LEFT BEHIND 13


「来たか、仔犬。……やけに大きい白衣を着ているな」
「これは二年生の男の子が貸してくれて」
「ふむ、そのエンブレムはオクタヴィネルのか。慈悲深い仔犬もいたものだな」

 数日前に監督生から受け取った小さなメモ用紙には、放課後の16時半に魔法薬学室に来るように、という旨を伝える整った文字が並んでいた。そのメモが指示する通り、指定された日時の指定された場所──薬学室に約束の十分前にやってきたナマエは薬学室の扉の前に“姿現し”て、ノックしてから入室した。いきなり瞬間移動の魔法を使っては、その場にいる人々を驚かせてしまうということをここ最近で学んだ彼女は、できるだけ驚かさないようにそれなりに配慮をするようになったのだ。
 ガラス張りの薬学室の、前方にある実験台の端にもたれかかり、腕を組んでいたデイヴィス・クルーウェルは約束の時間よりも早く姿を見せたナマエを見つめ、機嫌が良さそうに口角を上げて笑った。白い歯を見せない笑みはどこか皮肉っぽいが、やけに様になっているのも事実で、洗練された雰囲気はたとえ薬学室内であっても損なわれていない。
 随分と大きな実験着を身につけているナマエに首を傾げたクルーウェルではあったものの、彼女がハーツラビュルの面々と親しくしていることは知っていたため、その伝手でオクタヴィネルの寮生から借りたのだろうとすぐに納得し、袖を幾重にもまくっている彼女に黒のゴム手袋を渡した。
 まさか、その実験着の持ち主がフロイド・リーチだとは微塵も思ってもいない。クルーウェルは彼女に親切にも実験着を貸し与えた人物を「慈悲深い」と形容し、寮の精神に基づいた生徒もまだいたものだと感心しているが、貸したのはあの(、、)フロイドである。
 フロイドが慈悲深い少年だとは到底思えないナマエは肯定も否定もせずに曖昧な表情だけを浮かべ、貸してくれたのだから優しい子ではあるのかもしれないと思い直し、肯定も否定もせずに頷いておいた。
 実際のところは、フロイドが片割れや幼馴染以外の誰かに私物を貸すことはかなり珍しい。フロイドが彼女を気に入っていなければ、彼の片割れであるジェイド・リーチや幼馴染のアズール・アーシェングロットに「すげぇうぜーヤツいたぁ」とだけ伝えていただろう。むしろ、気まぐれなフロイドは自分が面白くないと思った者に対してはとことん興味をなくして一切関与しなくなる質であるため、彼の「すげぇうぜーヤツいたぁ」のほうがよっぽど関心を持たれているし、評価はどうであれ言及されるだけまだマシではある。にも関わらず、会って間もない少女に「もっと魔法見せて」とねだり、放課後もどこにいるかもわからぬ彼女を探し回った上に実験着を貸し出すなんて、実にフロイドらしくない行動だった。
 いくら思い返してみても、フロイドがナマエのことを気に入るような、それこそ琴線に触れるようなことはなにもしていない──それどころか、嫌われて当然の呪文を放った彼女も、フロイドの態度の変わりようには驚いている。昼休みは質問攻めにされ、放課後は魔法をねだられ、クルーウェルとの約束があるからと断れば残念そうに不平を言いながらも気を利かせて実験着まで貸してくれた。ナマエとて、こうも気に入られて嫌な気はしない。確かに最初の印象は最悪だったにしろ、神出鬼没の自分を放課後にも探し回り、あまつさえ「やっと見つけたあ」と満面の笑みを浮かべながら駆け寄られてしまえば、年下のフロイドがかわいく思えてしまってもおかしくはないだろう。年下、というだけでも元の世界に置いてきてしまった弟を思い出す彼女であるから、ナイトレイブンカレッジに通う年下の少年たちは元気盛りの小生意気な子どもにしか見えない。

「仔犬。課題で出していた薬草と毒草の名前、特徴、それらが調合されることでもたらされる効果については暗記してきたか?」
「はい、先生」
「よし、じゃあテストするぞ」

