LEFT BEHIND 04


 満天の空に星々が輝く。ナマエは両親に連れられて訪れたプラネタリウムの夜空を思い出した。ツイステッドワンダーランドに存在する星座は彼女がいた世界の星座とは異なるのか、それとも神話や逸話に関しては似通ったものが存在しているのか。そんなことすらどうでもよくなるような絶景が悠然と広がっていた。人は大自然を前にすると、あまねく出来事も空想も瑣末事に感じてしまう生き物らしい。
 宇宙に散らばる星が、今にも落ちてきそうだった。ホグワーツ城西棟の螺旋階段を上った先に位置するレイブンクローの談話室から見た景色と似ているが、やはりどこかが違うと感じるのはナイトレイブンカレッジにいるからだろう。
 ナマエは目を閉じ、羽を広げた。大鷲にしては小ぶりな、けれど猛禽類らしい理知と理性を湛える瞳は冷たく冴える秋の夜風の中でも爛々と耀う。生前、彼女は特定の動物の姿へと変身する能力を習得していた。
 羽ばたいて星に近づけば、手に入れられそうな夜だった。仲間外れにされてしまった自分の存在を飲み干してくれそうな夜に、一羽の鷲が翔ける。

 ──早く、夢から抜け出したい。

 校舎の屋根の上に降り立った彼女は人の姿に戻り、尖塔の下の平坦になっている部分に座った。身の安全を守ってくれるような柵はもちろんなく、建物の下から吹き抜ける夜風は髪を揺らす。
 寝転んだ彼女は、さっきよりもぐっと近くなった夜空にかざした手を緩く握りしめて額に乗せた。夜も、星も、月もある。鏡写しになっている幻惑のような夢の中、彼女は何気なくローブから杖を取り出した。
 身ひとつでこの世界を訪れたナマエに与えられている武器は、この杖一本のみだ。杖が折れたら魔法は使えなくなる。そうなれば、この学園に滞在させてもらえるだけの価値もなくなるだろう。

 あなたは生きてくれているだけでも十分に意味があるのよ。

 そう言って、抱きしめてくれていた母はもういない。ナマエがこの世界に存在するためには力が必要だった。頭の回転が早いが故に、彼女は力を失ったもしもの時のことを考えては憂鬱になっている。

「人の子だったか。鷲の獣人かと思ったが……」

 革靴の硬質な足音と、低い声。月光を遮った大きな影は彼女の頬にも闇を落とした。暗闇を体現したような、長身の男が立っている。かつての英雄と同じ色──エメラルドのふたつの瞳が猫の目玉のようにぼんやりと浮いているようにも見える。

「……どちら様ですか」
「僕を知らないのか?」
「存じ上げません」
「この僕を……?」
「お名前を伺ったら思い出せるかもしれません」

 ディアソムニア寮寮長、マレウス・ドラコニアは珍妙な生き物を見るような面持ちでナマエを見下ろした。不思議な魔力を持つ大鷲が空を飛び、屋根に降りたのを見てついてきてみたものの、蓋を開けてみれば幼い少女であった。
 魔力の波長は感じる。だが、ナイトレイブンカレッジに通う生徒たちのそれとは異なっている。力のある魔法士となれば個人の魔力を個々のオーラのように感じ取れるが──目の前の少女の魔力は無色透明であった。まるで、そこにはいないみたいに。

「……ああ、なるほど」
「……」

 縦に長い、猫のような瞳孔も相まって黒猫のような男だとナマエは思った。気まぐれで、なにを考えているかわからない。マレウスの姿は血統書付きの、美しい黒猫を思わせる。身体を起こして身を引こうとする彼女に一歩近づいた彼は心底楽しそうに笑った。

「異界から来たのか」

 のらり、くらり。自由気ままに。急所を、弱点を、的確に突く。両目を見張ったナマエに、マレウスの低い笑い声が降りかかる。
 夢だと、思いたいのに。クロウリーもこの男も、口を揃えて「異世界」と言う。

「どうしてそう思われたのかお聞きしても?」
「僕のような人種とも、他の人間たちとも違う。お前は誰だ?」
「……ナマエ・ミョウジ。ただの、雑用係です」
「質問の意味はわかっているだろう」
「いいえ」

