「ゲホッ!ゲホ、‥っうぐ、」
「なまえ、あんま無理せんでええから‥録音は明日でも出来るんやで」
「‥は、‥そんな時間ないから、大丈夫」

丁度私の歌が撮り終わった所だった。一発で全て撮り終え、部分的にほんの少しだけ撮り直したい所だけを修正していると、突然喉の奥からカッと酷く熱くなってきて、そしてわたしは慌てて併設されてある洗面台へと駆け込んでいた。病気のことを知っているのは、侑と治と永田さんだけ。だから、スタジオで吐く訳にはいかなかった。もうここの所ずっとそうだ。ずっとそうだから、なんだか最近周りのスタッフさんの目とか、知り合いの先輩達の目が不安そうなのだってなんとなくだけど分かってる。その度に侑が茶化して、そっと治が後ろからついてくるのだ。

「気持ちは分かるけどそんな無理したら最後まで声もたんぞ。あと何曲あんのか分かっとんのか」
「5曲くらい」
「6曲な。‥ええやん、あと2ヶ月くらいかけて録ろうや」
「だめ、‥もつか分かんないでしょ」
「お前そういうこというの禁止言うたやろ」
「ふふ、ごめん」

吐いた血を見てげんなりする。幸いここは女子も男子も兼用で使える洗面台で、トイレではないのが救いだ。だからこうやって治も一緒にいれるし、他の人の気配がすれば彼が防いでくれる。なんだかんだ私の主張を守ってくれている3人のお陰で、最低な我儘がまかり通っているのだ。
飛雄君と水族館に行った日以降、急ピッチに勧められているCD制作。今までやった曲をいくつかリミックスしたり、新曲を入れ込んだり、今までとは全然違うジャンルに挑戦したり。でも、ジャンルは違えど3人で音を合わせれば3人にしかできない音が流れて、そして閃光らしい曲が出来上がった。それを今、形に残している所なのだ。‥が。

どうにもタイミング悪く、調子がすこぶる良くない、らしい。

「‥取り敢えず落ち着いたらでええよ」
「ん」

汚れたところをティッシュで拭き取りながら大きく息を吸う。だってこれ以上待ってられないんだ、ほんとに、時間ないって気付いたから。最近どことなく口の辺りが動かし辛いっていうことに。言葉が出せなくなるなんて歌にならないじゃないか。だってこれは全部、

「分かっとるから」

侑もきっと、心配しながら皆を茶化して待ってる筈だ。口は悪いし、思ったことなんでもズバズバ言っちゃうし、偶に「喧嘩売ってんのかコイツ!」って思うことだってあったけど、根はとっても真面目で、好きなことには一直線。だからこそ、根っこの奥深くではちゃんと色々考えてることだって知ってるよ。治の声に1つだけ頷いて、ありがとうって添えて笑った。

仕事だって本気でやる。けど、飛雄君との時間だってきちんと作って、後悔が1つとしてないように今を精一杯生きていたい。

だってもしかしたら低い確率だとしても、奇跡だって起きるかもしれないじゃない?可能性がないって言える?そんなの、どんなに偉くて凄い病院の先生だって言えないでしょ?













「ただいまー‥ありゃ」

もうとっくに帰っていると思っていた家の主はどうやらまだ帰っていなかったらしい。その証拠に、部屋の電気は一切とついていなかった。早く帰れるっていう連絡は特になかったけど、大体いつも帰って来てるのにな。若干、‥というよりは結構な寂しさを覚えつつ電気をつけると、いつもなら気にならなかった部屋の雰囲気に私はつい頬を綻ばせてしまった。
日本代表に選ばれた証の彼のユニフォーム。今までにいくつも作ってきたCD。飛雄君がバレーを始めた頃から読んでいたとかいうボロボロのバレーボールのレベルアップブック。なんとかっていう賞を受賞したトロフィー。水族館で撮った2人の写真と、昔のチームメイトに囲まれてどこか嬉しそうな写真。もう随分長い間一緒にいるみたいな感覚だ。部屋の中は幸せがいっぱい詰まっていて、気を抜いたらつい泣きそうになってしまった。息を吸うと、あったかい空気が入ってくる。吐き出したら、少しだけ楽になれた。

「‥なまえ?」

どれくらいリビングに立ち尽くしていたのだろうか。気付いたら扉の鍵が開けられる音がして、後ろから飛雄君の声が聞こえていた。ゆっくりと振り向けば、汗の匂いと僅かな柔軟剤の香りをさせた彼がちょっとだけ目を丸くして少しずつ近付いてきている。お帰り、そうやって広げた腕の中に、そのままぼふりと顔を埋めてきた彼の旋毛が見える。普段なら絶対に見えないそれが見えるのは、私くらいの特権だろう。あとは飛雄君より背の高い選手とか。

「どうした、なんかあったか?」
「ううん、違うの、‥しあわせなの」

立ち尽くしていた時間でご飯作れたし、片付けだってできたのに、私は部屋の中で無意識に目に焼き付けていたのだ。ころころと転がっている幸せな生活の一部を。
「絶対に忘れるもんか」と、そう心に誓いながら。

2019.06.22