。
「ほら見なさい、メイドが困っているわ。邪魔よ」
「君が大人しくしていれば良いんだよ」
「何ですって? 貴方が一々私に突っ掛かるからでしょう」
一国の王子に容赦なく刺々しい言葉を吐く元公爵令嬢。木で鼻を括る彼女に食い下がろうとする王子。話題に登った事に肩をびくりとさせるメイドは、己の立ち位置が判らずおろおろするばかり。
このまま膠着状態が続けば、使用人の朝会に遅れてしまう。そうなればもれなく侍女長の大目玉を食らい、仕事が更に増える。次第に顔を蒼白にするメイド。一使用人にとっては仕えている主人よりも、直属の上司の機嫌を損ねる方が余程怖い。
さあどうする。どうやって止める? 割って入るタイミングは? など悶々と自問自答する間も眼前で繰り広げられる応酬は止まない。
壁の時計を確認すると、朝会までもう半時間となかった。これから急いでエリゼの朝食を済ませ着替え終えたとしても、確実に――そう確実に、遅刻決定である。
余裕を持って朝会の一時間前には此処にいたというのに、その内の半分以上は何も出来ず無駄に消費されてしまった。
起きて早々こうも喧々諤々と言い合える彼等の脳が凄い。お陰でこちらはどれだけ肝を冷やしているか。
「あ、あ、ああのう……! お二人共、そろそろお止めになりませんか……!」
ええいままよ、言ってしまえ!
ぐっと覚悟を決めて、朝食を乗せたカートを全面に押し出す。
ほら、朝食も冷めましたよ! そう訴えてみる。
本音としては仲裁もしたくないし仕事をほっぽって朝会への遅刻を避けたい。だが自分はメイドだ。個人的な感情の前に、メイドとしてのやるべき事は果たさねばならない。それこそ、侍女長から遅刻以上に叱責を受ける。
決死の一声に、二人は揃ってぴたりと口を閉ざす。そして、ずずいっと迫ってきた二人分の朝食をまじまじと見つめ――出来立ての証である湯気の立たないそれに、お互いのつまらない言い合いが朝食が冷める程長く行われていたのだと気付く。
「ごめんなさい。貴方にも仕事があるのに……頂くわ」
申し訳ないと先に頭を垂らしたのは部屋の主であるエリゼ。
外野を忘れ、言葉の文についつい熱くなってしまった己を恥ずかしく思う。手間をかけてしまうなんて、もっと冷静にならなければ。手を動かすのも自然と速くなる。
急ぎつつも決して雑ではない作法で、エリゼはものの数分で完食。目を見開くメイドに「早く着替えてしまいましょう」と呼びかけると、ドレスルームへすたすたと消えていった。
普段通りに過ごそうとする彼女を止められないまま、カインは静かになった寝室で一人、もそもそとパンを口にした。冷めてはいたが不味くはなく、ほんのりと生地に練り込まれたバターの甘みが鼻孔を擽る。
それを2つ3つ放り込み、あっさりした野菜のスープで押し流す。さて、一度自室に戻って着替え直してから執務室に向かおう。
十分ほどでエリゼの身なりを整えたメイドは大急ぎに急ぎ、その結果危惧していた遅刻もなく無事朝会に間に合ったのであった。
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彼はもうこちらを自室に閉じ込める気はなくしたらしい。一ヶ月と言いつつ実際は一週間と経たぬ内に解放された。
それを敢えて彼に言う必要もないし、そこまで馬鹿ではない。これで気兼ねなく城内を散策出来るのだから。
さて、地下にあるという書庫にでも行って知識を増やそうか――ああそう言えば。
何時だったか彼の妹君に庭園でお茶をしようと誘われていた事を思い出すと、エリゼは階下に向きかけた足を押し留め、三階にある姫君の部屋へと進めた。
「まあ義姉上、心配致しましたわ! もう動いて宜しいんですの?」
まさか義姉上から直接来て頂けるとは。嬉しさ半分驚き半分にネアが言う。その顔は何処までも愛らしく、エリゼにとって王宮で暮らし始めた頃から唯一の癒しであった。
先日の行動に昨日の事件も重なって、より気軽に外へ出歩けない身分となってしまった彼女は今や、生まれついての姫君であるネアやキーユよりも丁重に扱われる存在。抑々の肩書きである公爵令嬢に“未来の王妃”たる称号が伸し掛かれば、その待遇も当然のものであるが。
「ええ、あれしきの事で長々とへこたれたり致しません」
自信満々に、気持ち胸を張って答えるとネアは感心したようにこくりと頷いて、それから僅かに顔を伏せ二重瞼の大きな瞳を瞬かせた。
「それでも私は心配ですわ。お願いですから、余り無理はなさらないで下さいませ」
言葉と共に今にも涙が浮かびそうな花顔で見上げられると、エリゼはぐうの音も出なかった。直視出来ずに奥歯を噛み締め、顔を逸らす。
可憐な王女の破壊力抜群の悲哀の表情には、流石の公爵令嬢も為す術なしである。
「それよりも、ネア様。先日仰っていた庭園でのお茶会ですが……」
若干引き気味にエリゼが申し出ると、ネアは打って変わってぱあっと輝く笑顔で返した。
「お誘いお受けして下さるのね! 有難う義姉上!」
エリゼは益々形無しになり、その様に周囲に控えるメイド達が小刻みに肩を震わせていた。そして同時に、此処に婚約者である王子殿下がいなくて良かったとも思うのであった。