V(姫君の玉の輿)
シェスター家の屋敷に早々と別れを告げ、城に戻るやいなや自室に雪崩込むエリゼ。その後をのそりのそりと付いてくるカインは、まるで亀。
「何故くっついてくるのかしら。仕事に戻って書類に目を通すなりしたら?」
――ぷつり。音が鳴って、それは地雷となった。
仕事、仕事、仕事。もう良い、もう聞き飽きた。何処までも冷酷で冷徹で、己よりも己に厳しい。何て事だ。よりによって自分は、こんな人を――
「……エリゼ、今日から一ヶ月間、この部屋で謹慎ね」
零下に凍り付く表情。文字通り彼女は身を強張らせ、即座に訴えた。
「意味が解らないわ。いきなり何を言い出すの」
鋭い双眸がこちらを押し負かせようとする。でも王子はそれに怯まない。押し込めば押し込む程、鋭利さを増す。
「意味が解らない? 実に心外だよ。そのままの意味さ。君はたった今から、この部屋を出ないで過ごせと言っている」
明らかに語尾を強くする。普段の飄々とした彼は何処にもいない。
「……そう、怒っているのね。私が陛下より先に貴方に言わなかったから」
酷く冷静に。他人事のように分析を吐露する。
ただの子供。構われなかったから、不満を露わにしているだけ。それならそれで構わない。どうせ逆らったところで、この王宮での拒否権などないのだから。
「良いわ。それで貴方の気が済むなら、お好きになさい。私はそれに従うだけよ」
抵抗なくあっさりと、彼女はその処遇を受け入れた。それにもまた腑に落ちないと怒りが沸き起こるが、何を吐き出したとて体良くあしらわれるだろう。
たった二つ年上の彼女は、その歳の差を打ち負かす程非常に大人である。現にもう彼女は大人だから、その感覚はおかしくないのかもしれない。
「本当に、良いんだね」
「可笑しな人。自分で決めておいて、私に是非を問うなんて」
嗚呼、嗚呼、何処までも。寂しいとか、私情を零しても良いのに。僕は君の、婚約者なのに。
今度は悲しくなった。彼女は何故寄りかかってくれないのだろう。どうして明確に一線を引こうとするのだろう。それ以上心に近付いてはいけないと言うのか。
「たまに、様子を見に来るよ」
「あら、お気遣い有難う。でも別に来なくて構わないわよ」
身辺にはメイドがいる。必要最低限、彼女等の手助けがあれば充分だ。その意味を伝えた筈だが、彼は大いに顔面を歪めた。
「強情だね」
またしても自分にしか聞こえぬよう呟き、カインは力なく退出した。それを眺めるエリゼの表情は不思議そうであった。
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「まあ、それで兄上は律儀にそれを守って?」
「そうらしいわネア。全く、エリゼ嬢に負けず劣らずの頑固よ。我が弟ながら」
花の咲くような可憐な言葉遣い。それが二人ともなれば、場面はより華やかとなる。
「あのう……お二人共、どうして此処でその話を?」
エリゼが謹慎を言い渡されて数日。城内はあっという間にその話題で持ちきりとなり、何故かちょっとしたスター扱いである――王子の婚約者という肩書きを得ただけで、既に城内外から充分注目されてはいるが――。
お陰であれから毎日、彼の姉君と妹君が入り浸るようになった。まさかこれが一ヶ月続くのだろうか。嬉しい半面落ち着かない。
「心配しないで義姉上。私と姉上は何時でも貴女の味方ですわ」
「そうよ。あの子をビシバシ鍛錬してやって頂戴」
「はあ……有難う御座います……?」
礼にも疑問符が混じる。無防備に喜んで良いものか。判断つきかねる。それにしても――
「まだ婚約者なのですから、私の事を義姉上などとお呼びにならなくとも宜しいのですよ? ネア様」
「まあ! 遠慮はいけませんわ義姉上。貴女はもう私達家族の一員でしょう? つれないですわ、“様”付けだなんて」
うう、何て純粋無垢な瞳。良心がぐさりと刃物で刺される感覚を覚え、胸が痛み出す。
別に遠慮をしているつもりは毛頭ないのだが、カインと同じくどうしてもそうとられてしまう。
「そうよエリゼ嬢。私が貴女を妹と思うように、ネアの事も自分の妹として接して良いのよ?」
そう言われても。まだ此処に馴染んだ訳ではない。精神的には色々と隔たりがある。それを一気に取り払う力など、今は。
「……そ、それよりも、お二人は勉学などされないのですか?」
左右から見つめられる空気に耐え切れず、苦し紛れに話題を転換する。緊張の糸が解けない。
問いかけると、一方は笑い、一方は気不味そうに言う。流石に歳の差が9歳もあると、同じ反応という事はないようだ。
「私はその辺りの課程は終えているわ。寧ろ公務が多くて」
「う、私はまだまだありますわ……頑張らなくては」
少女の悩む様は可愛らしい。実に可愛らしい。
もしセルが弟でなく妹ならば、いやネアが自分の妹であったなら、進んで可愛がっていただろう。その点だけは彼が羨ましい。
「あら、話し込んでいたらもう夕暮れだわ。そろそろお暇しなくちゃ。行きましょうネア」
「もうそんな時間ですの? もっとお話していたいけれど……では義姉上、また明日」
「ええ。どうも有難う御座いました」
静かになった。穏やかに流れていた空間が霧散する。それを閉じ込めたいなどという無粋な感情は抱かなかった。
そっと窓際に身を寄せ、雲が消えていく様を眺める。机に置かれたティーセットはもうメイドが片付けていた。
手伝おうかと手を伸ばして、それは婚約者という立場の自分がする事ではないと思い直す。屋敷とは違うのだ。使用人など幾らでもいる。
一礼して退出するメイドを見送ると、いよいよ以て体感温度は下がる。こうして一人でしみじみと物思いに耽るのは、久しぶりだ。この時間がエリゼは昔から好きだった。
「後25日……あっという間ね……」
そう、たった一ヶ月だ。屋敷が崩壊したショックに比べれば、風に煽られる塵程に軽い。
それに、婚約者だからとて、普通は毎日会うものじゃない。彼が冷静になるには、これくらいの期間が必要だろう。それで丁度良い。