LEFT BEHIND 03


 雑用係に就任したばかりの少年──正しくはナイトレイブンカレッジへの入学が正式決定した監督生はへとへとになりながらもオンボロ寮をめざしていた。ちっぽけな灯りを頼りに、ふらつきそうになる両足を奮い立たせ、まだまだ愛着も湧きそうにない埃だらけ雨漏りだらけゴーストだらけのマイホームに戻らなければならないと思うと気も滅入るが、今はとにかく寝たかった。
 今日は色々とあったのだ。それはもう、思いきり叫んで逃げ出したいくらいに色々と。
 グリムとエース・トラッポラが喧嘩して石像を黒焦げにしたり、その罰として窓拭き百枚の刑を課せられたり、サボったエースを捕獲するために協力を要請した相手──デュース・スペードが食堂の10億マドルのシャンデリアを壊してしまったり。
 ドワーフ鉱山で魔法石を採ってこなければ即退学。と、学園長のクロウリーに言い渡され、三人と一匹で鉱山に入ったはいいが、そこで遭遇した闇落ちバーサーカー状態のバケモノとの戦闘を余儀なくされたのだ。

「ふな〜……疲れたゾ……」
「ほんとにね……」

 辛くも苦難を逃れ、無事に魔法石を手に入れて学園に戻った監督生とグリムはすでに体力を使い果たしている。憧れのナイトレイブンカレッジへの入学が認められたグリムでさえ監督生の肩の上でぐったりとしており、先ほどクロウリーに魔法石のネックレスをつけてもらった時のような元気は露ほどもない。
 足を上げるのも億劫で仕方がない監督生は履き慣れたスニーカーの靴底が地面で擦れるのも気にせずとぼとぼ歩き、俯きがちだった目を上げ、やおらその場に立ち尽くした。

「え」

 目の前の光景が信じられなくて目を擦るも、なにも変わらない。疲れすぎて幻でも見ているのか、おかしな魔法にでもかかっているのか。

「……僕らの寮って、オンボロだよね?」
「さっきまでボロボロだったんだゾ……」

 監督生は思わずグリムに聞いた。グリムもグリムで、彼の肩の上でであんぐりと口を開けている。
 非常に風通しがいい、趣がありすぎる彼らの寮はそこにはなかった。その代わりと言わんばかりに、新築とは言えないまでもそこそこに綺麗な建物が建っている。数時間前までは、人の住処と言ってはいけない事故物件レベルの外観だったはずだ。道を間違えて違う場所に来ちゃったかも、と一瞬考えた監督生だったが、いくら疲れていたとしても単純な道順を間違えるほど方向音痴ではないし、建物以外の景色が変わった様子もない。
 一体なにが。
 いやしかし、とりあえず入ってみるしかないだろう。
 意を決し、寮の敷地内へと続く頼りない門を押すと、キィ、と小さな金属音が鳴った。寮の外周を囲んでいる柵の門の建てつけまでよくなっている。そのことに驚きつつ、石造りのなだらかな階段をのぼっていく。表現し難い緊張感に襲われ、監督生の額に脂汗が浮かんだ。なにかを感じ取っているのか、グリムも警戒を強めているらしい。監督生の肩に仔猫よろしくしがみついている。
 あっという間に扉の前に到着し、彼らは生唾を呑み込んだ。ドアノブに手をかけたままガラス張りの部分に耳を寄せて中の様子を伺うも、物音ひとつしない。自身の新しい住処であるはずなのに、盗みを働こうとしている不審者のような怪しいことをしなければならない現実に虚しくなってくるが、安全確認はなによりも大事だ。

「よし、入るよ」
「お、おう! なんかいたらオレ様がぶっ飛ばしてやるんだゾ!!」

 頼りにはならなさそうなグリムに頷き、ドアノブを回す。すると、蜘蛛の巣ひとつない綺麗な廊下が目に入った。床には穴ひとつなく、壊れて放置されていた家具も直っている。いよいよ、正体不明の薄気味悪さに背筋が冷えてきた。

