U(姫君の玉の輿)

 わざわざ誰に問うまでもなく、カインは行き先に宛を付けた。午前は仕事が詰まっているので午後から昼食も惜しんで向かうと決め、彼は手早く積まれた書類を確認しサインしていく。

「全く……この僕に何も言わないって酷いよ……」

 普段執務中に何かに対して愚痴や文句を吐く事のない王子の不満に、すぐ傍で書類の最終確認をしていた補佐役の男が珍しいと言わんばかりの目を向ける。

「……何か御座いましたか、殿下」

 当たり障りのない言葉で伺うと、彼は嗚呼、そりゃもうね、と悲壮感たっぷりに語り出す。手を動かしながら器用な人だと補佐官は思った。

「いや、此処で文句を言っても詮無い事だ。止めておくよ」

 王子のこういう所が大人びていて、好感が持てる。時期国王として日々相応しい姿に成長していると王宮に仕える誰もが思うだろう。
 ただ、満場一致で婚約者となられた公爵令嬢とは余り上手く意思疎通を図れていないようだが。大方さっきの溜息も、その行き先は彼女であろう。その苦労を密かに偲びつつ、補佐官はそれ以上の追求をしなかった。

「よし、これで最後だ」
「お早いですね」

 余程切羽詰まった事情があるらしい。8時から開始してまだ午前も10時頃なのに、かなりのハイスピードである。普段でも充分てきぱきと仕事をこなす方ではあるが、今回の新記録は後世に語り継ぐべきだろうと思える程。

「では、お茶になさいますか。今メイドにでも」
「有難う。でもちょっと急ぐんだ。済まない」

 休憩を促す言葉に静止の手を翳し、足早に執務室を去るカイン。はて、午後からの予定に急を要するものがあったろうか。
 首を傾げるが、既に彼はいない。判りようのない事を気にしても仕方ないと、補佐官は自分の仕事に戻った。

*************

 強制的に自宅に帰る権利を得たエリゼは、それはもう頬が緩みきっていた。かつてない満足感に、思わず小躍りしかねない。
 日帰りなので午後には発たなければいけないが、それでも愛しい我が家に帰れて嬉しい。物が幾ら壊されていようと、あちこちに煤けた跡があろうとも。

「いけない、私だけこうして休んでいる訳には……セルの手伝いでもしようかしら」

 自室で久々に味わうお茶も格別だが、今は一家と使用人総出で家を建て直す最中。勢いで戻ったものの、このままでは彼等の迷惑になってしまう。
 ぐいとカップの中身を飲み干すと茶器と一緒に抱え、地下の厨房へと急いだ。

 丁度その頃、シェスター家の敷地に再び光沢のある黒塗りの馬車が入り込む。
 扉と背面で金色に輝くは紛れもなく王家の紋章。そしてそれに気が付くのは、またもセルが最初。今日は忙しい、もう迎えの馬車が来るとは。

「姉様を呼ばないと……」
「その必要はないよ」

 目を見張る。迎えに来た召使ではない。今目の前に立ち、心底穏やかな笑みで周囲を見つめる、この方は。

「彼女は自分で探すから。彼等の仕事の邪魔をしたくない」

 動きの止まった使用人達にだから気にするなと目配せすると、皆が申し訳なさそうに会釈をし、静々と為すべき事を果たす。
 対応の速さに頷き、カインは玄関へと進んだ。セルが慌てて後に続く。

「お、お待ち下さい殿下。只今屋敷は――」
「構わないよ。それを承知の上で来ている」

 痛々しく歪んだ壁掛けの絵画や、見るも無残な調度品はまだ襲われた当時のままらしい。まずは外の修復から、といったところか。復旧は一筋縄ではいかないだろう。
 個人的な感情としては助け舟を出したいが、一つの貴族に入れ込んではいけない立場である。婚約者の家という大義名分を以てしても、おいそれと足を突っ込めない。
 これは彼等の身に起きた問題。下手に関わってはシェスター家にも災難が降りかかる。歴史がそれを証明している。