 マレウスはエメラルドグリーンの双眸に支配者らしい威圧的な光を灯らせた。この視線には覚えがある。疑心と警戒。それらが含まれた刺々しい視線を、お巫山戯半分で投げかけた男がいる。リリアと名乗った、友好的なようで水面下には攻撃的な警戒心を潜らせている男。

「お前は、誰だ」

 推理小説の黒幕に仕立てあげられた気分だった。もちろん、役どころはマレウスが善でナマエが悪だ。
 彼女は自身を断罪せんとする瞳に黙り込み、そっと目を伏せる。正体不明の人間である彼女への脅しか、挑発か。おそらく、どちらの意味も含んでいる。
 けれど、すでに死んでいる彼女はどんなに脅されたとしても怖がりはしないだろう。目の前の黒猫のような男よりも恐ろしくて、もっと死神らしい魔法使いたちと対峙してきた。幾重にも伸びる死線を掻い潜り、そうして死んだ。なにも残せず、なせないままに。
 お遊び半分程度の気持ちでナマエの反応を見て楽しんでいるマレウスに──本気の殺意すら見せていない相手に、怯える臆病な心臓は元の世界に置いてきた。死よりも、ひとりになってしまった孤独のほうが恐ろしいのだと知ってしまった彼女は戸惑いもなく彼に聞く。

「殺しますか」

 殺すのか、それとも、生かすのか。
 年端のいかない少女と言えども、ナマエは生々しい戦いを経験した。だから、目の前で鷹揚に構えている得体の知れない青年の格くらいは嫌でもわかる。マレウスが弱肉強食の玉座に座す圧倒的な力を持っていることは、他者を圧倒するようなその風格から十分に推し量れた。ナマエを殺すも生かすも彼次第。その選択肢を当然のように持ち得ている、あらゆる闘争の頂点に立っているであろう男には他人を殺す行為など造作ないだろう。

「殺してほしいのか?」

 マレウスはとぼけた様子で悠長に答えた。

「そのような願望に駆られているわけではありません。ただ……」

 もう一度死んだところで、冗長なこの夢から醒めて然るべき所に還るだけだ。もしかしたらまたどこかの世界へ飛ばされてしまうかもしれないが、世界から弾き出されてしまったナマエにはここで死のうが生きようがどうでもよかった。
 どうせ、居場所はないのだから。どうせ、独りきりなのだから。

「あなたの言う、異世界から来た魔女なんて怪しくて仕方がないでしょう」

 諦念と自嘲と、郷愁。
 立ち上がったナマエは様々に入り乱れる感情さえも抜け落ちた表情でマレウスを見上げた。刹那、生き物の呼吸のような生ぬるい風が二人のあいだを掠め──マレウスの目の前から、彼女は忽然と姿を消した。
 彼はハッとして、高所から身を乗り出す。ナマエ・ミョウジは飛び降りたのだ。
 地上から優に数十メートルはあろう場所から、仄暗く美しい、恐ろしくもある景色に背を向けたまま落ちていく。月の光さえ映さない仄暗い海に落下するように、光を忘れた森の中に入り込むように、冷たくて寂しい夜の底へと沈んでいく。彼女は自身を見つめるマレウスに微笑んだ。しかし、彼が瞬きもしないうちに一羽の鷲が切ない鳴き声をあげて身を翻した。壁に沿うようにして落下するその姿はやがて目視できなくなったが、数秒後には立派な翼を優雅に伸ばして浮遊し、蒼白い月に向かって飛んでいく。
 藍色の明るい夜空に羽音が響いた。雲ひとつない今夜は、月の明かりも星の光も眩しすぎる。


  ◇


「……ハーツラビュルに?」
「はい。朝からそこの寮長さんのところに行くことになって……」
「そう。気をつけてね」

 淡白に答えたナマエはシリアルを白い皿にばらばらと入れている監督生をちらりと見て、ローブに袖を通した。結局、“夜の散歩”のあとも眠ることはできなかった彼女は特に疲れた様子もない。

