V(姫君の玉の輿)

 ――彼女がそんな事を言うものだから、僕の頭は真っ白になった。

 家族揃っての夕食を終えると、何事もなかったように平然と歩く彼女を追いかける。昨日の今日だ、心配するのも当然だろう。
 公爵の屋敷よりも広く天井の高い廊下を静々と進む細身が、僕には頼りなげに見えた。両脇に控えるメイドも彼女の足元を注視している。
 見慣れている事もあって僕にそんな余裕はなかったが、彼女は時折壁にかけられた絵画の前で立ち止まってはじっと鑑賞する。それ幸いと距離を詰めて、声をかけた。

「エリゼ!」

 さして驚きもしなかったのは、気付いていたからだろう。一度瞬いた瞳は何時もの冷静に戻った。

「そうそう、貴方に訊きたい事があったの」
「何?」

 挨拶を抜きに、彼女はいきなり僕に本題を振る。もしや今見ていた絵画の事だろうか。何の変哲もない風景画だけど。

「初めて会った日を覚えている?」

 僕はすぐには答えられなかった。質問の言葉が理解出来なかったんじゃない。その意図が掴めなかった。酷くふわふわとしていて、一抹の不安を抱かせるには充分な材料だった。

「今日ネア様に尋ねられたのよ。私と貴方が初めて会ったのは何時か。でも記憶が朧気で思い出せなくて」

 不安は確実に、目に見えてしまった。だってまさか、そんな訳ないだろうと必死に打ち消そうとする努力は徒労に終わる。今まで無条件に信じてきた定説が脆くも崩れ去り、どうして良いか急に分からなくなった。

「覚えて、ないの? 本当に?」

 本当に、なんて、自分に駄目押しする必要などなかった。致命的ダメージを与えられた心がずきりと疼く。
 彼女はその問いに不思議そうな顔をして、それから――こちらの感情を理解したかのように。

「ええ、全く」

 芯の強い瞳に僕を試している意志はない。この状況でそういった仕打ちを受ける方が屈辱だ。
 怒りでもなく打ち震え、それをどうにか抑えて僕は返した。

「あの時君は5、6歳だよ? 物心ついたばかりの僕が覚えてるっていうのに」

 覚えているどころか、一生忘れられない。

「そうなの? 緊張でもしていて忘れたのかしら」

 いけしゃあしゃあと言われる始末。どうして何時も僕だけが物足りない思いをしなきゃならないのか。
 会話していても、彼女は僕の反論を冗談めかすだけで真剣に取り合わない事が多い。その癖こちらがストレートに愛情表現すると、真っ赤になって照れる。

「こんなところで突っ立って話すのもあれね。早く部屋に戻りましょう」

 あからさまに落ち込む僕など気に留めず、彼女はすたすたと回廊を進む。置いていかれまいと僕も反射的に付いて行くが、それまでより歩幅は小さくなった。
 どうすればもっと彼女と意思疎通が叶うのだろう。僕は彼女に期待し過ぎているのか? 執着し過ぎているのか? 理想は現実に尽く裏切られている。
 回廊を抜けてとぼとぼと階段を上る僕を気遣うのは、当然ながら婚約者ではない。

「すっかり振り回されているわね、カイン」
「姉上――嬉しそうですね」

 木目調の扇で口元を覆っていても、その声の揺らぎで笑っているだろう事は想像がつく。

「あら、喜んでいるのよ?」

 高く結い上げた金の長髪は、気位の高さを表すようで。意外そうに言う姉キーユには幼少より口では敵わない。そうですか、と受け流して取り合わずにいると。

「弟の十何年もの片思いが、ようやっと報われたんだもの。ねえ?」

 そう言ってにこやかに瞳を細め、こちらに同意を問う。
 ――そうか。改めて他者に言葉にされ、経た年月を思い知る。十四年。長いか短いかはともかく、彼女の隣に立つ夢を叶えた事は己が人生の大きな進歩。
 元は純粋な想いだったのだ。彼女に相応しい人になろう――幼心の決断は成長を促す。勉学、立ち居振る舞いや心得、剣や銃などの護身術。必要だと判断すれば全力で取り組んだ。
 それでも、傍に居られる環境が当然になってしまうと以前とは違う要求が生まれて。

