怜奈が使っているスタジオで仕事をするようになって3日か4日が経った頃、ようやく朱袮を知る共通の仕事仲間から奴がこちらへ帰ってきたとの連絡があった。なんで本人から連絡がないのか、そこはちょっと物を申したい気分なのだが、取り敢えず言葉は飲み込んでおく。一言外に出てきますとスタジオで働く事務の人に断って、パソコンの上の譜面や何やらを片付けていると、外が騒がしいことに気付いてそっと窓から外を覗いてみた。

「‥はっ!?ちょっとまっ、あれアカネじゃん!」

同じように奥の窓から顔を覗かせた、休憩で3階のロビーを使っていた1人が大声を出したことで、スタジオ内が騒然とした。なんだなんだとつられるように窓を覗き込む者、窓を覗き込む者に気付いて、わざわざ練習の手を止めて小さなスタジオから出てくる者。真っ黒い大きなワゴン車から出て小さく手を振るそいつは、黒いパーカーで顔を隠そうとはしていたが隠せていなかった。彼の周りはカメラやマイクで埋め尽くされている。思わず窓から顔を離して、怜奈達のバンドが練習しているであろう、シークレットスペースで区切られた扉の中へと飛び込んだ。

「うわっ!?ちょ、ゆかりなにやってんの!?」
「ちょっと匿って!」

ただ単純に怖い。早く朱袮とちゃんと話さないと、っていうこと、それは今だって思ってる。本当はずかずかと彼の目の前に行って、どういうつもりなんだって、私にはもう大好きでたまらない人がいるんだって言ってやりたい。‥だけど、彼を囲む人集りとか、カメラとかマイクとか。そういうのが‥とても怖いのだ。

「なに?どしたん?」
「分かんない‥取り敢えず私外の様子見てくる」
「いいわ、俺行ってくるから怜奈いてやれよ」
「あ、うん、ありがと」

ぱたんとメンバーの1人が出て行った後、こつんと頭の上に何かが乗った。がさがさとしたささくれたような感触。細長くて硬いそれは、怜奈がいつも練習で使っているスティックだった。地味に痛い。やめてよって頭の上を払っていると、今度はどうしたの?という声がした。‥どうしたの?どうしたもこうしたもあるもんか。

「‥もしかしてアカネさん来てるとか?」
「えっマジで!?今旬のフライデー大丈夫かよ!」
「ちょっと言い方どうにかして!」
「なんだ?ここまで来るってことは、なんかゆかりちゃんに用事なんじゃねえの?一緒によく仕事してるだろ?」

やっぱり、そこまで関わりの無い人には話題のアカネの隣にいた女性が私っていうことには気付かないらしい。ちょっとだけ安心、‥したけど、ばたんと開いた扉から朱袮の顔が見えた瞬間、体がさあっと冷たくなっていった気がした。サングラスで瞳が見えないから、どんな顔をしているのかわからない。言いたいことは山程あるけど、まずはどこから聞くべきなのか。‥だけど考えるより早く、彼は私の手首を無理矢理奪い取ったのだ。

「お前こんなとこで何やってんだ」
「それはこっちの台詞!そもそもあんたのせいで事務所行くの気まずくて、」
「悪いけどこいつ借りてくぞ」
「それはだめです!ゆかりにはちゃんと!」
「そんなこと知ってるよ」
「は‥‥はあ!?」

怜奈の大きな声が反響している間に、ばたばたと扉の向こうへ連れ出されて足が縺れてしまう。待って、無理無理無理無理、このまま外に出たら格好の餌食じゃんか。なんでそんなことするの、嫌だ!!思い切り手を振り払って、ロビーへと続く扉を開けかけていたもう1つの手を止めた。

「電話もメールも無視してあんた一体どういうつもりなの!?」
「メールはお前も無視したよな」
「‥あ、それはえっと‥ごめん、忘れてたけど、でも!」
「悪い。‥あの時は血がのぼってたっつーか‥だから、あの後謝ろうと思ってメールしたんだ」
「え」
「‥ごめん。こんなに大事になるなんて思ってなかった」

ぱちくり、ぱちくり。珍しく素直な朱袮に目が丸くなった。‥っていうか、謝った‥?気まずそうに視線をそらしたり、はあって大きく溜息を吐いて外の様子をちらちらと気にしたり。どうやら、本気でニュースで取り上げられるまでになるなんて思っていなかったらしい、かなり動揺していたのが分かった。じゃあどうして単身ここまで来たのか。追われることは分かっていただろうに。

「‥最後にちゃんと聞こうと思ったんだ。まあ予想ついてるし、‥分かってっけど」
「何を?」
「まだ好きなんだ、ゆかり。どうしても‥もっかい言ったら、なんでもいいから‥なんか変わんねえかなって‥」

ドアノブから手を離して、当たり障りのない言葉を無難に選んで、でも真っ直ぐに私の目を見て悲しそうに笑う。‥ああ、そうか。朱袮の中では、本当に本気だったのか。それが分かったから、今度こそちゃんと、‥ちゃんと伝えなきゃ。ごめん、朱袮じゃだめなんだと。もう私には繋心さんにしか心が動かないから、1分1秒でも早く私のことは諦めてほしいと。

「‥吃驚した。朱袮ってそういうのどうでもよさそうだったし」
「興味なかったんだよ、お前以外」
「ごめんね」
「‥‥」
「今の人、すっごく好きなの。ほんと、付き合ってる今でも心臓おさまんないくらい大好き」
「うるせえ」
「だからもうやめて。‥分かってたでしょ、私が朱袮のことをなんとも思ってなかったことくらい」
「‥‥うるせえよ、バカ‥」
「‥ごめんね、朱袮」
「‥くそ、くっ、そ‥」

ぱた、ぱた。床に何かが落ちた音がした。でもそれを見るわけにもいかないし、拭ってやるわけにもいかない。俯いたままの朱袮に背中を向けて、無言で扉を開けた。ロビーを抜けても、持ち物を全部持って外に出ても、彼が追いかけてくることはなかった。記者がたくさんいたけれど、朱袮が一緒じゃなかったから私に興味は移りそうにない。‥大丈夫だ。彼ならきっと分かってくれる。私のこと、ちゃんと本気だったんでしょう?だったら私が繋心さんに本気だってことくらい、きっと分かってくれるよね。

その日の夜、繋心さんが帰ってくる前にニュースでやっていたでかでかとした失恋の文字の隣には、少しだけ目の腫れたような彼の姿が映っていた。

2018.03.18

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