三千世界の鴉を殺し君と朝寝がしてみたい 05


 真夜中に目が覚めた。特別寒いわけでもないのに、身体の芯が冷えている。かすかに開いたカーテンの隙間からは蒼白い光が漏れ、ベッドのシーツの波をやわらかく照らしていた。
 こんなに寂しくて恐ろしいと感じる夜は久しぶりだ。それも、殺し屋に殺されかけた幼い頃の夢を見たからかもしれない。寝苦しくて目を覚ますほどの悪夢を見るのも久々で、指先は冷えているのに背中はじっとりと汗ばんでいた。

「怖い……」

 漏れた声がひとりでに闇に落ちる。暗闇に慣れてきた目でも、部屋全体をはっきりと見渡せるわけではない。部屋の奥になにかが潜んでいたらどうしよう、見えないなにかがいたらどうしよう、と震えていたあの頃みたいに頭から毛布を被っても恐怖心は消えなかった。
 こんな夜は、決まってお兄様のお部屋に行っていた。この歳にもなってお兄様に甘えようと思うほど幼くはないけれど、今ばかりはあの温もりが恋しい。
 厨房の妖精たちのもとに行ったら、わたしの話し相手にはなってくれるかもしれない。誰もいない部屋で一人きりで怯えているよりは、そのほうがずっと気が紛れるだろう。
 薄い部屋着を肩にかけて部屋から出ると、オレンジ色のぼんやりとした光がわたしを包んだ。廊下の壁際に並ぶようにして飾られている鎧は光を鈍く反射し、白銀色に輝いている。それらの鎧や、壁に取り付けられている絵画はわたしが生まれるはるか昔から城に飾られていたらしい。
 部屋から厨房までは中庭を囲んでいる回廊を通ったほうが近道になるけれど、夜の歩行は禁じられている。万が一の外敵の襲来に備えて、中庭へと通ずる扉には鍵がかけられ、防衛魔法までかけられているのだ。
 元より、外に出られるような気分ではない。迂回ルートである西側の階段を使えばそんなに時間もかからないので大人しく左に曲がってしばらく歩いていると、数日前から顔も合わせていない青年が廊下の奥から歩いてきていた。慌てて曲がり角に引っ込み、服を握る。ただでさえ謝れていないのに会うのは気まずい、加えて、出歩いていることがバレたら確実に怒られてしまう。

 ──もういい。これ以上は意味がない。

 怒らせて傷つけてしまったシルバーの声も表情も忘れられない。思い出したら、身体の芯がまた冷えた気がした。
 幸い、彼はわたしの存在に気づいて……ないとは言いきれなかった。シルバーの足音が止まっている。彼が自室に入るために立ち止まったのなら問題はないけれど、一向に動く気配がない。厨房は一旦諦めて部屋まで戻るにしても、結構な距離がある。走って足音を立てれば、不審者と勘違いされてシルバーに追いかけられそうだ。
 とりあえず戻ったほうがよさそうなのは確かで、シルバーが気づいていないことを願いながら一歩前に踏み出した。

「こんな時間になにをしている」

 しかし、彼はもう背後まで来ていたようだ。足音も気配も巧みに殺して、わたしの真後ろに。シルバーに手首を掴まれただけで心臓が早鐘を打って、喉も渇いた。

「……シルバー」
「なにをしていると聞いている」
「眠れなかったの」
「どこに行くつもりだった」
「厨房の、妖精に会いに」

 なにも言ってくれないシルバーはきっと怒っているんだろう。また無闇に怒らせた。わたしはなにを言ってもシルバーを怒らせてしまう。

「ごめ……あ、違うの、変な夢を見て……それで」
「夢……?」
「お兄様に添い寝してもらうような歳でもないし……で、でも、ひとりは怖いから」

 ひとりは怖い。お兄様もリリア様もシルバーもいない城はわたしとセベクだけで過ごすには広くて、寂しい。それに、来年にはセベクもいなくなる。ひとりは怖いのに、お兄様以外の他の誰かへの頼り方なんてわからなかった。
 強く生きていけるように頑張ってきたつもり。尊厳を失わないように前を見続けていたつもり。なのに、シルバーのそばにいるわたしはどんどん弱くなっていっている。こんなのわたしじゃない。

