LEFT BEHIND 11


 リドルのオーバーブロット事件から数日、ハーツラビュル寮だけではなく学園全体が平穏に満ちていた。ハーツラビュルの面々とそれなりに親しくなったナマエも例に漏れず穏やかな日々を過ごしていたが、困ったことにいわゆる不良たちに絡まれるようになってしまっていた。
 年頃のかわいい少女。黒いローブを着ているため身体のラインはあまりわからないものの、華奢な身体つきは健全な少年たちの劣情を煽るには十分だった。

「ナマエちゃん、俺らとも遊んでよ」
「ハーツラビュルの奴らとは仲良くしてるみたいだしさァ」

 資料を腕に抱いているナマエの前に立ち塞がっているのは三年のサバナクロー寮生だ。正直邪魔だが大切な資料を抱えている手前、杖を振るうことはできない。杖なしで呪文を唱えることも理論的には不可能ではないが、口にした呪文とはまったく違う効果の魔法が飛び出してしまったり、そもそも使えなかったりするため現実離れした集中力と技術を要する。つまり、若い魔女であるナマエには実質不可能だ。腕が自由だったなら〈ステューピファイ〉や〈タラントアレグラ〉を遠慮なく使っただろう。
 では姿をくらますのはどうかと言うと、運が悪いことに彼女の目的地は不良たちに絡まれている真っ最中のここ──資料室であったため、資料を持ったまま姿をくらましたところで与えられた仕事を終わらせることができないのだ。
 どうやって逃げるか考え込んでいるナマエの様子に、怯えられていると勘違いしたらしい生徒たちは野太い笑い声を出した。礼儀も作法もなっていないならず者に、彼女の表情が更に強ばる。

「可哀想じゃん、怯えてんだろ」
「オレが慰めてやるからいいんだよ!」
「無理無理。俺のほうが優しいよ、ナマエちゃん」

 一人、ナマエの腕を掴んだ。最初から運が悪かったが、更に最悪なことに掴まれたのは彼女の杖腕──腕を振るう利き腕だった。クルーウェルから片付けるように頼まれた資料を落としてしまった上に、ローブから杖を取り出すこともできない。姿をくらましてもいいが、腕を掴まれたまま姿をくらませば不愉快なこの男もクルーウェルの前に連れていかなければならなくなる。それはそれで楽しそうだと思うものの。

「……離してください」
「かっわいー、震えてんじゃん」

 ナマエは魔法が使えなければただの少女だった。男に抗えるほどの腕力はなく、自身を守ってくれる後ろ盾もない。膝が震えて今にも座り込んでしまいそうだったが、弱さを見せてしまったらこの手の男たちはもっとつけあがるだろう。彼女は奥歯を噛んで耐えた。
 いっそ、鷲になって怯ませた隙に姿をくらましてしまおうか。そのくらいの案しか頭に浮かばなかったナマエは変身しようとしたが、その直前に資料室の扉が勢いよく開き、不良の一人が彼女の目の前で横に飛んだ。

「オラァァア!!」
「な、なんだこいつ!!」
「女に手ェ出してんじゃねぇぞ!! ダッセェな!!」
「んだと!? 一年のくせに調子乗ってんじゃねぇ!!」
「男なら正々堂々と口説けや、ダァホが!!」
「いってぇ……!! こいつ、強いぞ!!」

 先輩であるはずの男たちを殴り飛ばしながらガンつけるデュース・スペードの姿は、ナマエが知っているデュースと同一人物とは思えなかった。控えめで、大人しくて、真面目そうで──優等生だとばかり思っていた彼のイメージが崩壊していく。
 もしかして二重人格なのかしら。
 助けられている状況だというのに、彼女は鬼神のごとく拳を振るうデュースに呆気に取られていた。次から次へと薙ぎ倒していく彼の手は返り血で汚れ、額には青筋が浮いている。

「とっとと来いよオラァ!!」

 デュース・スペード、十六歳。力が弱い女や子どもに手を出す輩を許せない硬派な元ヤンである。
 数分もしないうちに男たちは地に沈んだ。シャツにも血が飛んでしまっているデュースは肩で息をしているが、怪我はない。

「ミスター・スペード」
「は……っ!! 俺はまた……!!」
「ごめんなさい、わたしのせいで嫌なことをさせてしまったわ」
「い、いや……ミョウジさんが無事ならいいっす」
「……どっちが本当のあなた?」

 口を閉ざし、赤く濡れている拳を見下ろしたデュースは悔しげに唇を噛んだ。

「俺、中学の頃は不良だったんです」
「そうなの?」
「っす。恥ずかしい話ですけど……どうしても、ここでは優等生になりたくて俺なりに頑張ってました。でも、上手くいかねぇことばっかで」
「……」
「すみません、ミョウジさんを助けたことは後悔してません。こいつらが悪いってわかってます。だけど」
「スコージファイ」
「き、消えた……」