「……た、たぶん、ゴーストのおっさんたちがしたんだゾ!!」
「ええ……そんなこと有り得る?」

 できれば、有り得てほしいけどさ。呟いた監督生は談話室の扉を開け、中を確認してから──黒いローブを着ている少女と目が合った。無言で見つめ合うこと数秒、あっ! と声をあげたのは監督生のほうだった。彼はナマエのことを一方的になら知っている。今日という一日が息をつく暇もないほどに多忙だったせいで今の今まですっかり忘れていたが、昨日の夜、眠りにつく直前までは「あの女の子は大丈夫なのかなあ」と考えてはいたのだ。

「昨日の……!」
「昨日……?」

 首を傾げる彼女のうしろにいるゴーストたちに「なんだなんだ、ナンパか?」と囃し立てられ、監督生は慌てて口を開いた。確かに、鏡からいきなり飛び出してきたかと思えば覚醒後にすぐ眠ってしまった彼女にとって、監督生は初対面に等しい。
 ──ゴーストたちの言う通り、これじゃあナンパ師みたいだ。

「ち、ちが……!! 違うんですよ!! ナンパとかじゃなくて!!」

 顔を青くして弁明する監督生の身振り手振りは大袈裟で、かえって怪しく見えたが、一通りの事情を聞き終えたナマエは右手を差し出した。

「はじめまして。あなたが雑用係を任せられた方でしょう?」
「えっ」
「ゴーストから聞きました」

 ハーツラビュル寮を出て一時間前にオンボロ寮に戻ったナマエは、大昔から住みついていたゴーストたちに挨拶を済ませ、監督生とグリムの話をちゃっかり聞いていた。クロウリーにオンボロ寮まで案内してもらった際に“先住の方”がいると聞いていた彼女は、その住人についてそれなりに気にしてはいたのだ。
 魔法を使えない男の子と、魔法は使えるけど少しわがままな猫。だけど悪い子たちではない。
 ゴーストはそう言っていた。一緒に暮らす人間が異性だとは思っていなかったが、クロウリーに文句を言うつもりはないし、不満も特にない。
 だって夢だし。
 それだけ。大体の心配事もそれだけの言葉で片付く。

「これからよろしくお願いしますね」

 淡々と自己紹介を済ませたナマエがオンボロ寮に住まう旨を監督生に伝えると、この時初めてその話を聞いた彼は目を見開いて彼女の顔を見つめ返した。

「聞いてないんですけど!! ここにですか!?」
「は、はい……ごめんなさい、迷惑なら出ていきます」
「いやそれはもっとダメなんですけど……!! ていうか、学園長からはそんなこと一言も……!!」

 聞いていないです、と叫びそうになる声は押し殺した。
 監督生とグリムは、クロウリーと少し前に学園長室で会った。だと言うのに、胡散臭い言葉しか紡がないあの唇からはナマエのオンボロ寮入居に関する話は一度も出てこなかった。もしかしたら──いや、もしかしなくても。ディア・クロウリーはとんでもなく大雑把な男なのではないか。
 監督生は異世界生活二日目にして真理を悟ってしまった。しかし、今からあの男のもとに行って抗議する元気はない。そもそもが場の空気に流されやすい、ノーとは言えない日本人。そんな彼がナマエを拒否できるはずもなく。

「その、じゃあ、よろしくお願いします……」

 女の子とひとつ屋根の下。ドキドキすればいいのか怯えればいいのかもわからない状況に萎縮しつつ、監督生は彼女の手を握り返した。オンボロだった寮が綺麗になっている理由と原因を解明することも忘れ、目の前の少女が魔女だと知らない彼は現実逃避のために早々に眠りについたのだった。


  ◇


 ツイステッドワンダーランド。
 なにかが捻れている不思議な世界。
 似ているようで、なにかが違う。
 正しいようで、どこかが歪んでいる。

 この世界について、ナマエはなにも知らない。図書室で歴史書を借りてみるのもいいかもしれない、と思いながら、彼女は眠たくもないのに目を閉ざした。細い血管が透ける白い瞼の下を縁取る睫毛は、陶磁器のようにすべらかな肌に影を落とした。

