LEFT BEHIND 14


「ミスター・アーシェングロットがタコの人魚ということは……」
「ナマエさん、落ち着いてください」

 アズール・アーシェングロットは目の前の少女の圧に押されて困り果てていた。人魚の生態、文化や習慣、食文化などについて、飽きることなく聞くナマエの瞳には純粋な好奇心が光っている。
 これではさすがにまずい。いつになく焦るアズールはいつまでも笑っているフロイドにあれこれとそれらしい理由をつけて追い出し、大きく咳払いした。他人のペースには決して流されないアズールが交渉相手に下手に出るのも珍しいことではあるが、会話の主導権は握らなければ交渉が上手くいかない。背に腹はかえられぬと、仕方なく「落ち着いてください」と頼めば、それまでアズールのほうに身を乗り出していたナマエは小さく声を漏らし、口元を手で抑えると眉を下げて謝った。

「ごめんなさい、わたしったら……」
「いいえ、あなたが噂通りに知的好奇心旺盛な方だとわかりましたから。聞くところによると、あなたは不思議な魔法を使うそうじゃありませんか」
「不思議でもないと思いますが……」

 フロイドの話によると、意思とは関係なしに踊らせ、浮遊させ、杖からは花や水を出したと言う。精神と肉体のどちらに干渉する魔法なのか不明だが、ユニーク魔法と言っても差し支えないレベルの魔法を多数使っておきながら、不思議じゃなかったらなんなのか、とアズールは思う。
 自身の前に腰かけている少女は黒いローブに身を包んでいると言えど、やはり身体つきは華奢だ。華やかながら儚げな顔立ちは学園の生徒たちが噂をするだけあって愛らしく、知的でありながらおっとりとしていそうな温和な面持ちはいかにも“世間知らずなお嬢さん”という印象を受ける。そんなイメージはひと月後には瓦解してしまうのだが、そんな未来を知るはずもないアズールはどうやって利用してやろうかと考えを巡らせた。

「お待たせ〜、これでいいんでしょ?」
「フロイド。ノックぐらいしろといつも……まあいいです。さ、ナマエさんもどうぞ召し上がってください」

「甘いものを持ってきなさい」と先ほどアズールに体よく追い出されたフロイドは、言われた通りにモストロ・ラウンジで提供しているケーキとドリンクを持ってきた。透き通る海のようなスカイブルーのジェリーが乗ったケーキに、白と水色のスムージーが層になっているドリンクはカフェでも人気のメニューだ。本来の色はわからなくても、おいしそうだとは思う。ナマエはケーキセットを凝視した。
「ねえ、なんの話してたの?」ナマエを驚かせたくて通常より少し豪華に飾ってみたフロイドは、子どものように両目を輝かせている彼女を見て満足そうに笑った。
 ノックをしろと咎めても聞く耳を持たない自由人にやれやれと肩を竦めたアズールの耳に、今度はしっかりとノックの音が届く。今度はなんだと思う暇もなく扉がゆっくりと開かれ、姿を見せたのはフロイドの片割れの少年だった。

「お前も挨拶に?」
「ええ。フロイドが随分とお世話になったそうなので」
「そうですか」

 ジェイドがいたほうが円滑に取引が進み、フロイドの世話も焼いてくれるとわかっているため、特に言うことはない。むしろ、このタイミングで来てくれてよかった。フロイドが暴走しても「おやおや、ふふ」で済ませるような男ではあるが、今日の客はアズールが以前から狙っていた少女だ。なにも察せられないほど馬鹿ではあるまい。今日ばかりはフロイドの手網を握ってもらう。

「はじめまして、僕はジェイド・リーチと申します。フロイドと仲良くしてくださったそうで?」
「はじめまして。……ミスター・リーチはフロイドのご兄弟の方?」
「僕のことはどうぞジェイドとお呼びください。フロイドとは双子なので」
「双子……人魚……」
「さあナマエさん、自慢のメニューですので遠慮なく召し上がってください」

 ジェイドの自己紹介を聞いてぶつぶつと呟いているナマエにいやな予感がしたアズールは実食を勧め、ニッコリと笑った。さっきのように質問攻めが始まってはたまらない。

「……ありがとうございます」

 女性が喜ぶだろうと用意されたケーキを前に、ナマエは少しばかり困ったような表情を浮かべ、フォークを手に取った。フロイドが用意してくれたものをおいしく食べられないことが申し訳なく、トレイと同じように見破られてしまうのではないかという不安でフォークを持つ手がちょっとだけ震えている。どうか気づかないでほしいと思いながら、丸いケーキにフォークを差し、柔らかいムースに沈んでいく銀色を今にも断罪される罪人のような気持ちで彼女は眺めていた。
 一口分のケーキを乗せたフォークを口元まで持っていても匂いなんてわからない。そしておそらく、口に入れてもどんな味がするかもわからない。