 クルーウェルはナマエに課題を出していた。新入生たちに課している暗記内容と同じではあるけれど、彼はどの教師よりも彼女の能力を買っている。自身が認めるほどに優秀であれば、数式も原理法則も用いない暗記など容易いだろう。
 だから、小テストはそこそこ難しくしている。
 基礎知識を忘れ始めているであろう二年生、三年生にも、満点を取れない者が多少いるかもしれない──その程度の難易度に設定した小テストだ。初歩の初歩レベルの問題では彼女もつまらないだろうと思っての思いやりではあったが、生徒に恐れられる所以たる手厳しいその優しさは遺憾なく発揮され、白い用紙一枚という形になってクルーウェルの手に納まっている。
 俺が「始め」と言ったらスタートだ、と告げた彼に頷いたナマエは実験台の下に収納されていた丸椅子を引きずり出し、難問の権化であるテスト用紙の前に腰かけた。始め、という合図と共に用紙を引っくり返して問題を読み込む彼女は集中しているようでずっと目を伏せたままだったが、ペンを手に取ると迷いなく解答欄に記入をしていく。
 迷いがないということはそれだけ記憶に自信があるということだ。感心したように顎に指を当ててその様子を眺めていたクルーウェルの期待を裏切らず、ナマエは最後まで解答し、用紙を彼に渡した。

「Good girl、やるな。正解だ。満点以外は許さんと思っていたが……これなら今日から特別レッスンを始められる」
「……よかったです」
「仔犬はなにが作りたいんだったか……ああ、酸素薬か。それなら、赤色のラベルが貼ってある瓶を持ってこい」

 すい、と手袋をはめた人差し指で右側の棚を指差したクルーウェルに、ナマエは表情を曇らせた。彼が初めて見るに等しいその困り顔は棚を見るや更に頼りなくなり、終いには眉まで下げたまま棚まで向かったものの、ずらりと並んだ瓶をキョロキョロと見ながら棚の前で固まっている。
 なにかがおかしい。まるで、どれがどれだか──色がわからないというような反応だ。
 もしかして、という可能性が頭をよぎったクルーウェルは棚を見上げているナマエのそばまで行き、ひとつの瓶を取り出して彼女の前にかざした。勘違いであればいいと思いながらも、確信めいた直感は未だに残っている。

「これが何色かわかるか」
「……」
「ミョウジ」
「……わかりません」

 ナマエ・ミョウジは色が見えない。あの日、死んでから、モノクロの色もない世界で生きている。これこそが五感のひとつ、視覚に生じた異常だったのだけれど、それを知っている者は一人もいない。味覚については察しがいいトレイに看破されてしまったものの、思わぬところで学園の教師であるクルーウェルに視覚の欠陥を知られてしまったのは彼女にとって痛手だった。
 だってどう考えても、己の身体は普通ではないのだから。
 瓶を棚に戻して腕を組んだ彼は彼女を見下ろし、「言いづらいと思うが、答えてくれ」と前置きして口を開く。

「異世界から来る前からか?」
「いえ、以前は普通に見えていました」
「普通に……世界を渡った代償か……? ……ならば、他に異常はないか?」
「他に……」
「ミョウジ。隠し事はなしだ。なにかあった時に対応が遅れるのはよくない」

 相手はたかだか十数年生きてきた学生ではない。社会に出て、酸いも甘いも味わってきた大人である。鋭く光る双眸を前に言い逃れられる自信も、嘘だとバレないような上手いことを言える自信もない。
 そもそも、クルーウェルの言葉は最もだ。彼は学園にいる大人としての責任を持たなければならない立場にあり、相応の危機管理能力をもって生徒を守らなければならない大人だ。いくら異分子といえど、学園に雇われている未成年のナマエがなにかしらの問題を起こしてしまった際に責任を問われるのは彼ら教師陣で、回避可能な、将来的には面倒事になりうることをみすみす見逃すのは得策ではない。
 そして彼女も、住む場所を提供してくれているナイトレイブンカレッジ側に迷惑をかけたいわけではないのだ。問題を起こすつもりはないにしても、雑用係として仕事をしている以上はその責任を持って仕事をしなければならず、世話をしてもらっている身としても、異常を来す可能性がある身体については遅かれ早かれ伝えなければならない事項だった。
 顔を上げると、クルーウェルの鋭く厳しい両目に射抜かれた彼女は降伏したというような調子で緩く首を振り、彼から目を逸らした。

「五感に欠陥があります」
「五感にか」
「はい」

 諦めて白状したナマエを、クルーウェルは今度こそ目を見開いて見下ろした。
 味覚は味が、視覚は色が、聴覚は小さな音が、嗅覚は強くない匂いが、触覚は痛覚や温度が。それらが、今のナマエにはまったくわからない。


  ◇


 気をつけて帰れよ、とクルーウェルに言われた通り、大人しくオンボロ寮に戻ったナマエはフロイドから借りた実験着を魔法で洗って乾かし、鏡舎を訪れていた。クルーウェルに五感のことを知られて憂鬱な気分になっているが、授業の必需品である実験着を借りっぱなしにしておくわけにもいかない。