「しかし、本当に酷い……」

 眉目を顰め、屋敷を乗っ取ろうとしたという犯人達を唾棄する。まさかこれ程とは。
 もう止めもしないセルは、苦虫を噛み潰したような顔で瓦礫と化したそれらを見つめる。何度も視界に映した光景は、しかし受け入れ難い。時折固く握られた手が震えるのは、やはり怒りからか。

「こちらでお待ち下さい」
「此処は?」
「姉の部屋です。この状態の屋敷で客人を迎えるには、此処が一番マシで……申し訳御座いません」
「謝らなくて良い。それより、本人は何処に行ったの? いないようだけど」
「おかしいですね……休んでいた筈ですが」

 その問いに返ってきたのは戸惑い。どうやらタイミングが悪かった。
 マシとはいえ、室内は荒れ放題。足の踏み場があるだけ良しとすべきだろう。壁に備え付けられた本棚から本が折り重なるようにして散らばっている。ちらりと見えた左奥の寝室も、お世辞にも綺麗とは言えない状態。

「失礼します。姉を見つけ次第、こちらに向かうよう伝えておきますので」
「頼むよ」

 彼は優秀な貴族の子息だ。あの姉にしてこの弟あり。将来が頼もしい。

「さて、本でも読んで暇を潰そうか」

 足元に落ちていたのはさして面白さを感じないタイトルの書物ばかり。経済学だの歴史学だの政治学だの、お固い内容しか連想出来ない。しかもいずれも王宮にあるものと同じ。城の教師が必ず使う教科書である。当然ながらカインも目にしたし、熟読した。
 ぱらり、と捲る。『建国史』と題された流れるような筆記体は、紙に穴が開くほど頭に叩き込んだ。
 暗唱しろと言われれば最初の一ページはすらすらと言える。彼女もそうだろうか。今度試してみよう。

『その昔、この国には幾つもの社会が築かれていた。その小さな社会を治めていたのはその地方で頭角を表した豪族――今言うところの貴族である。』

 一字一字、己の知識に狂いはないか確認する。呼吸をするように、唄を奏でるように、さらりと。

『そしてそれらを最も大胆且つ平和的に纏め上げたのが、今日この国を治める王の祖先達である。』

 そうでしょう? 凛とした声は意識をはっとさせるには充分な威力を放った。
 振り返った先には、部屋の主。じわりと喜びが浮かぶ。

「セルが戻れと言うから来てみれば……わざわざこんな所で自国の歴史を振り返る為?」

 感動しているのはこちらだけらしい。随分とお互いの思いに差がある。――そもそもね。

「君が勝手に家出まがいの事をしなければ僕だって予定を詰めずに……まあ良い。帰ろう」

 心配したんだと言っても、彼女は素直に受け取らないだろう。我が婚約者ながら真に不本意である。
 カインにとっては公爵家の復旧よりも一筋縄ではいかない存在。だからこそ、突然ながら頼って貰える展開が訪れたのは私的には好機だった。
 彼女は知らない。今回の事だって、どれだけ悔しかったか。

「貴方、何故仕事を優先させなかったの? 今日だって忙しいんでしょう」
「だから僕に言わなかったの? 午前の執務は終わらせたよ」
「ならば空いた時間を利用して次の仕事に取り掛かれたでしょう」

 絶句。唖然。呆然。憮然。何だ、このストイックさは。確かに正論だ、誰が聞いても納得の行く尤もな意見だ。だが、だが今はそれを受け止められない。
 余りにも彼女と感情が剥離している。何故、帰ろうと誘いかけているこちらが彼女に窘められなければいけない?

「――君って本当に……」

 著しく音量を下げた声で、呟けたのはたったそれだけ。
 嗚呼、自分はまだ彼女を甘く見ていたのか。近付いて、理解したと思えば突き放され。何時になれば、認められるのだろう。

「とにかく、城に帰ろう」

 言いたい事は沢山あった。けれどもそれを言葉にする気力は完全に削がれた。覇気のない表情は暗さを孕む。
 まだ昼にも満たないのに、既に一日分の疲れを与えられた気さえする。
 あんまりだ、こんなの。


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