ステージの上の緊張感はいつまで経っても心地良いものだ。歌を聴いてもらえると「自分を認めてもらえた」というそんな気分にもなる。そうやって今日の路上ライブも大成功で終え、物販コーナーには長蛇の列ができていた。今日はいままで立ったステージの中でも最高の出来だったとさえ思う。サインを求める声も多くありがたかったが、歌い終えたすぐ後から喉の調子がおかしくなって泣く泣く会場を後にしたけれど、興奮は冷めやらぬで大したことはない、すぐに調子も戻るだろうとそう思っていた。

「多分寝たら治るから」

そう言った声は自分のものじゃないみたいになっていたけれど、それも聞き間違えだろうと高を括って、侑も治も会場に無理矢理残してきたことを今更後悔したって遅い。だって彼等に会いたいファンがたくさんいて、例え私がいなくても喜んでもらえることを知っていたから。

タクシーでいち早く家に帰らせてもらってすぐ、玄関で息苦しくなった。途端に目の前がぼやけて呼吸がままならなくなる。どうしたらいいのかわからなくて、とにかくリビングまで行かなければと廊下を這った。

苦しい、くるしい、息が吸えない、くるしい、助けて、たすけて

病気のことはちゃんと分かってたつもりで、覚悟もしていたつもりでここまできた筈だったのに、急に「死」という文字が迫ってきたことを理解した途端に怖くてたまらなくなった。テレビで偶に見かける「余命宣告をされた」人達は、本当に死を受け入れて全身全霊で生きていたのだろうかと恐ろしくなった。私はそんなに強くない、そんなにどころか少しも強くない。頭の何処かではふと気付いたら「病気なんかいつの間にかなくなっているんじゃないか」って。そうやって現実からほんの少しだけ気をそらしていた気がする。

リビングまで到達した時、殆ど呼吸ができていなかったせいで頭がくらくらした。突然口から噴き出した血は滴り落ちて赤黒い。やらなきゃいけないことはまだ山ほどある。まだ伝えきれていないんだよ、飛雄君に謝りたかったことも、感謝の言葉も。まだまだ全然足りないの。神様とか仏様とか、そういう凄い人が本当にいるなら、今こそその力を発揮して私の願いを叶えてくれはしないだろうか。まさに今≠アそ、一生のお願い。

もう少しだけでいい、声が欲しい

目の前はまだ少し明るくて、でも白く濁っている。頬っぺたが濡れているから、悲しいのと苦しいので涙が止まらないことだけは分かった。その瞬間玄関から扉が開く音がして、飛雄君が帰ってきたことを悟る。‥ああ、バレてしまう。今まで病気を隠してきたことを。天から私を見下ろしている神様も仏様も、あまりにも残酷ではないか。だけど同時に安心したのも、確かだった。










人生であれ程大きな声が出たのは初めてだった。血を吐いて倒れている人を見るっていうのは、遭遇する機会も少ないだろう。ましてや俺の伴侶だ。一生一緒にいると誓い合った相手だ。気が動転して、目の前で起こっていることにまるで理解が出来ず、気付いたら俺は随分軽くなったなまえの身体を支えていた。

「なまえ、っ!!」

急に抱えたのが悪かったのか、ゴフ、と口から大量に溢れる赤に背筋が凍っていく。どうしてこんなことになった、いつからこんな風になっていた、気付かなかったのか俺は、なんにも、‥なんにも気付かないままずっとー‥
全日本のマークを背負う、黒いジャージの袖から赤黒く染まる。震える右手で口元にかざしても殆ど呼吸はなかった。薄っすらと開いた瞼の向こうはぼんやりと俺の顔が映っているだけで。真っ赤になった右の手のひらでポケットに入っていた携帯電話を掴むと、汚れるのも構わずにコール画面を開く。何かの病気か、だとしたら何故言わなかった。
どうしてとなんでが頭の中を駆け巡って冷静に対処ができない。その時丁度流れてきた着信音はなまえのスマホからで、俺は自分の持っていた携帯電話を放り投げてそれを掴んでいた。画面を確認することなく通話を押すと、聞いたことのあるようなないような声がなまえを呼ぶ。電話越しの相手に怒っている訳ではない、とにかく混乱していた。

『なまえ、体調は‥』
「なにがあったんすか!?」
『は』
「なまえ体調悪かったんですか!?どうしてこんなになるまで歌わせたんすか!!」
『誰‥影山飛雄‥‥?オイ待て、なまえはどうしたんや』
「血だ、らけで、っ」
『アホ!!はよ救急車呼べ!!』

なんでだ。なんで電話の向こうでは何もかも分かっていたような焦りがあるんだ。俺だけが何も知らなかったのか。幸せだと思っていたのに、そんなことも共有できない夫婦関係だったのか、俺となまえは。感情がぐちゃぐちゃになったままなまえの体を抱き締める。泣いている理由だって何一つ聞くことすらできないなんて。通話を切られたそのスマホで119番を繋げた。無機質な機会音の後に続く女の人の声は、俺の支離滅裂な言葉に「落ち着いてください」と声を荒げている。

落ち着けるもんか。一生かけて一緒に生きていきたいと決めた女が、俺の腕の中でもう僅かにしか息をしていないのだから。

2019.09.26