「怖いのか」
「え……?」
「ナマエは怖いのか……?」
「怖い、なんて言ってた?」
「言った」

 シルバーは間髪入れずに頷いた。重なったままのわたしたちの影は魔力で揺れ動く明かりに合わせて揺れている。

「……俺には絶対に頼らないと、弱みを見せないと思っていた。毒を盛られたことを言わなかったのも、お二人に比べれば俺は未熟だからだと」

 シルバーがそんなことを思っていたなんて知りもしなかった。お兄様とリリア様にしかお伝えしなかったことを怒っているのだとばかり──いや、よくよく考えてみれば、彼の気持ちについては不透明な部分が多かったように思う。

「おこがましいが……マレウス様のようになりたかった。ナマエが素直に泣けるのはあの方の御前だけだ」
「……」
「今、お前は俺に『怖い』と言った。しかも無意識で」

 シルバーの声が近い。こんなに低い声だったっけ、と見上げると、オーロラ色の瞳が間近にあった。夜に降りる光のカーテンのような虹彩はきらきらと輝き、宝石のような明るい光を放っている。

「俺にも、甘えてくれたと思っていいのか?」

 どうしてそんなに嬉しそうな表情をするのかもわからなかったのに、やさしくゆるめられた瞳に射抜かれた瞬間に心の檻が壊れた気がした。お腹の前に回った彼の両腕は温かく、わたしの指先からは震えも消えている。
 ついにこぼれた涙が頬を伝った。

「ご、めんなさい……泣くつもりなんて」
「隠すな」
「やだ」
「見せろ」

 強引に腕を掴まれ、身体の向きも変えられた。ぐるりと反転した視界に、シルバーの胸元が映る。たまに、彼はこんな風に強引になる。待ってもダメも聞いてくれないくらい無理やりで、わたしがどんなに逃げようとしても逃げさせてくれない。

「シルバー、離して」
「断る」

 シルバーはこうなったらてこでも動かない。泣き顔なんて見られたくないし、これ以上近くにいたら色々と口走ってしまいそうだ。
 逃げるための口実を探していると、わたしが歩いてきた東側のほうから足音が聞こえてきた。巡回中の衛兵だろう、突き当たりの壁が揺れるマジカルライトの明かりに照らされている。彼はまだ角を曲がっていないけれど、こんな時間に若い男女が──わたしとシルバーが一緒にいたと知られたら面倒なことになるに違いない。よからぬ噂を立てられるのはシルバーも回避したいようで、顔をしかめている。

「へ、部屋に戻なくちゃ」
「……来い」

 焦るわたしの腕を引いたシルバーは踵を返し、部屋に入った。初めて入る彼の部屋は暗闇でもわかるほどに物が少なく、殺風景だ。飾り気がない彼らしい、綺麗に整頓された部屋。
 こんな状況、違う意味で身体が強ばる。初めておじゃましたのにそんな気がしないのは彼の匂いが強いからであり、見知った匂いの心地良さと好きな人の部屋にいるという緊張感でおかしくなりそうだった。

「ナマエ。お前はなにを隠している。お二人に口止めをしていたのは、他に理由があるんじゃないのか」
「隠し事なんてない」
「嘘をつくな。そのくらい俺にもわかる」

 わたしをベッドに座らせたシルバーはいつもの静けさと、ほんの少しのやわらかさを湛えた声で問う。夜のしじまに広がる、淡い夜明けの光みたいだった。
 いつも、お兄様に感じていた優しさを彼からも感じる。
 頬にかかる髪を避けるようにして、彼の手が滑り込む。革手袋をしていない皮膚はそうすることが当たり前であるかのようにわたしの温度に溶けた。

「言ってほしい」
「……なんでもない」
「ナマエ」

 耳に灼けつくような低い声だった。もう逃げられない、と。そう思った。

「こわいの」
「なにがだ。さっき言っていた夢か?」
「夢もだけど……これからのことも。シルバーに甘えていたら、ダメだと思うの。わたしがダメになる。弱くなる。だから絶対に言っちゃダメだって思ったの。安全な所にいるはずなのに、馬鹿みたいに毒も盛られて……シルバーには心配ばかりさせて、怒らせてばかり」

 弱さを見せたら痛い目を見る。ずっとそうだった。シルバーはわたしを傷つけるようなひとじゃないとわかっているからこそ、この身に染み付いた猜疑心が綺麗な彼を汚してしまうのが耐えられない。
 頼りたい、甘えたい、でも誰かを信じるのは怖い。
 言葉も声も届かない場所にシルバーが行った途端に、あんなに信じていたがっていた彼の気持ちもわからなくなっていた。

「なにかに悩んでいると思ったらそんなことか」
「私は本気で悩んでるんだよ」

 頬に触れていた手がわずかに動き、彼の指がわたしの唇に触れた。肉に指が沈み、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。今日はシルバーの様子がおかしい、変だ。