「……っ」
「え、ナニナニ。どうしたのナマエちゃん」
「な、なにか……」

 半ば諦めて口内に放り込み、ナマエの感想を待つフロイドの視線から逃れるように噛んでいた彼女だったが、すぐに目を見開いて固まった。過剰なその驚きように隣に座っているフロイドだけではなくアズールやジェイドも首を傾げ、口ごもる彼女の言葉を待っている。
 まさか注目を集めているとも知らないナマエは二口目を食べ、一口目よりもゆっくりと咀嚼した。食べたケーキが甘いような、そんな気がするのだ。

「甘い……」
「ええー? 甘いのニガテなの?」
「いいえ、とってもおいしいわ」

 確かな甘さを感じるわけではない。けれど、微々たる甘みは確かに舌に乗っている。無味にも近しい甘さだったが、気のせいではない。
 だから、面白くなさそうにぶすくれるフロイドに向けたのは嘘偽りのない言葉だった。

「ほんとー? それね、オレが作ったんだよ」
「これを? すごいわ、フロイド」
「だからまたフワフワってなるやつやってよ」
「ええ、もちろん」

 なにを見せられているんだ、僕らは。なにを見せられているんでしょうねえ、僕たち。
 目線だけで会話を交わしたアズールとジェイドは姉と弟のように戯れる二人を物珍しげに見つめ、なんのためにVIPルームまでナマエを連れてきたのかを思い出したアズールが話を切り出したが、話せども話せども話題はあちこちに転がり、気づけば異世界の魔法の話に彼自身が夢中になっている始末だった。
 成績優秀なアズールにジェイド、天才肌のフロイドは彼女が使う魔法に興味を示し、彼女もまた人魚という種族である彼らに興味を示す──そんなサイクルができあがった。

「では、僕たちが人魚界の話をする対価に、あなたにもお手伝いをしていただくということでよろしいですね?」
「ええ。過去百年分の試験の傾向を調べればいいのよね?」
「簡単そうに言っていますが、かなり骨が折れる作業ですよ」
「大変な仕事は好きよ」

 初手の取引は、アズールたち三人がナマエに人魚の話をする代わりにナマエには手伝いをしてもらう、という内容でお互いに了承した。話をすればいいだけのアズールに比べるとナマエの労力が大きすぎるが、なにも考えずに作業に没頭する時間が欲しい彼女は破格の取引内容を二つ返事で受け入れ、「さすがに釣り合わない」と宣うアズールの申し出も断った。最初の条件を厳しくすることで、次に提示する易しめの条件を相手に飲ませやすくする──その手法としてまず最初に釣り合わない契約内容を提示したアズールだったものの、初っ端から頷かれてしまうとは誰が思うだろうか。

「それはまあ、なんと物好きな……僕としては喜ばしいですが」

 大変な仕事を好むなんてワーカホリックの気でもあるのではないか。比較的自由人に囲まれて育ったアズールはナマエのその部分に関してはいまいち信じられなかったし理解できないが、彼女がやると言うのなら有難く利用させてもらうだけのみである。

「試験百年分の傾向なんて、なにに使うの?」

 VIPルームから出る直前、ナマエはアズールに聞いた。けれどアズールはやっぱり胡散臭く笑って、人好きのする笑みで口を開く。道化師のように楽しげに、宣教師のように恭しく。

「今はまだ、秘密ですよ」

 対策ノート改訂版。それを作るためだとは知らずに、ナマエは不思議そうに瞬きを繰り返した。


  ◇


 アズールと契約を結んだ後日、占星術担当の教師に過去十年分の星図を持ってくるように頼まれ、ナマエは望遠鏡が置いてある展望室を訪れた。星々の動きを観察し、輝きが導くところによりその結果を導き出す占星術は、ホグワーツの占い学に似通うところもあるが、ナイトレイブンカレッジの占星術のほうが正確性はあるように思う。それは、占い学の教授の授業が信用するに値しないと思っていたからなのかもしれない、と思いつつ、彼女は壁一面の本棚を見上げた。
 頻繁に使用されているはずなのに埃臭い室内の壁はガラス張りで、肌寒い秋でも植物園内のように温かい。もちろん、温度を感知できない彼女はそれを知らないのだけれど、杖を振って棚に眠っている星図を取り出し、適当に埃を払って両腕に抱えた。お目当てのものを手に入れ、あとはもう占星術の教師に渡すだけだ。
 くるりと回って一回転、次に足を地面につける頃には目的地に着いている。