 拳やシャツに着いていた血糊が綺麗に消え去り、デュースは驚いた様子で拳とナマエを見比べ、無邪気に目を輝かせた。ちょっとだけ、彼女があちらの世界に置いてけぼりにしてしまった生意気で優しい弟に似ている。

「ありがとう、デュース。本当に怖かったの。あなたが来てくれるまですごく怖くて膝が震えてたのよ」
「……いや、」
「ありがとう。紳士的で優しいあなたも素敵だけど、今のあなたもとても素敵だと思うわ」

 う、と言葉を詰まらせ、デュースは頬を赤くして視線を彷徨わせた。

「これ、拾いますね!」

 自身の目をまっすぐ見つめるナマエの目から逃げ出す口実を見つけたとばかりに、デュースは屈んで資料を拾い集めた。表紙やページが所々折れ曲がってしまっているものの、修復呪文を唱えれば綺麗に直るだろう。

「そういえば、どうしてここに?」
「クルーウェル先生に頼まれたんです。遅いから様子を見てきてくれって」
「心配してくださったのね」

 クルーウェルが心配するのも尤もな話だ。ナマエは遅くても五分ほどで作業を終わらせて彼のもとに“姿現す”ため、仕事が早く真面目な彼女が30分も留守にしていたらそれはそれで心配になるだろう。

「よかったです。ミョウジさんが無事で」

 資料を棚にしまう作業まで手伝い始めたデュースはそれまでナマエに使っていた堅苦しい口調ではなく気の置けない友人と会話するような声色で呟いた。

「なにかお礼するわ。なにがいい?」
「いや、そんなこと気にしないでください」
「ダメよ。人を殴ったら痛いでしょう。お礼はさせて」
「……わかりました」
「照れてるの?」
「はっ!?」
「嘘よ。デュースはなんだか弟みたいで懐かしいわ」
「弟……ミョウジさん、弟さんいるんですか?」
「ええ。生意気だけど」
「お、俺って生意気ですか!?」
「デュースはいい子だわ。あの子は少し素直じゃないの」

 笑っているナマエは気絶している男たちに杖を向けると「オブリビエイト(忘れよ)」と唱えた。彼らが目覚めた時に言いがかりをつけられても困る。あまつさえ、自身を助けてくれたデュースまで彼らの目の敵にされてしまってはあんまりだ。

「? ……なにしたんですか?」
「記憶を消したの。また喧嘩を吹っ掛けられても面倒でしょ?」
「……記憶も消せるんですか?」
「優秀な魔法使いなら記憶すべてを消せる。わたしには無理だけどね」
「えっ」

 クルーウェルには生徒たちが喧嘩していてそれに巻き込まれたと説明すればいいだろう。ナマエは危害を加えようとした者たちに治療を施してあげるほど善人ではないし、自身にとって都合が悪い案件であれば黙秘を決め込む強かさがある。言わずもがなで底意地の悪いスリザリン生や、スリザリンに引けを取らないほどに性格が悪いレイブンクロー生たちに伊達に揉まれていないのだ。

「ミョウジさん、クルーウェル先生のところまで送ります」
「結構よ。わたしならすぐ戻れるから」
「でも、ミョウジさんが変な輩にまた絡まれたら僕が怒られます」
「……じゃあ、お願いしようかしら」

 資料を片付け終えたナマエとデュースは資料室から出てクルーウェルがいる職員室に向かって歩いていく。話題の少女を引き連れていることで必然的にデュースに視線が集まるが、残念ながら彼はそういった羨望の眼差しには疎かった。
 売られた喧嘩は買ってやんよ。どこからでもかかってこい──元不良たる血が騒いだデュースはナマエの隣で指をポキポキと鳴らしてこちらをチラチラと見てくる生徒たちにガンつけようとしたが、「デュース、ナマエ」という聞き慣れた声により正気に戻った。デュースは腕を下ろし、彼を真似るようにナマエも後方を振り返る。するとデュースの肩にケイトの腕が回り、呆れ顔のトレイは仲睦まじい先輩後輩らしくしている彼らに視線を向け、次いでナマエを見た。

「ナマエの仕事は終わったのか?」
「ええ。ついさっきね」
「二人で放課後デート? やるね〜、デュースちゃん」
「なっ……違いますよ!!」
「こーら、後輩をからかうんじゃない。ナマエをパーティーに誘おうって話だっただろ?」
「あっ、そうだったそうだった」

