LEFT BEHIND 07


 生クリームの買い出しとトレイのおつかいを頼まれたデュースと監督生、グリムはサムが経営する購買部へと向かい、大食堂の厨房に残ったトレイ、エース、ナマエは暇を持て余していた。中断した作業はデュースたちの帰りを待たなければ再開できないため、三人は無難な会話をするしかない。

「ナマエさんってなんで雑用係してんの? せっかく魔法使えんのに」
「二日前に鏡から飛び出してきたみたい。名前はわからないけど、仮面が浮いている鏡から」
「な、なにそれ、そんなこと有り得んの? 監督生みたいな感じ? ナマエさんも異世界から来たわけ?」
「……そうね、違う世界から来たわ」

 昨日、トレイたちと苺タルトを食べた時は異世界だなんて言わなかった。しかし、監督生が異世界から来た少年である上に、学園長のディア・クロウリーも監督生自身もそれを隠す気がないのならナマエが必死に否定しようとしたところで骨折り損である。加えて、あまりにもリアルなこの世界を夢だと思い込むにはそろそろ限界だった。
 頭の、感情では判断できない部分では理解している。これはきっと夢ではなくて、現実なのだと。頑なに認めたくなかったけれど。
 早々に観念したナマエはトレイから突き刺さる視線に気づかないふりをして「広いキッチンね」と誤魔化したが、かなり無理のある話題の逸らし方にはトレイも苦笑した。

「本当なのか? ナマエ」
「ごめんなさい、言っていなかったことは謝るわ。でも、異世界から来ました、なんて言っても『普通じゃない』と思われるだけでしょう?」

 ナマエは異世界から来た。死んで、あの世界にはいられなくなったから。正真正銘の異世界の死者だ。もはや、それは認めるしかない。
 けれど監督生は違う。彼は地に足つけて生きている生身の人間で、ナイトレイブンカレッジの生徒であるトレイやエースと同じような生き生きとした目をしている。境遇は似ているようで、監督生とナマエはまるっきり違っているのだ。
 オンボロ寮でホグワーツのゴーストよりも愛らしいフォルムのゴーストたちと出会った際、彼女は不明瞭ながらに漠然と思った。

 ──わたしは、彼らに近い。

 生きている人間よりゴーストに親しみを覚えるなんてなんという喜劇だろうか。肉体はある。動く心臓はある。だけど、彼女の魂は死んでいる。

「じゃあさ、ナマエさんは異世界の魔女? 監督生は魔法はなかったって言ってたけど」
「魔法使いの存在は隠されていたの。だから、監督生が知らなくても仕方がないわ」
「へえ。隠すだなんて、よっぽどの理由があったのか?」
「魔法使いは迫害されるわ。力が強大すぎるから」

 痛々しく感じられるほどの沈黙が落ちた。大量のマロンペーストが入っているボウルを見下ろすナマエは黙り込んだ二人には見向きもせずに瞬きを繰り返す。その目は虚空で、なにも映していなかった。

「この世界にも大戦があったでしょう。それとおんなじ。いつかは、わたしの世界も平和になればいいと思うわ」

 実際のところ、ナマエの世界では魔法使いとマグルの戦争は起きていない。しかし魔法族同士による主義や思想を巡る争いは彼女が生まれる前から起きており、ホグワーツでの卒業を迎える間際には第二次魔法戦争までもが勃発した。
 そのせいで、命を落としたナマエ・ミョウジはここにいる。

「平和なこの世界に来ることができてよかった」

 嘘を、ひとつ。暗くなった雰囲気を明るくさせるためについた嘘だった。ほっと息をついたエースに笑いかけたナマエの唇からは見目よく整えられた嘘と冗談ばかりがつらつらと流れる。

「焦っちゃったじゃないすか」
「そう?」

 死後に用意された現実はあまりにも過酷だ。
 銀行員だった真面目な父も、小学校の先生をしていた優しい母も、まだ仲直りできていない生意気な弟も、大切だったものはすべて残したままこの世界に来てしまった。彼女の存在を証明してくれる公的な書類も、当たり前のようにその存在を認めてくれていた家族や友人はいない。そうしてすべてを残してこの世界に来てしまったからか──ナマエは自分自身のことが一番信用できていなかった。
 本当に、わたしはわたしなの?
 わたしという魔女は、本当に存在していたの?
 かつて生きた世界は彼女が作り出した偽物で、今生きている世界こそが本物だったら──考えて、目を伏せそうになり、もう一度笑う。

