ふと保健室に誰かが入ってくる音がした瞬間に頭が覚醒したが、なんとなく目は開けなかった。怠くて、もう少しだけ寝ていたかったというのがまず本音。起きて「大丈夫?」って少しでも煩くされるのが嫌って言うのも本音である。だけど、私は起きずにいたこと≠後悔してしまうことになってしまっていた。












「辰巳さんの家ここ?」
「はい‥ありがとうございました‥」
「今日親御さんとかは?」
「多分日付跨いで帰ってくるので‥」
「そうなの?ご家族で随分忙しいのね‥学校から連絡しておこうかしら」
「大丈夫です、私から連絡します、」
「なら大丈夫ね」

先生を納得させる為についた嘘だったが、素直にその言葉を信じてくれた先生はそのまま玄関まで私を送り届けて車に戻っていった。ガチャガチャと鍵を開けて家の中に入ると、大きく溜息を吐いて座り込んでしまう。車に揺られるだけでも結構しんどいとは思わなかった。だけど、それよりも。

「‥なん、なの‥」

保健室に誰かが入ってきた。‥という誰か≠ニは、緑間君のことである。小さく出ていた声に、彼だと言うことはなんとなく気付いていたけど、怠かったし、声を掛けられるのもしんどい、とか思っていたのがいけなかったらしい。だってまさか、‥キス、されるなんて思ってなかったんだもの。最初は何が唇に触れているか分からなかったけど、‥まあ、キスの経験が無いわけではなかったから。キスをされて数分くらいは一体何が起こっているのか脳内処理も間に合わなかったが、2回目のキスで察したのだ。あれ、これキスされてるんじゃ、?って。

顔が熱いのはもう風邪でもなんでもなくて、ただ単に緑間君の行動のせいなんじゃないだろうか。今だにふらつく体をなんとか動かして、自分の部屋へと向かいながらそう考える。風邪薬飲まないととか、明日は夕方から仕事だからとか、たくさん考えるべきことはあるのにも関わらず、頭の中をいっぱいにさせているのは緑間君のことばかり。なんでキスなんて。私のこと、好きなの?緑間君が何も考えずにそんなことする筈がない、だったら、私に好意を寄せているとしか‥。

いやいや、そんなこと。

熱があるから思考がおかしくなってるんだろう。そうか、熱があるから、何か間違った夢だったのかも。とりあえず布団に入ってもう一回寝よう。そしたらきっと、何が本当で何が空想だったのかわかる筈だ。無理矢理納得して息を大きく吐いてみたら少しだけ落ち着いた。

緑間君が好きなのは、認める。‥けど、それでどうのこうのっていうことは考えていない。だから別に気にすることなんてないじゃない。付き合うとか付き合わないとか、そんなことを私ができるわけがないんだから。小川さんにも事務所にも、きっと怒られるし「仕事をなんだと思ってるんだ」って言われちゃう。好きなままでも充分だ。

「‥お腹空いた」

悩みがなんとなく纏まると、安心してお腹が空いてきた。確か余っていたスープが冷蔵庫に眠っていたはずだけど、取りに行こうか迷うところである。けれど結局また睡魔が襲ってきて、食べることを諦めてしまった。起きたらお父さんかお母さんか、帰ってきているといいんだけど。











『え、亜樹ちゃん熱出しちゃったんですか!?』

篭ったような大きな声は、次の日の昼頃、リビングに丁度降りてきたところで聞こえてきた。どうやらお母さんが、誰かに電話をしているらしい。私はと言えば、どうにも気分はまだ優れず、でもお手洗いの為に渋々降りてきただけなのだが、その声が小川さんだということに暫くして気付いた瞬間、慌ててお母さんの元へと小走りになった。

深夜に帰ってきた両親は、私が熱を出したことに気付いて話し合い、お母さんが翌日仕事を休んで家に居てくれることになったらしい。申し訳ないと思う反面、普段はいないので、居てくれてとても助かるし、安心した、‥のだけど。

「そうなんですよ‥はい、なのでちょっと仕事の調整を‥」
「お母さん、もしかして今電話してるのって小川さんだよね、」
「やだ亜樹、ダメよまだ寝てなきゃ。貴女さっき熱測らせてもらったけどまだ37度後半あるのよ」
「お手洗いに来ただけで‥ってそうじゃなくて、明日までには治すから、今撮影私だけ遅れてて、」
「ダメ。きちんと体調を整えるのが先。あ、なので小川さん、」

私の話しは受け入れてもらえないまま、テンポよく話しが2人の間で進んでしまい、おろおろとしている間に通話が終わってしまった。私だけドラマ撮影のいろはを分かってないまま休むなんてしたくない。そんなの嫌すぎる。負けず嫌いという性格上、どうしても「分かりました」なんて首を縦に振りたくはない。

「あ、そういえば」
「‥?」
「昨日夜中に帰ってきた時、ポストに何か届いてたわよ。多分クラスの子からじゃないかしら?」

むぐぐと口を歪めていた私の表情に気付いておきながら、何枚かのプリントを押し付けたお母さん。だから、お手洗いに来たんだけど、と言いそうになってプリントを溜息交じりに見下ろした瞬間、右上のクリップに挟まれた小さなメモに気付いてしまった。

今週末の小テストの範囲なのだよ。

この丁寧な文字と独特な言葉を使う人を、私は1人しか知らない。わざわざ彼がこれを、?と考えたら、かっと顔が熱くなってしまった。

2019.01.30

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