 いっけなーい、と笑ったケイトはデュースから離れ、八重歯を覗かせながら笑った。

「ナマエちゃんも来なよ、『なんでもない日』のパーティー」
「……どうして?」
「ナマエには色々と世話になったからな。リドルも是非って言ってたぞ」

 彼女が薔薇の迷路でできたことと言えば、監督生のために防衛呪文を唱え、オーバーブロットを起こしたリドルと対戦する彼らのサポートをほんの少ししただけだ。事件が解決したあとの後片付けに関しても、学園の雑用係たる職務を全うした、それだけの話である。
 しかし、断りを入れようと三年生二人を見上げたナマエに追い打ちをかけて逃げ場をなくしたのは意外にもデュースだった。

「そういえば、監督生がミョウジさんも連れてきてほしいって言ってたな。自分が言っても絶対来てくれないからって」

 ──ハーツラビュルのパーティー、ナマエさんも来ませんか?
 一昨日の夜に誘われた気がしないでもないが、いつものように夜の散歩に出かけたナマエの記憶からはすっかりと抜け落ちていた。
 彼女は監督生に弱い。魔力もなく魔法も使えない少年を手ずから守ってあげようと思うくらいには。
 その自覚も、これから更にそうなっていく予感もある。だから彼とは距離を置きたいと思っているのに、監督生という少年は存外に頑固で気が強い。

「なーんか怪しくない? 監督生ちゃんとナマエちゃん、あの日から仲良さげって言うかさー」
「それはわかるな。いつの間に仲良くなったんだ?」
「……そう?」
「俺らなんて初対面でミスターだし、言わないとずっと敬語で喋ってただろ?」
「わたしの国では礼儀を弁えるのが普通なの。馴れ馴れしい人は嫌われるわ」

 ああ、それで。トレイが心得顔で頷く。

「道理でリリアが苦手なんだな」
「ふぅん、あなたも彼のことは馴れ馴れしいと思ってるのね?」
「よしてくれ。言葉のあやだ」

 トレイはナマエの皮肉も笑っていなした。彼女も詮ないことで話を続ける気はないらしく、彼らを置いて長い廊下を歩く。

「ミョウジさん、待ってくださ──え?」

 彼女が角を曲がって夕日が射してオレンジ色に染まる渡り廊下に差しかかった刹那、息を呑んだのは果たして誰だっただろうか。のっぺりと縦に伸びる三人分の影法師が一様に固まり、彼らが見ている光景の非現実さをより引き立てる。
 のびる、伸びる、細長い影。
 けれど、そこには三人分の影しかない。
 目玉がこぼれ落ちそうな勢いで両目を見開き、ぽかんと口を開けている彼らに気づかないナマエではない。振り返った彼女は今までにないほど穏やかに、そして寂しげに微笑んだ。

「元いた世界に忘れてきちゃったみたいね」

 ローブの裾は揺れるのに、それに呼応する彼女の影はなかった。

「わ、忘れたって……」
「忘れたの。きっとね。いつから影がなかったのかなんてわからないけど、わたしも気づいたのは最近よ。夜が近づくと、なぜか影が消えるの」

 地平線から黄金の光が射し込む時、ナマエの影は悪魔の囁きのような風に攫われ、薄れ、やがて失われる。
 人ならざる恐ろしい怪物は夜に動き出し、人を喰らわんと活発化すると、太古より信じられてきた。夜には魔物が棲み、黄金の光を切り裂いて訪れる夜は神の救済すらも届かない領域ともされている。
 ナイトレイブンカレッジにいる誰よりも、そしてこの世に未練があるゴーストよりも、途方もなく死に近い少女は夜に抱かれて人ではない生き物になる。
 死んだことを忘れるな。夜が音もなく訪れる度に、見えもしない影が嗤う気がしていた。

「別になんともないからそんなに暗い顔をしないで。それとも、怖い?」

 からかうような口調で笑ったナマエは三人の顔を見ることなく廊下を突き進んでいく。軽やかな歩調で離れていっているはずなのに、彼らの言葉を拒むような冷たさが小さなその背中にはあった。
 彼女と出会った時から抱いていた確かな違和感と、気を抜いたらどこかに消えてしまいそうな漠然とした不安。トレイは自分自身にもわからない正体不明の衝動に突き動かされ、一歩先を歩く彼女の肩を掴んだ。

「ナマエ」
「なに?」
「お前、なにか隠してないか?」
「なにを? わたし、なにも隠してないわ」

 だったらなんで、と言いたくなるのを我慢して、目を瞑ってもう一度開いたトレイは至って冷静に口を開いた。

「味覚、本当はないんだろ」

 魔法薬を頭から被った時、彼女はケロリとした様子で姿を消した。そして二回目──トレイのドゥードゥル・スートで糖蜜タルトの味に上書きした苺タルトを食べた時、おいしいと言った。
 ナマエは数回瞬きをしておかしそうに笑う。そんなわけないじゃない、と今にも言い出しそうな笑い声だ。だが、トレイには確信がある。