「雑用係という仕事も頂けたし」
「そんなに喜ぶのはナマエくらいじゃないか?」
「そうかしら」

 なにも考えずに作業できる時間があるのはいい。なにかに没頭したいナマエにとって雑用係は願ってもいない役目だ。誰かに必要とされ、誰かに役目を与えられる──死ぬまでは、それが希望になるなんて思いもしなかった。

「そろそろお暇するわ。グリムもいないし」

 親しげに話すトレイとエースを一瞥し、テーブルに置いていた杖を握りしめた彼女はスツールから立ち上がるった。

「タルト、食べていかないのか?」
「……夕飯が入らなくなっちゃうから遠慮しておくわ」
「……そうか。わかった、今日は手伝わせて悪かったな」
「いいえ」

 それじゃあ、またね。そう言い残したナマエはいつものように姿を消し、“姿くらまし”を初めて見たエースは身体を仰け反らせて「ええ!?」と驚いた。


  ◇


「マーヴェラス!! まさに芸術品だ!! 獲物を喰らって離さないであろう鋭い嘴にすべてを覗き込む湖のような瞳、そして雄々しくありながら初々しい少女のように可憐で美しい羽……ああ、私は今にも踊り出したい気分だよ、麗しいレディ」
「……あの」
「声まで子鳥のさえずりのように愛らしい。先ほどの凛々しくも獣らしい姿とのコントラストになっている……ああ、素晴らしい。 私はルーク・ハントだ。お名前を伺っても?」
「……」
「おや、なにか恐ろしいことがあったのかい? とても怯えているように見える」

 まずは状況説明からいこう。大食堂の厨房からオンボロ寮の前に姿現わしたナマエは昨夜のように気分転換のつもりで動物に変身できる能力を有する者──動物もどき(アニメーガス)として、鷲に変身した。しばらく飛んで何気なく校舎裏の森に着地したところ、現在彼女にずいっと身を寄せているルーク・ハントに捕まったわけである。

「茜色の大空に向かって優雅に翼を羽ばたかせる君に見入ってしまったよ。ふふ。美しくも力強い君の姿に狩人としての血が騒いだ、とでも言おうか」

 本来ならばいるはずもない場所に鷲がいる。なぜ、という疑問と同時に「仕留めたい」という思いがふつふつと沸き上がり、久方ぶりの昂りを覚えたルークは森に入っていく鷲を追いかけ、そして彼女を捕らえた。あまたの生き物の習性や特徴、生態を熟知している彼にとって鷲を弓矢で射抜くことは容易いが、相手が年頃の乙女であるならば自慢の弓矢も収めて跪かざるを得ない。

「ノンノン、怪しい者ではないよ」

 生憎、胸に手を当てその感動を回りくどく表現している彼はナマエには不審者にしか見えなかった。昨晩出会ったグリーンアイの黒猫のような男よりもよっぽど怪しい。しかし、ナイトレイブンカレッジの制服を着用している以上、目の前で跪いている男が完全なる不審者とも言いきれない。

「君の翼は燃え上がる夕日によく映える。その美しい翼をもう一度見たいと、夢の中でも願いたくなるほどにね。そうだ、お茶でもどうだろうか。スコーンもマカロンも用意するよ。是非とも我がポムフィオーレ寮に招待したい」
「いや、」
「安心するといい! ポムフィオーレは美しき楽園だ」
「えっ、あの……」
「薔薇の騎士(シュヴァリエ)からも君のことは聞いているよ。さ、共に行こう!!」
「シュヴァリエ……?」

 ルーク・ハントは、ナマエが今まであったことのあるどの男よりも強引で、人の話を聞かない。加えて、疑心や悪意を微塵も感じられない言葉や表情を向けられては断りづらい。

「ミスター・ハント、わたしは──」
「案ずることはないよ。君はとても寂しそうだ。私も今、ちょうど話し相手が欲しかったところでね」

 寂しい狩人の話し相手になってくれないだろうか? と、ミステリアスに微笑んだルークは羽のついた帽子のつばを人差し指で持ち上げ、目を見張ったナマエにウィンクをした。元来、空気を読もうと思えばどこまでも読める男なのだ。いつもはあえて読もうとしていないだけで。
 彼は戸惑う彼女の手に自身の手を重ね、淑女をエスコートする紳士のように歩調を合わせて歩き始めた。

「素敵な名前を教えてくれるかい? 親睦を深めるためにはまずはお互いのことから知らなければね」
「……ナマエ・ミョウジです」

 根底に潜んでいた寂しさを言い当てたルークから逃げたいと思いながらも、ナマエはその優しさを切り捨てたくなかった。切り捨てられなかった。

「素敵な名前だね。でも、あまり私を信用しないように。君は女性なのだから」

 ルークが笑う。
 さっきまで怪しさ満点だった男にそう言われても。ナマエは思わずそう言いたくなった。
 運動場を突っ切って鏡舎をめざすと、曇り空のように霞んでいる鏡が二人を出迎える。暖炉やポートキーを用いない空間移動魔法には不慣れなナマエだったが、ハーツラビュル寮への入口と同じ仕組みであるならば問題はない。
 高級レストランのギャルソンのような恭しい仕草で彼女に先を譲ろうとした彼だったが、鏡舎はいつもよりも騒がしく、ハーツラビュルの鏡から華やかな寮服を身にまとった生徒たちが次々に出てくる。

「なんだか、薔薇の君(ロア・ドゥ・ローズ)の城が騒がしいようだね」
「なにかあったのでしょうか」
「もしかしたら、彼の逆鱗に触れてしまったのかもしれない。でも、薔薇の騎士さえいれば問題はないさ」

 薔薇の君がリドルを意味していることなんとなくわかるものの、騎士のほうは誰のことかさっぱりわからない。副寮長のトレイかリドルと親しそうなケイトのことだろうとは思う。しかしナマエに自信はなかった。

「さあ、おいで」

 ルークに誘われるままに足を踏み入れると、ハーツラビュル寮に入った時と同じようにナマエの身体が吸い込まれていく。ふわふわとした感覚もやがて消え、目を開けた彼女は硬い地面に立っていた。
 レンガ造りの外観は中世ヨーロッパに建造された城や大聖堂を思わせた。学生寮とは思えない建物は洗練された耽美な美しさと高潔さを誇り、高い柵に囲まれた敷地内には林檎の木が大量に植えられている。

「……すごい」
「お気に召していただけたかな?」
「は、はい」

 感嘆する彼女の隣にルークが立ち、寮を見上げるナマエの瞳のきらめきに誇らしげな表情をする。

「お城みたいですね」
「中はもっと素晴らしい。談話室の家具も、名のある職人が作り上げた調度品だと聞いているよ。我が寮は毒の扱いに長けた者が寮長に選ばれるのだけれど、現寮長は──」
「あら、ルーク。帰ってたのね」

 後方を見たルークに倣い、ナマエも振り返った。そして、息を呑んだ。

「……女性を連れてどうしたのかしら?」

 夜半に浮かぶ月の色のような髪は毛先に向かうにつれて濃い紫色になっている。ナマエを視界に入れた彼の柳眉が鬱陶しげに寄せられたが、それでもその美しさは損なわれておらず、性別の壁を遥かに凌駕する美があった。
 ポムフィオーレ寮寮長──ヴィル・シェーンハイトはルークが連れている少女を見つめ、すぐに目を逸らした。言いたいことは山ほどあるものの、自身が取り仕切る寮の寮生でもない初対面の女性にあれこれと難癖をつけるのは美しくない。芋、と言うのはさすがにいただけない。なんとか耐えたヴィルは三十個ほどはある小言を飲み込み、ルークに説明を求めた。

「力強い美しさに惹かれてね……是非お茶にでもと誘ったんだ」
「ふぅん?」

 ややあって、勝手になさいと言って寮内へと入っていったヴィルをにこやかに見送ったルークは、彼に続いて立派な門を開いた。

「彼はヴィル。ポムフィオーレの寮長だ。彼は美しいだろう?」
「はい。びっくりしました」
「ふふ。彼の美は彼自身が磨きをかけたものだよ」

 ルークは美しきものを愛してやまない。誇らしげで、恍惚とした表情がそれを体現している。

「ようこそ、我が寮へ」

 ガラス張りの大きな窓が並ぶ廊下はイギリス王室の宮殿のように豪奢で、洗練された空間には二人分の足音が反響している。等間隔に設置されている金属製の燭台の上では蝋燭がゆらゆらと揺れ、まるで手招きをしているようだった。
 ナマエは談話室に案内され、彼にエスコートされるまま質のいいソファに腰かけた。緻密に作り上げられたであろうシャンデリアは繊細なフリルのようにきめ細かい光を落としている。
 ハーツラビュルを訪れた時のようにまじまじと観察するのもなんだか不躾な気がしてくるのは、寮内の厳かな雰囲気がそうさせているのだろうか。

「やはり記念すべき今日は私の故郷の紅茶を飲んでほしいね」
「故郷の?」
「沈み行く太陽が美しい国でね。生き物の息吹を肌で感じることができる」
「素敵な場所ですね」

 そうだろう? と頷いたルークは談話室を出て扉を閉めた。ハーツラビュルの談話室でケイトを待っていた昨日のように、ポムフィオーレの談話室でルークの帰りを待つのは落ち着かない。
 一人きりになると、少しだけ気が抜けてしまう。ナマエは天井や壁、きらびやかな調度品を見渡し、わずかに息が詰まるような感覚を覚えた。私語が禁じられている美術館や博物館の雰囲気に似ている空間は、幼い頃に訪れた国立の博物館のそれにそっくりだ。
 じっくり見てもいいかしら。
 半分、博物館を訪れている気分だった。座り心地のいいソファから離れたナマエはシャンデリアを見上げ、壁際に飾られている花瓶を見つめた。

「それはここの卒業生が寄贈してくれたものだよ」
「ひっ!?」
「おや、すまないね。まさかそこまで驚くとは」

 しかし、ルークの再登場は彼女の予想よりもずっと早かった。肩を跳ね上がらせて大袈裟に驚くナマエに彼も驚いたものの、手に持っているトレーは少しも揺らいでいない。
 紅茶と茶菓子の準備はすぐに済ませたようで、花柄のティーカップとポット、茶菓子がプレートに並んでいる。

「す、すみません……つい集中しちゃってて……」
「いいや、美術品は見られてこそ価値がある。彼らも君に熱視線を向けられて喜んでいるだろうさ。さあ、座って。紅茶は淹れたてが一番だ」
「ありがとうございます……」
「この茶葉はコクのある味わいで、舌触りのいい渋さはミルクティーにぴったりだよ。ミルクティーはお好きかな?」
「はい」

 肩身が狭そうに座り直したナマエを、ルークはじっと見つめている。美麗な花瓶を見つめていた先ほどの彼女のように、熱心に。

「あの……? なにか?」
「実は、頼みがあるんだ」
「なんでしょうか」
「もう一度、鷲になってほしいんだ」
「わ、鷲に?」
「ウィウィ。私が知っている鷲というものは大概狩ったあとの息絶えたものだからね。生きた状態の鷲を見てみたいのさ」
「まさか、それが狙いですか?」
「ふふ、騙すようなことをしてすまないね。でも、寂しそうな君が気にかかったのは本当だよ」

 その言葉は嘘ではないのだろう。初対面のルークが気にかけてくれた事実に嬉しくなって、意味もなく照れくさくなる。なにを言い返せばいいのかわからなくなったナマエは目を閉じ、白と黒の見事な羽を広げた。
 しかし。

「マーーーーーーヴェラス!! 素晴らしい!! 理知的な瞳がとても魅力的だ!! 見つめていたら吸い込まれそうな輝き……ああ、やはり湖面に輝く光のようだ!!」

 叫んだルークに骨が折れそうな勢いで抱きしめられ、鷲に変身したことを一瞬で後悔した。それから一時間以上は解放してもらえなかったナマエは、オンボロ寮に帰る頃には遠い目をしていた。


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