LEFT BEHIND 09


 鼻につくようなペンキの臭いが漂う薔薇の迷路は異様な空気に包まれていた。誰もがこれから催される決闘に騒ぎ、ハーツラビュル寮寮生で溢れかえっている空間では明らかに浮いている監督生を誰も気にとめない。

「……ナマエさん、大丈夫かな」
「アイツが平気って言ってるんなら平気なんだゾ」

 校舎の掃除を頼まれている、と言って休日返上で仕事に向かったナマエはその場にはいなかった。昨日──図書室でエースとデュースがリドルに決闘を挑むと決意したあと、クロウリーは彼女に「貴方にどうしても頼みたい」とお願いしていたのだ。
 今頃、ナマエは西校舎の掃除をしているだろう。監督生は汗の滲む手を握りしめ、リドルと対峙するエースとデュースを一心に見守る。勝てば寮長に、負ければ再び魔法封じの首枷をつけられる。単純でわかりやすいルールではあるものの、他の寮生やトレイとケイトの様子を見るに一年生二人の勝率はとてつもなく低いのだろう。

「これよりハーツラビュル寮の寮長の座をかけた決闘を行います。挑戦者はエース・トラッポラ。そしてデュース・スペード。挑戦を受けるのは現寮長であるリドル・ローズハート」

 審判を務めるクロウリーが言葉を発すると、重苦しい緊張感は一気に増す。じわじわと、余裕と楽観を絞め殺していくような空気だった。
 首輪から開放された二人をギロリと睨みつけたリドルは、いつもの軽い口調で自身に話しかけるケイトに得意げな笑みを見せる。

「愚問だね。ボクのお茶の時間は毎日キッカリ十六時とルールで決まっている」

 今の時刻は15時30分。あと30分もない。あくまでルールを遵守するリドルの態度ににわかに迷路内がざわつく。
 でももう15時半をすぎてるけど……。ボクが遅刻をすると思うのか? どうせすぐ決着がつく。
 寮長たる余裕と自信が崩れることはない。見せしめのようにエースとデュースを挑発するリドルの姿に、先ほどから騒いでいる寮生たちが更に湧き上がった。

「随分と言ってくれるな」
「カ〜ッ! カンジ悪いんだゾ!」
「こっちだって作戦くらい立ててきてるっつーの!」

 眉を寄せた二人と一匹はリドルを睨み返したものの、対するリドルは変わらぬ表情で優雅なまでにゆっくりとクロウリーに目配せした。

「学園長、決闘の合図を」

 頷いたクロウリーが手鏡を持ち上げた瞬間、監督生のそばに一羽の鷲が舞い降り──瞬く間に人の姿になる。監督生以外の者たちはナマエがいることにすら気づいていない。みな、決闘に目も心も奪われている。

「よかった、間に合ったみたいね」
「ナマエさん……!?」
「驚かせるつもりはなかったわ。さあ、あなたも見届けましょう」

 投げ出された手鏡はくるくると回転しながら落ちていく。鏡が割れる甲高い音と同時に、決闘開始を意味する言葉がクロウリーの口から飛び出す。
 ナマエはリドルを見やったが、エースとデュースしか見ていない彼は機嫌の悪そうな声で呪文を唱えた。

首をはねろ(オフ・ウィズ・ユアヘッド)!!」

 カシャン、と音がする。叫び声をあげる二人の首には首枷がついていた。手も足も出ない魔法。数秒にも満たないあいだに彼らの魔法は封じられた。
 静観しているナマエは腕を組み、自慢げな顔で敗者を見下ろすリドルから悔しそうな顔で首枷を掴んでいるエースたちへと視線を移す。ここで彼らが勝ってくれたら、なにかが変わるかもしれないと思ってしまった。だからと言うわけではないけれど、いつもより急いで掃除を終わらせてハーツラビュル寮に訪れ、人の時よりも広範囲を見渡せる鷲の姿で彼らを探したのだ。