 ──この者の魂は死んでいる。形も、色も、温もりもない。一切の無である。

 あの鏡が言うことには、ナマエの魂は死んでいるらしい。鏡の間にて、昨日の彼女が告げられた言葉は言い得て妙だった。人の死とはすなわち魂の死であると定義するならば、ナマエ・ミョウジが元の世界で死んだ事実はこの世界でも証明されてしまったことになる。
 魔法があるなんて、まさしく夢の世界のようだ。彼女が18歳の魔女ではなく非魔法族──マグルだったならば、幼い子どものように心を踊らせていたかもしれない。しかし、彼女はとうに普通ではなかった。イギリスのロンドンからほど近いディストワープ通り23番地に住んでいた彼女は、ディストワープ通りの住民たちが思い描くような普通の女の子ではなかったのだ。
 魔法が使えたのである。おとぎ話にしか登場しないような、不思議でいてキラキラとした力が。
 転機は11歳の夏に訪れた。ナマエにホグワーツへの入学許可証を届けた一羽の白ふくろうは、自分は普通だと思い込んでいた彼女に、期待と喜びと、少しの戸惑いをもたらした。

 “7月31日必着でふくろう便にてのお返事をお待ちしております”

 その一文で締めくくられた手紙を見た瞬間の高揚感と胸の高鳴りを、彼女は今でも忘れられずにいる。真っ赤なシーリングスタンプが施された封筒の中で眠っていた、茶色っぽい一枚の紙は彼女を夢の国へと誘う招待状だった。
 キングズ・クロス駅の9と3/4番線、ご馳走であふれかえる大きなテーブル、城のような校舎を自由に動き回るゴースト、大袈裟な魔法がかけられた142ヶ所もある階段。
 両親でさえも知らない真新しい世界へと、赤の蒸気機関車のコンパートメントへと飛び込んだ彼女が見たものは、絵本から飛び出してきたファンタジーのように現実味がなくて、どこか幻想的だった。
 そして、心躍る入学式から7年が経った今。ナマエはツイステッドワンダーランドという不思議の国にいる。彼女をこの世界へと導いたのは人語を喋る白うさぎではなく、ロマンスの欠片もない死の呪文ではあったが、死後の夢にしては些か長すぎるだろう。11歳の彼女が感じた感動や驚きはなくても、少なからず動揺はしていた。

「……長い夢だわ」

 ホグワーツで命を落としたはずの少女は、ゆっくりと目を開けた。
 稀代の英雄と称えられた少年と、最強にして最悪の魔法使いであった“例のあの人”の戦いは幕を下ろしただろうか。わたしの訃報を聞いた父と母は、小生意気な弟は泣いていないだろうか。
 かすかに上下する胸に、家族を置いてきてしまった未練と色々なことをやり残してきた後悔ばかりが黒いインクの染みのように広がっていく。
 ホグワーツでの怒涛の毎日が幻だったのではないかと思ってしまうような、静かな夜だった。眠たくない。疲れもなく、ただ頭の中だけが散らかっている。
 どうせ眠れないなら散策もかねて夜の散歩に出てもいいかもしれない。思い直したナマエは立ち上がり、階段を降りてユウとグリムたちの部屋近くにある談話室の横を通り抜けた。すると奇妙なことに、彼ら二人の声に混じって見知らぬ男の子の声が聞こえてくる。

「たかがタルトを盗み食いしただけで魔法封じされるのはおかしくね!?」

 監督生の友達かしら。
 一瞬だけ足を止めた彼女は開きっぱなしの扉から談話室内をちらりと見たが、目を逸らす前にグリムと目が合い、青い目をきらめかせた彼は赤い髪の少年──エースをじとりと見つめた。

「オマエがうるせーからナマエが起きちまったんだゾ」
「オレのせい?! つかなんで女の子いんの?!」
「あ……起こしちゃってすみません……」

 反応は三者三様だった。申し訳なさそうな顔をする監督生にナマエは首を振り、自身を食い入るように見つめているエースに愛想笑いを浮かべた。礼儀正しく話す監督生が彼とは砕けた口調で話しているということは、同い年の友人なのだろう。

「起きていたから気にしないで。わたしはナマエ。あなたは?」
「エース。エース・トラッポラね。なんで女の子がいんの?」
「ここで雑用係をしているの」
「雑用係ぃ……? なーんか聞いたことある響きなんだけど」