「……」

 言ったのは五感に関することだけだ。
 すべてを包み隠さずに言ってしまったら病院に連れ去られ、無理やり検査を受けさせられる可能性もある。だから、言うべきではないことは言わなかった。ナマエがこの世界にいるためには、なにがあっても言ってはならない秘密だから。

「あれ、ナマエちゃんじゃん。なあにしてんの?」
「……フロイド。これを返したくて。ありがとう、助かったわ」
「わざわざ来てくれたんだ〜」

 ちょうどよく、オクタヴィネルの鏡から出てきたフロイドは実験着を腕に抱くナマエを見た途端に目を緩ませ、ニコニコと上機嫌に笑った。彼をよく知る同級生たちが見たなら珍しいと驚くであろう機嫌の良さは今の今まで保たれていたらしく、ちゃんと洗ってるから、とだけ伝えて素っ気なく戻ろうとするナマエの腕を掴んだフロイドはそのまま鏡に突っ込んだ。
 あなた、用事があって鏡舎にいたんじゃないの。わたしに構っていていいの──言いたいことなら山ほどあれど、離してくれる様子ではない。なにがなんだかわからないナマエはじたばたと暴れたが、フロイドの手は存外に優しく腕を掴んでいて、思わず力を抜いた彼女の耳元で「大丈夫だって」という間延びした声が聞こえてくる頃には海の中のような場所にいた。

「海の底にようこそ、ナマエちゃん」

 海の底とは、言い得て妙だった。ハーツラビュルがおとぎ話の仕掛け絵本、ポムフィオーレが洗練された美の博物館とするなら、オクタヴィネルは大自然に築き上げられた神秘の宮殿だ。巨大な貝殻を思わせる塔に、左右に渦を巻くような大きな岩がそびえ立つなだらかな階段、全体的に青っぽい灰白色の建物は海底に眠る太古の遺跡のようで、人の手には決して届きそうにもない美がある。
 ハーツラビュル寮やポムフィオーレ寮を訪れた時のように息を呑み、圧倒されているナマエを満足そうに見やったフロイドは首の裏で手を組み、「気に入ったの?」と笑った。

「ええ。綺麗……」
「そお? フツーじゃね。オレの故郷のがキレーだよ」
「故郷?」
「オレね、人魚なの。北の海の生まれなんだけどー、すっごいキレイだよ」
「人魚……!! あなた、人魚なの!?」
「ちょー食いつくじゃん」

 フロイドはウケる、と言ったあとに笑い声を上げた。彼にとっては当然のことでも、ナマエが知る人魚はホグワーツにいたマーピープル、いわゆる水中人で人の言葉は話さず、ましてや陸に上がって二本足で立ちも歩きもしない。ナイトレイブンカレッジの図書室に入り浸っている彼女も、ツイステッドワンダーランドには様々な人種が存在していると様々な歴史書や文献から知っていたが、本物の人魚と話をするのは初めてだ。多種多様な人種が在籍しているこの学園で、いつかは人魚や獣人と話をしてみたいと思いつつも、彼女が親しくしているハーツラビュルの面々は紛うことなき人間であったし、彼ら以外との面識がない彼女は人魚との会話は半ば諦めていた。
 が、今、目の前には人魚のフロイドがいる。生前から知的探究心の塊のような少女だったナマエの興味は目の前の人魚だけに注がれ、魔法を見せてとねだっていた数時間前のフロイドのように彼女の目はきらきらと期待で輝いている。
 聞きたいことはたくさんある。けれども、出会った当日に生態や文化などについて聞き出すのも不躾に思えて、知識欲求を無理やり抑え込んだナマエに、フロイドはキョトンとした顔で「ヘンな顔〜」と笑った。

「フロイド。買い出しはもう終わっ……おや、あなたは」

 フロイドが続けざまに喋る前に、第三者の声が響いた。

「アズールだあ、ねえ見て見て〜。ナマエちゃん連れてきちゃった」
「それはそれは……」

 オクタヴィネルの寮長、アズール・アーシェングロットは数分前に買い出しを頼んだはずの男が未だに寮内に留まっていたことに若干の苛立ちを覚えながらも声をかけたが、声をかけるまで背の高いフロイドの身体に隠れて見えていなかった少女が学園を騒がせている雑用係だと知るや、相好を崩した。なにせ、非常に便利な魔法を使う人間なんて利用価値が高すぎる。
 かねてより接触の機会を伺っていたアズールは一瞬で表向きの笑顔を作り、持っていた顧客リストを左手に持ち直して恭しく右手を差し出した。フロイドが彼女と遊んだと言っていた時はでかしたと思っていたが、まさか根城であるオクタヴィネル寮まで連れてきてくれるとは非常に都合がいい。