「フン。五秒もかからなかったね」

 リドルはなににも気づかないかもしれない。
 ルールがあってもなくても、リドルはリドルだ。そこに存在価値を決めるものはひとつもなくて、リドルが生きて、笑っているだけで、十分なのだ。
 ナマエはリドルの中の信念を否定するつもりはない。そもそも、彼とエースのどちらが正しいかなんて、部外者の彼女が決められることじゃない。自分にとっては悪に思えるもの。自分にとっては正しく思えるもの。それらはひとたび視点を変えてみれば、善にも悪にもなり得る。容易く、決められるわけがない。

 ──否定しないで。

 頭にガンガンと響いたのはナマエ自身の声だった。
 ルールに縛られて、その中にしか自分の存在を見い出せないなんて冷たい海に溺れているみたいに苦しいだろう。ルールに縛られて、他の誰かに自由を奪われて生きていくなんて狭苦しくて仕方ないだろう。
 リドルも、エースも、違う正義を持っている。言葉にしてみたらただそれだけだ。けれど理解し合うのはどうしようもなく難しいことだとわかっている。
 それぞれの正義が食い違ってかけ違って、ナマエの世界では魔法族同士の戦争が起きたのだから。赤く熱い血潮が流れる人間同士で命を奪い合ったのだから。

「ハァ? ルールを破れば罰がある。そして、この寮ではボクがルールだ。だから、ボクが決めたことに従えない奴は首をはねられたって文句は言えないんだよ!」
「そんなの、間違ってる!!」

 間違っていると、声を張り上げた監督生を見上げ、ナマエは感傷的な回顧から抜け出した。

「キミは一体どんな教育を受けてきたの? どうせ大した魔法も使えない親から生まれてこの学園に入るまでろくな教育も受けられなかったんだろう。実に不憫だ」

 ナマエは目を瞑り、指を組んだ。平和な理想郷(ワンダーランド)は、優しい魔法で溢れていると思っていた。魔法が使える者も使えない者も差別されない、平和な世界。そう思いたかったのに、本を読んだ限りではこの世界にも魔法を使えない者への軽蔑と差別は残っている。これが死んだあとの夢ならば、過酷な現実ならば、ただただ幸せな楽園のようであってほしかった。
 魔法を使えない両親から生まれたナマエに、そして魔法を使えない監督生に、リドルの言葉は呪いのように渦巻いている。

『穢れた血』

 非魔法族──マグルから生まれた魔法使いはそう呼ばれた。ナマエも、差別的な思想を持つ純血主義者たちにそう呼ばれていた。死ぬ時も確かに、穢れた血め、と。
 吐きそうだった。死の呪文を受ける前に見た恐ろしい映像が頭に流れる。
 エースがリドルを殴っただとか、エースに感化された寮生がリドルに生卵を投げただとか、癇癪を起こしたリドルが寮生にユニーク魔法を発動したとか、しゃがんで吐き気を耐えているナマエには聴覚での情報しか入ってこない。

「おやめなさいローズハートくん! ルールを守る君らしくもない!」
「トレイ、これヤバいよ。あんなに魔法を連発したら……」
「くっ……! リドル! もうやめろ!」

 クロウリーの声が焦りを含んでいる。ケイトの声がいつもよりも真剣さを孕んでいる。トレイの声が酷く遠い。
 吐きたいのに、吐き出せるものなんてなかった。胃液も、なにも出てこない。苺タルトはあの日の夜にすべて吐き出した。それ以来、なにも飲み食いしていない。
 死んでいる彼女には空腹も喉の渇きもなかった。

「うぎいいいいいい!!」

 リドルの、地団駄を踏む子どものような叫び声が美しくも不気味な迷路の中に響き渡った。



 リドルの魔力が暴走している。根こそぎ浮き上がった薔薇の木は怪談小説に登場する魔物のように蠢き花弁を散らし、地面が掘り返されたことでペンキの匂いに土の匂いが混じっていた。肌にまとわりつくような嫌な風に乗って葉が浮遊し、木々を揺さぶる音さえも魔物の呼吸音のように聞こえる。

「ガチでヤバいって! お前ら逃げろ!」

 ケイトが寮生たちに言うが早いか、血の気を失った顔で立ち尽くしていた彼らは一目散に逃げ出した。吐き気を耐えながらも立ち上がったナマエは杖を抜いて顔や首を真っ赤に染めているリドルを見据え、監督生を庇うように彼の前に腕を出した。今、この状況における弱者──抵抗し防衛する手段を持ち得ていない者は彼一人だけだ。