 監督生に悪戯っぽい笑みを見せたエースは人懐っこく目を細め、彼の肩に腕を回した。

「お友達?」
「ええ、まあ、そうです」
「なにその煮えきらないカンジ。オレらバケモノと戦った仲じゃん」

 不服そうに唇を尖らせたエースは、その素振りのせいか年齢よりも幼く見える。甘え上手な世渡り上手、いかにも末っ子といった雰囲気の彼に、監督生も苦笑いで「僕はなにもやってないけどね」と答えた。

「バケモノ?」

 ナマエはきょとんとした表情で瞬きを繰り返した。彼女にとってのバケモノと言えば、バジリスクやドラゴンのような恐ろしい魔法生物が真っ先に思い浮かぶ。
 あれ、言ってませんでしたっけ、と首裏をかいた監督生はそんな彼女に事情を──ただの雑用係から新入生へと身を転じた経緯を、非常に大雑把に説明した。オーバーブロットに闇落ちバーサーカー、マジカルペン。聞き慣れない単語を頭の中で数回反芻した彼女は明日の調べものリストにそれらを付け加えた。
 これは当人たちは与り知らぬところの話ではあるが、入学式の翌日に10億マドルのシャンデリアを破壊した三人と一匹の武勇伝は、全世界から曲者が揃いに揃ったナイトレイブンカレッジ内でも伝説になりつつある。在学期間中も、そしてカレッジ卒業後も延々と言われ続けることになるのだが、この事件に関わった一年生の彼らがそれを知る由もない。

「エグいわ強いわで大変だったんすよ、マジで」

 もうやりたくねー、と溜息をついたエースが肩を竦めると、特徴的な形の首枷が音を立てた。彼は錠の部分に手をかけて不快そうにムッと眉を寄せている。

「魔法士にとっては手枷と足枷つけられるみたいなもんだよな、これ」

 3ホールも食べるつもりだったのかよ、心狭すぎ、と不平不満を垂れ流す様子から、彼がこんな真夜中にオンボロ寮までやって来た理由を察したナマエは口を挟むことなく彼らの会話に耳を傾けた。数時間前に味見と称されたティータイムで苺タルトを無償で味わっただけに、リドルに魔法を封じられたエースに対して申し訳なくなってくる。
 しかし、彼女が罪悪感を覚える前に監督生が苦言を呈し、彼とエースの二人で明日朝にリドルのもとに謝罪に行くことになったようだ。エースは談話室のソファーで眠るらしいので、異性のナマエに長居されてもさすがに困るだろう。彼女は彼らの会話を聞き届け、静かに談話室を出た。

「そういえば、誰が綺麗にしてくれたんだろう。ここはまだ散らかってたはずなのに……」

 不思議がる監督生の声が聞こえてきたが、ナマエは聞こえなかったふりをしてオンボロ寮の扉へと向かった。
 ナマエは夢の世界の住人と特別親しくするつもりはない。意図せずしてトレイやケイト、リドル、エースと知り合いになってしまったものの、まだそこまで親密ではない。つまりは、まだ引き返せるということだ。
 大切な人を作ってはならない。
 誰かを愛してはならない。
 予感じみた第六感は彼女の本能にそうっと語りかけていた。最後に傷つくのは、あなたなのよ、と。
 元の世界から爪弾きにされた死者である彼女には、捻れて狂っているこの世界でずっと生きていけるとは思えなかったのだ。死の呪文を受けて死んでいるのなら、二本足で立っているこの世界ともいつかは別れが来るのだろう。遅かれ早かれ、夢の中の自我は肉体と共に完全に消滅するのだろう。
 彼らが、ナイトレイブンカレッジの生徒たちが、自分と同じように死んでいるとは思わない。だが、生きながらに死んでいるのか、それとも死にながら生きているのか、その命題の解すら導き出せていない不確かな自分自身の存在は、生き生きとした生命力にあふれる彼らとの──生々しいほどに残酷な対比になっている。
 死んだナマエ・ミョウジに元の世界での居場所はなく、また、ツイステッドワンダーランドにも心を落ち着けられる居場所はない。
 普通じゃない女の子であることをあんなに喜んでいた過去が、今ではもうセピア色に染まり始めている。生きている彼らと死んでいる自分のギャップが、世界に一人きりだという孤独感が、彼女の首を手ずから絞めていた。


<< >>

INDEX
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -