LEFT BEHIND 08


 しばらくは鷲にはなりたくない。
 ルークの熱烈なスキンシップからようやく逃れたナマエはオンボロ寮の自室のベッドに寝転び、気がついたら朝を迎えていた。寝たか寝ていないかもわからない、曖昧な微睡みに浸っていた気はするが、多分、ろくな睡眠は取れていない。
 首を回すとぽきりと骨が鳴って、怠く重たい身体が軋む。今日は休日だからと雑用係の仕事は与えられていないものの、トレイに返す酸素薬の調合のために調べ物をしなければならない。材料となる薬草が植物園で育てられるものだったらラッキーだ。ドラゴンの肝やベゾアール石など、ナマエがいた世界でも入手困難かつ高価なものが材料だったら手に入れられる自信がない。
 各階の最奥にあるシャワールームでシャワーを浴び、下着や制服を魔法で洗って乾かすと新品のように綺麗になった。こういった便利な魔法を使えても、着替えはいつか買わなければ大変だろう。クロウリー先生はお小遣いをくださるかしら、と考えながら階段を下りて談話室をそっと覗き込む。
 一階のそこで雑魚寝をしている三人の少年と一匹はまだ起きる気配はない。彼女がポムフィオーレからオンボロ寮へと戻った時はトランプに興じていたようだが、今は泥のように眠りこけている。昨日、トレイは「なんでもない日」のパーティーがあると言っていた。起きなくてもいいのだろうか。
 起こすべきか寮から出る直前まで迷っていた彼女は結局なにも言わずにいつも通りの格好で図書室に向かった。
 もちろん、目当ては酸素薬だ。しかし、ホグワーツにも引けを取らない蔵書の数々は彼女の興味と好奇心を掻き立てる。研究機関や国立の図書館さながらの蔵書数は圧巻でありながらも、とても魅力的だった。

《魔法薬全書》
《ツイステッドワンダーランドの魔法生物図鑑》
《魔法力学と魔法電磁学》

 気になる本を片っ端から手に取って腰かけたナマエは古びた本の表紙をめくり、知の世界へと自ら迷い込んだ。
 なにも考えずに知識だけを吸収する時間はいい。昨日のことも明日のことも考えなくて済む。楽で、苦しくなくて、なにも見なくていい。
 そうして貪欲に知恵を求めれば違う世界が見えてくる。宇宙のように限りなく、終わりなく、広がっていく思考は人間に与えられた至高の武器だ。
 彼女がページをめくる音だけが古書の匂いに満ちている図書室内に響く。空腹も感じないまま本を読み込み、席を立ち、新たな本を選んでまた読み込む。同じ行為を繰り返す彼女には音も聞こえていなかった。故に。

「ナマエさん……? こんなところにいたんですね」

 図書室に用事があってやってきたエース、デュース、監督生、そしてグリムの三人と一匹は読書に没頭するナマエに顔を見合せたが、彼女は彼らに気づく気配もない。

「無視すんなー!!」
「わっ、ちょ!! グリム……!!」

 腹を立てているグリムはナマエの前──本の上に立ち、叫んだ。すると彼女は今しがた気がついたと言わんばかりに目を丸くしてグリムを見つめ、それから彼の後方にいる三人を見やった。
 見るからに機嫌が悪いエース、困り果てているデュース、混乱している監督生、じたばたとしっぽを振っているグリム。
 みな一様にリドルの首輪をつけられている。

「……お揃い?」
「ちげー!! リドル寮長につけられたわけ!!」
「どうして? 今日は謝りに行ったはずじゃ──」
「『なんでもない日』のパーティーでのマロンタルトの持ち込みは禁じられていたらしくて。それでまあ、色々あって……クローバー先輩をここで待ち伏せしようって話になったんです」
「マジありえねー、あの寮長。横暴すぎんだろ!」

 断りもなくナマエの前に座ったエースに倣ってデュースと監督生も続き、四人がけのテーブルは彼らに占領された。遠慮のない、裏を返せばフレンドリーとも言える行動を咎めることはせず、ナマエは彼らの説明に眉を寄せた。

「ミスター・ローズハートが……?」
「そうだよ。みーんな日和って馬鹿みてぇじゃん。なにがルールだよ。魔法封じが怖くて言い返せてねーだけだよ、あんなの」
「その……リドル先輩は自分が一番正しいと言ってました」
「……そうなの」

 マロンタルト作りには関わったが、今日のパーティーに関してはなにも知らないナマエは本を閉じ、彼らの話に聞き入った。当事者でもない彼女にはどちらか一方を断じて裁くことはできないものの、リドルとエースたちの対立には心が痛む。

『穢れた血』
アバダ・ケダブラ(息絶えよ)

 ナマエの瞼の裏で緑の閃光が迸る。死へと誘う恐ろしい呪文が唱えられる。いやな記憶が呼び起こされる。破壊された学び舎、そこらに転がる同胞たちの痛ましい遺体。
 死に絶える寸前の光景が頭痛を伴って甦り、強烈な吐き気に襲われた。
 同じ人間なのに、理解し合えない。同じように呼吸をしているのに、わかり合えない。同じようで違う、理想と思想を持つ人間同士だったからこそ。

「ナマエさん……?」

 リドルとエースのそれは、たかだか学生同士の対立だと大人に一蹴されるようなものだ。だけど、それでも、小さな小さなひずみが恐ろしい。
 一度壊れたら戻らない。
 脆いこの世界は元に戻せないもののほうがずっと多い。ひび割れたガラスの瓶がなにかの拍子に粉々に砕け散って、中に入っていた液体が飛び散るように。

『あら、ナマエったら、また彼のこと見てるの?』

 壊れてしまったら、死んでしまったら、なにも戻らない。寝坊して朝ご飯を食べ損ねた朝も、好きな人の背中を遠くから見つめていた日々も、平穏で優しさに満ち足りていた毎日も、全部、戻らない。死んだナマエには。
 またこの目で、壊れていくなにかを見なければならないのか? ナマエのただでさえ白い指先が震えた。

「だ、大丈夫ですか、ナマエさん」
「……大丈夫、気にしないで」
「オマエ、いつも顔色悪いけど今日はいつもよりひでーんだゾ」
「大丈夫よ、グリム。少し嫌なことを思い出しちゃっただけだわ」

 青白い顔に笑顔を浮かべたナマエが本のカバーに手を重ねたその時、なにかを考え込んでいる様子のトレイが図書室の扉を開けた。彼女以外の三人とグリムは席を離れ、迷うことなく彼の元に近づく。

「クローバー先輩」

 デュースの声に歩みを止め、顔を上げたトレイが「お前たちか……」と呟く。沈黙と緊張が走るが、デュースとエースは特に気にしていないようだった。むしろ、両目に宿す光がいっそう強くなった。
 ナマエは彼らの話を聞きながら、テーブルに残っている落書きや彫られて消えなくなった文字を見下ろした。
 リドルの幼馴染であるトレイの話はこうだ。
 優秀な魔法医術士の両親の元に生まれたリドル・ローズハートは幼少期から厳しい教育を施され、分刻みでありとあらゆるものを詰め込まれる毎日だった。幼い子どもがすべてを守りきるには厳しすぎるルールは彼を縛りつけ、そして現在の“暴君”を造り出し──他でもない母親に認めてほしかったから、愛してほしかったから、彼はルールを守り、やがてそれこそが愛情だと思うようになった。

「リドルは、厳しいルールで縛ることが相手のためになると思ってる。厳しいルールで縛られて恐れで支配してこそ成長できると信じてるんだ。かつて自分がそうだったように」

 ルール違反を肯定すれば、ルールに雁字搦めにされて造りあげられた自分自身の否定に繋がる。エースのその言葉が部外者であるはずのナマエの心に突き刺さった。
 だから怖い。だから恐ろしい。存在を否定されてしまうのは、なによりも寂しくて苦しいことだ。他人に否定されても、自分が否定しても、鋭いナイフは深く突き刺さって抜けなくなってしまう。
 苺タルトを食べるリドルの笑顔を思い出し、ナマエはローブを握りしめた。
 とうに世界から存在を否定されてしまっている彼女は言葉が欲しかった。ここにいてもいいよって言葉が欲しかった。家族を残して死んでしまったくせに、存在を許して、ほしかった。だからだろうか。リドルの悲痛な泣き声が聞こえてくる気がした。

 否定しないで。

 脳内で再生される声がリドルのものだったか、ナマエのものだったか──はっきりと判別はできない。

「……。今の話を聞いて、よーくわかった。リドル寮長があんななのは、アンタのせいだわ」

 エースがそんなことを言うのはナマエにとっても、彼らにとっても予想外だった。リドルとトレイのあいだにある溝なんて知ったこっちゃない、オレは正しくないと思うから真っ向から言ってやる。そんな意思が、エースの両目に燻っていた。

「可哀想な奴だからって同情して甘やかして、どうすんの?」

 前々から物怖じしない少年だとは思っていたものの、怖いもの知らずすぎる。ついにトレイも黙り、デュースは青い顔でエースを宥めようとしている。

「そんなんダチでもなんでもねぇわ!」
「コラ! 君たち! 図書室では静かにー!!」
「アンタが一番声でけぇんだゾ」

 どこからともなく現れたクロウリーが誰よりも大きい声を出し、グリムはそんな彼をじっとりとした目つきで見つめた。トレインの愛猫ルチウスも不審なものを見るとああいった顔をする。

「なるほど、そんなことが……。首輪を外してくれと謝るのも嫌だけど穏便に寮長を説得できる気もしない、と」
「まあ、そんなとこ」

 掻い摘んで事情を聞いたクロウリーは転寮について口にしたが、あっけらかんと、名案だとばかりに「君が寮長になっちゃえばいいんじゃないですか?」と告げた。

「ええええええええ!!」

 もちろん、一様に驚愕している彼らは叫んだ。


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