「うわっ!?」
「あ……!」

 瞬間移動した先には、先客がいたらしい。
 人目のない場所──生徒があまり寄り付かない、死角となるような柱からほど近い職員室へと向かう算段でそこに“姿現し”た彼女は先客がいるとも知らずに、その場に現れてしまった。声を上げた生徒はかなり驚いたようで、手に持っていたマジカルペンを落とした。魔法石の色は黄色、つまりはサバナクローの生徒。
 茶色っぽい、海賊の宝の地図のような大量の星図を落としてしまったナマエは慌てて彼のペンを拾い上げ、大きな耳をぺたんと伏せている少年に「ごめんなさい」と謝りながらそれを返した。いきなり現れた彼女に警戒しているらしい彼の耳は相変わらず垂れたままで、幼い顔にも警戒心が滲んでいる。

 やってしまったわ。

 まさかこんなところに生徒がいるとは思っていなかったとはいえ、いきなり人間が姿を見せたら誰だって驚くだろう。出現する場所はまた考えれなければと反省するナマエの手からペンを受け取った少年は彼女を責めることもなく口を開いた。

「どもッス。まさか人が来るなんて思ってなかったッスよ」
「驚かせてすみません。お怪我は?」
「いんや、別に? アンタ、雑用係の人ッスよね。教材そんなに落としちゃ……おお」
「大丈夫、気になさらないでください」

 星図を拾おうと屈もうとした少年の前で杖を振る。すると星図の一枚一枚は勝手に寄せ集められ、ナマエの腕の中に綺麗に再び収まった。
 少年──ラギー・ブッチは大きな耳をぴるぴると震わせ、便利な魔法に目を奪われている。こんな魔法が使えればスリも盗みもやり放題、上手くいけばビジネスにだってなるだろう。金銭にがめついラギーは有益そうな魔法を目の当たりにしてその力を羨ましく思ったものの、初対面の彼女に「ちょーっと組んで一儲けしません?」とはさすがに言えなかった。そのくらいの判断力は鈍っていない。そもそも、見るからに箱入り娘らしい見た目をしている彼女が金儲けのためにラギーに手を貸すとも思えない。
 雑用係のナマエ・ミョウジはナイトレイブンカレッジにいる唯一の雌だ。こんな学園にいちゃいい獲物になりそうだってのに、と思いこそすれ、ラギーは哀れな彼女に対して同情したり心配したりはしない。彼と彼女はしょせんは赤の他人で、この非力そうな少女がどうなろうと彼には関係ないのだ。彼が生きてきた弱肉強食の世界では、弱者は淘汰されて当然なのだから。

「植物園で会ったッスよね」
「植物園? ああ、そういえば……」

 ふーん、記憶力も悪くない。
 ラギーは少し感心しながらも、補習を言い渡されてもなお植物園でサボっていたレオナを無理やり連れ出した日のことを思い出す。植物園を出たあと、レオナは機嫌の悪さを隠さないままに呟いていたのだ。「匂いがしないなんて普通じゃねぇ」と。

「……匂いがしない、ねぇ」

 ラギーの独り言は小さな音を聞き取れないナマエの耳には届かなかった。
 レオナの言う通りだ。生き物は生きていても死んでいてもなにかしらの匂いがする。貧しい生まれであったラギーはあらゆる獣人や人間の死の匂いさえ嗅いだことがあるが、匂いがしない生き物とは会ったことがない。だから、匂いがしないなんておかしいのだ。
 おかしいのに、彼女からはほんのりと死の匂いがする気がした。生きている匂いはしないけれど、死人の匂いはほんのかすかにした気がして、表現し難い不気味さを感じたラギーは口を噤む。
 生きながらに死んでいるなんて、有り得ない。
 もう一度だけ頭を下げ、慌ただしく去っていくナマエの後ろ姿を見送ったラギーは垂れた大きな目をゆるりと細め、シシシッ、と変わった笑い声を上げる。

「ふーん、なるほどね。あれは確かに、変わってるッスねぇ」

 まぁ、あんないい子ちゃん、今後関わらないッスけど。
 マジカルペンを手の上で巧みに回転させたラギーは誰にも聞こえない声量、誰にも見つからない場所で小さく唱えた。

愚者の行進(ラフ・ウィズ・ミー)

 近くの階段が、一層騒がしくなった。


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