「そう、ですね……忘れていました」

 弟の努力を見ていた姉が、にんまりと笑窪を深める。そして背を押し。

「早くお行きなさいな。未来のお妃に怒られるわよ?」

 一礼を忘れずエリゼを追いかける王子の後をゆっくりと歩く姉君。もうすぐ離れる存在への眼差しは、ただ静かに佇んでいた。

*************

「あれは僕が4歳の冬。久しぶりに大叔父上が来て、僕に自分の孫を会わせようと父上に仰った。と言ってもこの辺は流石に聞いた話だけど」

 机を挟み訥々と語り始める声は既に穏やかで、耳を傾けるエリゼがそれに頓着する様子もない。ただ平穏に時間は過ぎていく。

「それから一週間後。大叔父上と父上、そして君と僕。それが最初の記憶」

 思い出深くカインは語る。その声音と顔容の、何と幸福そうな事か。急に気恥ずかしくなり始めたエリゼは、ばれないようにと祈りながら彼から視線を外す。

「僕は一瞬で君に魅入った。気高い双眸に、強引に吸い込まれた。今もその衝撃は覚えている」

 いよいよエリゼは恐ろしくなった。カインにではなく、彼の中の幼い己に。此処まで言わしめるなんて尋常ではない出逢いだ。

「ただ残念な事に、君が自己紹介した辺りで途切れてるんだ。どんな会話をしたかは忘れちゃって」

 申し訳なさそうに頭を掻く何時もの彼を、ようやっと再び視界に入れ。エリゼは努めて気丈に、それで充分よと返す。

「その時から君は、侯爵令嬢然としていたよ。背筋を伸ばして臆さず」
「もう良いわ。後はお祖父様にでも伺うから、もう」

 嗚呼恥ずかしかった。耐え難さに火照った身体を手で扇ぐ。その様をカインが不思議そうに見遣るので、エリゼは少し不機嫌に、何よと睨む。

「別に、暑そうだなあと思って。あ、そうそう。大叔父様は事件の時、大丈夫だった?」

 何事もないように自然と話題を変える王子にホッとして、未だ治まらぬ熱にひやりとしながら答える。

「ええ。その日はお祖父様、長期旅行に出かけていらっしゃったから」

 そうだ。祖父とは旅行に出かけてから以降、一目も会っていない。思い出すと、落ち着かず。
 ――せめて一言だけでも、自分の口から現状を伝えたい。

「ねえ殿下」
「……エリゼ、その他人行儀は何時になったら止めてくれるの?」

 言葉にならぬ内に駄目出しされる。面食らってエリゼは呆けた。他人行儀とは、一体何の事だろう。

「王宮に来てもう数ヶ月なのに、君は未だに自分を“侯爵令嬢”と言うし、必要以上に僕に遠慮する」

 己の背後にあった事実を突き付けられ、内心当惑するエリゼ。意識していた訳ではないのに胸が逸る。
 先程、自分は彼に何と言おうとしたか。数秒前が思い出せない。

「聡い君なら理解してるだろ。もう『エリゼ・シェスター』は『侯爵令嬢』じゃない。今の君は、『王族』であり『王女』なんだよ。その肩書きを背負ってるんだよ」

 何時まで前の立場に固執するの。――どくん。心臓を一突きされた、その感覚。
 目の前の人物に、急激に恐怖する。嗚呼、どうして。何故自分はこんなにも動揺している?
 瓦解する。止まる。思考が、感情が、理性が。冷静にならない、なれない。事実は単純なのに、どう受け答えして良いか、まるで浮かばない。

「エリゼ?」

 力が奮わない。動くべきだと口を開いても何も、全く何もない。酷く臆病。支えがない。ついさっきまで傍に当然のようにあった支えが。
 熱を帯びた身体が氷の如く温度を下げる。そうなるともう、解決策を見出そうとする心は働かない。言葉を知らぬ赤子のように、ただ音未満の空気を零すだけ。

 これはどうした事か。彼は少し、彼女に考えを改めて欲しいと進言しただけである。
 次第に彼女の頭が俯き、肩が揺れて。様子の急変ぶりに慌てて婚約者に手を差し伸べる。こちらの優しさを受け入れられたと思うも束の間。聞いた事のない怯えた声が、それを振り捨てた。

「や……めて……!」

 大仰な程の震えで以て、制止が入る。
 顔は見えない。表情も判らない。ただ言い様のない弱い気迫が、只事ではない彼女の心情を表していた。

「どうしたの、エリゼ」

 不味い事をしたのかと甘く優しく訊ねても無意味。殻に閉じ篭る真珠のよう、全てを拒否して。
 それ以降は何を為そうと、彼女が変わる事はなかった。


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