3年生の勉強なんか勿論理解していない私に変わって、木葉先輩が木兎先輩の隣で机をぺしぺし叩いている。そうして私の勉強が捗るか捗らないかと言われれば、表向きは捗っているように見えるであろうが、蓋を開けてみればあんまり頭には入ってきていなかった。その理由に緊張が入っているのはもちろんのことだけれど、それ以上に騒がしいのだ。主に授業の内容をあまり理解していない木兎先輩のおかげである。

「わか!らん!」
「そんな自慢気に言うな」
「だからちょーっと静かに考えてみなって」
「木兎さん、夜鷹が軽蔑の目で見てますよ」
「そんな目で見てません!」

ぐしゃ!と彼がノートを握り締めた音で、あ、もう限界だな。と私もなんとなく察した。だけどその限界に周りが許す筈もなく、頑張れ頑張れとノートの皺を伸ばしたり、また私のことを引き合いに出したり、腹減ってんじゃね?なんてお菓子の袋を手渡したり。

私も、先輩と同じ学年だったらなあ。そしたら「しょうがないなあ」っていいながら、隣に座ってごく自然に勉強教えられたのになあ。ぎゃーぎゃー言いながらも無理矢理頭に数学の公式を叩き込まれているその姿は、なんだか若干可哀想にもなってくるのだ。雑というか、なんというか‥まあ、男の子同士だから、別にそういうのも気にならないんだろう。

「一ノ倉さんだっけ」
「はい」
「一ノ倉さんは分かんないとこある?3年だし、分かんなかったら教えられるよ〜」
「私は大丈夫です!でも、ありがとうございます」
「夜鷹成績は良いからね」
「は≠チてなによ京治」
「深い意味はないって」

深い意味はなくても癪に触る言い方である。そういう京治は、見た目真面目そうな癖に、成績は案外普通だよね。売り言葉に買い言葉ではあったが喧嘩をしている訳ではない。半分笑いながらの会話に、周りの先輩達は「仲良いな〜」って口を揃えているのが聞こえてくる。仲良いというか、まあ、私と京治の関係っていうのはこういうものなのだ。だって長く一緒に居すぎて、特に意識することがないんだもの。

「‥」
「オイコラ木兎聞いてんのか!」
「聞いてねえ」
「だから自慢気に言うなし!聞けよ!」
「俺先輩ヤダ」
「は?」
「夜鷹、俺のこと光太郎さんって呼んでいいぞ!」

びくっ。そんな大きな声に驚いて顔を目の前の人に向けると、鼻息をフンッとさせた木兎先輩が私を丸い目で見ていた。いや、どうして急に私の名前を。よく分からないが、どうやら何かが気に入らなかったようだった。だからって私が先輩のことを名前で呼ぶなんて出来ないんだけれど。ペンを止めたまま首を傾げる私に、彼も同じ方向へ首を傾けた。「なんでだ?」と言いたげである。

「そんなのできる訳ないと言いますか‥」
「なんで?別にいいじゃん、あかーしは名前じゃん、なんかちげーの?」
「京治は、なんというか‥もう昔から京治って呼んでるので‥」
「なんかちげーの?」
「ええ‥」

違うと言えば違う、‥ということを、今の説明ではご納得いただけなかったらしい。じっと見つめてくる瞳は、納得のいく説明をしてくれない限りはどうにも離されそうになくてちょっとだけ困ってしまった。だって難しいことなんですよ、1つ上の好きな人を名前で呼ぶっていうことはとても緊張してしまうことだから。‥でもそれってもしかして、私だけなのだろうか?いや、そんなことはない、‥筈だけど。

「‥こいつ俺等のこと無視してんぞ」
「俺1抜け〜。コンビニ行ってくるから」
「2抜け。アイス食べたいから」
「3抜け。カップラーメン買いに行くから!」
「‥4抜け。喉乾いた」
「では俺は5抜けで」
「え、」
「俺と夜鷹は大きなシュークリームで!」
「ケッ調子いい奴め」

え。ちょ、ちょっと待った、皆出て行くの!?木兎先輩の勉強は!?

ぞろぞろと京治の部屋から出て行く先輩達に、どうやら私を助けるという選択肢はないらしい。財布片手にいなくなってしまった最後、京治が右の口端を上げて笑いながら部屋の扉を閉めてしまった。えっと、シュークリームより生クリームどら焼きの方が‥ってそうではない。そうでは。ひっそりと、皆を止めようしていた行き場のない手が宙に浮いたまま止まっている。ごうごうとした強めのクーラーの音だけが、静かになってしまった部屋に随分と大きく響いていた。

「夜鷹」
「は、はいっ」

じ。この人の、見透かしそうな程の眩しい瞳が私は好きだ。でも、2人きりの部屋でこれは、流石に緊張しすぎて吐きそうである。どき、どき。めっちゃくちゃ心臓が煩い。このまま先輩に破壊されるのではないだろうか。

「あかーしは特別?」
「と‥特別?というよりは幼馴染なのでなんというか‥家族に近い感情?と言いますか‥」
「俺は?」

面と向かって座っている向こう側から隆々しい腕が伸びてきて、ペンを持つのをやめていた私の手に触れた。おおきな手は、手を繋いで帰った時と同じように力強く握りしめる。俺は?‥そんなの、京治とは違う感情で、恋という甘酸っぱい想いでいっぱいいっぱいに満たされてしまって困ってるくらい。それくらい、弱い所も強い所も、好き、

「先輩、私男バレのキャプテン‥木兎先輩とデートできたら、テスト頑張れると思います」

脳裏に浮かぶ言葉は、また井上のものだ。邪魔されたくない。でも、自分の気持ちを偽っておいて、横入りなんかできる訳もない。変な所真面目なやつだと少し呆れながら、先輩に何を言えばいいのかを考えた。

「俺が夜鷹の特別にはなれねえ?」

何秒か何分か、どれくらい経ったかは分からないが、先に痺れを切らしたのは彼の方だったみたいだ。開いた口から飛びしたのは、多分、そういうことで。

違う。私はとっくに特別だった。‥それよりも、先輩も私のこと特別だったの?知らない、そんなの、知る由もなかったのだ。

2019.04.27

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