三千世界の鴉を殺し君と朝寝がしてみたい 06


 恋人という特別な関係になったからと言って、なにかが劇的に変わったわけではなかった。お互いに十七歳になって、十八歳になってもそれは変わらない。ただ、愛情を伝える手段が増えただけだと思う。手を繋いでくれたら、キスしてくれたら、抱きしめてくれたら、もっとと甘えたくなるくらいに幸せだった。
 お兄様たちは今日の昼過ぎ頃にナイトレイブンカレッジから帰ってくる。シルバーとも数ヶ月ぶりに会えると思うと、そわそわしてしまってまったく落ち着けない。気を紛らわせるためにもなにかしようかな、と中庭のベンチで考えていたら、洗濯物を抱えているブルースがわたしに気づいて朗らかに笑った。数年前の事件で負った怪我から無事に回復した彼は、今もこの城で働いている。こうして二人きりで会話するのは久々だ。

「ナマエ様。本日はお天気もよろしいですね」
「ええ」
「馬に乗ってはいかがですか? ナマエ様がお乗りになれば馬たちも喜びますよ」
「乗馬は……いいわ。ターリアったらシルバーにしか懐かないんだもの。わたしが乗っても暴れ回るわ」

 ああ、と頷いた彼にも思い当たる節があったらしい。苦笑いを浮かべて洗濯物を持ち直した。
 ターリアとは城にいる雌の黒馬のことだ。気性が荒く、なかなか人の言うことを聞かない彼女はシルバーだけには懐いている。動物から好かれやすい彼の性質は馬まで骨抜きにするのだろう。小さな頃から小鳥やうさぎ、リスなどの野生の動物に好かれいたなあと思い出して笑っていると、開きっぱなしになっている扉の向こうから数人の召使いを連れたマチルダがやってきた。彼女の威厳に満ちた両目はブルースを睨みつけ、気難しそうな表情は更に強ばっていた。

「ブルース、あなたは与えられた仕事をしなさい」
「も、申し訳ありません」
「ごめんなさい、マチルダ。わたしが引き止めてしまったの」
「姫様は甘やかしすぎですよ。さあ、ブルース。持ち場にお行きなさい」

 マチルダは眉間にしわを深く刻み込み、一切の妥協を見せなかった。相変わらず手厳しいのだ、彼女は。誰にでも分け隔てなく厳しく接し、その優劣で区別すれども差別することはない美徳があるが故に侍女長という立場に就いている彼女は、今が戦乱の世であったならば類稀なる女傑になっていたに違いない。それほどに優れ、素晴らしい人物だ。
 今でこそ、その厳しさは愛情と優しさの裏返しだとわかっている。今よりもっと幼かった頃はなにをするにも笑わないマチルダが怖くて城内ですれ違う度にびくびくと怯えていた。そんなわたしを見て少しばかりのショックを受けていた、と言っていたのはかの過保護なお医者様だったか。

「姫様、そろそろマレウス様方がお帰りになられます。準備をいたしましょう」

 慌てて回廊を飛び出したブルースの背中を見送ったマチルダはさっきまで出していた冷たい声が幻であったかのように穏やかに話した。安心しているような、ほっと息をついているような、そんな気配すらある。ブルースに対しても昔からこんな態度だったっけ、と今さらながら思い出そうとしていると、彼女はパン! と小気味よく手のひらを叩いた。

「これから忙しくなりますよ。あなたたちも粗相のないように」
「はい、マチルダ様」

 マチルダのうしろで小声で話していた召使いたちの表情が一気に引き締まり、彼女に続いてキビキビと動き出す。何年もこの城に仕えている彼女に尊敬の念を抱く者も少なくはないのだ。回廊から小走りで出ていく者、そのまま中庭で作業を始める者、マチルダに指示を仰ぐ者、と三者三様にそれぞれの持ち場に散っていく様は見ていて気持ちがいい。
 お兄様たちをお迎えする準備とあらば、わたしも手伝わないわけにはいかない。気合を入れて腕まくりをしていたらマチルダに呼ばれ、中庭を囲っている回廊から連れ出された。

「姫様はこちらに」
「でも、わたしもお手伝いをしないと……」
「あなたは姫だという自覚があるのですか? 妖精と遊んでいると言って、いつも彼らの手伝いばかりしているでしょう。今日のお仕事はおめかしをするこです。よろしいですね?」

 彼女の「よろしいですね?」を断れた試しはない。大人しく頷くと、更に機嫌がよくなった彼女は比較的若いメイドが集まっている部屋にわたしを放り込んだ。
 たまに手荒になるのは、どうしても解せない。




「ああ、この瞳なんて陛下を虜にした瞳そのものですわ。社交界の花とまで言わしめた母君にそっくりでいらっしゃいます」
「色白のナマエ様には黒も似合いますわね! 赤や白も似合うのではなくて?」
「白はダメよ、若様が好まれる色に合わせましょう」

 マチルダが信頼しているメイド三人の着せ替え人形になっているわたしは、二時間ほど外に出られていない。女性のファッションへのこだわりとは凄まじいもので、三人はああでもないこうでもないと頭を悩ませている。お兄様たちに恥をかかせない格好ならどんな服でもいい──とは言えず。彼女たちの熱気に水を差すような無粋なこともできず、その判断に身を任せるしかなかった。
 ようやく解放される頃には、あまり馴染みのない類の疲労感で肩が凝っていた。お化粧やスキンケアなどの身だしなみには日頃から気をつけているつもりだったけど、この世にはまだまだ上がある。女性が綺麗になろうと努力するのは必ずしも男性のためではないのですよ、と笑っていた彼女たちには譲れないプライドがあるのだろう。ドレスや化粧道具を見つめてうっとり笑うその姿は、両目をキラキラと輝かせる少女のように可憐でいて、女性らしく洗練された美しさがあった。
 鏡に映るわたしはパーティーにでも行くのかと聞きたくなるくらいに飾り立てられ、久々に着るワンピースもふわふわと揺れている。マチルダからはなにも聞いていないけれど、もしかしたら今日は来客の予定があるのかもしれない。でないと、こうも着飾らない。