「酸素薬はかなり苦くて不味い薬だ。いきなり被って平気でいられるような代物じゃない。それに、苺タルトは糖蜜タルトの味になんか変えてない。あれは、色々な料理や甘いものを混ぜたものだ。その味は俺にも想像できないが……相当酷かったと思うぞ」
「それだけで判断するなんて早計じゃないかしら? 用意してもらった手前、不味いだなんて言えない。黙っていただけ」
「……そうか」

 引っかかったな。
 トレイは眼鏡の奥で目を細め、即席で仕掛けた罠に容易くかかったナマエに余裕の笑みを見せる。冷静で聡い彼女に揺さぶりをかけるなら今しかない。

「嘘だよ、全部」
「え……?」
「ちゃんと糖蜜タルトの味に上書きしといたはずなんだがな。ナマエは好物を『不味い』って言うのか?」
「どっちなの」
「さあ? ナマエが不味いと思ったら不味いし、そうじゃないならそうじゃないだろ?」
「……謀ったわね」
「まさか」

 事実、トレイは糖蜜タルト味ではなく極東の国のナットウという発酵食品味に上書きしていたのだが、それを知るのは彼のみだ。
 はめられたとナマエが気づいた時には手遅れだった。今回はトレイが一枚上手だった、そう言わざるを得ない。憎々しげに唇を噛んでいる彼女はトレイを睨みつけたものの、肝心の彼は心配そうに彼女を見つめ返すだけだ。

「あのさ、どういうこと?」
「……この話、僕も聞いてよかったんですか」

 状況がよくわかっていないケイトとデュースはおろおろと戸惑っている。

「わからない」

 なにも、彼女はわからない。
 ツイステッドワンダーランドで目を覚ましたその日から、ナマエには五感の働きが生前よりも遥かに鈍っていた。たとえば、聴覚。意識がなにかひとつに向くと音が拾えなくなり、視界に映っていないものが発する音声は聞き取りづらい。
 また、異常をきたしているのは五感だけではない。空腹を感じることも渇きを覚えることもなく、様々な生命活動はストップしてしまっていた。

 本当は死んでいるの、なんて言いたくない。

 彼女は杖を持ち、彼らに向けた。仮にここが現実世界だとして、そしてそれを受け入れかけているとして、この世界の住人には隠しおおすと決めている。死んだと言ったところで生き返るわけではないし、同情されても虚しくなるだけだ。

「夢だもの。味なんてわからなくて当たり前だわ」

 すべてが夢だ。死んだあとの、長い夢。そうやって思い込んで目の前にある現実から目を逸らしてしまえば、なにかを考えなくても楽だった。悪夢はいずれ終わる。いつかは夜が明けて朝が来る。
 いっそ、忘れさせてしまおうか。忘れさせて、逃げてしまおうか。オブリビエイト、と唱えればナマエと彼らは赤の他人に逆戻りできる。
 けれど、記憶を消してしまうのは寂しい、惜しい──こんな短期間でも彼らに情が移っている自分にナマエは驚いた。
 彼女は動けずにいる。彼女に対峙する三人は示し合わせたように顔を見合わせた。

「夢じゃないよ、ナマエちゃん。ぜーんぶホンモノ。なんかよくわかんない事情があるみたいだけどさー。こうして仲良くなれたのに夢って言われるのはさびしーよ」
「確かに……僕も切ないです」

 気づいたら、一人きりで立っていたナマエのそばには三つの影が寄り添っていた。彼女の手から滑り落ちた杖は床の上を転がり、拾おうとする前に涙がこぼれた。
 死んで欠陥だらけの身体になったくせに、涙だけは流れるなんて変な体質だと思いながらも目を擦るナマエの頭にトレイの手が乗る。

「……困ったな。俺らは女の子に泣かれてもどうすればいいかわからないぞ。男子校だしな」
「うっわー。トレイくん、感動的なこのシーンでそれ言う? ほら、ナマエちゃん。今からデュースちゃんが一発芸して笑わせてくれるよ」
「はっ……!? 俺ですか!?」

 苦笑いのトレイに、後輩で遊ぶケイトに、騒ぐデュース。友達とじゃれて笑い合っていた日々を思い出して、ナマエはまた泣いた。でも、その涙には侘しい悲しみの他に温もりもある。
 夜になると消えてしまう影や明らかに作りが変わってしまった身体など、考えなければならないことはたくさんある。
 けれど、今だけはこの世界でできた友人たちと笑っていたかった。友人、と呼んでもいいのだろうか。

「え〜、ナマエちゃんも見たいよね? デュースちゃんの一発芸」
「うん、見たいわ」
「ミョウジさんまで……」

 余談だが、結局ケイトに押しきられてクルーウェルのモノマネをしたデュースは運悪く本人に見られて躾られたそうだ。


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