「ごめんなさい。でも、頼りにならないとかそういうことじゃ──」
「もういい」
「……っ」
「……もう怒っていない。だからそんな顔をするな」

 これ以上は意味がない、と言ったシルバーの顔がちらついて頭の中が真っ白になった。血の気が引くような、体温が一気に下がるような心地は身体を強ばらせるには十分で、そんなわたしの反応に気がついたらしい彼は困ったように眉を下げる。
 彼は一瞬視線を落とし、長い睫毛は月光に透ける白い頬に影を降ろした。

「俺のプロポーズに嘘偽りはないが……あの約束だけでは駄目だとよくわかった」

 あ、と思った時にはもう遅い。耳から首にかけての部分が手のひらの熱に包まれる。雪のよう白い睫毛が伏せられ、薄紫の瞳に影を落とす様はゾッとするほどにうつくしかった。

「シ、……っ」

 唇にそっと触れた温度に背中が痺れた。硬い手はわたしを逃す気がなく、顔を逸らしたくても逸らせない。シルバーの髪が頬に落ち、そのくすぐったさにおかしな声が出そうだった。

「シルバー、まって」

 ようやく唇が離れ、感情の読めない涼しげな目がわたしを見つめていた。不可抗力的に絡み合った視線がほつれて解ける前に、シルバーの匂いがまた強く漂った。今、身体中の血液が沸騰していると言われても驚かない。こんなに吸われたら腫れてしまう、と酸欠状態の頭で考えるわたしはよっぽど馬鹿なのだと思う。

「学園に入る時も、ナマエがここに残ると聞いて安心した。俺以外の男に会うことも、惹かれることもない。離れているあいだに目移りでもされたら俺は……耐えられなかったと思う」
「シルバー、お願い、聞い……っ」

 聞こえないふりをしているのか、本当に聞こえていないのか。キスをし続けるシルバーに押された身体は呆気なくベッドに沈み、両手もシーツに縫い付けられた。ワンピースタイプの部屋着がめくれ、太ももがむき出しになっている。
 呼吸まで奪われそうなキスはわたしが知るにはまだ早かったみたい。濡れている唇を手の甲で拭ったシルバーは吐息をこぼすと、意味もなく泣いているわたしを見て目を見開いた。

「……っ、すまない、押し倒すつもりは」

 なかった、と言いながらシルバーは顔を逸らした。離れたら離れたで寂しくなるのは相手がシルバーだからなんだろう。ベッドに座り直し、袖を引っ張るとシルバーは溜め息をついてわたしの隣に腰かけた。

「恋人同士になれば、お前は甘えてくれるのか」
「恋人……?」
「そうなればもうただの幼馴染じゃない」

 元から、幼馴染にしては逸脱した関係だった。今の行動も、単なる幼馴染に向けてするようなことではない。けれど、長年変わらなかった関係性を変えたがっているような言葉がシルバーの口から飛び出すとは思っていなかった。どちらかと言うと、物事への関心が薄い彼は恋人だとか特別だとかの甘い響きを持つものには興味がない。淡白、と言われればそうなのだと思う。

「ナマエ」

 剣の切っ先のように鋭い瞳はなりを潜め、ひときわ掠れた声が鼓膜をくすぐった。ああ、彼も彼なりに甘えているのかもしれないなと思ったのは、その声に少しの力も入っていなかったからだ。

「今日はよく泣くな」
「ど、して……嬉しそうなの」
「ナマエが泣いてくれているからだ」

 わたしの涙を指先で掬うシルバーは眉を下げ、滅多に見せない笑みを形のいい唇に乗せた。暗い中でも極めて明るい光をこぼしている双眸は焦れったいくらいにゆっくりと細められ、硬い手のひらはわたしの手を包んだ。

「マレウス様のようにとまでは言わないが……ゆっくりでいいから俺にも頼ってほしい」

 わたし素直になれるのはまだ先のことなんだろう。それでもいいと受け止めて、受け入れてくれたシルバーの愛情にまた頬が濡れる。

「ん……」
「……さすがに泣きすぎだ」
「泣かせたのはシルバーだよ」
「そうだな」

 間近できらめく両目から、逃げるつもりもなかった。
 いいか、と伺いを立てるように下から覗き込まれ、身を引く隙もなく唇が重なってやわらかな熱が広がる。シルバーの恋人になったことを意味する、始まりの口付けは砂糖菓子のようにふわふわしていて、少し涙の味がした。


<< >>

INDEX
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -