LEFT BEHIND 05


 魔法史学資料室の掃除をようやく終えたナマエはくたくたに疲れ幾分やつれてしまったトレインに連れられ、購買部を訪れていた。

「あの、本当にこんなに買われるのですか?」
「そうだが」

 なにか問題でも? と疲れの滲む顔で宣ったトレインはまたひとつ、ビスケットの箱を手に取った。
 ナマエは買い物かごに次から次へと放り込まれるお菓子やら飲み物やらを見つめ、見たことも聞いたこともない名前が並ぶパッケージをまじまじと観察してはどんな味がするのか想像する。彼女が知っている魔法使いのお菓子と言えば、奇妙な味がして、ひとたび口に含めばただではすまないものばかりだ。舌に穴が空いたり、血の味がしたり、実害が伴うだけではなく凄まじい味がしたり。

「珍しいね、初めて見る組み合わせだ」

 午後の購買部は昼休み中の混雑が嘘のように静かだったが、在庫の確認作業を終えて暇を持て余していた店主──サムは白骨のようなタトゥーが施されている細腕をレジカウンターの上に投げ出し、並んで買い物をする二人に声をかけた。髪型や服装、顔立ちから漂うエキゾチックな雰囲気は整った容姿をいっそう謎めかせている。

「ハァイ、小鬼ちゃん。見ない顔だ。キミが噂のお手伝いの子?」

 サムはにっこりとナマエに笑いかけた。職務中、校舎からは滅多に出ないトレインが購買部で買い物をするのはかなり珍しい。加えて、その隣には見知らぬ少女がいる。
 しかし、彼はナマエについての情報を昨日から仕入れていた。曰く、ローブを着た女の子がいる。曰く、あわよくばお近づきになりたい──すべて、購買部を訪れた生徒たちが浮ついた調子で口にしていた噂である。

 ふぅん、女の子がこの学園に。

 レジを打ちながら、信憑性の低い噂話を耳にしたのが昨日の昼休みのことで、学園長から正式な通達を受けたのが今朝のことだった。
 学生相手に商売している以上、客のニーズに合致する需要のある商品を並べ、効率よく売り捌くのは商人として当然の仕事だ。興味関心や流行り廃りが山の天気のように移ろいやすい若い生徒たち相手の商売となれば、手に入れる情報は多ければ多いほうがいい。サムはナイトレイブンカレッジの他の誰よりも、オクタヴィネル寮のとある三人組よりも、ちゃっかり情報通なのだ。

「は、はい」

 サムはこっくりと頷いたナマエに満足そうに笑い、今日は特別にサービスしてあげるよ、と大袈裟に手を振った。

「サム、会計を頼む」
「OK! これまた楽しいPartyでも始まりそうなチョイスだ」
「年頃の女性が好むものはわからんからな」

 トレインは手当り次第にかごに入れていたらしい。代金を告げたサムは手早く商品を紙袋へと入れていき、トレインが財布から4,000マドルを取り出す頃にはお菓子と飲み物ではち切れそうな紙袋をナマエに渡していた。

「今ならキャットフードも割引にするけど、どうだい?」
「構わん。まだストックがある」
「OK、OK。次はウチを贔屓にしてくれよ。それじゃあ、またのご来店お待ちしてマース!」

 Bye、と明るい声で見送る愛想のいい店主に軽く手を上げたトレインのあとを慌てて追いかけ、ナマエもサムに軽く頭を下げて店を出ようとしたが、トレインは扉を開けて彼女を待っていた。先日のケイトのように、彼もまた紳士的だ。ただ、ケイトよりも洗練された落ち着きがある。

「ありがとうございます」
「いや」

 首肯したトレインは財布をしまい、ナマエを置いて歩いていく。購入品は彼女に預けたままだ。

「トレイン先生! あの、お荷物はどこにお運びすれば……」
「……。……それは君に買ったものだ」
「わたしに?」

 立ち止まったトレインは購買部の前にある時計塔を見上げ、そしてナマエを見た。厳しく光る双眸には、申し訳なさそうな、心苦しく思っていそうな、そんな気配があった。

「昼をすぎてしまった。今頃は食堂も店仕舞いをしているだろう。私用を手伝ってくれたお礼だ。……あまり食べすぎないように」
「で、ですが……」
「面白いものを見せてもらった観劇代だと思ってくれ。あの魔法は、誰かに教わったのかね」
「学校で学びました」
「ほう、異界の?」
「……ご存知なのですか?」
「クロウリー……学園長から聞いている。新しく監督生になった少年も、異界から来たのだろう」
「監督生が?」

 そうだ、と頷いた彼は再び歩き始める。二限目に受け持ちの授業があったためにその一コマは資料室の掃除をナマエに任せたが、それがちょうど、1年A組──監督生とグリム、そしてエースとデュースが在籍しているクラスだった。使い魔なのか魔物なのかよくわからない灰色の毛玉は、彼の授業を子守唄にしてよく寝ていたようだ。
 クロウリーが職員に「異世界から来た」と説明していたことに面食らいつつ、監督生が異世界の住人であることを知らなかったナマエは雷に打たれたような強い衝撃を受けていた。

「この世界と異世界は繋がっているのでしょうか」
「さあ。私にもわからない。人が忽然と姿を消し、忽然と姿を現す──紀元前から、そのような事例はあったようだが」

 しょせんは眉唾物だと言って誰も信じない。
 ナマエは歩きながら呟いたトレインの背中を見つめ、両腕に抱えている紙袋をぎゅっと抱きしめた。概して、人間とは疑い深い生き物だ。フィクションのような出来事を実際に体験してみないと簡単には信じられない。
 だから、ナマエの世界でも魔法使いの存在はマグルに隠され続けている。人々は魔法なんて有り得ないと思い込んでいるから。

「だが、異世界から来た者がここには二人もいる。君たちにとっても、我々にとっても、それが真実だ」

 なんだか、だから安心しなさいと言われているようだった。彼女を安心させる、シンプルで不器用な優しさだった。嘘偽りのない言葉を綴るトレインは両手を後ろ手に組み、ゆったりとした動作で歩き続ける。
 ナマエは未だ、自分は夢を見ているのだと信じているけれど、そう何度も「異世界」という単語を聞いていたらその自信も揺らいでしまう。
 グレート・セブンの石像が並ぶメインストリートは誰もいない。生徒たちを微睡みに引きずり混むような午後の授業はとっくに始まっている。

「今日は助かった。私からの依頼はこれで終了だ」

 どこからやって来たのか、掃除中に逃げ出したはずのルチウスがトレインの足元に駆け寄り、狭い額を擦りつける。掃除が終わったのなら早く部屋に連れていけ、ということだろう。溺愛してやまない愛猫を抱き上げた彼はつやつやとした毛並みを撫で、校舎へと戻っていく。
 今日の仕事は無事に終わったらしいが、ナマエにはまだ言えていない言葉があった。

「お菓子、くださってありがとうございます」

 ナマエが声を張り上げると、振り返った彼は口角を僅かながらに持ち上げた。


  ◇


 ナイトレイブンカレッジの図書室は広い。
 クロウリーから許可を得て入ってみたものの、どこになにがあるかわからない。右を見ても、左を見ても、そして上を見ても、分厚い本がある。
 膨大な量の本の数々はナマエの知的探究心をこれでもかと刺激した。背表紙に印字される箔押しのタイトルを見ているだけでも楽しくなり、先ほどからずっと、気になるものを手当り次第に取っては最初の数ページをめくっている。

《魔法生物の生息地破壊における意見書》
《魔法と人々が共存するための政策》
《ツイステッドワンダーランドの歴史》

 細い腕にハードカバーの本を何冊も抱え込んだナマエは椅子に腰かけた。隣の椅子には大量のお菓子が入った紙袋が一人前に鎮座している。
 魔法元年、人々は魔法石による魔法エネルギーを発見した。便利で使い勝手がいい魔法は人々に栄華をもたらし、戦争をもたらした。人魚、獣人への差別。魔法を使えない人間への侮蔑。古びたページの一文字一文字の中に、この世界が歩んだ歴史が生きている。
 ナマエが生きて、愛した世界のように。

「……い、ナマエ」

 読書に没頭するナマエには誰の声も届いていない。そんな彼女の意表を突くように、頭の上に占星術のテキストが乗る。顔を上げた彼女は彼の目元にあるクローバーのマークを見つめ、不思議そうな表情を浮かべた。

「さっきから呼んでいたんだが……凄い集中力だな」

 困ったように眉を下げるトレイがいた。彼はテーブル越しに彼女の前の席に座ると、占星術のテキストと一冊の本を開いた。本日最後の授業である六限目が自習となった3年E組の生徒には図書室での調べ物をメインにした課題が課されている。

「どうしてここに?」

 トレイとナマエの様子をちらちらと盗み見る者たちが数人いるが、トレイは気にせず口を開いた。

「今日の仕事は終わったので」
「そうか、お疲れさん」
「ミスター・クローバーは授業で?」
「ああそうだが──その、ミスターってやつやめてくれないか? 歳も近いだろうし……そういえば、いくつだ?」
「18です」
「なんだ、同い年じゃないか。敬語はいらないよ。それと、気軽に呼んでくれ」

 はい、とまた敬語を使いかけた彼女は「わかったわ」と少し砕けた口調で頷いた。

「ごめんなさい、酸素薬はまだできていないの」
「いや、急かしに来たわけじゃないさ。ちょうど席が空いてたから」

 なにか書くなら席に座って書きたいだろ? と続けた彼は彼女が読んでいた本に視線を移し、へえ、と感嘆した。百科事典や法律書のように分厚いツイステッドワンダーランドの歴史書を読もうとする猛者は、入学以来見たことがない。

「言いづらいんだが、ナマエ」

 正直なところ、トレイは座らなくてもよかったのだが、どうしても彼女に伝えておきたいことがあった。

「魔法薬学室はクルーウェル先生の許可がないと使えないんだ」
「……そうなの?」
「ああ。あの先生は特に厳しいからな。薬草と毒草の名前とか特徴とか、菌糸類について完璧に丸暗記しても貸してくれるかわからないんだ」
「だったら、まずはテキストを覚えるわ」
「はは、無理して作らなくてもいいって言うつもりだったんだけどな……その様子じゃ、俺がなにを言っても意味はなさそうだ」

 肩を竦めた彼は彼女の隣の椅子を占領している紙袋を見て思わずマジカルペンを落とした。

「そんなに買ってどうしたんだ?」

 虫歯になりそうだなと、お節介を焼きそうになった彼は誤魔化すように「パーティーでもするのか?」とからかった。袋から溢れそうな菓子は、甘いものが嫌いなケイトが見たら卒倒しそうだ。

「違うわ。トレイン先生がくださったの」
「トレイン先生?」
「ええ。まさかわたしにくださるものだとは思っていなかったけど……」
「へえ、意外だな」

 笑う彼の姿に、ナマエは内心焦っている。
 ツイステッドワンダーランドの住人──延いてはナイトレイブンカレッジの生徒たちとは親しくすべきではない。昨日の夜にそう考えていたはずなのに、礼儀とマナーを重んじるお国柄のイギリスで生まれ育ったナマエはすまし顔でトレイを無視することなどできなかった。初対面でぶつかった挙句、ちゃんとした謝罪もせずに消えたナマエに対しても優しくしてくれる彼に話しかけられれば、なおさらに。
 いい? ナマエ。話す時は相手の目を見て、聞く時はちゃんと耳を傾けて。
 幼少期から何度も何度も聞いていた教えが、そっぽを向いて彼を無視しようとする彼女の邪魔をする。

「トレイン先生は少し、怖くないか?」
「ちょ、ちょっとだけ怖いかも……」
「だよなあ」

 見るからに好青年。そして、母校のホグワーツにもこんなに落ち着き払っている生徒はなかなかいなかった。彼がホグワーツにいたら間違いなくハッフルパフの監督生を務めていたであろうと考えながら現実逃避を始めたナマエは、トレイがどんな青年であるかはまだ知らないし、ナイトレイブンカレッジの生徒の大多数が悪役的な質を持っていることも知らない。ハッフルパフは温厚で勤勉な生徒が多いけれど、果たしてトレイがその寮に相応しいかどうかは組み分け帽子のみぞ知ることである。

「おや、ナマエではないか。妙に騒がしいと思っておったが……そう構えるでない。取って食ったりはせん」

 どうにか彼から離れようとするナマエに、新たな声が聞こえた。
 上着を肩にかけ、楽しげに笑っているリリア・ヴァンルージュが立っていた。昨夜の黒猫のような男しかり、リリアしかり、似たような雰囲気の男はこうも警戒心が強いものか。そう考えて、ナマエは愛想笑いを貼り付けた。

「昨日ぶりでしょうか、ミスター・ヴァンルージュ」
「ふふ、わしも敬語はいらぬぞ。わしとお主は同級生だろうからのう」
「いいえ、遠慮いたしますわ、ミスター」
「なにを怒っておる。マレウスが無礼なことをしたのは謝るが」
「どちらのマレウスさんか存じませんが、わたしは怒っていません。苦手なだけです」
「苦手……? はははっ! 人の子にあけすけに言われるのは久しい!!」

 あ、怒ったな。
 ひやひやしながら二人の会話を見守っていたトレイはナマエが一瞬だけ浮かべた表情に冷や汗をかいた。本を閉じて席から立った彼女は杖を振るって本を元の位置に戻し、お菓子が詰まった紙袋を抱きしめる。

「ちょ、ちょっと待──」

 トレイが彼女の腕を掴んだのは、なんとなくの勘が働いたから、だったように思う。魔法薬学室で魔法薬を頭から被って逃げた時のように、原理のよくわからない魔法を使う気がしたのだ。
 ナマエの腕を掴んだトレイは、バシッ! という大きな音と共に奇妙な感覚がしたあと、屋外にいた。植物園にほど近いらしい。ドーム型の大きな温室が見えている。
 彼女が抱えている紙袋から飴玉の袋が落ち、トレイの革靴に当たる。

「……ごめんなさい、あなたまで連れてきてしまったわ」
「いや、いきなり掴んだ俺が悪いよ。痛くなかったか?」
「ええ」

 屈んで飴玉を拾い上げたトレイは彼女に手渡すと、気まずそうに首裏をかいた。

「たぶん、リリアも悪気があったわけじゃないんだ。そんなに怒らないでやってくれ」
「平気よ。いせか──いきなり来たわたしなんて怪しまれて当然だもの。むしろ、あなたたちのほうが変わっているわ。よく優しくできるわね」
「“たち”って……リドルとケイトのことか? ケイトはともかく、リドルは寮生たちに怖がられてるぞ?」

 真夏の太陽のように明るい声だ。そういう口調で話すのは得意ではないのだろうが、ケイトの話し方にあえて似せているのだろう。トレイから受け取った飴玉を紙袋に戻したナマエは、わざとおどけて見せて場を和ませようとしている彼の気遣いに乗っかることにした。

「そうみたいね。ミスター・トラッポラがいじけていたわ」
「エースと知り合いなのか?」
「監督生の友達だもの。昨日の夜に来たわ」

 えっ、と驚く様子に首を傾げた彼女は彼を見上げた。

「オンボロ寮に住んでるのか?」
「言っていなかったかしら」
「……俺の記憶では、聞いていないな」
「そうだった?」
「ああ、いや、お前がなにも気にしていないならいいんだが……」

 年頃の少年少女が同じ寮で過ごすなんて、学園の大スキャンダルになりそうな気もするが。事情を知りもしない生徒たちは監督生を羨む気がするが──思っていたけど言わない主義であるトレイはそれ以上の言及はしなかった。

「とりあえず、どうする? 寮に戻るなら送るよ」
「いいえ、あなたを図書室に連れていくわ。行先は入口でいいかしら?」
「そんなにリリアに会いたくないんだな……」
「あんなに警戒されたら、誰だってそう思うわ」

 そうでしょう? と疲れ気味にのたまったナマエはトレイの手を握りしめ、離さないでね、と言う。
 無防備に、警戒心もなく自身の手を繋ぐナマエのつむじを見下ろしたトレイは心の中でため息をつく。他の奴に見られたら、からかわれるに決まっている。

「わざわざありがとな」
「どういたしまして」

 先ほどと同じ奇妙な感覚を味わったあと、彼女に手を握られている彼は図書室の入口前に立っていた。
 女の子らしく柔らかい手だ。骨張っている大きな手とは比べ物にはならないくらいにまるっこくて、小さい。長らく男子校で過ごしてきた彼には馴染みのないものだったが、彼女の手は死人のそれのように血色が悪く、氷のように冷たかった。
 死んでいるのではないかと、心配になるくらいに。


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