「今日はお客様がいらっしゃるの?」
「ええ。なんでも、若様のご学友様がいらっしゃるとか……」
「ああ、道理で……え!? お兄様のご友人が!? どうして先におっしゃってくださらなかったの!?」
「あらあら、申し上げませんでしたこと?」
「ちっとも聞いていない!!」

 数日前からおかしいと思っていたのだ。やけに気合が入っている料理長や庭師、他の召使いたちの様子に、なんでだろう? とずっと首を傾げていた。事の真実が明かされた今、すとんと腑に落ちる。ナイトレイブンカレッジに入ってから一度もご友人について口にしたことがなかったお兄様が、ご友人をお連れになるなんてみなが浮き足立っても仕方がない。

「さあさ、ナマエ様。若様がお帰りになられたようですよ」

 彼女の言う通り階下の大広間がにわかに騒がしくなり、メイドの一人に優しく背中を押された。
「お帰りなさいませ、若様」と恭しい声が聞こえてくる。次期王としての玉座に座していらっしゃるお兄様へのご挨拶は当然の礼儀だけれど、執事の長を務める彼の声はいつもより弾んでいる気がした。お兄様のご友人がいらっしゃると思えば、よく抑えているほうだと思う。
 わたしも早く、行かねばなるまい。

「色々としてくださってありがとう、ワンピースもお化粧も、髪も……とっても素敵」

 振り返ってお礼を言うと、三人のメイドは嬉しそうに微笑みを深くした。
 内心慌てていることがバレないように平静を装いながら階段を降りると、わたしに気づいたお兄様が両腕を広げてくださった。おいで、という意味だ。いつものように思い切り飛びつきたくなる衝動を我慢して、控えめに抱きつくと背中に長い腕が回る。

「お帰りなさいませ、お兄様」
「ああ、今帰った。随分とめかしこんでいるな」
「お兄様のご友人様がいらっしゃるとお聞きしたので……」
「友人……? 友人ではないが、世話になった者だ」

 それを世間では友人と言うのでは? と思っているうちに、リリア様とシルバーが姿を現し、続いてセベクとグレーの猫を抱っこしている小柄な少年が姿を現した。この子がお兄様のご友人なのだろうか。お兄様が呼ぶと、少年は視線をキョロキョロとさせながら緊張した面持ちでわたしの前に立ち、人間界にあるロボットのようにカクカクと震えていた。来てみたはいいが、想像以上に注目されていて怯えている、といったところか。
 お兄様もリリア様も手出しはしてくださらないということだろう、お二人は一歩引いたところでニヤニヤと笑っている。彼らはたまにああして意地悪になるのだ。
 お兄様のご友人を前に緊張していることを気取られるのもなんだか嫌で、ツンと澄まして裾を持ち上げた。

「マレウスの妹のナマエと申します。はるばるようこそいらっしゃいました。お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「あ、ユ、ユウです……こっちはグリ、」
「オマエ、ツノ太郎の妹のわりには全然似てないんだゾ」

 ツノ太郎? とその場にいる者全員が疑問を抱いたと思う。ツノ太郎とはどなたのことですか? とお聞きする前にユウ様の蒼白い顔から血の気が引いていき、彼は猫ちゃんの口を塞いだ。

「グ、グリムー!! あれだけ失礼なことをするなって言ったのに……!!」
「この狸!! 即刻斬首してやる!! このお方をどなたと心得る!! 偉大なるマレウス・ドラコニア様の妹君であらせられるぞ!!」
「ふぎゃ!!」
「セ、セベク……落ち着いて、そちらの猫ちゃんが可哀想」
「ですが……!!」
「離すんだゾ!! ふなっ!? いてててて!!」

 シルバーの隣からすっ飛んできたセベクの手を剥がし、暴れ回る猫ちゃんをユウ様にお返しすると大人しくなった。彼は少々、どころかかなり人の話を聞かなくなることがある。比べるつもりはないけれど、セベクもシルバーも扱いづらさでは同程度だ。

「ユウ様、セベクが失礼いたしました。猫ちゃんにお怪我はありませんか?」
「様!? すみません、自分は様をつけられるような人間じゃないというか……あの、気軽にユウって呼んでください……」
「ではわたしのこともナマエとお呼びください」
「いきなりハードル高すぎでは?」

 緊張で吐きそう、と呟いた彼は妙に人を惹きつける才能があるようで、くるくる変わる表情につい見入ってしまう。彼と話していると、お兄様やリリア様が気に入られる理由がわかった気がした。他の人にはないような、稀有な魅力が彼にはある。

「えーと、じゃあ、ナマエさんで……シルバー先輩と同い年だと聞いてるので」
「シルバー先輩? ふふ、シルバーが先輩だなんて変な感じ」
「ひぇっ……お姫様だ……」
「だ、大丈夫ですか?」

 短い悲鳴をあげた彼はグリムくんが「ぐえっ」と苦しそうな声をあげるくらい殊更強く抱きしめた。
 シルバー先輩。なんだか不思議で素敵な響きだ。あとでからかってしまおう。そう思ってシルバーを見ると、彼はなぜかわたしから目を逸らした。気のせい、でもなさそう。わたしが見た瞬間に思いっきり顔を逸らしたもの。
 なにかしてしまったかしら、と自身の行動を思い返してみても思い当たるようなことはしていなくて、言いようのない不安が薄い膜のように広がった。


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