「下がって」

 でも! と監督生が叫んだ。
 リドルの指示通りに動いた薔薇の木がエースめがけて飛んでいく。何本もの木々が猛スピードで飛んでくれば、なにかしらの方法で身を守らなければ、ここにいる誰もがひとたまりもなく死ぬだろう。しかしエースは動けない。死神の瞳に魅入られ、差し迫る死の鎌を首に添えられている半死半生の生身の人間のように、毒々しいほどに赤い薔薇を見つめている。

「いけない! 避けなさい!」
「早く逃げて!」

 ただの一瞬でも、死の深淵を覗き込んだ者の目。エースの恐怖で揺れる瞳には見覚えがあった。
 杖を振り上げるナマエの唇はわななき、膝は震えている。全身を侵すような吐き気と恐怖でどうにかなりそうだった。

プロテゴ(護れ)!!」

 魔法は欠点のない完璧なものではない。薔薇の迷宮にいる全員は守りきれないと判断したナマエの防衛魔法はエースの周辺のみに展開され、時間経過と共に加速していく薔薇の木は建物に激突する鳥の群れのように衝突した場所から弾けてバラバラと地面に落ちていった。しかし散ったのは、赤い花弁ではなくカードだった。スペード、クラブ、ダイヤ、ハートのスートが描かれた大量のカードが宙を舞う。
 デュースとエースを含めたほとんどの者がトランプを凝視している中、ケイトだけが表情を曇らせているトレイを見た。彼は、トレイのユニーク魔法がリドルの魔法を上書きしたと瞬時に察したのだ。

「監督生。逃げて。ここにいても怪我をするだけだわ」
「……に、逃げるって」
「わたしがあなたを守りきれるとも言いきれない」
「でも、ナマエさんは残るんですよね!? なら……」

 ナマエは彼の瞳に悲しさが広がるのを見た。いや、寂しさだろうか。
 魔法が使えないという疎外感。他者に守られるという不甲斐なさ。監督生は歯を食いしばって彼女を見つめ返した。驚くほどに真摯で、苛烈なほどに強い光が宿る瞳だった。

「自分は……逃げたくありません!!」

 ナマエ・ミョウジと同じように異世界から来た少年もまた、自分自身の居場所とこの世界に存在してもいいという証が欲しかったのだろう。生まれも育ちも違う二人ではあるが、今のナマエと監督生は写し鏡になった互いの本音を見ている。
 否定しないで、信じてほしい。
 疑わないで、そばにいてほしい。
 人間は自分の中にではなく他人の中に存在価値を見出したがる生き物だ。監督生が逃げたくないと言うのならば、彼の気持ちが痛切にわかるナマエにはなにも奪えまい。否、奪う権利なんて最初からなかった。

「そうね。逃げたくないわよね」
「えっ……」
「だったら、わたしから離れないで」

 同じ穴の貉だ。まったく瓜二つの、似た者同士。
 世界に爪弾きにされた二人はどちらも似たような孤独に苛まれていた。監督生が生者でも、ナマエが亡者でも、心を丸呑みにする孤独は確かにある。

「キミもボクが間違ってるって言いたいの? ずっと厳しいルールを守って頑張ってきたのに!」

 なんと悲しい声だろうか。親からはぐれて迷子になった子どもみたい。リドルは叫び続ける。彼の魂が、心が、わんわんと大きな声で泣いている。

「いっぱいいっぱい我慢したのに!! ボクは……ボクは……信じないぞ!!」

 厳しいルールが今の彼を造った。ルールという枷に縛られ、その中にこそ愛情があると思っている。

 ──いけませんローズハートくん! それ以上魔法を使えば、魔法石が『ブロット』に染まりきってしまう!!

 クロウリーの声などリドルには聞こえていなかった。皮肉的で冷笑的な風が彼の華奢な身体から流れる黒いもやを一面に広め、空気が殊更重くなっていく。幸福や歓喜を吸い取るような、澱んだ空気だ。

「ボクに逆らう奴らはみんな首をはねてやる! フハハハハハ!!」

 彼のユニーク魔法は自由を奪う。けれど、一番自由を奪われていたのは。誰よりも奪われて、首枷で縛られていたのは他でもないリドル自身だった。魔法の強さはイマジネーションの強さだとクロウリーは言った。
 そうであるならば、リドルはどんなことを考えてユニーク魔法を使っているのだろうか、どんなことを想像して「首をはねろ(オフ・ウィズ・ユアヘッド)」と言っているのだろうか。母親に厳しく躾られた息苦しい毎日を思い出しながら、呼吸もままならなくさせる強力な魔法を使っていたのだろうか。
 万が一に備えて監督生の指を握りしめたナマエは、恐ろしい形相で怒鳴るリドルに杖を向け、彼の表情の動きを注意深く観察した。ケイトはリドルが陥っている状態を「闇堕ちバーサーカー」と称したものの、そんな状態の彼に失神呪文を放っても効くかどうか──そもそも、身体に悪影響を及ばさないとも言いきれない。加えて、大量の魔力放出でリドル自身の命も危うくなっているとトレイに言われてしまえば、慎重にならざるを得ない。

「とにかく、君たちは他の教員と寮長たちに応援を要請して……」

 ここまで無力感を覚えるのはいつぶりかしら。
 目を眇めたナマエは杖を握り直し、手汗の滲む監督生の手を強く握った。彼女の防衛呪文で乗り切れるか、それすらもわからない切迫した状況だ。監督生の意志を尊重し、守ると決めたからにはクロウリーの指示に従ってクルーウェルやトレインのもとに行くのも憚ってしまう。
 どうすればいい。
 なにが正解だ。
 なにをすればいい。
 みんな、同じ気持ちだった。皮膚を灼くような緊張感でどうにかなりそうな面々は、マジカルペン一本を片手に震える手と恐怖心を必死に押さえつけている。そんな中、エースが叫んだ。彼に続いて、デュースもグリムも叫ぶ。

「だらあああ! くらえ!!」
「いでよ! 大釜!」
「ふな゛〜〜〜ッ!!」

 エース、デュース、グリムの魔法が入り乱れる。大きさも形も異なる光が踊り狂い、乱れながらもリドルに向かって飛んでいく。統一感も協調性もない未熟な魔法だったが、ナマエは久々に鮮やかなものを見た気がした。網膜に焼きつく光景は起き抜けに見る銀世界のごとく眩しい。
 死んだあの日に錆びついていたはずの彼女の心が震えた気がした。彼らはちっとも諦めてなんかいなくて、ちっとも負ける気なんかなくて。
 ナマエの胸に、大人も子どもも命を賭して戦ったあの日の情景がトラウマではなく誇りとして蘇った。束の間のあいだだけでも誰かの英雄になれた気がして、少しだけ嬉しかったあの日の記憶。

「勝てる奴にしか挑まないなんて、ダサすぎんでしょ!」
「そんなの全然、クールじゃないんだゾ!」
「正気に戻すのにてっとり早い方法はこれしか思いつかないな」
「あぁ、あいつを失うわけにはいかない。俺は……あいつに伝えなきゃいけないことがあるから」
「力を合わせてリドル寮長を止めよう!」
「……あ〜、くそっ! わかりましたよ。こういうの柄じゃないんですけどねー、ホント!」

 握りしめている監督生の手はもう震えていない。みんなが前を向いている。ナイトレイブンカレッジの生徒でもハーツラビュル寮の寮生でもない、ただの雑用係でしかないナマエの手出しは無用だろう。自身と監督生に危害が及ばないように防衛呪文は唱えるが、それ以上のことはしない。

「僕の気持ちを優先してくれてありがとうございます」
「……大したことじゃないでしょう」
「でも、嬉しかったんです。ナマエさんがいてくれて救われました」

 この世界で初めて、ナマエは誰かに必要とされた。それは慈雨のように優しく降りかかり、彼女の心を満たしていく。

「だから、ありがとうございます」

 監督生に言葉も返せなくなったナマエは前に向き直った。彼女の視線の先ではリドルとトレイの魔法がぶつかり合い、激しく燃え盛る炎のような閃光が走った。


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