「影山お前ほんとに知らねーの?」
「だから知らねーっつの」

肩をぐらぐら揺らしてくる日向は今現在非常に鬱陶しい。普段なら鬱陶しいで勘弁してやるが、今は非常にが付くぐらい鬱陶しかった。

俺の奥さんでもあり今や全国でも人気の高いバンドのボーカルを務めるなまえ。そのなまえのバンドが、今日路上のゲリラライブで3rdアルバムを発表したらしい。いや本当に聞いてねえんだよ。これ有るまじき事態だろ、と。SNS、そしてテレビのニュースでも大きく取り上げられていて、練習試合を終えた俺はその事実を知って固まっていたのだ。映し出される路上ライブの様子は有り得ないくらい人の波でごった返していて、その奥でなまえがギターをかき鳴らして歌っていた。‥一言言ってくれてもいいんじゃねえの、と思わざるを得ないのは、俺が旦那だから。別に不思議なことではない、と思うんだけど。

「‥最近」
「んあ?」
「アイツなんか隠してたんだよ。このことだったんだよな、多分」
「いや知らねえけど‥なに、家で話してねえの?」
「話してない訳じゃない。でも時々すげー悲しそうな顔して黙り込む時があって」
「?こんな楽しそうなこと隠すのに悲しい顔すんの?」

カチンときたのは一瞬だけで、日向の言葉にはすぐ納得した。確かに、何かを発信するのに悲しいなんて有るわけがない。だったらやはり、別の何かがなまえの中にあるということ、なのだろう。なんで言えないんだろうか、そんなにやましいことを隠しているのか。‥例えそうなら、少ししょうがないかもしれない。俺は多分、少しだけなまえのことを寂しがらせているかもしれないから。練習、合宿、遠征と、家を空けることも少なくない。もちろんそれはなまえだってそう。そうだけど、‥もっと側で寄り添うことはできるから。でもそれも許してくれないのはなまえ。夢を邪魔するのを、極端に嫌がる傾向がある彼女の優しさでもある。

「お前口下手そうだもんなー。こう、愛情表現の仕方ですら間違ってそうな部分あったりして?」
「あ?」
「いやなんかこう思い当たる節があるならこれで思い出すかもって思っただけじゃん、そんな怒んなっぐえ!」

本当はすぐにライブをしている場所まで向かおうと思っていた。だけど、あんなに人がいると逆に大変なことになるかもしれない。報道で既に周知の事実である俺と夫婦という関係は、テレビのネタ的にも格好の餌食なのだ。会いたいし聴きたいけど、迷惑はかけられない。そうするんだったら、家に帰って事の顛末を聞いて、俺だけの為に歌うとかそういうことをしてくれた方がよっぽど俺の気分も良いってものだ。‥若干不謹慎っぽいが。

「帰ったらちゃんと聞いてみろよ。理由あるだろ、そんな子じゃないのは見ればよく分かるし」
「お前に言われなくたってよく分かってんだよ!」
「だからそんな怒らなくてもいい‥いやだから痛えって!」

単純に録音が上手くいかなかったとか、音源としてまだ足りない部分があったとか、そういうことであることを心の中で思い込んでいる。嫌な予感は信じたくない主義だ。










いつも通りでいる準備も、今日のことを聞く準備も万端だ。帰ってきているのかは分からないけれど、メールが来てないから、多分今日は少し遅くなるのかもしれない。ただ、新しいアルバムが出るのはとても嬉しいことだからと、なまえとじゃないと足を運ばないであろう少しお高めのデパートにて美味しそうな出来合い惣菜を買ってきた所だ。酒はお互いの明日の体調に響いてしまうといけないから、ノンアルコールのスパークリングで勘弁してくれるだろう。結構浮足立っていたと思う、自分が思っているよりもずっと。

「ただいま」

扉は開いていた。珍しく鍵もかけていない。‥ということは、もう帰ってきているのか。危ないから施錠しておくようにと言っていたのに偶に忘れる癖はまだなおらないらしい。それでも今日はいいかと思っていた、なまえにとっては大事な日だから、と。

「なまえ、悪い。今日飯買ってきちまった‥」

早くに帰ってきたならもしかしたら飯の用意がされてるかも、という感情は、手の中のビニールごと床に落っことしてしまった。リビングの中央で、今日映像に映ったままの姿のなまえが倒れていたのだ。それだけじゃない。掌と床に、赤色と鉄の匂いが広がっていた。

「なまえ‥?」

そうか、寝ているのか俺は。だからこれも夢なんだきっと。そう思う他なかった。じゃなきゃこの状況をどうやって回避すればいいのか分からないだろ。

「‥とび おく 」

だけどなまえの声は夢でもなんでもなくて、現実の、本物の音。ゆっくりとこちらを振り向いた彼女の顔は涙と赤い血で濡らされていた。

2019.08.31