「あの、ナマエさんは食べないんですか?」
「ああ……わたしは朝はあんまり」
「そうなんですか? 」
「うん」

 じゃあ、頑張って。
 それだけを言い残してオンボロ寮を出ていく彼女のうしろ姿に、会話を聞いていたエースは「なに考えてんのかわかんねー」と言い、彼の隣にいるデュースは「なんで女の人が……?」と不思議そうな顔をしている。こらこら、と苦笑いを浮かべた監督生はソーセージを頬張っているグリムを振り返り、問うた。

「……ナマエさん、昨日ご飯食べてたっけ?」
「知らねーんだゾ。あいつ、すぐ部屋に戻っちまったからな」
「うーん……」

 食べてない気がするけどなあ、と、言いかけたが、すべてを言い終わる前にエースの朝食を急かす声が遮る。深いため息をついた監督生ははいはいと頷き、皿を持っていった。




「ああ、本日はトレイン先生のお手伝いをお願いします。終わったら、自由に過ごしていいですよ。それと……」

 一方、寮から出て学園長室に“姿現わし”をしたナマエはクロウリーと今日の仕事についての確認をしていた。突然姿を現した彼女にひょえ!? と素っ頓狂な叫び声をあげた彼は咳払いをして、あたかも何事もなかったかのように振舞っていたが──異世界の魔法が気になって仕方がなかった。デイヴィス・クルーウェルまでもを認めさせた才媛となれば、殊更に。

「貴方の世界はどんなところでしたか」
「……わたしの?」
「ええ。私はとても興味がある。どんな魔法があって、どんな文化があったのか──人は、魔法は、どのように生きていましたか」

 当然のように、クロウリーは聞いた。ナマエがどこか遠くから来た少女だと知っているから。ナマエがこの世界のいずれとも異なる魔法を使う魔女だと知っているから。
 だから、救われたのだろう。
 彼女がいかにしてナイトレイブンカレッジにやって来たかを知っているからこそ怪しまず、彼女が生きた記憶について楽しげに問うてくれる存在に。
 知識と知恵を求める者は恐れを知らない。賢者は、知恵者であると同時に冒険者でもある。問うて、調べて、求めてこそ得られるものがあるとわかっている。

「魔法族とマグル──非魔法族がいました」

 さあこちらちどうぞ、とすすめられるまま応接室のソファに腰かけたナマエは元の世界の常識を淀みなく話す。彼女の前に出された温かい紅茶は白い湯気をくゆらせ、生き物のように蠢いていた。

「ほう、マグル……というものが」
「マグルには魔法使いや魔女の存在を知られてはいけません。だからみんな、マグルには魔法を隠して生きていきます」
「おや、そうなんですねえ。ツイステッドワンダーランドは魔法を使える者も使えない者も共存していますが……」
「そうなんですか?」
「ええ。魔法を使えない者──ここでは『マグル』という言葉をあえてお借りしますが、マグルは魔法士の能力の恩恵を受けながら生活しています。長距離の移動を可能にする鏡も大昔の魔法士たちによる偉大なる発明品ですし、魔法石をエネルギー源として利用できるようにそれらの謎を解明したのもはるか昔を生きた魔法士たちです」

 ツイステッドワンダーランドでは魔法使いと人間たちが協力し合いながら生きている。それは、相異なる正義と理想を掲げた魔法使い同士が命を奪い合う世界にいたナマエにとって、とても素敵な奇跡のようにも、平和な理想郷の夢物語のようにも思えた。
 平和なこの世界には、大きな戦いの火種なんてない。それの、素晴らしはナマエにもよくわかる。

「いけませんね、私ばかり話していました」

 誇らしげに語るクロウリーの話に耳を傾けていた彼女に、ひとつ咳払いした彼が告げる。ティーカップの紅茶を一口飲んだ彼は少し気まずげに、ナマエの話を促した。

「わたしはマグルの両親から生まれました。だけど、11歳になった年の夏に、ホグワーツから入学案内が来たんです」
「ホグワーツ、というと?」
「ここみたいに、魔法を学ぶ学校です。ゴーストがいて、喋る肖像画があって、動き回る階段がありました。大広間の天井はその日の空模様を映し出して……席に着いたら、ご馳走がたくさん並ぶんです」
「それは興味深いですねえ……」
「みんな、イギリスのロンドンにある駅から出る列車に乗ってホグワーツに行きます」

 彼女はキングズ・クロス駅の9と3/4番線を思い出していた。イギリスの鉄道のひとつであるイースト・コースト本線の終点、キングズ・クロス駅は毎年九月一日にはホグワーツ魔法魔術学校の生徒とその保護者で賑わい、彼らは9番線と10番線のホームのあいだにある柱へと飛び込んでいく。その先で待っているのが、ホグワーツ特急──未熟な魔法使いを誘う特別仕様の列車である。
 すべてがキラキラして見えた。ガラス瓶の中に入っているキャンディーのように輝いて、驚きと夢をもたらしてくれるような。
 結果的にはその列車に乗る選択肢を選んだことで命を落としてしまったけれど、11歳の彼女はおとぎ話に登場する主人公になれた気がしたのだ。あの世界の、ホグワーツ生にとっての主人公はエメラルドグリーンの瞳を持つ英雄だったものの、レイブンクローの魔女として生きた記憶は優秀な脳細胞に刻まれたままでいる。
 遠くで、ナマエの話を遮る鐘の音が鳴った。予鈴の合図だ。
 おやおや、時間ですね。残念そうに呟いたクロウリーは立ち上がり、仮面に隠された両目で壁掛けの丸時計を見やった。

「ついつい話し込んでしまいました。トレイン先生には『学園長に頼まれた仕事が長引いてしまった』と言えばいいでしょう。魔法史の資料室はどこかわかりますね?」
「はい」
「またお茶をしましょう、ミス・ミョウジ」
「……喜んで。クロウリー先生、ありがとうございました」

 いいえ、と首を振ってから「私、優しいので」と笑ったクロウリーにわずかに力の抜けた笑みを見せたナマエは応接室から姿を消し、数秒後には資料室に姿を現した。もちろん、そこには部屋の主──というより、勝手に牙城にしているだけなのだが──であるモーゼズ・トレインがいる。み゙ゃっと鳴き声をあげて彼の膝上から逃げ出した愛猫のルチウスはすすけた資料が積み重なった机の下に潜り込み、ナマエをじっとりと観察している。ルチウスのようにわかりやすく驚きはしなかったものの、鋭く厳格な顔つきを一瞬だけ驚きに染めたトレインはゆっくりと革張りのソファから離れた。

「君がナマエ・ミョウジかね」
「遅刻でしょうか……? 申し訳ありません、トレイン先生」
「いや、あと20秒で遅刻になるところだった」

 トレインがポケットから取り出した懐中時計の長針がてっぺんを差すと、暖色の光で満たされている室内に予鈴と同じ鐘の音が響いた。ナマエがこの部屋に来てからちょうど20秒だ。ほら、と言って再び懐中時計をしまい込んだ彼は史料やら地図やら年表やらであふれている部屋を見渡し、重々しく話し始めた。まるで、重大な発表を目前に控えた世紀の学者のような思い詰めた表情をしている。

「……私は掃除が好きではない」

 しかし、続いた言葉は拍子抜けするものだった。

「私は掃除が嫌いだ」

 今度は力強く言いきった。申し訳なさそうな顔をするわけでもなく、恥じ入るわけでもなく、堂々と。

「そ、そうなんですか?」
「下手なのだ。片付けようとしても、なぜか散らかる」
「なぜかって……」
「家事全般ができない。理由はわからない」

 几帳面で真面目な完璧主義、と言われても誰もが信じるであろう威厳に満ちた風貌で彼は話し続ける。幼い頃から、床磨きや料理、掃除をしようとすれば酷い有様になる──それが、在りし日のトレインの切ない思い出だった。
 彼を恐れている生徒たちがこのことを知れば、それはそれは驚くだろう。

「このままではルチウスの健康にも関わる。私的な頼みで悪いが、手伝ってもらえないだろうか」

 有無を言わせぬ言葉に頷いて、ナマエはローブから杖を出す。あまり戦力にはならなさそうなトレインとの大掃除は幕を開け、昼を過ぎる頃には彼女の頭からはすっかり監督生たちのことは抜け落ちていた。


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