「お会いできて光栄です、ナマエさん。私はオクタヴィネルの寮長、アズール・アーシェングロットと申します。今日はうちのフロイドがお世話になったようで」
「い、いえ……」

 態度も、言葉も、ナマエがナイトレイブンカレッジで出会ってきた誰よりも礼儀正しい。見本のように礼儀正しいのだけれど、どうにも胡散臭くて彼女はアズールの手を取るのも躊躇いそうになった。
 その胡散臭いアズールを見慣れているフロイドは極限まで猫を被って“私”と自称する彼に吹き出しそうになっている。しかし笑えば、睨みつけられて後々怒られるとわかっているので、この面白いアズールをもっと楽しみたいフロイドは大人しく口を噤んだ。

「そうだ、これもなにかの縁です。ナマエさんさえよろしければ私が支配人を務めるカフェにご案内いたしますよ」
「え〜マジ? じゃあオレもナマエちゃんといる〜」
「お前は買い出しに……いや、そうですね。ここはフロイドに任せましょう」

 フロイドとナマエが仲良くなったと言うのなら、少しでも認識のあるフロイドを彼女のそばに置いたほうが警戒心が緩み、交渉がしやすくなる。上手くいけば契約だって結べるかもしれない──と、ひっそり笑ったアズールの狙いに気づかないフロイドではなかったが、ナマエはわけのわからない魔法を使う、今まで出会ったこともない類の人間だ。魔法を使ってと頼めばまた遊んでくれるかもしれない、という打算からアズールには口答えせずに「はぁい」とかわい子ぶって頷いた。

「ようこそいらっしゃいました、モストロ・ラウンジへ」

 ナマエがついていった先で、アズールが開けた扉の向こうにはシャンデリアが深海のような雰囲気の店内を照らしていた。黒の革張りのソファに、白い低めのテーブル、一人掛け用のバーカウンターは学園内の施設とは思えず、入るのも尻込みしてしまうナマエの背を、フロイドが「入って入って」と急かす。

「いかがです、お気に召しましたか?」
「すごいです……」

 反応は上々。またしてもニヤリと笑ったアズールは彼女をエスコートし、すでに開店準備を始めている店内を突き抜けてVIPルームへと案内した。アズールやフロイドがいなくても回せるように寮生を教育しているため、そのあたりの心配はしていない。
 VIPルームの壁に埋め込まれた棚には本が並び、その下から覗く水槽には珊瑚やイソギンチャクが見えている。先ほど見たカフェ内よりもシンプルな造りの部屋ではあるが、やはり水族館のようで綺麗だ。

「是非ともあなたとお話がしたいと思っていたんですよ、私は」
「そうなんですか……。あなたも人魚なんですか?」
「え? ええ、まあ……そうですが」

 アズールに促されるままソファに腰かけたナマエに先手を打たれてしまい、内心舌打ちを打ったアズールだったものの、話を続けようとする彼を遮ってフロイドが口を開いた。

「アズールはタコの人魚だよ」
「フロイド! 余計なことを──」

 己がなんの人魚であるかなんて、交渉の席ではまさにどうでもいい。タコである自分に少なからずコンプレックスを抱えているから、というのもひとつの理由であるが、声を張り上げたアズールの言葉は途中で切れた。
 他の誰でもない、ナマエによって。

「タコなの!? すごいわ……!!」
「え……っ」
「だって海では八本足じゃない? どうやって足を……そうだった、薬を飲むのよね?」
「お、落ち着いてください、ナマエさん」

 両目を輝かせているナマエは身を乗り出し、欲求が赴くままにアズールに質問を繰り返した。だってもう限界だったのだ。ずっと話してみたかった人魚だなんて、ずっと知りたくてたまらなかった人魚だなんて、彼らを前にすれば彼女の理性は風前の灯火のように呆気なく消し飛ばされる。

「お、おち……あの、ナマエさん」
「ブハッ……! アズール、茹でタコちゃんになってんじゃん!! ウケる!!」

 ──顔が、近い。近すぎる。これでは、交渉どころではない。
 ナマエの質問攻めにアズールがしどろもどろになるのと、フロイドがその様子に勢いよく吹き出すのは、ほとんど同時だった。


<< >>

INDEX
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -